柳宗元(773~819年) は字は子厚。河東の人。貞元九年(793)、進士に及第した。校書郎から藍田の尉・監察御史裏行を歴任した。このころ、王叔文・韋執誼らが皇太子(のちの順宗)の周囲にあって、政治の改革を企てていた。宗元もこれに加わって、永貞元年(805)、順宗の即位とともに礼部員外郎に任ぜられた。しかし、順宗はわずか七カ月で退位して、改革は失敗に終わり、宗元も永州司馬に左遷された。元和十年(815)、都に召され、柳州刺史に任ぜられた。柳州(今の広西省柳州市)に赴任し、そこで没した。韓愈とともに唐代の散文改革運動の旗手であり、「韓柳」と併称される。
柳宗元の七言古詩「漁翁」は次の五言絶句「江雪」と並び、左遷先の永州での心象風景であるという。漁師の爺さんの姿が仙人じみて印象に残る。
老漁夫 柳宗元
漁師の爺さんはゆうべ 西の岩陰に泊まった
夜が明ければ湘江の水を汲み 楚の竹を燃やす
靄が消え 日が出たときに人影は無く
のどかな舟唄のひとふしに 山も水も緑
空のはてを振り返りつつ漕ぎ下れば
無心の雲も岩の上から居って来る
「江雪」も恐らく「漁翁」と同じく配所で見た風景に違いない。五言絶句の傑作と言われる作品だけあってわずか二十文字で一枚の墨絵の世界が目に浮かんでくるようだ。独り魚を釣る老漁夫の姿には隠者への連想がある。隠者は漁夫に身をやつして世を送ることが多い。
山々に飛ぶ鳥の姿も絶え
小道はすべて 人の足跡が消えた
小舟が一つ 蓑と笠の翁は
ただ独り 雪の川に糸をたれている
今朝のウェブニュースより
メア氏発言に、沖縄で非難高まる. ―― 外交官の仕事とは、外国との友好な関係を促進し、事が起きた際にはその関係の円滑化を図ることである。しかし、米外交官のケビン・メア氏は、それとは正反対のことを行ったとされ、日本で波紋を巻き起こした。/昨年5月に那覇市の沖縄県庁前で行われた米軍基地反対デモの様子同氏は米国務省で長く日本を担当してきた外交官だ。同氏の昨年末にオフレコでの沖縄県民に対する侮辱的な発言が地元メディアによって明らかになり、8日には日本国内から厳しい非難の声が上がった。/沖縄県議会は8日、メア氏に対する抗議決議を全会一致で可決するとともに、クリントン米国務長官宛てに正式な抗議を送ることを明らかにした。一方、枝野幸男官房長官は、そのような発言が事実ならば、沖縄県民や日本国民の心情を傷つけるものであり、「容認しがたい」と述べた。/同氏は現在、米国務省の日本部長を務めている。今回の件に関するコメントを求めるメールへの回答は今のところ得られていない。同省のフィリップ・クローリー次官補(広報担当)は記者会見で、メア氏が行ったとされる発言をめぐって論争が起きていることを認識しているが、実際にどんな内容であったかは把握していないと語った。/沖縄県民の間にはかねて在日米軍の受け入れを不公平に負担させられているという認識が浸透しており、メア氏発言の真偽はさておき、今回のニュース報道は沖縄県民の怒りをかき立てた。多くの県民は、民主党政権が評判の悪い普天間基地の県外移転という公約を果たしていないことにも裏切られたと感じている。/在日の米国外交官トップは今回の騒ぎの火消しに懸命である。ジョン・ルース米駐日大使は8日、枝野官房長官と電話で協議した。在日米国大使館の声明文によると、ルース氏は一連のニュース報道によって沖縄県民の心情が傷づけられたとして、深い遺憾の意を表明した。さらに、「発言は米政府の見解を全く反映していない。米国政府は沖縄とその人々に対し非常に深い敬意を持っている」と強調した。/では、メア氏は正確にはどんな発言をしたのか。現時点では、同氏の話を直接聴いた者以外は誰も分からない。共同通信によると、同氏はワシントンの大学生らに対し、沖縄の人々は、日本政府に対する「ごまかしとゆすりの名人」などと発言。これは明らかに、米軍受け入れの代償として日本政府が沖縄に補助金を払っていることを指していると思われる。さらに共同通信が入手したオフレコの発言録によると、沖縄県民は怠惰で、特産のゴーヤー(ニガウリ)も他県のようには育てられないとも語ったという。/日本のメディアは8日、メア氏発言を一斉に取り上げた。キー局の番組では、この発言にかなりの時間が割かれ、国務省の中堅幹部であるメア氏の過去に撮影された写真や映像が流された。/県庁所在地の那覇市議会も8日、独自に抗議決議を可決。同決議には、メア氏の発言は沖縄県民に対して差別的であり、在日米軍の4分の3を受け入れている同県を米国の植民地扱いにしているといった文言が盛り込まれた。 (THE WALL STREET JOURNA L2011/3/9 12:26.)
元和14(819)年、時の天子憲宗は仏法を信ずる心が厚く、仏舎利を都に招き入れて盛大な供養を催した。かねてから儒教の振興を念じ、園最大の敵は仏教と考えていた韓愈は、当時刑部侍郎(法務省の次官に当たる職)であったが、仏教を痛烈に批判して天子を諌める「仏骨の表」を書き、憲宗に捧げた。憲宗はこれを読んで大いに怒り、作者を死刑にせよと命じたが、とりなす人があって一等を減じ、潮州刺史に左遷することになった。潮州は今の広東省と福建省との境に近い海岸の町で、未開野蛮の土地であり、左遷と言っても事実上は流罪であった。
この詩は配所へ赴く旅の初めの頃に作られたものである。長安から領南の地方に行く普通のルートは、東南に山越えをして河南の平原へ出るものだったらしい。その山は終南山をふくむ秦領山脈で、先ず超える峠に儲けられた関所が藍関であった。
韓湘は韓愈の兄韓会の孫で父を老成という。韓愈は早く父を失くして韓会に育てられたが、この兄弟の年齢はひどく離れていたので、韓愈と老成は叔父と甥の関係であるが、ほぼ同じ年齢であった。韓会も老成も早く死んだので、韓湘は韓愈の世話になっていた。韓愈が流されたとき、湘はこの事件と無関係であったが、ワザ゛を坐あとを追ってきて藍関で追いついた。喜んだ韓愈が作って見せたのがこの詩である。
韓湘は仙人になったと伝えられる人物で、この詩が作られた動機についても、湘が韓愈の運命を予言して的中したと言う伝説がある。
左遷(させん)されて藍関(らんかん)まで来た時 甥(おい)の子の湘に示す
今朝 一通の意見書を九重(ここのえ)の宮居(みやい)に捧げた
夕方には流されて 辿る潮州への道は八千里
聖天子の御為に弊害を除きたいと思ったのである
老い朽ちたこの余生を惜しいなどと思うものか
秦嶺(しんれい)に雲が横たわり わが家のかたはいずれであろうか
藍関を雪が包んで 駒も進もうとせぬ
お前がはるばる来てくれたのは 私を思うゆえであろう
ならば頼もう 瘴江(しょうこう)のほとりで私の骨を どうか拾ってもらいたいと
今朝のスーパーモーニング(テレビ朝日)で、カダフィガールズについて放映していた。ネットで調べてみると、どうやらその種本は「日刊ゲンダイ」にあるようだ。
リビアのアマゾネス軍団 カダフィ・ガールズの実態 ―― 【政治・経済】総勢30人~40人の処女集団―― 反体制派が蜂起したリビアで、軍司令官の離反が相次いでいる。追い込まれたカダフィ大佐(68)を守るため、体を張って市民に銃口を向けているのは、実は女性だ。カダフィに絶対服従を誓った女性親衛隊である。
彼女たちは銃器の扱いや格闘技を徹底的に仕込まれた総勢30~40人のエリート武装集団で、欧米メディアに「リビアン・アマゾネス」や「カダフィ・ガールズ」と呼ばれている。厳格なイスラム社会では常識外の西洋式の化粧や髪形、服装やハイヒールを着用できる権限も与えられ、カダフィの海外訪問時もピッタリと寄り添ってきた。/「欧米メディアの過去の報道によると、メンバーは全員処女で、カダフィに純潔の誓いを立てるため、自ら片方の乳房を切り落とした猛者もいるといいます。中東やアフリカ大陸はもちろん、東欧諸国からも容姿端麗の美女を“リクルート”し、普段はテント住まいで転々と移動するカダフィの世話をかいがいしく務めると紹介されています」(中東情勢事情通)
中でもカダフィのお気に入りは、ウクライナ人看護師のガリーナ・コロトニツカ(38)。カダフィの体調管理を受け持つ爆乳のブロンド美女で、外交にも必ず随行。09年の国連総会出席の際に、彼女の出発が遅れると、カダフィは「彼女なしには何もできない」と駄々をコネ、自分も彼女に合わせて出発を遅らせたという。
ウソみたいな話だが、そのコロトニツカがリビアを脱出しウクライナに帰国したと母国のテレビ局第5チャンネルが27日、伝えた。彼女を失ったショックでカダフィが白旗をあげる日も近いかもしれない。 (Gendai Net.2011年2月28日 掲載)
アマゾーン(Amazon)は、ギリシア神話に登場する女性だけの部族。神話上では軍神アレースとニュンペーのハルモニアーを祖とする部族で、当時のギリシア人にとっては北方の未開の地の黒海沿岸に住んでいた。黒海はかつてアマゾン海と呼ばれていたこともある。アマゾーンは黒海沿岸の他、アナトリア(小アジア)や北アフリカに住んでいた、実在した母系部族をギリシア人が誇張した姿と考えられている。
アマゾーンは馬を飼い慣らし弓術を得意とする狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰していた。最初に馬を飼い慣らしたともいわれ、騎馬民族であったようだ。アマゾーンは弓の他に、槍や斧、スキタイ風の半月型の盾で武装した騎士として、ギリシア神話中多くの戦闘に参加している。後のヘレニズム時代にはディオニューソスもアマゾーン征伐の主人公となっている。
基本的に女性のみで構成された狩猟部族であり、子を産むときは他部族の男性の元に行き交わった。男児が生まれた場合は殺すか、障害を負わせて奴隷とするか、あるいは父親の元に引き渡し、女児のみを後継者として育てたという。
絵画では、古くはスキタイ人風のレオタードのような民族衣装を着た異国人として描かれていたが、後代にはドーリア人風の片袖の無いキトンを着た姿で描かれるようになった。
アマゾーンの語源は、弓などの武器を使う時に右の乳房が邪魔となることから切り落としたため、"a"(否定)+"mazos"(乳)=乳無しと呼ばれたことからとされるが、これは近年では民間語源であると考えられており、実際にはすべてのアマゾーンが右乳房を切り落としていたわけではない。アマゾーン、アマゾネスは、強い女性を意味する言葉としてよく使われる。また、南アメリカのアマゾン川もその流域に女性のみの部族がいたという伝説があることからそう名付けられたとする説がある。
隅田川沿いにオープンカフェ スカイツリー開業時に常設めざす ―― 東京都台東区の隅田川沿いでオープンカフェの常設に向けたモデル事業が始まった。同区の委託を受けた民間業者が29日までの期間限定でカフェを開設。来場者は川面に映る東京スカイツリー(東京・墨田)を眺めながらビールなどを飲むことができる。同区は観光客誘致や街のにぎわいづくりのため、スカイツリーが開業する2012年にもオープンカフェの常設を目指している。/隅田公園の敷地内に設置した。月~木曜は午前11時~午後8時、金~日曜は午前10~午後9時に開店。パスタやピザなどを出す店舗と、週替わりでスウェーデン、ドイツ料理などのメニューを提供する店が出店する。ビール、コーヒー、ホットワインなどの飲み物も提供、客席は80席。/台東区はオープンカフェの常設に向けて来場者数や売り上げなどの情報を集めるほか、来場者にアンケート調査を行い、メニューや価格設定などについての意見を聞く。同区は11年度、隅田公園内にオープンカフェを開くことができる広場も整備する方針だ。 (日本経済新聞、2011/3/8 3:19)
情報につられて、午後からオープンカフェに出掛けてみた。天気は好く日溜まりに出ると春の陽気で、大寒桜は5分咲きで、道行く人がカメラを向けていた。だが、日陰は寒く、オープンカフェは客は0状態である。
2月以来、蘇軾をはじめ、唐宋八大家の詩文をあれこれと取り上げて紹介してきた。唐代中葉の安史の乱以降の混乱で門閥貴族の経済的基盤が脅かされるれ、相対的な地位が低下し、新興知識人層との激しい権力闘争が起こったが、これと呼応するかのように中国のルネサンスともいえる古文復興運動がおこり、四六駢儷文に対して秦漢の古文復帰運動となり、士大夫階級の代表として新しい儒学の担い手となったのであろう。
中唐の韓愈は、当時流行の四六駢儷文(しろくべんれいぶん)がいたずらに華美であることを嫌い、文はすべからく漢魏の古文を宗(むね)として、質朴かつその意を尊ぶべしと主張した。いわゆる古文復興運動である。これは同時に、六朝ふうの隠逸(いんいつ)を尊ぶ老荘趣味的な文人の嗜好をあらため、廉士として積極的に社会にまじわり、経世済民(けいせいさいみん)の手段としての文学を行うべしという儒学的文人観の復興、確立でもあり、唐宋を通じて次第に整備される科挙制度の発達とともに、知識人たちのあいだに大いに流行したという。こうした古文復興運動の風潮のなかで、韓愈を筆頭とする名文家八人を集めたものが唐宋八大家にほかならず、唐の韓愈、柳宗元、宋の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石の八人を指すが、このうち蘇洵、蘇軾、蘇轍は親子(それぞれ父、長子、次子)であり、これを三蘇ということがある。
唐宋八大家の名をはじめに用いたのは明の茅坤(ぼうこん、1512~1601年)が編した『唐宋八大家文鈔』であるといわれるが、さらに清の沈徳潜(しん とくせん、1673~1769年)が『唐宋八家文読本』を編んでよりこれが流行し、特に日本においてはひろく読まれるところとなった。その内容は、主に政治論、国家論、官僚論、人材論などであり、風流韻事の文章についてはあまり重視されないという。
「カダフィ退陣案拒否」と報道 リビア反体制派 ―― 【カイロ共同】中東の衛星テレビ、アルジャジーラは8日までに、リビアの最高指導者カダフィ大佐が反体制派に対し、自らと家族の安全の保証と、反体制デモに対する弾圧について罪に問われないことを条件に権限を移譲する退陣提案を行ったが、反体制派が7日に拒否したと報じた。/欧米諸国から退陣を求められ、国際刑事裁判所「ICC」に拠る訴追も必至の情勢下で、カダフィ氏が「名誉ある撤退」を模索している可能性もあるが、真偽は定かではない。反体制派はあくまでもカダフィ氏の無条件での即時退陣を求めている。/カダフィ政権は国会に当たる全人民会議を開き、「条件付き退陣案」について詳細を話し合う計画を反体制派に伝えたという。/政権側は首都トリポリや地中海沿岸の中部にあるカダフィ氏の出身地シルトを守るため、反体制派が掌握した都市の奪還を狙い攻撃を続けているが、激しい抵抗に遭っている。攻防が一進一退の状況であることも政権側の焦りを招いているとみられる。 (47NEWS、2011/03/08 10:00 【共同通信】)
カダフィ大佐、保証付きで退陣するための議会開催を反体制派に提案=アルジャジーラ ―― 中東の衛星テレビ局アルジャジーラによると、リビアの最高指導者カダフィ大佐は、自らが一定の保証付きで退陣するための全人民会議開催を反体制派側に提案した。アルジャジーラは関係筋の話として速報で伝えたが、詳細については報じていない。 (INTRENATIONAL BUSINESS TIMES 2011年3月7日 17時16分 更新)
熊本県常楽酒造の杜氏蔵座幸一氏の極みの一品でどこにも売ってないほどのレアな限定品だという。国産の中でも特に原料に拘り、焼き芋に使われる紅東を使い、蒸さずに焼いて香ばしい香りと甘さが絶妙にバランス よく出来ていてのど越し良く、余韻も十分に味わえる拘りの一品だという。
水調歌頭 丙辰の中秋、朝までの酒宴に大酔し
この篇をつくり、かねて子由によせる
明月よ 齢(よわい)いくばく
酒ささげ 大空に問わまし
さるにても 天つ空 月の宮居は
この夕べ 何の年なる
わが身いま 風に乗りて 帰らむとすれど
おそらくは 瓊(たま)の楼(うてな) 玉の宇(のき)
髙きにあれば いと寒からむ
起ちて舞い 影とからめば
人の世に あるこそよけれ
朱(あけ)の閣(うてな)めぐり
綺戸(ねやのと)にさしいり
眠れぬ我を照らす
我を恨む ことわりなきに
いかでまた 別るる時 月のみ円(まどか)なる
逢瀬の歓び 別れの悲しみ 人にあれば
晴れ陰(くも)り 満ち欠けの 月にあるもの
むかしより ともに全きは 難いかな
ただ願わくは 人とこしえにありて
千里へだつるも うるわしき光をともにせむこと
■警察犬、放水車でデモ阻止:北京でデモ予定場所として予告された王府井のマクドナルド前や繁華街・西単などには同日昼、制服、私服姿の警察官、武装警察数千人が公安の車両とともに展開し、検問、検索を強化した。王府井では警察犬を使った街頭パトロールが行われ、マクドナルド前にも大勢の私服警官が配置された。集会の予定時間の午後2時直前には、放水車が動員され、集会場所に停車した。もう1カ所のデモ予定場所の西単文化広場も四方が木製のフェンスで囲まれ、出入りができないように規制された。上海の人民広場周辺の映画館は営業を中止し、地下鉄駅も閉鎖されたという。/こうした徹底した規制により、中国本土の大半の都市では集会そのものが開けなかったという。先月20日と27日に予定されたデモも公安当局に阻止されている。
■デモ取材なら記者ビザ取り消し:これに先立ち、中国内外の反政府団体は先週、海外の華人サイト「博訊」やグーグルの「中国ジャスミン革命発起人会」を通じ、中国全土41都市で6日午後2時(現地時間)に中国版「ジャスミン革命」デモを開くことを呼び掛けた。1989年の天安門事件と同様、北京大、清華大などの大学生に積極的な参加を呼び掛ける書き込みもあった。中国当局は北京駐在の外信記者に対し「デモを取材すればビザを取り消す」と警告した。
■国防費より多い公安予算:中国の官営メディアによる宣伝も強化された。北京日報は「安定は福を呼ぶが、動乱は社会だけでなく、個人にとって災いとなる。社会の安定と調和の重要性を自覚すべきだ」と強調した。/中国は今年、社会安定のための公安予算を大幅に増額したもようだ。香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストは6日、中国の今年の政府予算で公安分野の予算は、昨年の執行額を13.8%上回る6240億元(約7兆8200億円)に達したと報じた。これは中国の国防費(6011億元=約7兆5300億円)を上回る額だ。 (朝鮮日報/朝鮮日報日本語版)
「黄州快哉亭記」は兄の東坡が黄州(湖北省江岡県)に流罪となっていたとき、同じくこの地に流されてきた張夢得(ちょうぼうとく)の亭(あずまや)に「快哉亭」と名をつけてやった事に関するルポである。東坡は「水調歌頭」の調子を用いて詞一首を張夢得に贈ったが、この文はその詞の序のような役割を果たしているという。元豊六年、蘇轍45歳の作である。この三年前、兄を訪ねて黄州・武昌へ行ったときの記憶に基いて書かれたものと思われる。
揚子江は西陵峡(湖北省宜昌市の西北、いわゆる三峡の一つ)を出て、漸く平地に入る。その流れは奔放に大きく広がり、南からは湘江・沅江、北からは漢水・沔水を合わせて、その勢いはいよいよ漲り、赤壁の下に至ると、波立ち溢れて海のようになる。
清河(河北州清河県)の張夢得(ちょうぼくとく)君は、斉安(せいあん、黄州一帯の古名)に流罪となり、その庵の西南に並べて亭(ちん)を造り、揚子江の景観を眺めうるようにした。そして私の兄子瞻(しせん、蘇軾)が、その亭に名付けて「快哉」と呼ばせた。
長い中州の河原、古城の跡となると、これは曹操・孫権が睨み合った所、周瑜・陸遜が駆け廻った所で、彼らが伝え風気や残した跡も、世間に向って「快(素晴しい)」と称えるに足るものがある。
昔楚の襄王が、宋玉・景差を連れて蘭台の宮に行った時、さっとばかり吹いてきた風があった。王は衿元を開いて風に当たり、「快い哉、この風。私と庶民の共有できるものはこれか」と言った。宋玉は、「これは大王だけの雄の風でございます。庶民がどうしてこの風を共有で着ましょうぞ」
宋玉の言葉には恐らく風刺の意味があったのだろう。そもそも風に雌雄の違いはないが、人には好遇不遇の運命があるものだ。楚王が楽しく思った理由と、庶民が心配に思う理由とは、人の運命によって異なるものであって、風に何の関係があろうか。
士たる者、この世に生まれて、その心に満足するものが無ければ、果たして何処へ行こうと憂いを抱かずにはおれようか。その心を平静に保ち、他によっておのれの本性を傷つけねば、何処へ行こうと快くないことがあろうか。
いま張君は、流罪生活を辛いと思わず、会計の仕事の暇を盗んでは、一人自然の中で気ままに過している。これはその心中に人に優れたものがあるからに違いない。草の戸や破れ甕の窓の住いでも、快からず思わぬであろうに、まして揚子江の清流に足を濯ぎ、西山野白雲に挨拶し、見るもの聞くもの全て素晴しさを極め、ひとり快適に過されているのだ。もし心がそうでなければ、たとえ連なる山々、断崖絶壁、長く続く林、歳を経た古木、それらをすがいがしい風が揺るがし、明るい月が照らしても、全て憂いを抱く詩人や物思いに耽る人の、悲しみやつれて耐え切れぬものとなり、どうして快しとされることがあろうか。
元豊六(1083)年十一月一日、趙郡の蘇鉄しるす。
ここに掲げる一文は『史記』孟嘗君伝の読後感である。孟嘗君は戦国時代の斉の王族田文(でんぶん)。多数の食客を養っていた人物として有名。秦に囚われの身となったとき、犬のように家に忍び込むのがうまい家来によって窮地を脱し、さらに国境脱出のとき、鶏の鳴き声のうまい家来によって危機を切り抜けたエピソードはいわゆる「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」の話として有名である。
世間では「孟嘗君は人材を得る能力があった。だから人は孟嘗君のもとに集まった。そして結局その力によって、猛獣のような秦から脱出したのだ。」と、みんなが褒めている。
ああ、孟嘗君は、鶏や犬の無き真似上手な連中の英雄でしかないのだ。人材を得たなどといえようか。そうでなければ、祖国斉の国威を充分伸ばして、一人の立派な人物を得、その力で王となり、秦を抑え付けたことだろう。その上に、鳴き真似上手の力など借りることはあるまい。そもそも鳴き真似上手が配下から出るのは、それこそ人物が寄り付かなかった証拠なのだ。
◇66万票に揺れる既成政党:2月6日の「名古屋トリプル投票」。河村氏は、愛知県知事選で盟友の大村秀章氏を初当選に導き、自ら仕掛けた直接請求に基づく住民投票で市議会を解散に追い込んだ。辞職・再出馬した出直し市長選では、民主、自民の二大政党が事実上相乗りした候補らに圧勝。同市長選で過去最高となる662251票を獲得し、4年前の前回市議選(定数75)当選者全員の合計得票数60万5374票を上回る驚異的な集票力を見せつけた。/勢いに乗る河村氏は、今月13日投開票の出直し市議選で「減税日本」の公認候補を40人以上擁立し、過半数の議席確保を目指す。「市長選の河村票を考えれば(減税日本の過半数獲得は)現実的」(前民主党市議)-。河村人気を目の当たりにした既成政党は戦々恐々だ。4月の愛知県議選を前に、早くも民主党の現職県議が同党を離党して「減税日本」公認にくら替えする動きも出ている。
◇「日本維新の会」に党内対立の影:民主党内では、小沢一郎元代表に近い新人の衆院議員16人が菅直人首相に公然と退陣要求するなど党内対立が深刻化し、内閣支持率は下落の一途だ。小沢氏に近い原口氏がこの時期に「日本維新の会」旗揚げを表明した背景には、次期衆院選で苦戦が予想される小沢系議員の受け皿をつくりたいとの思惑が透けて見える。/小沢氏は2月8日に国会内で河村氏と会談して連携を確認。原口氏は、橋下氏や東京都知事選出馬の意向を固めた東国原英夫前宮崎県知事に「地域主権に前向きな人たちの連合をつくる」と秋波を送る。これに対し、橋下氏は「連携が国政についてとなると、一線を画す」と距離を置き、東国原氏は「労を惜しまない」と協力の意向を伝えた。
◇新たな追認機関の可能性:一方、知事、市長が自ら地域政党を立ち上げて議会支配を目指す河村氏らの手法に全国の首長は否定的だ。地方自治は、ともに住民から直接選ばれた首長と議員が相互監視する「二元代表制」を採用しており、「議会のチェック機能が失われる」(麻生渡福岡県知事)との声が強い。/ただ、現在多くの地方議会が首長の意向を追認するだけの機関と化しているのも事実。全国都道府県議会議長会によると、2009年に47都道府県議会が知事提出議案を原案通り可決・承認した率は99%に上る。/地域政党の躍進によって首長の意に沿う議員が議会で多数派を形成すれば、新たな追認機関が生まれる可能性がある。名古屋市議選や大阪府議選などで有権者がどのような選択をするのか、判断が注目される。 (jijicom.2011/03/02-16:30)
六朝・晋の書家王羲之(おうぎし、303~361年、)が池の縁で書を習い、池の水が墨で真っ黒になったという伝説の跡について記した『墨池記』は、王羲之ほどの天才も、その技能は天与のものでなく、努力の賜物であることを強調する。曾鞏30歳の作である。
臨川(江西省臨川県)の町の東に、こんもりと盛り上がった土地があり、真下にたにがわが流れていて、「新城」と呼ばれる。新城の上にくぼみがあって長方形の池を成している。これを王羲之の墨池と呼ぶのは、荀伯子(じゅんはくし、378~438年、六朝・宋代の人)の『臨川記』の説である。王羲之は昔張芝(ちょうし、生没年不詳、後漢の書家)を慕って、池のそばで書を学び、池の水が真っ黒になった。ここがその古跡だというのだが、本当にそうだろうか。王羲之はどうしても仕官しようとしなかったとき、東方の諸国を巡りつくし、東海に船出して、その心を山水の間に楽しませたというが、あるいは勝手気ままに徘徊したあげく、一人ここへ来て休んだのだろうか。
王羲之の書は晩年のものこそ素晴しいが、とすればその才能も、思うに勢力を尽くして自ら獲得したもので、天成のものではないのである。しかるに後世かれに及び得る者が出ないのは、学び方が足りないためではなかうか。まして、道徳の奥義に到達しようと望む者はなおさらであろう。
墨地のほとりは、いま州の学問所になっている。教授の王君盛は、墨地の名が廃れるのを恐れて、「晋歐右軍墨池」という六字の書を鴨居に掲げ、さらに私に「記を書いて欲しい」と言って来た。王君の心を推察するに、人の長所を愛するものは、一才能といえども廃れさせるにはしのびず、それが古跡にまで及んだということであろうか。また、かの事跡を推奨して、学ぶ者たちを励まそうというのであろうか。そもそも人に一才能があり、それがこれほど後世の人に尊重されるとすれば、いわんや仁愛の人・厳正の士の遺風が後世に裨益すること如何ばかりであろう。慶暦八(1048)年九月十二日、曾鞏記す。
本日は3月3日「上巳(じょうし)の節句)である。
中国においては、古い時代から上巳に水辺で禊を行う風習があり、それが3月3日に禊とともに盃を水に流して宴を行うようになったとされる。 中国古代、周公(周王朝の政治家、生没年不詳)の時代に始まったとも秦の昭襄王(しょうじょうおう、BC325~251年、戦国時代秦の28代の王)の時代に始まったとも伝えられている。そして、上巳の水辺の祓(みそぎ)と曲水の宴が日本に伝わったとされている。
353(永和9)年3月3日に、王羲之は名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴を開いた。その時に作られた詩集の序文の草稿が『蘭亭序(らんていじょ)』である。王羲之はこれを書いたときに酔っていたと言われ、後に何度も清書をしようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられている。いわゆる28行324字からなる「率意」の書であるという。本蘭亭序は、王羲之が書いた書道史上最も有名な書の作品であったという。
太宗皇帝が王羲之の書を愛し、その殆ど全てを集めたが、蘭亭序だけは手に入らず、最後には家臣に命じて、王羲之の子孫にあたる僧の智永の弟子である弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓である昭陵に他の作品とともに副葬させた話は、唐の何延之の『蘭亭記』に載っている。したがって、王羲之の真跡は現存せず、蘭亭序もその例にもれない。しかし、太宗の命により唐代の能筆が臨摸したと伝えられる墨跡や模刻が伝えられている。
2・3年前、今北京故宮にあるを国外不出の国宝の書の何点が展示された「北京故宮・書の名宝展」が東京・江戸東京博物館開催されたとき、横浜在住のIN氏と連れ立って、この蘭亭序(八柱第三本)を見に行ったことがあるのを思い出す。
《蘭亭序 書き下し文》
永和九年、歳(とし)は癸丑(きちう)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事(けいじ)を脩(をさ)むるなり。群賢(ぐんけん)畢(ことごと)く至り、少長(せうちやう)咸(みな)集まる。此の地に、崇山(すうざん)峻領(しゆんれい)、茂林(もりん)脩竹(しうちく)有り。又、清流(せいりう)激湍(げきたん)有りて、左右に暎帯(えいたい)す。引きて以て流觴(りうしやう)の曲水と為(な)し、其の次(じ)に列坐す。糸竹管弦の盛(せい)無しと雖(いへど)も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙(ちやうじよ)するに足る。/是の日や、天朗(ほが)らかに気清く、恵風(けいふう)和暢(わちやう)せり。仰いでは宇宙の大を観(み)、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐(おも)ひを騁(は)する所以(ゆゑん)にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信(まこと)に楽しむべきなり。/夫(そ)れ人の相与(あひとも)に一世(いつせい)に俯仰(ふぎやう)するや、或いは諸(これ)を懐抱(くわいはう)に取りて一室の内に悟言(ごげん)し、或いは託する所に因寄(いんき)して、形骸の外(ほか)に放浪す。趣舎(しゆしや)万殊(ばんしゆ)にして、静躁(せいさう)同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣び、蹔(しばら)く己(おのれ)に得るに当たりては、怏然(あうぜん)として自(みづか)ら足り、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らず。其の之(ゆ)く所既に惓(う)み、情(じやう)事(こと)に随ひて遷(うつ)るに及んでは、感慨(かんがい)之(これ)に係(かか)れり。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎやう)の閒(かん)に、以(すで)に陳迹(ちんせき)と為(な)る。猶(な)ほ之(これ)を以て懐(おも)ひを興(おこ)さざる能はず。況んや脩短(しうたん)化(か)に随ひ、終(つひ)に尽くるに期(き)するをや。古人云へり、死生も亦(また)大なりと。豈(あ)に痛ましからずや。/毎(つね)に昔人(せきじん)感を興(おこ)すの由(よし)を攬(み)るに、一契(いつけい)を合(あは)せたるが若(ごと)し。未(いま)だ甞(かつ)て文に臨んで嗟悼(さたう)せずんばあらず。之(これ)を懐(こころ)に喩(さと)ること能はず。固(まこと)に死生を一(いつ)にするは虚誕(きよたん)たり、彭殤(はうしやう)を斉(ひと)しくするは妄作(まうさく)たるを知る。後(のち)の今を視るも、亦(また)由(な)ほ今の昔を視るがごとくならん。悲しいかな。故に時人(じじん)を列叙し、其の述ぶる所を録す。世(よ)殊に事(こと)異(こと)なりと雖も、懐(おも)ひを興(おこ)す所以(ゆゑん)は、其の致(むね)一(いつ)なり。後(のち)の攬(み)る者も、亦(また)将(まさ)に斯(こ)の文に感ずる有らんとす。
訳文: 『蘭亭詩集』の序 王羲之
永和九(353)年、癸丑(みずのとうし)の年、晩春三月の初め、会稽郡山陰県(浙江省紹興)の蘭亭に集まった。禊の行事を行うためである。優れた人物たちはすべて着き、老いも若きも皆集まった。この地には、高い山、険しい峰、茂った林、丈高い竹があり、また清らかな流れに激しい早瀬があって、あたりに照り映えている。この流れを引いて、觴(さかずき)を流す曲水とし、人々は順次並んで岸に坐る。琴や笛の賑わいはないが、一杯の酒ごとに一首の詩と、自然を愛でる情(こころ)をのびのびと示すには十分である。
この日、空は晴れ渡り空気は澄んで、微風はなごやかにのどかであった。宇宙の広大さを振り仰ぎ、万物の賑わいを見下ろす。自由に見渡し、心を解き放つこの眺めは、耳目の歓びを存分に味合わせてくれる。真に楽しい限りである。
そもそも人がお互い一生を送るについては、胸に抱く思いを大切にして、一室の中で友と語り合う人もあれば、この身は仮のものという訳で、束縛を離れて奔放に生きる人もある。その選択は様々で、静と動の違いはあれ、境遇に歓びを感じ、暫時おのれの意に適ったときには、心楽しくひとり満足し、老いが訪れようとしていることにも全く気付かぬ。やがてその気持ちも倦み疲れ、感情が事の推移と共に変化してゆけば、それにつれて感慨を催すようになるのだ。以前の歓びは、瞬く間に古びた記憶のあとと化す。人はこれしきのことでさえ、物思いに耽られずにはおれぬ。まして長寿短命の別なく、造化の意のままに、最後は必ず滅びてしまうことを思えばなおさらである。古人は言った、「生と死はまこと人生の一大事なり」と。何と心痛むことではないか。
昔の人々が感懐を催したその理由(わけ)を知るたびに、それらがまるで符牒を合わせたように同じなので、私は古人の前にしてはいつも嘆き痛まずにおれず、胸の中で悟りすますわけにもゆかぬ。もちろん死と生を同一視するのは嘘であり、不老の仙人と若死した者とを同じに扱うのがでたらめなことは私も知っているし、後世の人の今に対する見方は、やはり今の人の昔に対する見方と同じであろう。悲しいことよ。かくて今の人々の名を列記して、その心を述べた詩を書きとどめる。世を異にし事態は変わっても、人が感懐を催す理由は、結局一つである。後世これを見る人々は、やはりこれらの作品に心を動かされるであろう。
ウェブニュースより、2題
神奈川県知事がなぜ? 都知事選 松沢氏が出馬表明 ―― 一日の記者会見で「首都圏、東京のリーダーシップによる日本再生」を訴えた。都民からは「クリーンな印象がある」との声も聞かれたが、神奈川から東京へのくら替えには疑問や批判的な声が多かった。/墨田区のパン店経営北条宗利さん(75)は「何で神奈川県知事が都知事を目指すのか理解できない。知事ってそういうものじゃないはずだ。東京をよく知っている人にやってほしいね」と不思議そうに話した。/「都内の市議会や区議会などで都の政治を経験した人になってほしい」と訴えるのは調布市の主婦岡部奈穂子さん(31)。「石原さんはやり方が強引な所はあったが、一本筋が通っていたし、もう一期やってもよかった。ワタミの渡辺さんは都知事を経営と考えている点に違和感を感じる」との見方を示した。/豊島区の美容師石川みどりさん(21)は「政治にあまり関心はないけど、残された神奈川の人たちはどうなっちゃうんでしょうか。劇的に政治が良くなるように、三十代や四十代ぐらいのもっと若い人が選挙に出ればいいのに」と話した。/知名度にはやや不安な面も。板橋区の主婦林美由樹さん(32)は「初めて聞いた名前。なぜその人がいきなり出ることになったのか。東国原さんが出るなら投票したい。宮崎を活性化させた実績があるし、これまでと違う方向に東京をもっていってくれそう」と出馬を明言していない著名人に期待を寄せた。/就職活動中に池袋駅前にいた板橋区の大学三年浦沢健介さん(21)は「松沢知事の顔と名前は知っているが、どんなことをしてきたかは知らない。なぜわざわざ神奈川から来るのか。行政経験が政治の実力に比例する訳ではないのでは」と首をかしげた。/中央区の消費者団体役員成沢敏枝さん(77)は「神奈川県知事が何のために出馬するのか。神奈川で成功したことが東京で成功するとは限らない。いろいろ名前が挙がっているが、皆軽さを感じる。現時点で投票したい人はいない」と不満を示した。/文京区内で歴史的建物を保存する活動をしているNPO法人理事多児貞子さん(65)=豊島区=は「人柄も実績もよく知らないが、クリーンな印象はある。ただ、途中で県政を投げ出してくるのは神奈川県民に対して失礼。都知事には都民のニーズをつかめて、しっかりしたビジョンと実行力のある人になってほしい」と話した。/ くら替えに好意的な意見もあった。八王子市の自営業男性(56)は「びっくりはしたが、神奈川県知事を二期務め、三期というのは個人的に長いと思うし、地方自治に明るい人が舞台を変えて出るのは『あり』かなと思う。宮崎県の東国原前知事は事情が違う。一期やっただけなので、都知事は時期尚早と思う」と話した。
(東京新聞、2011年3月2日)
京都大が不審なトイレ利用調査 全試験官に報告求める ―― 入試問題がインターネットの質問サイトに投稿された問題で、京都大がすべての試験官に対し、試験中に頻繁にトイレに立った受験生がいなかったかどうか報告を求めていることが1日、分かった。/受験生が、第三者からサイトに寄せられた回答をトイレで確認していた可能性があるためで、京大は不審なケースが見つかれば、京都府警と連携し、特定を進める。/投稿は2月25日午後の「文系数学」全6問と、同26日午前の英語の英作文2問で、試験開始の7分後からインターネット検索大手「ヤフー」のサイト「ヤフー知恵袋」にあった。これに対し、数学5問と英作文1問について、複数の第三者が試験中に回答していた。/試験問題の投稿は、小型カメラなどを使い、教室から外部へ送信したとの見方もある。だが回答は数回に分けて書き込まれており、そのたびに教室で確認すると怪しまれるため、トイレを利用したことも考えられる。京大は、頻繁にトイレに行ったり、長時間こもるなど、不審な受験生がいなかったか調べる。/京大によると、文系数学の受験者は約2500人、英語は約8000人。試験官は各教室に2~10人が配置されていた。 (47NEWS、2011/03/01 06:31 【共同通信】)
1046(慶暦6)年、欧陽脩が、滁州太守に在任中の作で五言古詩。酔翁亭は滁州の西南の山中、醸(じょう)泉(せん)という泉に臨む亭で、此処にすむ智(ち)僊(せん)という僧が建て、作者が命名したことは、『酔翁亭之記』で述べている。
滁州の酔翁亭にしるす 欧陽脩
四十ではまだ老人といえぬが
酔翁と ふと詩にかきつけた
酔中では全てを忘れ去るもの
自分の年など 覚えていられるはずがない
ただ愛するのは この亭のわきの川
乱れ立つ峰々の間から流れてきて
音は空から落ちるよう
屋根の両端にそそぎかかる
そして岩壁の下の谷川に落ち
奥深い泉の細い流れに加わってゆく
その響きは人の声をかき乱すほどでなく
その清らかさは管弦の調べとことなる
琴や笛の音が美しくないわけではないが
琴や笛の音は手が加わりすぎている
だから度々酒を下げては
遠くまで歩いてせせらぎのそばへ行くのだが
野鳥がわが酔態をのぞきこみ
谷間の雲は私を引きとめ 眠らせてくれる
山中の花はただ笑うばかり
私と話をすることは出来ぬ
でも岩間に起こる風のみが
私の顔を吹き 酔いを醒ましてくれる
歐陽脩(欧陽 修、おうよう しゅう、1007~1072)は、北宋仁宗から神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔(えいしゅく)、醉翁(すいおう)・六一居士と号す。謚号(しごう)は文忠。唐宋八大家の一人である。/吉州廬陵(現在の江西省吉安県)の比較的貧しい家庭に生まれ、4歳で父を失う。正規の教育によらず自学自習で、1030年(天聖8年)進士に及第、開封府尹の任に就く。高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。以後、館閣校勘等を歴任するが、1036年(景祐3年)、改革派の范仲淹(はんちゅうえん、989~1052年)を越権してまでも弁護したため、夷陵県令に左遷された。/約10年の地方勤務後、中央に返り咲き諌官に任ぜられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めるも、仁宗の不興を買い、1045年(慶暦5年)には誹謗されて滁州(安徽省)の知事に再び左遷された。/数年を経て、再び中央に返り咲き、翰林学士等要職を歴任。1057年(嘉祐2年)権知礼部貢挙に上り、科挙試験を監督、蘇軾を見いだす。その後、枢密副使・参知政事(副宰相)に至り、蘇洵や王安石を登用した。王安石の新法を早くから支持していたが、実際に新法が実施されてみると、逆に青苗法に対してきびしい論考を張るなど、最も強力な反対派の1人になり、そのまま政界を引退した。引退翌年の1072年(熙寧5年)、隠棲先である潁州(安徽省)にて没した。/散文においては韓愈の例に倣い、いわゆる古文復興運動をすすめた。滁州の自然や人々の生活を描写した「醉翁亭記」は、有名な作品のひとつであり、中国の紀行文の最高水準のひとつとして賞賛される。韻文では詩(漢詩)と詞をともに書き、気取らず、ユーモラスな作風である。詩は、晩唐の絢爛たる文体を避け、盛唐期の威風を残した無駄のない質実剛健なものである。
以下の「酔翁亭記」は滁州の知事に左遷された欧陽脩40歳の時の作である。
谷川に出かけて魚を取ると、谷が深いので魚は肥え、泉の水で酒を醸せば、泉の香りがして酒はすむ。山の肴に野の蔬菜、雑然と前に並んだのが、太守の宴会。宴たけなわの余興は、琴でもない笛でもない。的を射当て、碁をして勝てば、杯を取り交わし、投壺の矢が投げ交わされ、立ったり坐ったり大声で騒いでいるのは、客たちのはしゃいでいる姿。やつれた顔、白い髪。人々の間で形をくずして坐っているのは、太守の酔うた姿である。/やがて夕日が山に落ち、人影がまばらに散って行くのは、太守が帰り、客たちがお供をするのだ。木々の林がかげり始め、鳴き声があちこちで聞こえるのは、行楽の人が去った後、小鳥たちが楽しんでいるのだ。しかしながら小鳥たちは山林の楽しみを知って入るが、人の楽しみを知らぬ。人は太守の行楽のお供をする楽しみを知ってはいるが、太守が人の楽しそうなのを楽しんでいるのをしらぬ。酔えばその楽しみが分かち合え、醒めれば文章で述べるのは、太守である。太守とは誰のことが。盧陵の欧陽脩、この私である。
sechin@nethome.ne.jp です。
02 | 2025/03 | 04 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 | 31 |