瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日1日はブログ集24の製本・裁断でクタクタに疲れた。夜はシャワーを浴びて、寝ようとしていると、2階の今は物置になっている小部屋から婆様の声がかかった。「スカイツリーのライトアップが綺麗だわよ」
玄関を出れば全体像が見られるのだが、疲れていたし、夜着に着替えていたので窓からツリーの上の部分をチラリと見ただけで、そのまま寝室へ。
今朝のウェブニュースより
スカイツリー:五輪カラーで「特別ライティング」 ―― 東京都墨田区の東京スカイツリーで7日、五輪カラーの「特別ライティング」が実施された。この日は20年オリンピック・パラリンピックの開催都市決定まで、ちょうど残り1年。ロンドン五輪のメダリスト、競泳の寺川綾さんと重量挙げの三宅宏実さんが点灯イベントに参加した。/五輪カラーの赤、黄、緑、青に加え、江戸紫の計5色を使用。各色が順番にツリーの下から上へ昇っていく動きのあるライティング。寺川さんは「ロンドンでは地元選手へ地響きのような声援があった。東京でそのような声援を受けたら、選手も気分が盛り上がる」と話した。
〔毎日新聞 2012年09月07日 20時56分(最終更新 09月07日 23時53分)〕
此処の所、朝7時半にNHKの朝ドラを見ながら朝食を摂ることにしている。今朝は朝食後、ひとやすみしたら、花川戸のクロネコでブログ集24を発送、散髪して来る予定。
玄関を出れば全体像が見られるのだが、疲れていたし、夜着に着替えていたので窓からツリーの上の部分をチラリと見ただけで、そのまま寝室へ。
今朝のウェブニュースより
スカイツリー:五輪カラーで「特別ライティング」 ―― 東京都墨田区の東京スカイツリーで7日、五輪カラーの「特別ライティング」が実施された。この日は20年オリンピック・パラリンピックの開催都市決定まで、ちょうど残り1年。ロンドン五輪のメダリスト、競泳の寺川綾さんと重量挙げの三宅宏実さんが点灯イベントに参加した。/五輪カラーの赤、黄、緑、青に加え、江戸紫の計5色を使用。各色が順番にツリーの下から上へ昇っていく動きのあるライティング。寺川さんは「ロンドンでは地元選手へ地響きのような声援があった。東京でそのような声援を受けたら、選手も気分が盛り上がる」と話した。
〔毎日新聞 2012年09月07日 20時56分(最終更新 09月07日 23時53分)〕
此処の所、朝7時半にNHKの朝ドラを見ながら朝食を摂ることにしている。今朝は朝食後、ひとやすみしたら、花川戸のクロネコでブログ集24を発送、散髪して来る予定。
昨日は、ブログ集24を印刷したが、印刷の位置ずれ・トナートラブル(黒のトナーが印刷されなくなる)で電話で問い合わせやらで、1日中かかりっきり疲れた。まあ、現在のプリンターは2010年1月に購入したから保障期間5年の半分しか経過していないが、大分くたばってきたらしい。自分の技量は棚に上げ、プリンターの所為にしておこう。というわけで、ブログも打てない始末。今日は製本・裁断の予定。予定はあくまでも予定で、完成はいつになる皮からない。
今日は、オランダ語から外来語となった器具や日用品の名前に目を向けてみよう。
インキ(ト)(inkt)、ペン(pen)、ゴム(gom)、ギャマン(diamant)、ガラス(glas)、レッテル(letter)、オルゴ(ー)ル(orgel)、カラン(kraan)、キルク(kurk)、コップ(kop)、ブリキ(blik)、ペンキ(pek)、ポンプ(pomp)、ランプ(lamp) などがある。
インキはおよそ5000年前に、石の表面に絵や文字を刻むための黒色インク(墨)が中国で開発された。このインクは油煙や松煙と膠の混合物であった。他地域の初期文明においても植物の実や種、鉱物から様々な色のインクが作り出された。エジプトのカリフ、ムイッズは手や衣服を汚すことのないペンを要求した。その要求に応えて953年に万年筆の原型といえるペンが開発された。ペン(pen)とは、硬筆筆記具のうち、インクによって書くものの総称。万年筆やボールペン、サインペンなどがこれにあたる。もともとは「ペン先」と「ペン軸」によって構成されるつけペン形式で、先端にインクや墨をつけて毛管現象などで保持させつつ書くものであったが、近代以降、中にインクが入ったものが発達した。インキはインキもしくはインキトという形で、ペンとともに江戸時代の文献にかなり現れているので、オランダ語からの外来語と見做すことができる。
ゴムは、元来は植物体を傷つけるなどして得られる無定形かつ軟質の高分子物質のことである。ゴムをはじめて紹介したのはChristopher Columbus(クリストファー コロンブス、1451?~1506年)だといわれる。1493年の第二回目の航海でプエルトリコとジャマイカに上陸し、そこで原住民が大きく跳ねるボールで遊んでいるのを見てとても驚いたといわれている。その後スペインに持ち帰らたが文字消しやおもちゃ程度にしか価値はなく、この後200年あまり科学的研究はされなかった。ちなみにゴムを意味するラバー(Rubber)は英語でこすって消す(rub out)文字消しに由来している。ゴムは後に英語のgum を借り入れたガムと並んで、今も使われているが、英語のgum も本来は「樹皮から分泌する乳状液」の意味だが、もっぱら「チュウインガム」という特殊な意味に限られて使われることとなった。
ギャマンは、その原語diamant からも想像できるように、本来は「ダイヤモンド」である。日本ではガラス細工を「ギャマン細工」といっているうちに、それを略したギャマンが「ガラス」そのものをさすようになった。しかし、「ガラス」としては同じオランダ語から入ったガラス(glas)が優勢となり、ギャマンもポルトガル語からはいっていたビードロをも駆逐して、今日では王座を確保している。後に英語のglass を借り入れたグラスも使われるようになったが、こちらはもっぱら「洋酒のカップ」の意味に限られた。
レッテルとは、元はオランダ語で商品などに貼り付ける札(ふだ)のことである。ラベルまたはレーベルが転じて、人や物事に対する類型化された評価のこと。英語と綴りも全く同じletter(文字)を借り入れたものかもしれない。
オルゴールは、ゼンマイ仕掛けで、蓋を開けることで(あるいは手回しのハンドルを回すことで)音楽が流れる機械。語源はオランダ語の「orgel(オルゲル)、オルガン」で、それが訛って今の「オルゴール」になったという。ちなみに英語では「music box」。
カランは、オランダ語で「鶴」を意味する「kraan」から。カランが「鶴」の意味からきているのは、蛇口の長い管が鶴の首から頭にかけての形に似ているためである。
コルクは、コルクガシの樹皮のコルク組織を剥離、加工した弾力性に富む素材。空気をよく含み、軟らかいため、中国語では「軟木」(ruǎnmù)と呼んでいる。コルクの需要は、16世紀のガラス瓶(びん)の出現により、17世紀に入って急激に増加した。そして1760年のスペインでは、コルク量産化のためにコルク樹の育成栽培が始めらた。日本では、江戸時代末期、諸外国から持ち込まれた洋酒類に使われていたコルク栓を再製し、目薬瓶の栓として利用したのがコルク加工のはじまりといわれている。その後、明治時代に入りビール王冠用コルク使用や、ガラス容器の発達に伴いコルク栓の需要は拡大したという。
歴史的にコップが日本に伝わったのは、江戸時代で、ギヤマンやビードロなどのガラス製品とともに伝わったため、英語を語源とするカップではなくオランダ語を語源とするコップと表現される。古くから日本に伝わっていたため、江戸時代を経て外国との交流のあった長崎などを中心に各地の工芸品に見ることができる。
ブリキは、スズを鍍金した鋼板のことである。缶詰など、常に水分と接触する部材に用いられるほか、かつては玩具の主要な材料でもあった。オランダ語のBlikから来たという説が有力。明治時代、レンガを鋼板で保護しているものを見た日本人が、鋼板のことを尋ねるつもりでそれは何かと質問したところ、"brick"(レンガを意味する英語)という答えが返ってきたことから誤って付いた名である、とする説がある。しかしブリキについては江戸時代より知られており、この説は疑わしい。
ペンキは大航海時代に、主に帆船の木材保護や水密性の維持のために使用されたオランダ語(pek)を語源としたものを指す。現在でも商品として売られているスパーワニス(Spar vanish)はSpar=”マスト周りの艤装品”に塗る天然樹液を原料としたワニスのことである。また、帆船の開口部を荒天時に塞ぐキャンバスは布に塗料を塗りこんだ物である。帆にペンキを塗る歴史はノルウェーのバイキングの時代にはすで行われていたのは確かなようである。いずれにせよ、現在使われている塗料の誕生はノアの箱舟にそれらしきものを塗ったという記述からしても船とは切っても切れない関係にありそうである。
ポンプは、機械的なエネルギーを液体・気体の圧力・運動エネルギーに変換させる流体機械をいう。圧力を高めたり減圧したり、または移動させるのに用いられる。大正時代から、昇進ポンプと呼ばれる手押しポンプが広島で作られ、また名古屋地区にてガチャポンと呼ばれる手押しポンプが鋳造量産され始めた。
ランプは燃料を燃やす照明器具。石油ランブは石油を金属製またはガラス製の油壺に入れ、口には口金(くちがね)をつけ、灯芯を差し込み点火し、「ほや」(ガラス製の筒)をきせて燃えをよくし、かつ風で吹き消されるのを防ぐ。灯芯はねじで上下した。すすで汚れたほやの清掃は手の小さな子供の仕事であった。種類としては吊り下げるものと、据え置くものとがあった。日本に渡来したのは万延元年(1860年)、林洞海(はやし どうかい、1813~1895年、日本の蘭方医。幕府奥医師)が渡米した友人からもらい、臭水(原油の越後地方での古称)で点火したのが最初であるという。慶応頃からしだいに普及し、その明るさを賞賛され、明治5年には家々で点火され、明治15(1882)年ごろにはランプ亡国論なるものさえもちあがった。平芯から円芯、両芯がおこり、空気ランプから白熱マントルランプが現われ、その一方では携帯用のカンテラも派生し、電灯が普及するまでは王者の位にあった。現在でも電気が利用できない奥地の山小屋などでは現役で用いられているという。
今日は、オランダ語から外来語となった器具や日用品の名前に目を向けてみよう。
インキ(ト)(inkt)、ペン(pen)、ゴム(gom)、ギャマン(diamant)、ガラス(glas)、レッテル(letter)、オルゴ(ー)ル(orgel)、カラン(kraan)、キルク(kurk)、コップ(kop)、ブリキ(blik)、ペンキ(pek)、ポンプ(pomp)、ランプ(lamp) などがある。
インキはおよそ5000年前に、石の表面に絵や文字を刻むための黒色インク(墨)が中国で開発された。このインクは油煙や松煙と膠の混合物であった。他地域の初期文明においても植物の実や種、鉱物から様々な色のインクが作り出された。エジプトのカリフ、ムイッズは手や衣服を汚すことのないペンを要求した。その要求に応えて953年に万年筆の原型といえるペンが開発された。ペン(pen)とは、硬筆筆記具のうち、インクによって書くものの総称。万年筆やボールペン、サインペンなどがこれにあたる。もともとは「ペン先」と「ペン軸」によって構成されるつけペン形式で、先端にインクや墨をつけて毛管現象などで保持させつつ書くものであったが、近代以降、中にインクが入ったものが発達した。インキはインキもしくはインキトという形で、ペンとともに江戸時代の文献にかなり現れているので、オランダ語からの外来語と見做すことができる。
ゴムは、元来は植物体を傷つけるなどして得られる無定形かつ軟質の高分子物質のことである。ゴムをはじめて紹介したのはChristopher Columbus(クリストファー コロンブス、1451?~1506年)だといわれる。1493年の第二回目の航海でプエルトリコとジャマイカに上陸し、そこで原住民が大きく跳ねるボールで遊んでいるのを見てとても驚いたといわれている。その後スペインに持ち帰らたが文字消しやおもちゃ程度にしか価値はなく、この後200年あまり科学的研究はされなかった。ちなみにゴムを意味するラバー(Rubber)は英語でこすって消す(rub out)文字消しに由来している。ゴムは後に英語のgum を借り入れたガムと並んで、今も使われているが、英語のgum も本来は「樹皮から分泌する乳状液」の意味だが、もっぱら「チュウインガム」という特殊な意味に限られて使われることとなった。
ギャマンは、その原語diamant からも想像できるように、本来は「ダイヤモンド」である。日本ではガラス細工を「ギャマン細工」といっているうちに、それを略したギャマンが「ガラス」そのものをさすようになった。しかし、「ガラス」としては同じオランダ語から入ったガラス(glas)が優勢となり、ギャマンもポルトガル語からはいっていたビードロをも駆逐して、今日では王座を確保している。後に英語のglass を借り入れたグラスも使われるようになったが、こちらはもっぱら「洋酒のカップ」の意味に限られた。
レッテルとは、元はオランダ語で商品などに貼り付ける札(ふだ)のことである。ラベルまたはレーベルが転じて、人や物事に対する類型化された評価のこと。英語と綴りも全く同じletter(文字)を借り入れたものかもしれない。
オルゴールは、ゼンマイ仕掛けで、蓋を開けることで(あるいは手回しのハンドルを回すことで)音楽が流れる機械。語源はオランダ語の「orgel(オルゲル)、オルガン」で、それが訛って今の「オルゴール」になったという。ちなみに英語では「music box」。
カランは、オランダ語で「鶴」を意味する「kraan」から。カランが「鶴」の意味からきているのは、蛇口の長い管が鶴の首から頭にかけての形に似ているためである。
コルクは、コルクガシの樹皮のコルク組織を剥離、加工した弾力性に富む素材。空気をよく含み、軟らかいため、中国語では「軟木」(ruǎnmù)と呼んでいる。コルクの需要は、16世紀のガラス瓶(びん)の出現により、17世紀に入って急激に増加した。そして1760年のスペインでは、コルク量産化のためにコルク樹の育成栽培が始めらた。日本では、江戸時代末期、諸外国から持ち込まれた洋酒類に使われていたコルク栓を再製し、目薬瓶の栓として利用したのがコルク加工のはじまりといわれている。その後、明治時代に入りビール王冠用コルク使用や、ガラス容器の発達に伴いコルク栓の需要は拡大したという。
歴史的にコップが日本に伝わったのは、江戸時代で、ギヤマンやビードロなどのガラス製品とともに伝わったため、英語を語源とするカップではなくオランダ語を語源とするコップと表現される。古くから日本に伝わっていたため、江戸時代を経て外国との交流のあった長崎などを中心に各地の工芸品に見ることができる。
ブリキは、スズを鍍金した鋼板のことである。缶詰など、常に水分と接触する部材に用いられるほか、かつては玩具の主要な材料でもあった。オランダ語のBlikから来たという説が有力。明治時代、レンガを鋼板で保護しているものを見た日本人が、鋼板のことを尋ねるつもりでそれは何かと質問したところ、"brick"(レンガを意味する英語)という答えが返ってきたことから誤って付いた名である、とする説がある。しかしブリキについては江戸時代より知られており、この説は疑わしい。
ペンキは大航海時代に、主に帆船の木材保護や水密性の維持のために使用されたオランダ語(pek)を語源としたものを指す。現在でも商品として売られているスパーワニス(Spar vanish)はSpar=”マスト周りの艤装品”に塗る天然樹液を原料としたワニスのことである。また、帆船の開口部を荒天時に塞ぐキャンバスは布に塗料を塗りこんだ物である。帆にペンキを塗る歴史はノルウェーのバイキングの時代にはすで行われていたのは確かなようである。いずれにせよ、現在使われている塗料の誕生はノアの箱舟にそれらしきものを塗ったという記述からしても船とは切っても切れない関係にありそうである。
ポンプは、機械的なエネルギーを液体・気体の圧力・運動エネルギーに変換させる流体機械をいう。圧力を高めたり減圧したり、または移動させるのに用いられる。大正時代から、昇進ポンプと呼ばれる手押しポンプが広島で作られ、また名古屋地区にてガチャポンと呼ばれる手押しポンプが鋳造量産され始めた。
ランプは燃料を燃やす照明器具。石油ランブは石油を金属製またはガラス製の油壺に入れ、口には口金(くちがね)をつけ、灯芯を差し込み点火し、「ほや」(ガラス製の筒)をきせて燃えをよくし、かつ風で吹き消されるのを防ぐ。灯芯はねじで上下した。すすで汚れたほやの清掃は手の小さな子供の仕事であった。種類としては吊り下げるものと、据え置くものとがあった。日本に渡来したのは万延元年(1860年)、林洞海(はやし どうかい、1813~1895年、日本の蘭方医。幕府奥医師)が渡米した友人からもらい、臭水(原油の越後地方での古称)で点火したのが最初であるという。慶応頃からしだいに普及し、その明るさを賞賛され、明治5年には家々で点火され、明治15(1882)年ごろにはランプ亡国論なるものさえもちあがった。平芯から円芯、両芯がおこり、空気ランプから白熱マントルランプが現われ、その一方では携帯用のカンテラも派生し、電灯が普及するまでは王者の位にあった。現在でも電気が利用できない奥地の山小屋などでは現役で用いられているという。
※ランプ亡国論とは、明治初期の僧侶、佐田介石〔さた かいせき、1818~1882年、肥後国出身、幕末から明治初頭にかけての浄土真宗本願寺派(晩年は天台宗)の僧侶〕が外国製品排斥の立場から提唱した説で、灯油を用いるランプを使っていると、菜種油生産農家が困窮し国が滅びると主張した。
オランダ語からの外来語で、飲食物名にはどんなものがあるだろうか。
アップラ(aardapple)=じゃがいも、アラキ(arak)=強い蒸留酒、ウェイン(wijn)=葡萄酒、カーズ(kaas)=チーズ、ソップ(sop)=スープ、ボートル(voter) =バター、メルキ(melk)=ミルク、クッキー(koekje)=小さなもの、コック(kok)=料理人、コーヒー(koffie)=珈琲、ビール(bier)=麦酒、ドロップ(drop)=型を打ち抜いた飴菓子、ブロード(brood)=麺麭(バン)、ポンス(pons)=橙の絞り汁、シロップ(siroop)=濃厚な砂糖液、ヘット(vet)=牛脂、ゼネーフル(genever)=ジン、セーデル(cider)=林檎酒 〔以上18語〕 などについて調べてみた。
ジャガイモに就いては、英語ではハイチ起源のpotatoという言葉を、スペイン語経由で使っており、これは後年日本語にもポテトとしてはいっている。フランス語ではこれをpomme de terre(ポム・ドゥ・テール)と訳し、オランダ語でもこれに倣ってaardapple(アーダポロ)と呼んで入る。どちらも「大地のリンゴ」という意味である。Earth-appleである。茨城その他の方言にみられる「アップラいも」というのはこのオランダ語aardappleの後半を取り入れて、それに「いも」を付けたものである。
アラキは、江戸時代、オランダ人がジャワより伝えた蒸留酒。ヤシの実の汁や糖蜜・米で造った焼酎(しようちゆう)に、丁子・肉桂などの香料を加えたもの。アラキ酒。アラック。「阿剌吉」とも書く。/ウェインは、江戸時代、葡萄酒をさしていった言葉。英語のワインに当たる。*紅毛訳問答〔1750年〕に(酒をウェインと申候」とある。日本人になじまれるようになったが、やがて英語のwineを借り入れたワインに取って代わられた。
カーズもまた、幕末から明治にかけて使われたが、やがて英語のcheeseを取り入れたチーズに席をうばわれた。/ソップも英語のsoupを借り入れたスープのために、ボートルも英語のbutterからきたバターのために、さらにメルキも英語のmilkを受け入れたミルクのために、それぞれ追われて消えていった。
クッキーという言葉は英語のcake「ケーキ」に当たるオランダ語のkoekに指小辞の-jeを添えた言葉で「小さなケーキ」という意味である。英語には17世紀初めにアメリカに移住したオランダ人を通して借り入れ、cookie,cookyとして使っている。発音の上から英語のcook「料理人」を連想しがちだが、それとは全く無関係である。英語のcookに当たるオランダ語はkokであり、これはまた別にコックとして日本語に入っている。クッキーもコックも直接オランダ語から入ったと考えられるが、クッキーは英語の助けを借りて一般化した。
コーヒーはアラビア語でコーヒーを意味するカフワ (qahwa) が転訛したものであるとも、エチオピアにあったコーヒーの産地カッファ (Kaffa) がアラビア語に取り入れられたものともいわれる。日本語の「コーヒー」は、江戸時代にオランダからもたらされた際の、オランダ語: koffie (コーフィー)に由来する。中国語においても、訳語に関して19世紀に試行錯誤があり、現在はこの日本人宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1846年、津山藩医で日本の蘭学者)による当て字を借用している。ただし、漢字では王偏を口偏に変え「咖啡」(kāfēi)と表記されている。/日本において、ビールは1613年(慶長18年)に長崎県平戸市に渡り、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上されたという。日本では川本幸民(1810~1871年、幕末・明治維新期の蘭学者)が1853年にビール製造を試みたのを皮切りに、多くの醸造所が誕生した。本格的に普及したのは明治時代だが、江戸時代初期には徳川幕府の幕僚達がその存在を認知していたのである。/コーヒーやビールはのちに英語のcoffeeとか、ドイツ語のBierに接しても、これによって特に変える必要はなかったのでそのまま残った。飴菓子のドロップも同様である。/砂糖80%と水飴20%を140~150℃で煮詰め、クエン酸や着色料、香料を加えて生地を作る。生地を冷却し、まだ柔らかいうちに金属製の型(モールド)で整形して(もしくは打ち抜いて)作る。オランダの菓子ドロップが語源とされている。
麺麭(パン)を意味するブロードは、いくぶん使い出されはしたが、ポルトガル語から入っていたパンの牙城を抜くことはできなかった。/ポン酢の「ポン」に意味があるわけではなく、「ポンカン」の「ポン」とも語源は異なる。オランダ語で柑橘類の果汁を意味する「pons(ポンス)」からで、「ポンス」が変化し「ス」に「酢」が当てられ「ポン酢」となった。オランダ語の「ポンス」は、ヒンディー語で5つを意味する「panc」に由来する。近世より、「ポンス」は5種類のものを混ぜ合わせたという意味から、ブランデーやラム酒にレモン汁や砂糖などを加えて作った飲み物を意味するようになった。この飲み物がレモン汁に関係することから、ポン酢は柑橘類の果汁を意味するようになったという。
シロップとは、濃厚な砂糖液の総称。香味をつけたものと,つけないものとがあり,フルーツシロップ,グレナデンシロップ,メープルシロップなどは前者に,ガムシロップ,シュガーシロップなどは後者に属する。フルーツシロップはレモン,イチゴ,メロンなどの香料を加えて着色したもので,かき氷などに用いる。グレナデンシロップはザクロの香味をつけた鮮紅色のもので,おもにカクテルに使う。メープルシロップは北アメリカ特産のカエデ糖を原料とするもので独特の風味があり,ホットケーキなどに用いる。/ヘット(ドイツ語: Fett、オランダ語: vet、英語: tallow)は、牛の脂を精製した食用油脂であり、牛脂(ぎゅうし)とも呼ばれる。語源となったとされるドイツ語のFettおよびオランダ語のvetは、本来は獣脂一般を指す。
ジンは、1660年オランダのライデン大学医学部教授フランシスクス・シルピウスによって開発された。シルピウスは熱病の特効薬を作ろうとして、利尿効果のあるジュニパーベリーをアルコールに浸漬して蒸留した。医学者シルピウスの意図とは別に、この薬用酒はむしろ爽やかなアルコール性飲料として評判になり、ジュニパーベリー(杜松《ねず》の実)を意味するフランス語Gehever(ジュニエーブル)から“Geneva(ジュネヴァ、杜松《ねず》)”と呼ばれてオランダを代表する酒になった。ジュネヴァはオランダ商人の手で世界各地に広がっていったが、特にイギリスでは英語風に“Gin(ジン)”と呼ばれて大流行した。1689年にオランダから英国王に迎えられたウイリアム3世の影響もあって、爆発的な人気を得た。イギリスでは当初、飲みやすくするため砂糖で甘味付けされた、“Old Tom Gin(オールド・トム・ジン)”が好まれていたが、19世紀後半になると連続式蒸留機によるスッキリとした風味の“ Dry Gin(ドライ・ジン)”が登場してジュネヴァを圧倒し世界的にもドライジンが主流になった。
セデール「cider」は「りんご酒」の外来語であるが、後に英語からこれとは別にサイダー(cider)というのを借り入れている。しかもそれは、どう勘違いしたものか、原語の「りんご酒」とは打って変わって「清涼飲料水」として取り入れた。このオランダ語と英語のciderはどちらもフランス語から借り入れたものであるという。日本語はご丁寧にもフランス語のciderをも「シードル」として、今度は間違いなく「りんご酒」の意で取り入れている。セーデルは今は使われていないが、なかなかややこしい。
アップラ(aardapple)=じゃがいも、アラキ(arak)=強い蒸留酒、ウェイン(wijn)=葡萄酒、カーズ(kaas)=チーズ、ソップ(sop)=スープ、ボートル(voter) =バター、メルキ(melk)=ミルク、クッキー(koekje)=小さなもの、コック(kok)=料理人、コーヒー(koffie)=珈琲、ビール(bier)=麦酒、ドロップ(drop)=型を打ち抜いた飴菓子、ブロード(brood)=麺麭(バン)、ポンス(pons)=橙の絞り汁、シロップ(siroop)=濃厚な砂糖液、ヘット(vet)=牛脂、ゼネーフル(genever)=ジン、セーデル(cider)=林檎酒 〔以上18語〕 などについて調べてみた。
ジャガイモに就いては、英語ではハイチ起源のpotatoという言葉を、スペイン語経由で使っており、これは後年日本語にもポテトとしてはいっている。フランス語ではこれをpomme de terre(ポム・ドゥ・テール)と訳し、オランダ語でもこれに倣ってaardapple(アーダポロ)と呼んで入る。どちらも「大地のリンゴ」という意味である。Earth-appleである。茨城その他の方言にみられる「アップラいも」というのはこのオランダ語aardappleの後半を取り入れて、それに「いも」を付けたものである。
アラキは、江戸時代、オランダ人がジャワより伝えた蒸留酒。ヤシの実の汁や糖蜜・米で造った焼酎(しようちゆう)に、丁子・肉桂などの香料を加えたもの。アラキ酒。アラック。「阿剌吉」とも書く。/ウェインは、江戸時代、葡萄酒をさしていった言葉。英語のワインに当たる。*紅毛訳問答〔1750年〕に(酒をウェインと申候」とある。日本人になじまれるようになったが、やがて英語のwineを借り入れたワインに取って代わられた。
カーズもまた、幕末から明治にかけて使われたが、やがて英語のcheeseを取り入れたチーズに席をうばわれた。/ソップも英語のsoupを借り入れたスープのために、ボートルも英語のbutterからきたバターのために、さらにメルキも英語のmilkを受け入れたミルクのために、それぞれ追われて消えていった。
クッキーという言葉は英語のcake「ケーキ」に当たるオランダ語のkoekに指小辞の-jeを添えた言葉で「小さなケーキ」という意味である。英語には17世紀初めにアメリカに移住したオランダ人を通して借り入れ、cookie,cookyとして使っている。発音の上から英語のcook「料理人」を連想しがちだが、それとは全く無関係である。英語のcookに当たるオランダ語はkokであり、これはまた別にコックとして日本語に入っている。クッキーもコックも直接オランダ語から入ったと考えられるが、クッキーは英語の助けを借りて一般化した。
コーヒーはアラビア語でコーヒーを意味するカフワ (qahwa) が転訛したものであるとも、エチオピアにあったコーヒーの産地カッファ (Kaffa) がアラビア語に取り入れられたものともいわれる。日本語の「コーヒー」は、江戸時代にオランダからもたらされた際の、オランダ語: koffie (コーフィー)に由来する。中国語においても、訳語に関して19世紀に試行錯誤があり、現在はこの日本人宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1846年、津山藩医で日本の蘭学者)による当て字を借用している。ただし、漢字では王偏を口偏に変え「咖啡」(kāfēi)と表記されている。/日本において、ビールは1613年(慶長18年)に長崎県平戸市に渡り、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上されたという。日本では川本幸民(1810~1871年、幕末・明治維新期の蘭学者)が1853年にビール製造を試みたのを皮切りに、多くの醸造所が誕生した。本格的に普及したのは明治時代だが、江戸時代初期には徳川幕府の幕僚達がその存在を認知していたのである。/コーヒーやビールはのちに英語のcoffeeとか、ドイツ語のBierに接しても、これによって特に変える必要はなかったのでそのまま残った。飴菓子のドロップも同様である。/砂糖80%と水飴20%を140~150℃で煮詰め、クエン酸や着色料、香料を加えて生地を作る。生地を冷却し、まだ柔らかいうちに金属製の型(モールド)で整形して(もしくは打ち抜いて)作る。オランダの菓子ドロップが語源とされている。
麺麭(パン)を意味するブロードは、いくぶん使い出されはしたが、ポルトガル語から入っていたパンの牙城を抜くことはできなかった。/ポン酢の「ポン」に意味があるわけではなく、「ポンカン」の「ポン」とも語源は異なる。オランダ語で柑橘類の果汁を意味する「pons(ポンス)」からで、「ポンス」が変化し「ス」に「酢」が当てられ「ポン酢」となった。オランダ語の「ポンス」は、ヒンディー語で5つを意味する「panc」に由来する。近世より、「ポンス」は5種類のものを混ぜ合わせたという意味から、ブランデーやラム酒にレモン汁や砂糖などを加えて作った飲み物を意味するようになった。この飲み物がレモン汁に関係することから、ポン酢は柑橘類の果汁を意味するようになったという。
シロップとは、濃厚な砂糖液の総称。香味をつけたものと,つけないものとがあり,フルーツシロップ,グレナデンシロップ,メープルシロップなどは前者に,ガムシロップ,シュガーシロップなどは後者に属する。フルーツシロップはレモン,イチゴ,メロンなどの香料を加えて着色したもので,かき氷などに用いる。グレナデンシロップはザクロの香味をつけた鮮紅色のもので,おもにカクテルに使う。メープルシロップは北アメリカ特産のカエデ糖を原料とするもので独特の風味があり,ホットケーキなどに用いる。/ヘット(ドイツ語: Fett、オランダ語: vet、英語: tallow)は、牛の脂を精製した食用油脂であり、牛脂(ぎゅうし)とも呼ばれる。語源となったとされるドイツ語のFettおよびオランダ語のvetは、本来は獣脂一般を指す。
ジンは、1660年オランダのライデン大学医学部教授フランシスクス・シルピウスによって開発された。シルピウスは熱病の特効薬を作ろうとして、利尿効果のあるジュニパーベリーをアルコールに浸漬して蒸留した。医学者シルピウスの意図とは別に、この薬用酒はむしろ爽やかなアルコール性飲料として評判になり、ジュニパーベリー(杜松《ねず》の実)を意味するフランス語Gehever(ジュニエーブル)から“Geneva(ジュネヴァ、杜松《ねず》)”と呼ばれてオランダを代表する酒になった。ジュネヴァはオランダ商人の手で世界各地に広がっていったが、特にイギリスでは英語風に“Gin(ジン)”と呼ばれて大流行した。1689年にオランダから英国王に迎えられたウイリアム3世の影響もあって、爆発的な人気を得た。イギリスでは当初、飲みやすくするため砂糖で甘味付けされた、“Old Tom Gin(オールド・トム・ジン)”が好まれていたが、19世紀後半になると連続式蒸留機によるスッキリとした風味の“ Dry Gin(ドライ・ジン)”が登場してジュネヴァを圧倒し世界的にもドライジンが主流になった。
セデール「cider」は「りんご酒」の外来語であるが、後に英語からこれとは別にサイダー(cider)というのを借り入れている。しかもそれは、どう勘違いしたものか、原語の「りんご酒」とは打って変わって「清涼飲料水」として取り入れた。このオランダ語と英語のciderはどちらもフランス語から借り入れたものであるという。日本語はご丁寧にもフランス語のciderをも「シードル」として、今度は間違いなく「りんご酒」の意で取り入れている。セーデルは今は使われていないが、なかなかややこしい。
昨夜半より雨。明るくなると同時に床から抜け出し。パソコンに向かう。
昨日、西宮のYK氏から、絵葉書が届く。曰く
「8月も今日で終りというのに暑い日が続いております。/その後お変わりなくお元気のことと存じます。今日は西宮市大谷美術館で開催中の『2012イタリア・ポローニヤ国際絵本原画展』へ行って来ました。西宮在住の老人は入館料が半額の\400です。/水門会総会10月19日(金)開催の通知が来ましたが貴兄はどうされますか?/私は出来れば出席したいのですが……どうなりますか。どうぞご自愛下さい。 草々」
この爺も負けじと、図々しく無料インターネットで、2012年イタリア・ポローニヤ国際絵本原画展をちらっと一巡させて頂いた。
いやはや、今のこの爺は桜橋~吾妻橋ヲ1巡するのがやっと。腰はいたむし、脹脛はつるし、こんな状態で九州まで旅行する元気はない。かえって皆さんにご迷惑を掛ける羽目に陥るのが関の山。本年の水門会出席も見合わせることにした。
蘭学の開花した18世紀半ば以降になって学術用語が盛んに入ってくるのだが、通商関係用語はそれより以前からかなり入っていた。まず、織物、衣服関係の言葉で現在我々に親しみのあるものだけを挙げてみよう。
サテン(satijn):繻子〔中国の輸出港(現在の泉州港)の名に由来する〕織りにした織物。絹を用いた本繻子のほか、綿繻子・毛繻子などの種類がある。天正年間(1573~1592年)に京都で中国の製法にならって初めて織られたという。朱子(繻子)は、サラセン文化の盛んな頃、中国からアラビアに渡り、12・13世紀頃、ルネサンス初期にイタリアに輸入された。そのころ、繻子の輸出港であった泉州「Tzuting」の名が織物名として使われた。その後、アラビア訛りとイタリア訛りが混じり、現在の「satin」となったという。
セルジ(serge):平織り薄手の毛織物。本来は梳毛(そもう)糸を原料とするが、絹・人絹などの交織もある。合着用和服地。セルジのジは「生地」「布地」の「地」と勘違いされて、余計物と考えられて、落とされてしまったらしい。今普通に使われているセルが、一種の語源俗解によって生じたのである。
チョッキ(jak):原語のjak は「短い上着」という意。袖がなく丈の短い胴衣で,セビロ(背広),ワイシャツなどと同じように日本独自の疑似外来語の服飾用語。英語のvest(ベスト)と同じ意味で使われる。背広のチョッキ,毛糸のチョッキなどというように用いられ,明治以来ごく一般的な用語だったが,1960年代から70年代にかけてほとんど一般的には使われなくなり,それに代わってベストという呼び方がごく普通になった。
ヅック(doek):太番手の撚糸(よりいと)を密に織った木綿または麻の平織。ズックという呼称はダックduck(英語)の日本語よみで,語源はオランダ語の,粗い麻織物を意味するdoekに由来するといわれる。近年はナイロン,ビニロンなどの合成繊維も使われる。
フラネル(flanel):紡毛糸で平織りまたは綾織りにし、布面をやや毛羽立たせた柔らかな毛織物。梳毛糸(そもうし)・綿糸などを使ったものもある。肌着・パジャマ地・服地などに用いる。ネル。
ホック(hoek):鉤(かぎ)と受け金が一組みになったもの。鉤ホック。スナップ(ボタン)。
マンテル(mantel):釣鐘型の袖の無い、身頃(みごろ)のみの形状の外套を言う。マント。マントの歴史は古く、その起こりは人間が狩猟を始め、その毛皮などをそのまま羽織って防寒具としたことから始まる。そのためマントのような衣服は各地で見ることができる。
今日は、オランダ語からの外来語の内、天文・物理・化学などの分野について調べてみよう。
アルカリ(alkali):《もとアラビア語で、海の草の灰の意》水に溶けて塩基性〔水溶液では水素イオン指数(pH)が7より大きいときをいい、酸を中和し、赤色リトマスを青変させる〕を示す物質の総称。ふつう、アルカリ金属・アルカリ土類金属の水酸化物をいう。
アルコール(alcohol):アルコール (alcohol) の語源については正確な起源が判明しているわけではないものの、"al-" がアラビア語の定冠詞であることから、アラビア語に由来すると考えられている。そもそも、12世紀にイスラム社会の錬金術の発見を大衆向けに翻訳した数々のヨーロッパの翻訳者によって、アルコールは蒸留技法とともにその蒸留物のこととしてヨーロッパに紹介された。
ウエールガラス(weerglass):晴雨計。気圧計のこと、気圧が天気の指標となるところからいう。
バロメイテル(barometer):17世紀に気圧計の原理が確立されてほどなく、低気圧の接近といった天候の悪化に先んじて気圧の変化が起こることが発見された。これを応用した製品は晴雨計として船舶等に普及し、短時間の予測ではあるが、それまで科学的手法の存在しなかった気象の予想が行えるようになった。このことが社会にもたらしたインパクトは大きく、現在でも、他の事象の象徴あるいは先行指標となるもの、及びその変化を指して「バロメーター」と呼ぶことにその名残を残している。
エレキ〈テリシテイト〉(electriciteit):電気を表す electricity はギリシア語の(elektron, 琥珀)に由来する。古代ギリシア人が琥珀をこする事により静電気が発生する事を発見した故事によるもので、そこから古典ラテン語で electrum、新ラテン語で ēlectricus(琥珀のような)という言葉が生まれ、さらに、 electricity が派生したという。漢語の「電気」の「電」は雷の別名であり、いわば「電気」というのは「雷の素」といった意味になる。
オクタント(octant):octant (八分儀)はラテン語の 8 を意味する octans に由来する。天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。
カリ(kali):原子番号19の元素で、元素記号は K である。アルカリ金属に属す典型元素である。医学・薬学や栄養学などの分野では英語のポタシウム (Potassium) が使われることもある。和名では、かつて加里(カリ)または剥荅叟母(ぽたしうむ)という当て字が用いられた。
コンパス(kompas):製図用具の一。主に円を描くためのもので、適当な角度に開閉できる2本の脚からなる。ぶんまわし。円規。また、船などで、方位を測定する計器。磁気コンパスとジャイロコンパスがある。羅針盤。羅針儀。磁気コンパスは羅針盤の一つで、水平面で自由に回転する目盛り盤に永久磁石を取り付け、航行中に機首方向の磁気方位を知る装置。船舶・航空機に使われる。磁気羅針儀。マグネティックコンパスともいう。ジャイロコンパスとはgyroscope(ジャイロスコープ)の原理を利用し、常に真北を指すように組み立てられた方位測定器。船舶などに用いられる。回転羅針儀。転輪羅針儀。
セイミ(Chemie ):幕末から明治初期にかけての日本では、化学は舎密(セイミ)と呼ばれた。舎密は化学を意味するラテン語系オランダ語(この単語自体の意味は「科学」)の音訳である。/日本で初めての近代化学を紹介する書となったのは、江戸時代の宇田川榕菴(うだがわ ようあん、1798~1846年、津山藩医で日本の蘭学者)の『舎密開宗』(せいみかいそう)である。原著はイギリスの化学者William Henry(ウィリアム・ヘンリー、1775~1836年)が1801年に出版した An Epitome of Chemistry(化学概論) である。宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語は、宇田川榕菴によって考案された造語である。/「化学」という単語は川本幸民が著書『化学新書』で初めて用い、後に明治政府が正式に採用した。これは、他の学問用語と同様に日本から中国などへ伝わった
ソーダ(soda):ナトリウム化合物のこと(例:苛性ソーダなど)。また、炭酸水、あるいは炭酸飲料全般のこと。炭酸水(たんさんすい)とは、炭酸ガスを含む水のことをいう。ソーダ水・ソーダとも言われる。気泡を立たせ、飲み物に清涼感を与える目的で、ソフトドリンクの多くが原料の1つとしている。
ゾンガラス(zonglass):太陽の明るさを暗くするフィルターで、子午線儀で太陽の南中時刻を測定するとき等に使われた。日本では、天明年間に麻田剛立((あさだごうりゅう、1734~1799年、天文学者)の弟子であった山本彦九郎(詳細不明)が、ガラスに油を燃やしてすすを付着させて作ったのが始まりといわれている。
テルモメートル(thermometer):温度計、寒暖計のこと。Jean Leuréchon(J.ルレション、1591?~1670年)が、1626年に "thermomètre" という言葉を使っていて、これが英語に翻訳されたのが語源といわれている。杉田玄白の「解体新書」ではテルモメートルと見えるが、他にタルモメーテル、タルモメートルというのを使う人もいた。
テレスコープ(telscoop):望遠鏡のこと。日本においては近藤正斉の『外藩通書』によれば1613年(慶長18年8月4日)に「慶長十八年八月四日、インカラティラ国王ノ使者於駿城御礼申上ル…長一間程之遠眼鏡六里見之ト見ユ」とあり、イギリスのジェームズ1世 (イングランド王)の使いジョン・セーリスが徳川家康に献上のもの(現徳川美術館所蔵)が最古とされる。
レトルト(retort):化学実験において、物質の蒸留や乾留をする際に用いられるガラス製の器具を指す。形状としては、球状の容器の上に長くくびれた管が下に向かって伸びているもの。蒸留させたい液体を入れて球状の部分を熱すると、蒸気が管の部分に結露し、管をつたって容器に取り出したい物質が集められる。レトルトは錬金術で広く用いられたため、錬金術師を描いた数多くのデッサンやスケッチにレトルトも描かれている。近代的な蒸留装置が開発される以前には著名な化学者たちもレトルトを用いていた。
レンズ(lens):光を屈折させて発散または集束させるための光学素子である。通常は、両側面を球面と球面または球面と平面とした透明体である。日本に眼鏡を伝えたのは、宣教師Francisco de Xavier(フランシスコ・デ・ザビエル、1506?~1552年)で、周防国の守護大名・大内義隆(おおうちよしたか、1507~1551年)に謁見した際に献上したのが最初といわれている。ただし、これは現存しておらず、現物で残っている日本最古の眼鏡は、室町幕府12代将軍足利義晴(1511~1550年)が所持していたと伝わるものがあるという。一説には、義隆の物より、義晴が所持していたものの方が古いとも言われる。また徳川家康(1543~1616年)が使用したと伝わる眼鏡も久能山東照宮に現存しているという。日本でも、眼鏡はやがて国内で作られるようになり、江戸時代の半ばほどにもなると、江戸や大阪の大都市では、眼鏡を販売する店が出るようになった。
アルカリ(alkali):《もとアラビア語で、海の草の灰の意》水に溶けて塩基性〔水溶液では水素イオン指数(pH)が7より大きいときをいい、酸を中和し、赤色リトマスを青変させる〕を示す物質の総称。ふつう、アルカリ金属・アルカリ土類金属の水酸化物をいう。
アルコール(alcohol):アルコール (alcohol) の語源については正確な起源が判明しているわけではないものの、"al-" がアラビア語の定冠詞であることから、アラビア語に由来すると考えられている。そもそも、12世紀にイスラム社会の錬金術の発見を大衆向けに翻訳した数々のヨーロッパの翻訳者によって、アルコールは蒸留技法とともにその蒸留物のこととしてヨーロッパに紹介された。
ウエールガラス(weerglass):晴雨計。気圧計のこと、気圧が天気の指標となるところからいう。
バロメイテル(barometer):17世紀に気圧計の原理が確立されてほどなく、低気圧の接近といった天候の悪化に先んじて気圧の変化が起こることが発見された。これを応用した製品は晴雨計として船舶等に普及し、短時間の予測ではあるが、それまで科学的手法の存在しなかった気象の予想が行えるようになった。このことが社会にもたらしたインパクトは大きく、現在でも、他の事象の象徴あるいは先行指標となるもの、及びその変化を指して「バロメーター」と呼ぶことにその名残を残している。
エレキ〈テリシテイト〉(electriciteit):電気を表す electricity はギリシア語の(elektron, 琥珀)に由来する。古代ギリシア人が琥珀をこする事により静電気が発生する事を発見した故事によるもので、そこから古典ラテン語で electrum、新ラテン語で ēlectricus(琥珀のような)という言葉が生まれ、さらに、 electricity が派生したという。漢語の「電気」の「電」は雷の別名であり、いわば「電気」というのは「雷の素」といった意味になる。
オクタント(octant):octant (八分儀)はラテン語の 8 を意味する octans に由来する。天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。
カリ(kali):原子番号19の元素で、元素記号は K である。アルカリ金属に属す典型元素である。医学・薬学や栄養学などの分野では英語のポタシウム (Potassium) が使われることもある。和名では、かつて加里(カリ)または剥荅叟母(ぽたしうむ)という当て字が用いられた。
コンパス(kompas):製図用具の一。主に円を描くためのもので、適当な角度に開閉できる2本の脚からなる。ぶんまわし。円規。また、船などで、方位を測定する計器。磁気コンパスとジャイロコンパスがある。羅針盤。羅針儀。磁気コンパスは羅針盤の一つで、水平面で自由に回転する目盛り盤に永久磁石を取り付け、航行中に機首方向の磁気方位を知る装置。船舶・航空機に使われる。磁気羅針儀。マグネティックコンパスともいう。ジャイロコンパスとはgyroscope(ジャイロスコープ)の原理を利用し、常に真北を指すように組み立てられた方位測定器。船舶などに用いられる。回転羅針儀。転輪羅針儀。
セイミ(Chemie ):幕末から明治初期にかけての日本では、化学は舎密(セイミ)と呼ばれた。舎密は化学を意味するラテン語系オランダ語(この単語自体の意味は「科学」)の音訳である。/日本で初めての近代化学を紹介する書となったのは、江戸時代の宇田川榕菴(うだがわ ようあん、1798~1846年、津山藩医で日本の蘭学者)の『舎密開宗』(せいみかいそう)である。原著はイギリスの化学者William Henry(ウィリアム・ヘンリー、1775~1836年)が1801年に出版した An Epitome of Chemistry(化学概論) である。宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語は、宇田川榕菴によって考案された造語である。/「化学」という単語は川本幸民が著書『化学新書』で初めて用い、後に明治政府が正式に採用した。これは、他の学問用語と同様に日本から中国などへ伝わった
ソーダ(soda):ナトリウム化合物のこと(例:苛性ソーダなど)。また、炭酸水、あるいは炭酸飲料全般のこと。炭酸水(たんさんすい)とは、炭酸ガスを含む水のことをいう。ソーダ水・ソーダとも言われる。気泡を立たせ、飲み物に清涼感を与える目的で、ソフトドリンクの多くが原料の1つとしている。
ゾンガラス(zonglass):太陽の明るさを暗くするフィルターで、子午線儀で太陽の南中時刻を測定するとき等に使われた。日本では、天明年間に麻田剛立((あさだごうりゅう、1734~1799年、天文学者)の弟子であった山本彦九郎(詳細不明)が、ガラスに油を燃やしてすすを付着させて作ったのが始まりといわれている。
テルモメートル(thermometer):温度計、寒暖計のこと。Jean Leuréchon(J.ルレション、1591?~1670年)が、1626年に "thermomètre" という言葉を使っていて、これが英語に翻訳されたのが語源といわれている。杉田玄白の「解体新書」ではテルモメートルと見えるが、他にタルモメーテル、タルモメートルというのを使う人もいた。
テレスコープ(telscoop):望遠鏡のこと。日本においては近藤正斉の『外藩通書』によれば1613年(慶長18年8月4日)に「慶長十八年八月四日、インカラティラ国王ノ使者於駿城御礼申上ル…長一間程之遠眼鏡六里見之ト見ユ」とあり、イギリスのジェームズ1世 (イングランド王)の使いジョン・セーリスが徳川家康に献上のもの(現徳川美術館所蔵)が最古とされる。
レトルト(retort):化学実験において、物質の蒸留や乾留をする際に用いられるガラス製の器具を指す。形状としては、球状の容器の上に長くくびれた管が下に向かって伸びているもの。蒸留させたい液体を入れて球状の部分を熱すると、蒸気が管の部分に結露し、管をつたって容器に取り出したい物質が集められる。レトルトは錬金術で広く用いられたため、錬金術師を描いた数多くのデッサンやスケッチにレトルトも描かれている。近代的な蒸留装置が開発される以前には著名な化学者たちもレトルトを用いていた。
レンズ(lens):光を屈折させて発散または集束させるための光学素子である。通常は、両側面を球面と球面または球面と平面とした透明体である。日本に眼鏡を伝えたのは、宣教師Francisco de Xavier(フランシスコ・デ・ザビエル、1506?~1552年)で、周防国の守護大名・大内義隆(おおうちよしたか、1507~1551年)に謁見した際に献上したのが最初といわれている。ただし、これは現存しておらず、現物で残っている日本最古の眼鏡は、室町幕府12代将軍足利義晴(1511~1550年)が所持していたと伝わるものがあるという。一説には、義隆の物より、義晴が所持していたものの方が古いとも言われる。また徳川家康(1543~1616年)が使用したと伝わる眼鏡も久能山東照宮に現存しているという。日本でも、眼鏡はやがて国内で作られるようになり、江戸時代の半ばほどにもなると、江戸や大阪の大都市では、眼鏡を販売する店が出るようになった。
昨夜来から、久し振りの雨。徘徊にも出かけられず、オランダ語からの外来語について調べてみた。
オランダ人が日本に初めてやった来たのは、1600(慶長5)年、オランダ船リーフデ号が豊後(大分県)に漂着した時である。この船にはイギリス人の航海士William Adams(ウィリアム・アダムス、1564~1620年、イギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針《みうら あんじん》としても知られる)とオランダ人の船員Jan Joosten(ヤン・ヨーステン、1556?~1623年、日本名は耶楊子《やようす》、Jan Joostenは名で、姓はvan Loodensteijn《ファン・ローデンスタイン》である)が乗っており、彼ら2人はポルトガル人の妨害があったにもかかわらず、家康から厚遇され、江戸に屋敷も与えられた。東京の表玄関八重洲通りのヤエスは、このJan Joostenの「ヤヨス」をなまったものだといわれる。
リーフデ号の漂着がきっかけとなって、1609(慶長14)年には、平戸に商館を開いて、日本との貿易を開始した。そして、1639年幕府が完全な鎖国体制をしくとともに、日本との貿易はオランダ人の独占する所となったのである。2年後の1641(寛永18)年には、オランダ商館は長崎の出島に移され、長崎こそ長い鎖国の間、日本人にとっては世界の情勢を垣間見、西欧の文化、学術の息吹をわずかながら吸い込むことのできる、唯一の小さな窓となった。
1720(享保5)年、将軍吉宗は禁書の令をゆるめた。いわゆる実学奨励のひとつとしてすぐれた西欧科学に着目し、キリスト教に関係のない洋書の輸入を許すことにしたのである。儒者の青木昆陽(1698~1769年)や医師の野呂元丈(のろげんじょう、1693~1761年)に命じてオランダ語を学ばせた。この昆陽についてオランダ語を学んだのが豊前中津藩藩医の前野良沢(まえのりょうたく、1723~1803年)であり、若狭藩潘医の杉田玄白(1733~1817年)とともに西欧医学の知識をはじめて体系的に把握し実証的科学研究の先鞭をつけたのである。
蘭学といえばすぐに医学を思い浮かべるほど医学が中心であったことは否定できない。しかし、医学だけでなく、科学知識の幼稚であった当時の日本人が、オランダ語を通して学び取った近代科学のほとんど全分野が含まれる。医学・薬学・天文暦学・地理学・本草学・物理化学・数学等から、のちには哲学、経済学、法律学にいたる広い分野が含まれて板のである。お上(かみ)から生産を増やし、産業を興し、実生活に役立つ学問が奨励されたため、おのずとそれに連なる自然科学の研究が盛んになって、蘭学といえばいかにも実用主義的な響きを伴っていた。
こうした蘭学の展開は、外来語面にも大きく反映している。ポルトガル語からの外来語の勢力がなかなか衰えなかったとはいえ、オランダ語からの外来語は専門語も加えると、二・三千語にも達するという。蘭学といえばただちに連想されるのは医学であるのに、この面でのオランダ語からの外来語は想像するほど多くない。特に病名などに就いては、伝染病を除くとオランダからの外来語はあまり見かけない。これは漢方医学がかなり進んでいて、従来からの名称をそのまま用いたためといわれる。現代の我々にも比較的なじみの多い言葉を、医療器具・薬品・薬草名などもあわせて挙げてみよう。
アキリス(Achilles):かの「解体新書」にも見える。ふくらはぎにある腓腹(ひふく)筋・平目(ひらめ)筋を、踵(かかと)の骨に付着させる、人体中最大の腱のこと。踵骨腱(しょうこつけん)。ギリシャ神話アキレウスの故事から人にとっての一番の弱点をいうようになった。
アポテキ(apotheek):薬剤師が販売又は授与の目的で調剤の業務を行う場所のことであり、医薬品の販売も行うことができる薬局のこと。
エキス(extract):エキストラクトの下半分を略したもの。動物や植物などの成分を水、エタノールあるいは水とエタノールの混合液に浸出させた液体を濃縮したもの
チンキ( tinctuur):チンクチュールの下半分を略したもの。生薬やハーブの成分をエタノール、またはエタノールと精製水の混合液に浸すことで作られる液状の製剤である。ヨードチンキ(Joodtinctuur、通称「ヨーチン」)やマーキュロクロム液(Mercurochrome、通称「赤チン」)は生薬から抽出されたものではないのでチンキではないが、慣例的にチンキと呼ばれている。
オブラート(oblaat):デンプンから作られる水に溶けやすい半透明の薄い膜のことを指す。薬品や菓子などを包み、そのまま体内に摂取することができる。名称の由来はラテン語のオブラトゥス(oblatus、楕円形)からきている。
カテーテル(katheter):医療用に用いられる中空の柔らかい管のことである。
カンフル、カンポラ(kamfer,kampher):樟脳(樟脳)。血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用などがあるために主に外用医薬品の成分として使用されている。かつては強心剤としても使用されていたため、それらの用途としてはほとんど用いられなくなった現在でも、「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」を比喩的に“カンフル剤”と例えて呼ぶことがある。
キナ(kina):アカネ科キナ属の常緑高木の総称。葉は卵形・長楕円形や披針形で、対生。花は淡紅紫色や淡黄色。樹皮からキニーネが得られる。南米コロンビアからボリビアにかけてのアンデス山地原産。
キニーネ(kinine):キナの樹皮に含まれる主要なアルカロイド。マラリア治療の特効薬として知られ、塩酸塩・硫酸塩が用いられる。白色の結晶で、味はきわめて苦い。キニン。漢字で「規尼涅」と表記。
ケレオソート(creosoot):止瀉薬(ししゃやく、下痢止め)、殺菌薬。ブナなどを乾留させる(通常では木炭を作る)際に水蒸気とともに留出する油層(木タール、水を主成分とする上澄み液がいわゆる木酢液)を蒸留して得られる、淡黄色透明で燻製のような臭いのある油状の液体で、代表的には止瀉薬である正露丸の有効成分として用いられている。
コレラ(cholera):日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ1822 〔文政5〕 年のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858 〔安政5〕 年から3年にわたり大流行となった。日本では、最初に発生した文政コレラのときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭であった。しかしこの流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、「虎列刺」などと字を当てたが、それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「鉄砲」「見急」「三日コレラ」などとも呼ばれた。また「コロリと死んでしまう」の連想から「虎狼痢」「虎狼狸」などの呼び名も広く用いられたが、これはコレラからの純粋な転訛ではない。
サフラン(saffran):地中海沿岸を原産とするアヤメ科の多年草。およびそのめしべを乾燥させた香辛料。鎮静、鎮痛、通経作用がある。中国では西紅花、藏紅花の名で生薬として流通している。江戸時代末期にオランダ船によりもたらされた。赤い花柱(めしべ)を集めて乾燥させたものを、古代ローマやギリシャでは高価な薬として利用した。日本ではお湯で煎じたものをせき止めや強壮作用などの薬とするほか、食品などの着色料や 香辛料としても使用されている。そのいろんな価値ゆえ、「薬用(やくよう)サフラン」とも呼ばれる。サフランの名前は、”黄色”を意味する、アラビア語の「zafran」からの変化だという。
スポイト(spuit):オランダ語で針を意味する単語を誤って転用したという。ガラス管の一端にゴム袋がついているもの。インク・薬液などを吸い上げて他のものに移し入れたり、点滴したりするのに用いる。「スポイド」という表記を見かけるが、語源に見る限り最後の「ト」は濁らない。
ヂキタリス(digitalis):ギリシャ語で「ゆび」を表すdigitalに由来する。これは花の形が指サックに似ているためである。コンピューター用語のデジタル(ディジタル、digital)と起源は全く同じである。
ドクトル(doctor):日本では幕末の開国まで、唯一西洋と取引していた国がオランダ(蘭)ということでドクトルは西洋語=蘭語であった。長崎出島の当時の日本側資料を紐解くと「ドクトル・○○」とカタカナ表記されているものもある。開国(19世紀末)時ドイツ(独)から最新科学の知識を得た影響で、蘭語に近い音の独語「ドクトル」が使われ続けたが、政治的にはイギリス(英)優位であったので英語も普及し、英語音の「ドクター」が使われ始めた。
ペスト(pest):かつては高い致死性を持っていたことや罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ、恐れられた。14世紀のヨーロッパではペストの大流行により、全人口の三割が命を落とした。抗生物質の発見により、死亡率が極端にさがった。
ヘンルーダー(wijnruit):江戸時代に渡来し、葉に含まれるシネオールという精油成分が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに利用され、料理の香りづけにも使われていたが、毒性があるとされ、今はほとんどその目的には使われていない。オランダ語が訛ったもので、言語の発音wijnruit(ウェインライト)からはすっかり遠ざかってしまった。
メス(mes):メスは、外科手術や解剖に用いられる極めて鋭利な刃物である。オランダ語の mes(ナイフの意)が語源である。メスという名称は日本独自の物であり外国ではスカルペル(scalpel)またはランセット(lancet)と呼ばれる。古代エジプト人はembalming〔エンバーミング、遺体を消毒や保存処理、また必要に応じて修復することで長期保存を可能にする技法〕の際、ガラス状の火成岩である黒曜石を鋭利に加工してメスとして用いた。アーユルヴェーダ《サンスクリット語で、インド大陸の伝統的医学で、その名はサンスクリット語の「アーユス(生気、生命)」と「ヴェーダ(知識、学)」の複合語である)には竹を鋭く裂いて用いたことが書いてある。
ヨヂウム(jodium):原子番号53の元素「沃素(元素記号I)」である。1811年、Bernard Courtois〔ベルナール・クールトア、1777~1828年、フランスの化学者〕によって発見された。ヨウ素は消毒薬としてもよく用いられる。ヨウ素のアルコール溶液がヨードチンキである。ヨウ素とヨウ化カリウムのグリセリン溶液がルゴール液である。また、ヨウ素デンプン反応はよく知られている。
オランダ人が日本に初めてやった来たのは、1600(慶長5)年、オランダ船リーフデ号が豊後(大分県)に漂着した時である。この船にはイギリス人の航海士William Adams(ウィリアム・アダムス、1564~1620年、イギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針《みうら あんじん》としても知られる)とオランダ人の船員Jan Joosten(ヤン・ヨーステン、1556?~1623年、日本名は耶楊子《やようす》、Jan Joostenは名で、姓はvan Loodensteijn《ファン・ローデンスタイン》である)が乗っており、彼ら2人はポルトガル人の妨害があったにもかかわらず、家康から厚遇され、江戸に屋敷も与えられた。東京の表玄関八重洲通りのヤエスは、このJan Joostenの「ヤヨス」をなまったものだといわれる。
リーフデ号の漂着がきっかけとなって、1609(慶長14)年には、平戸に商館を開いて、日本との貿易を開始した。そして、1639年幕府が完全な鎖国体制をしくとともに、日本との貿易はオランダ人の独占する所となったのである。2年後の1641(寛永18)年には、オランダ商館は長崎の出島に移され、長崎こそ長い鎖国の間、日本人にとっては世界の情勢を垣間見、西欧の文化、学術の息吹をわずかながら吸い込むことのできる、唯一の小さな窓となった。
1720(享保5)年、将軍吉宗は禁書の令をゆるめた。いわゆる実学奨励のひとつとしてすぐれた西欧科学に着目し、キリスト教に関係のない洋書の輸入を許すことにしたのである。儒者の青木昆陽(1698~1769年)や医師の野呂元丈(のろげんじょう、1693~1761年)に命じてオランダ語を学ばせた。この昆陽についてオランダ語を学んだのが豊前中津藩藩医の前野良沢(まえのりょうたく、1723~1803年)であり、若狭藩潘医の杉田玄白(1733~1817年)とともに西欧医学の知識をはじめて体系的に把握し実証的科学研究の先鞭をつけたのである。
蘭学といえばすぐに医学を思い浮かべるほど医学が中心であったことは否定できない。しかし、医学だけでなく、科学知識の幼稚であった当時の日本人が、オランダ語を通して学び取った近代科学のほとんど全分野が含まれる。医学・薬学・天文暦学・地理学・本草学・物理化学・数学等から、のちには哲学、経済学、法律学にいたる広い分野が含まれて板のである。お上(かみ)から生産を増やし、産業を興し、実生活に役立つ学問が奨励されたため、おのずとそれに連なる自然科学の研究が盛んになって、蘭学といえばいかにも実用主義的な響きを伴っていた。
こうした蘭学の展開は、外来語面にも大きく反映している。ポルトガル語からの外来語の勢力がなかなか衰えなかったとはいえ、オランダ語からの外来語は専門語も加えると、二・三千語にも達するという。蘭学といえばただちに連想されるのは医学であるのに、この面でのオランダ語からの外来語は想像するほど多くない。特に病名などに就いては、伝染病を除くとオランダからの外来語はあまり見かけない。これは漢方医学がかなり進んでいて、従来からの名称をそのまま用いたためといわれる。現代の我々にも比較的なじみの多い言葉を、医療器具・薬品・薬草名などもあわせて挙げてみよう。
アキリス(Achilles):かの「解体新書」にも見える。ふくらはぎにある腓腹(ひふく)筋・平目(ひらめ)筋を、踵(かかと)の骨に付着させる、人体中最大の腱のこと。踵骨腱(しょうこつけん)。ギリシャ神話アキレウスの故事から人にとっての一番の弱点をいうようになった。
アポテキ(apotheek):薬剤師が販売又は授与の目的で調剤の業務を行う場所のことであり、医薬品の販売も行うことができる薬局のこと。
エキス(extract):エキストラクトの下半分を略したもの。動物や植物などの成分を水、エタノールあるいは水とエタノールの混合液に浸出させた液体を濃縮したもの
チンキ( tinctuur):チンクチュールの下半分を略したもの。生薬やハーブの成分をエタノール、またはエタノールと精製水の混合液に浸すことで作られる液状の製剤である。ヨードチンキ(Joodtinctuur、通称「ヨーチン」)やマーキュロクロム液(Mercurochrome、通称「赤チン」)は生薬から抽出されたものではないのでチンキではないが、慣例的にチンキと呼ばれている。
オブラート(oblaat):デンプンから作られる水に溶けやすい半透明の薄い膜のことを指す。薬品や菓子などを包み、そのまま体内に摂取することができる。名称の由来はラテン語のオブラトゥス(oblatus、楕円形)からきている。
カテーテル(katheter):医療用に用いられる中空の柔らかい管のことである。
カンフル、カンポラ(kamfer,kampher):樟脳(樟脳)。血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用などがあるために主に外用医薬品の成分として使用されている。かつては強心剤としても使用されていたため、それらの用途としてはほとんど用いられなくなった現在でも、「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」を比喩的に“カンフル剤”と例えて呼ぶことがある。
キナ(kina):アカネ科キナ属の常緑高木の総称。葉は卵形・長楕円形や披針形で、対生。花は淡紅紫色や淡黄色。樹皮からキニーネが得られる。南米コロンビアからボリビアにかけてのアンデス山地原産。
キニーネ(kinine):キナの樹皮に含まれる主要なアルカロイド。マラリア治療の特効薬として知られ、塩酸塩・硫酸塩が用いられる。白色の結晶で、味はきわめて苦い。キニン。漢字で「規尼涅」と表記。
ケレオソート(creosoot):止瀉薬(ししゃやく、下痢止め)、殺菌薬。ブナなどを乾留させる(通常では木炭を作る)際に水蒸気とともに留出する油層(木タール、水を主成分とする上澄み液がいわゆる木酢液)を蒸留して得られる、淡黄色透明で燻製のような臭いのある油状の液体で、代表的には止瀉薬である正露丸の有効成分として用いられている。
コレラ(cholera):日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ1822 〔文政5〕 年のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858 〔安政5〕 年から3年にわたり大流行となった。日本では、最初に発生した文政コレラのときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭であった。しかしこの流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、「虎列刺」などと字を当てたが、それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「鉄砲」「見急」「三日コレラ」などとも呼ばれた。また「コロリと死んでしまう」の連想から「虎狼痢」「虎狼狸」などの呼び名も広く用いられたが、これはコレラからの純粋な転訛ではない。
サフラン(saffran):地中海沿岸を原産とするアヤメ科の多年草。およびそのめしべを乾燥させた香辛料。鎮静、鎮痛、通経作用がある。中国では西紅花、藏紅花の名で生薬として流通している。江戸時代末期にオランダ船によりもたらされた。赤い花柱(めしべ)を集めて乾燥させたものを、古代ローマやギリシャでは高価な薬として利用した。日本ではお湯で煎じたものをせき止めや強壮作用などの薬とするほか、食品などの着色料や 香辛料としても使用されている。そのいろんな価値ゆえ、「薬用(やくよう)サフラン」とも呼ばれる。サフランの名前は、”黄色”を意味する、アラビア語の「zafran」からの変化だという。
スポイト(spuit):オランダ語で針を意味する単語を誤って転用したという。ガラス管の一端にゴム袋がついているもの。インク・薬液などを吸い上げて他のものに移し入れたり、点滴したりするのに用いる。「スポイド」という表記を見かけるが、語源に見る限り最後の「ト」は濁らない。
ヂキタリス(digitalis):ギリシャ語で「ゆび」を表すdigitalに由来する。これは花の形が指サックに似ているためである。コンピューター用語のデジタル(ディジタル、digital)と起源は全く同じである。
ドクトル(doctor):日本では幕末の開国まで、唯一西洋と取引していた国がオランダ(蘭)ということでドクトルは西洋語=蘭語であった。長崎出島の当時の日本側資料を紐解くと「ドクトル・○○」とカタカナ表記されているものもある。開国(19世紀末)時ドイツ(独)から最新科学の知識を得た影響で、蘭語に近い音の独語「ドクトル」が使われ続けたが、政治的にはイギリス(英)優位であったので英語も普及し、英語音の「ドクター」が使われ始めた。
ペスト(pest):かつては高い致死性を持っていたことや罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ、恐れられた。14世紀のヨーロッパではペストの大流行により、全人口の三割が命を落とした。抗生物質の発見により、死亡率が極端にさがった。
ヘンルーダー(wijnruit):江戸時代に渡来し、葉に含まれるシネオールという精油成分が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに利用され、料理の香りづけにも使われていたが、毒性があるとされ、今はほとんどその目的には使われていない。オランダ語が訛ったもので、言語の発音wijnruit(ウェインライト)からはすっかり遠ざかってしまった。
メス(mes):メスは、外科手術や解剖に用いられる極めて鋭利な刃物である。オランダ語の mes(ナイフの意)が語源である。メスという名称は日本独自の物であり外国ではスカルペル(scalpel)またはランセット(lancet)と呼ばれる。古代エジプト人はembalming〔エンバーミング、遺体を消毒や保存処理、また必要に応じて修復することで長期保存を可能にする技法〕の際、ガラス状の火成岩である黒曜石を鋭利に加工してメスとして用いた。アーユルヴェーダ《サンスクリット語で、インド大陸の伝統的医学で、その名はサンスクリット語の「アーユス(生気、生命)」と「ヴェーダ(知識、学)」の複合語である)には竹を鋭く裂いて用いたことが書いてある。
ヨヂウム(jodium):原子番号53の元素「沃素(元素記号I)」である。1811年、Bernard Courtois〔ベルナール・クールトア、1777~1828年、フランスの化学者〕によって発見された。ヨウ素は消毒薬としてもよく用いられる。ヨウ素のアルコール溶液がヨードチンキである。ヨウ素とヨウ化カリウムのグリセリン溶液がルゴール液である。また、ヨウ素デンプン反応はよく知られている。
本日は旧暦の7月15日。まだ明けやらぬ隅田川を挟んで東に「かぎろひ」を西に満月を眺めながら、桜橋~吾妻橋間をひと回りする。満月が、ことのほか綺麗だ。今朝のウェブニュースより、
奇跡の一本松:満月と最後の「共演」 陸前高田 ―― 東日本大震災の津波に耐えた岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」が31日、満月に照らされ、最後の「共演」を果たした。保存作業のため、松は中秋の名月を迎える前の9月12日に切り倒されることが決まっている。/震災後、初めて家族で訪れたという同市の男性公務員(41)は「震災前から他の松より大きかったのでよく覚えている」と1歳の赤ちゃんを腕に松を見上げた。/日が暮れ潮風が雲を流すと、被災地の上に真ん丸い月が現れ、一本松のシルエットが浮かび上がった。/震災発生から2年となる来年3月11日までに保存加工は終わり、再び復興のシンボルとして戻ってくる予定。(共同) 〔毎日新聞 2012年08月31日 20時50分(最終更新 08月31日 21時01分)〕
いっぽんの松 歌手:千昌夫/作詞:喜多條忠/作曲:船村徹
波がさらつた 七万本の
陸前高田の 松原に
いっぽん残った 松がある
もいちど故郷 作ろうと
戻る人達 迎えるために
残った祈りの 松がある
夢も暮らしも いつかは戻る
その日は必ず 来るからと
いっぽん残った 松が言う
大地に根っこを 踏みしめて
涙乗り越え 生き抜くちから
教えるいのちの 松がある
雪がどんなに 降りかかろうと
しぶきがその身を 削ろうと
いっぽん残った 松がある
生まれで育った 北国の
強い心の 真ん中に
残った奇跡の 松が立っ
http://www.uta-net.com/movie/120527/
奇跡の一本松:満月と最後の「共演」 陸前高田 ―― 東日本大震災の津波に耐えた岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」が31日、満月に照らされ、最後の「共演」を果たした。保存作業のため、松は中秋の名月を迎える前の9月12日に切り倒されることが決まっている。/震災後、初めて家族で訪れたという同市の男性公務員(41)は「震災前から他の松より大きかったのでよく覚えている」と1歳の赤ちゃんを腕に松を見上げた。/日が暮れ潮風が雲を流すと、被災地の上に真ん丸い月が現れ、一本松のシルエットが浮かび上がった。/震災発生から2年となる来年3月11日までに保存加工は終わり、再び復興のシンボルとして戻ってくる予定。(共同) 〔毎日新聞 2012年08月31日 20時50分(最終更新 08月31日 21時01分)〕
いっぽんの松 歌手:千昌夫/作詞:喜多條忠/作曲:船村徹
波がさらつた 七万本の
陸前高田の 松原に
いっぽん残った 松がある
もいちど故郷 作ろうと
戻る人達 迎えるために
残った祈りの 松がある
夢も暮らしも いつかは戻る
その日は必ず 来るからと
いっぽん残った 松が言う
大地に根っこを 踏みしめて
涙乗り越え 生き抜くちから
教えるいのちの 松がある
雪がどんなに 降りかかろうと
しぶきがその身を 削ろうと
いっぽん残った 松がある
生まれで育った 北国の
強い心の 真ん中に
残った奇跡の 松が立っ
http://www.uta-net.com/movie/120527/
日本と北朝鮮の政府間協議は、2008年8月に中国の瀋陽で、拉致問題の再調査などを巡る交渉が行われて以来、4年ぶりに日本と北朝鮮の政府間協議が、29日、中国・北京の日本大使館で再開されるという。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の就任後、初めてとなる。今朝のウェブニュースより、
日朝関係、4年ぶりの政府間協議で改善に向かう可能性も ―― 【東京】日本と北朝鮮の政府間協議が29日、中国の北京で4年ぶりに始まった。アナリストらは協議開催について、外交や経済改革を通じて新体制の安定化を図りたい北朝鮮政府の意向が背景にあると分析している。/日朝間では国交が正式に樹立されたことはない。さらに、1970年代から80年代に起こった北朝鮮による日本人拉致事件や、日本上空を通過した弾道ミサイルの発射実験、核兵器開発のために、両国関係は長年にわたり、非常に緊張した状態が続いている。/この日の協議の公式議題は第2次世界大戦末期や終戦直後に現在の北朝鮮で死亡した日本人の遺骨返還だが、協議の焦点は日本人拉致問題の進展だ。/また、今回の協議は両国にとって、昨年12月に金正日総書記が死去した後に三男の金正恩氏が北朝鮮の指導者の座に就いて以来初の話し合いの場となるため、金正恩氏の外交方針を推し量る上で注目される。/朝鮮半島問題の専門家の小此木政夫・慶応義塾大学名誉教授は「多分、拉致問題に関しても、北朝鮮側は人道問題の一部として対応する用意があるという姿勢で出てくるのではないか」とみている。/小此木氏によると、北朝鮮政府が目指しているのは、日本との国交を正常化することや日本政府からの経済支援を引き出すことであり、それには拉致問題の解決が不可欠だという。北朝鮮は食糧不足や社会資本の貧弱さに苦しんでいる。同国で洪水などの自然災害がよく発生するのはインフラが整っていないからだ。/北朝鮮政府は2002年、スパイ養成のための要員として過去に日本人を拉致したことを認めた。その後、拉致した日本人5人とその家族が日本に帰国することを許したが、残り8人に就いては既に死亡したと主張した。現在、北朝鮮は拉致問題について、すでに解決済みとの姿勢を示しているが、多くの日本人は今も生存者がいると考えている。/過去の日朝協議は拉致問題で決裂することが多く、また2008年8月以来開催されていなかった。ただ、静岡県立大学国際関係学部の伊豆見元教授は、北朝鮮が今回これまでより突っ込んだ協議に前向きな姿勢を示す可能性はあるとみている。/報道によると、日本は当初、局長級の協議を求めたが、北朝鮮側の要望で課長級に変更されたという。伊豆見教授はこれについて、「北側は協議を続けようという意思がある可能性が相当高い。課長級から始めようというのは北側の発案だというので、繋げていく、数回やろうとしている。ある段階で、局長級、大使級のレベルに上げられればという思いがある可能性がある」と指摘した。/一方、日本は現在、韓国政府が実効支配する竹島(韓国名:独島)の領有権をめぐり韓国と激しく対立している。/今月10日には、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が竹島に上陸。日本の国会はこれに反発する形で、李大統領の竹島訪問に対する抗議決議を採択した。さらに、野田佳彦首相も竹島を「不法」占拠しているとして、韓国政府を批判した。/北朝鮮は竹島問題で日韓関係が緊張しているこの時期を、日韓の対立を煽り、日本との関係改善を進める好機と考えているのはないかと小此木氏は指摘する。/「北朝鮮としては、日本と韓国の関係が悪いから、今がチャンスだと思っている。日本は今なら北との関係を受け入れると思っている。彼らは、つまり日本は韓国とうまくいっていないでしょう。だから、我々とやりましょう、というメッセージを送っているのではないか」と同氏は分析した。〔ウォール・ストリート・ジャーナル 2012年 8月 30日 7:15 JST 〕
日朝関係、4年ぶりの政府間協議で改善に向かう可能性も ―― 【東京】日本と北朝鮮の政府間協議が29日、中国の北京で4年ぶりに始まった。アナリストらは協議開催について、外交や経済改革を通じて新体制の安定化を図りたい北朝鮮政府の意向が背景にあると分析している。/日朝間では国交が正式に樹立されたことはない。さらに、1970年代から80年代に起こった北朝鮮による日本人拉致事件や、日本上空を通過した弾道ミサイルの発射実験、核兵器開発のために、両国関係は長年にわたり、非常に緊張した状態が続いている。/この日の協議の公式議題は第2次世界大戦末期や終戦直後に現在の北朝鮮で死亡した日本人の遺骨返還だが、協議の焦点は日本人拉致問題の進展だ。/また、今回の協議は両国にとって、昨年12月に金正日総書記が死去した後に三男の金正恩氏が北朝鮮の指導者の座に就いて以来初の話し合いの場となるため、金正恩氏の外交方針を推し量る上で注目される。/朝鮮半島問題の専門家の小此木政夫・慶応義塾大学名誉教授は「多分、拉致問題に関しても、北朝鮮側は人道問題の一部として対応する用意があるという姿勢で出てくるのではないか」とみている。/小此木氏によると、北朝鮮政府が目指しているのは、日本との国交を正常化することや日本政府からの経済支援を引き出すことであり、それには拉致問題の解決が不可欠だという。北朝鮮は食糧不足や社会資本の貧弱さに苦しんでいる。同国で洪水などの自然災害がよく発生するのはインフラが整っていないからだ。/北朝鮮政府は2002年、スパイ養成のための要員として過去に日本人を拉致したことを認めた。その後、拉致した日本人5人とその家族が日本に帰国することを許したが、残り8人に就いては既に死亡したと主張した。現在、北朝鮮は拉致問題について、すでに解決済みとの姿勢を示しているが、多くの日本人は今も生存者がいると考えている。/過去の日朝協議は拉致問題で決裂することが多く、また2008年8月以来開催されていなかった。ただ、静岡県立大学国際関係学部の伊豆見元教授は、北朝鮮が今回これまでより突っ込んだ協議に前向きな姿勢を示す可能性はあるとみている。/報道によると、日本は当初、局長級の協議を求めたが、北朝鮮側の要望で課長級に変更されたという。伊豆見教授はこれについて、「北側は協議を続けようという意思がある可能性が相当高い。課長級から始めようというのは北側の発案だというので、繋げていく、数回やろうとしている。ある段階で、局長級、大使級のレベルに上げられればという思いがある可能性がある」と指摘した。/一方、日本は現在、韓国政府が実効支配する竹島(韓国名:独島)の領有権をめぐり韓国と激しく対立している。/今月10日には、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が竹島に上陸。日本の国会はこれに反発する形で、李大統領の竹島訪問に対する抗議決議を採択した。さらに、野田佳彦首相も竹島を「不法」占拠しているとして、韓国政府を批判した。/北朝鮮は竹島問題で日韓関係が緊張しているこの時期を、日韓の対立を煽り、日本との関係改善を進める好機と考えているのはないかと小此木氏は指摘する。/「北朝鮮としては、日本と韓国の関係が悪いから、今がチャンスだと思っている。日本は今なら北との関係を受け入れると思っている。彼らは、つまり日本は韓国とうまくいっていないでしょう。だから、我々とやりましょう、というメッセージを送っているのではないか」と同氏は分析した。〔ウォール・ストリート・ジャーナル 2012年 8月 30日 7:15 JST 〕
昨日、西宮のKY氏から絵葉書が届いた。曰く、
TV「アド街ック天国」で「浅草観音裏」を観ました。浅草3~4丁目の様ですが、かっては貴兄も夜な夜な出没したのでないですか? 甲子園の高校野球も大阪桐蔭の優勝で幕を閉じました。立秋、処暑も過ぎたのに連日の猛暑が続いております。クーラの部屋で外にも出ず、ボーとしています。ブログ集XXⅡで、黒田清輝の「木かげ」を紹介いただきましたが、この絵葉書も彼の「湖畔」です。何でも熱海に避暑に行ったときの作品とか。まだまだ暑いようです。ごじあいください 草々
■ 湖畔 (The Lakeside) 1897年 69×84.7cm | 油彩・画布 | 東京国立博物館
近代日本洋画の父、黒田清輝が手がけた最高傑作『湖畔』。国の重要文化財に指定されている本作は1897(明治30)年、画家と後に黒田夫人(妻)となる金田種子(当時23歳。のちに照子と改名)が避暑として箱根の芦ノ湖を訪れた際、照子をモデルに芦ノ湖の湿潤な情景を描いた作品で、黒田清輝の最も世に知られる作品としても著名である。現在残される照子の証言によれば、芦の湖畔の岩に腰掛ける夫人の姿を目撃した清輝が「よし、明日からそれを勉強するぞ」と興趣を覚えて下絵も描かずに取り組んだとされている。画面前景に団扇を右手に持ち浴衣を着た照子夫人の岩に腰掛ける姿が描かれており、やや異国的な雰囲気を醸し出す夫人は遠くを見るかのような眼差し画面右側へ向けている。そして中景には悠々とした静かな芦ノ湖がしっとりと描写されており、遠景には小高い山々が広がっている。本作の最も注目すべき点は日本の高地の夏を感じさせる大気的な表現にある。平滑な筆触によって淡彩的で薄白的な色彩を画面に敷いたかのような水彩的な描写からは、日本の夏独特の湿度の高い空気を明確に感じることができ、画面全体を包み込む飽和的な空気の水分が本作の瑞々しく清潔な色彩や照子夫人の嫋やかな雰囲気と見事に呼応している。これこそ黒田清輝が本作で取り組んだ日本独自の洋画表現そのものであり、だからこそ今も我々日本人の心に深く染み入るのである。また本作の画面構成に注目しても、しばしばスナップ・ショット的と形容される対象の自然的な瞬間を捉えた写真的な構図も秀逸の出来栄えを示しており、観る者を本作の世界観へと無理なく惹き込むのである。なお本作は制作された1897年に開催された第2回白馬会展に『避暑』という名称で出品されたほか、1900年のパリ万博へも出品されている。
the U.S. Presidential Election(アメリカ合衆国大統領選挙)は4毎、11月に行なわれることになっているが、共和党の大統領撰候補者が決まったようである。今朝のウェブニュースより
米大統領選 共和党大会 ロムニー氏を指名 ―― 【タンパ(米南部フロリダ州)】米共和党は二十八日、タンパで開いた党大会で、十一月の大統領選候補者にロムニー前マサチューセッツ州知事(65)、副大統領候補にライアン下院予算委員長(42)をそれぞれ指名した。大統領選の公約となる党綱領も採択し、経済、軍事両面での「強い米国」を掲げた。/ロムニー氏は、大会最終日の三十日に指名受諾演説に臨み、再選を目指す民主党のオバマ大統領(51)、バイデン副大統領(69)とのコンビニ挑む本選に突入する。ライアン氏は二十九日に演説する。/大統領候補の選出では、各州代表がそれぞれ代議員の割り振り結果を発表。ロムニー氏は二千二百八十六票のうち、二千六十一票を獲得した。/この後、演説に登壇したロムニー氏のアン夫人は「妻として約束する。夫は失敗しない。私たちを失望させない」と訴えた。東部ニュージャージー州のクリスティー知事は基調演説で「ロムニー氏は米国の成長と雇用を復活させる」と述べた。/党綱領は「アメリカンドリームの回復」を図ると表明。規制緩和や減税継続で民間主導の景気回復と雇用創出を目指すと同時に、徹底した行財政改革に取り組む姿勢を示した。オバマ政権が成立させた医療保険改革法の撤廃を明記。環太平洋連携協定(TPP)の推進も盛り込んだ。/中国による知的財産権侵害や人民元問題に対しては報復関税の導入を打ち出した。中国やロシアといった核大国に対抗し、核戦力を維持していく考えも強調。オバマ政権の北朝鮮やイランの核開発に関する対応を「弱腰だ」と非難した。
<ミット・ロムニー氏> 1947年、ミシガン州生まれ。父親は元同州知事。ハーバード大法科、経営両大学院修了。投資会社の経営に成功した資産家。2002年のソルトレークシティー冬季五輪の組織委員会会長。03~07年マサチューセッツ州知事。08年大統領選で共和党候補に名乗りを上げたが、マケイン上院議員に敗北。二度目の挑戦で党候補者になった。末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)信者。アン夫人(63)との間に息子5人。 〔東京新聞 2012年8月29日 夕刊〕
TV「アド街ック天国」で「浅草観音裏」を観ました。浅草3~4丁目の様ですが、かっては貴兄も夜な夜な出没したのでないですか? 甲子園の高校野球も大阪桐蔭の優勝で幕を閉じました。立秋、処暑も過ぎたのに連日の猛暑が続いております。クーラの部屋で外にも出ず、ボーとしています。ブログ集XXⅡで、黒田清輝の「木かげ」を紹介いただきましたが、この絵葉書も彼の「湖畔」です。何でも熱海に避暑に行ったときの作品とか。まだまだ暑いようです。ごじあいください 草々
■ 湖畔 (The Lakeside) 1897年 69×84.7cm | 油彩・画布 | 東京国立博物館
近代日本洋画の父、黒田清輝が手がけた最高傑作『湖畔』。国の重要文化財に指定されている本作は1897(明治30)年、画家と後に黒田夫人(妻)となる金田種子(当時23歳。のちに照子と改名)が避暑として箱根の芦ノ湖を訪れた際、照子をモデルに芦ノ湖の湿潤な情景を描いた作品で、黒田清輝の最も世に知られる作品としても著名である。現在残される照子の証言によれば、芦の湖畔の岩に腰掛ける夫人の姿を目撃した清輝が「よし、明日からそれを勉強するぞ」と興趣を覚えて下絵も描かずに取り組んだとされている。画面前景に団扇を右手に持ち浴衣を着た照子夫人の岩に腰掛ける姿が描かれており、やや異国的な雰囲気を醸し出す夫人は遠くを見るかのような眼差し画面右側へ向けている。そして中景には悠々とした静かな芦ノ湖がしっとりと描写されており、遠景には小高い山々が広がっている。本作の最も注目すべき点は日本の高地の夏を感じさせる大気的な表現にある。平滑な筆触によって淡彩的で薄白的な色彩を画面に敷いたかのような水彩的な描写からは、日本の夏独特の湿度の高い空気を明確に感じることができ、画面全体を包み込む飽和的な空気の水分が本作の瑞々しく清潔な色彩や照子夫人の嫋やかな雰囲気と見事に呼応している。これこそ黒田清輝が本作で取り組んだ日本独自の洋画表現そのものであり、だからこそ今も我々日本人の心に深く染み入るのである。また本作の画面構成に注目しても、しばしばスナップ・ショット的と形容される対象の自然的な瞬間を捉えた写真的な構図も秀逸の出来栄えを示しており、観る者を本作の世界観へと無理なく惹き込むのである。なお本作は制作された1897年に開催された第2回白馬会展に『避暑』という名称で出品されたほか、1900年のパリ万博へも出品されている。
the U.S. Presidential Election(アメリカ合衆国大統領選挙)は4毎、11月に行なわれることになっているが、共和党の大統領撰候補者が決まったようである。今朝のウェブニュースより
米大統領選 共和党大会 ロムニー氏を指名 ―― 【タンパ(米南部フロリダ州)】米共和党は二十八日、タンパで開いた党大会で、十一月の大統領選候補者にロムニー前マサチューセッツ州知事(65)、副大統領候補にライアン下院予算委員長(42)をそれぞれ指名した。大統領選の公約となる党綱領も採択し、経済、軍事両面での「強い米国」を掲げた。/ロムニー氏は、大会最終日の三十日に指名受諾演説に臨み、再選を目指す民主党のオバマ大統領(51)、バイデン副大統領(69)とのコンビニ挑む本選に突入する。ライアン氏は二十九日に演説する。/大統領候補の選出では、各州代表がそれぞれ代議員の割り振り結果を発表。ロムニー氏は二千二百八十六票のうち、二千六十一票を獲得した。/この後、演説に登壇したロムニー氏のアン夫人は「妻として約束する。夫は失敗しない。私たちを失望させない」と訴えた。東部ニュージャージー州のクリスティー知事は基調演説で「ロムニー氏は米国の成長と雇用を復活させる」と述べた。/党綱領は「アメリカンドリームの回復」を図ると表明。規制緩和や減税継続で民間主導の景気回復と雇用創出を目指すと同時に、徹底した行財政改革に取り組む姿勢を示した。オバマ政権が成立させた医療保険改革法の撤廃を明記。環太平洋連携協定(TPP)の推進も盛り込んだ。/中国による知的財産権侵害や人民元問題に対しては報復関税の導入を打ち出した。中国やロシアといった核大国に対抗し、核戦力を維持していく考えも強調。オバマ政権の北朝鮮やイランの核開発に関する対応を「弱腰だ」と非難した。
<ミット・ロムニー氏> 1947年、ミシガン州生まれ。父親は元同州知事。ハーバード大法科、経営両大学院修了。投資会社の経営に成功した資産家。2002年のソルトレークシティー冬季五輪の組織委員会会長。03~07年マサチューセッツ州知事。08年大統領選で共和党候補に名乗りを上げたが、マケイン上院議員に敗北。二度目の挑戦で党候補者になった。末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)信者。アン夫人(63)との間に息子5人。 〔東京新聞 2012年8月29日 夕刊〕
ここのところの国会をみていると、政権与党としての民主党に何かを進めようという意志が感じられない。その言動たるや何も決めたくないようにさえ見える。このまま、空転のまま国会は閉じてしまいそうだ。今朝のウェブニュースより
終盤国会:衆院強行採決、非難の応酬 ―― 9月8日に会期末が迫る終盤国会は28日、民主党が衆院選挙制度改革関連法案などの強行採決に踏み切り、自民、公明両党が野田佳彦首相の問責決議案提出で対抗する緊迫した展開となった。成立するめどのない強行採決は衆院解散・総選挙の環境整備を阻む露骨な解散先送り策。反発する野党側にも消費増税をめぐる不協和音が残り、与野党が国会混乱の責任を押し付け合う非難の応酬となった。/「野田政権は(法案)成立を度外視し、責任を野党に押し付けようとしている」。自民党の谷垣禎一総裁は28日の党総務会で政権批判のボルテージを上げた。同党は問責決議案を「首相への参院の最後通告」(脇雅史参院国対委員長)と位置付け、首相が9月の民主党代表選で再選されても秋の臨時国会の審議に応じない構えを見せて解散圧力を強める。/問責可決にはほかの野党の賛成が必要になるが、調整は難航。28日の強行採決前は野党11党で横路孝弘衆院議長に「民主主義の根幹の選挙制度について、与党の多数をもって強行採決することは憲政史上類を見ない暴挙」と抗議したが、その後、亀裂が表面化した。/国民の生活が第一など中小野党7会派は8月7日、消費増税反対を理由に問責決議案を提出したが、自公両党は同調せず、採決されないまま、たなざらしになっている。中小野党側は自公の問責提出に「増税法案が成立したら、今度は野党の盟主みたいな顔で賛成しろというご都合主義は許さない」(みんなの党の水野賢一幹事長代理)と強く反発した。/自公両党は当初、問責決議案を29日に提出する方針だったが、採決できるのは自公案と中小野党案のどちらか一つ。調整が長引けば同日中の可決が危うくなると判断し、提出を28日に前倒しした。/自民党には「意地を張り合って採決しないことがあってはならない」(脇氏)と譲歩を容認する意見もあるが、消費増税反対を理由とする中小野党案に賛成すれば、民主党との3党合意を否定することになる。公明党幹部は「中小野党案に乗ることはあり得ない。自公案がだめなら野党の統一案を目指すべきだ」と苦悩をにじませた。 〔毎日新聞 2012年08月29日 01時28分(最終更新 08月29日 01時43分)〕
終盤国会:衆院強行採決、非難の応酬 ―― 9月8日に会期末が迫る終盤国会は28日、民主党が衆院選挙制度改革関連法案などの強行採決に踏み切り、自民、公明両党が野田佳彦首相の問責決議案提出で対抗する緊迫した展開となった。成立するめどのない強行採決は衆院解散・総選挙の環境整備を阻む露骨な解散先送り策。反発する野党側にも消費増税をめぐる不協和音が残り、与野党が国会混乱の責任を押し付け合う非難の応酬となった。/「野田政権は(法案)成立を度外視し、責任を野党に押し付けようとしている」。自民党の谷垣禎一総裁は28日の党総務会で政権批判のボルテージを上げた。同党は問責決議案を「首相への参院の最後通告」(脇雅史参院国対委員長)と位置付け、首相が9月の民主党代表選で再選されても秋の臨時国会の審議に応じない構えを見せて解散圧力を強める。/問責可決にはほかの野党の賛成が必要になるが、調整は難航。28日の強行採決前は野党11党で横路孝弘衆院議長に「民主主義の根幹の選挙制度について、与党の多数をもって強行採決することは憲政史上類を見ない暴挙」と抗議したが、その後、亀裂が表面化した。/国民の生活が第一など中小野党7会派は8月7日、消費増税反対を理由に問責決議案を提出したが、自公両党は同調せず、採決されないまま、たなざらしになっている。中小野党側は自公の問責提出に「増税法案が成立したら、今度は野党の盟主みたいな顔で賛成しろというご都合主義は許さない」(みんなの党の水野賢一幹事長代理)と強く反発した。/自公両党は当初、問責決議案を29日に提出する方針だったが、採決できるのは自公案と中小野党案のどちらか一つ。調整が長引けば同日中の可決が危うくなると判断し、提出を28日に前倒しした。/自民党には「意地を張り合って採決しないことがあってはならない」(脇氏)と譲歩を容認する意見もあるが、消費増税反対を理由とする中小野党案に賛成すれば、民主党との3党合意を否定することになる。公明党幹部は「中小野党案に乗ることはあり得ない。自公案がだめなら野党の統一案を目指すべきだ」と苦悩をにじませた。 〔毎日新聞 2012年08月29日 01時28分(最終更新 08月29日 01時43分)〕
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