瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  現在の小町算の中で、100作り(Century Puzzle)と仮分数の問題であろう。
 100作り(Century Puzzle)はその名の通り、1234…89の間に適当な算用記号を入れて100を表わすもので、+、-だけ用いた解が12通り、+、-、×、÷の4種の記号を使った場合に就いては150通り、計162通りある。
例) 1+2+3-4+5+6+78+9=100
   1+23-4+56+7++8+9=100
   123-45-67+89=100
  http://www.geocities.jp/sugakumura/komachi1.html
 また、9876…21のように逆順の場合は+、-だけの場合が18通り、+、-、×、÷の4種の記号を入れた場合に就いては、198通り、あわせて216通りの解が得られている。
例) 98-76+54+3+2-1=100
   98-7+6-5+4+3+2-1=100
   9+8+76+5-4+3+2+1=100
  http://www.geocities.jp/sugakumura/komachi2.html
 これらは、アメリカのR.L.Patton、Jr(バットン ジュニア)という人がコンピューターを使って求めたものといわれる。
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417b42a9.jpeg もう一つの問題は、左の図1のように、1~9の数を1つずつ使用し、帯分数の形で100を表すもので、イギリスのHenry Ernest Dudeney(ヘンリー・アーネスト・デュードニー)によって、11の解が発表されている。
 0~9の数を1度ずつ使用することにすれば、図2のようなものがある。
46525a88.jpeg このほかにも、0~9または1~9を用いて100を作る問題は多々あるが、いろいろなタイプのものから拾って示したものが図3である。



 
33665f2a.jpeg ※Henry Ernest Dudeney(ヘンリー・アーネスト・デュードニー、1857~1930年):イギリスのパズル作家・数学者である。イースト・サセックス州のメイフィールドで生まれ、その近くのルイスで生涯を終えている。1884年に、「ヘンリー・デュードニー夫人」のペンネームで Harper's Magazine から多くの短編を出版した作家であるアリス・ホイッティアと結婚している。デュードニーは幼少時にチェスを学びよく指していた。これが彼の数学への関心やパズルの創作につながっている。彼は Civil Service に所属していたが、その間に多くのパズルを創作している。
 
小町算1
 「いろは歌」は、弘法大師が仏教の経典(涅槃経)の「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲楽」の意を今様歌にしたと伝えられているもので、旧仮名遣いの48文字のうち“ん”を除く47文字が1回だけ出てくる歌として知られている(現代仮名遣いでは使われていない“ゐ”と“ゑ”も含まれる)。
a03b8602.jpeg この「いろは歌」と同じようにかな文字を総て1回だけ含む歌を作る試みは、江戸時代に多くの学者によってなされたという。有名な国学者 本居宣長も「雨降歌」を作っている。明治時代に『萬朝報』という新聞がこのような歌を募集したところ、佳作が沢山集まり、その中から坂本百次郎という人の『鳥啼歌』が、1等に選ばれた。昭和に入ってからのものでは、当時の吉田首相を風刺した歌が作られている。
 英語などのアルファベットを1回だけ使った26文字の文では、特異な語や固有名詞を含まないものは作られていないようで、
 Cwm     fjord     bank   glyphs     vext       quiz.
(円形の谷)(フィヨルド)(斜面)(浮彫りの増)(いらいらさせる)(風変わりなひと)
というのが、26文字の英文としては最も整っているもののようである。アルファベット26文字を総て含む短文をpangram(パングラム)というそうだが、そのなかには
The quick brown fox jumps over the lazy dog.(すばしっこい茶色の狐がのろまな犬を跳び越える。) のような傑作があり、タイプライターやコンピュータのキーボードの試験などによく用いられているという。quick brown fox(クイック・ブラウン・フォックス)と略して呼称されている。
 こうした言葉遊びと似たものは、数字パズルにも多く見られる。つまり、0~9または1~9の数字を1回ずつ使って、ある数を表わしたり、あるいは等式を作ったりする問題である。このように1から9までの数を1つずつ使って特定の数を表わしたり、関係式を作ったりすることを日本では「小町算」と呼んでいる。また、1から9までの数各1個で構成された数を小町数と言い、その小町数を得るための計算を小町算と呼ぶ場合もある。
935cbb5b.jpeg 中根彦循(1701~1761年)が寛保3(1743)年に刊行した『勘者御伽双紙』に小町算が載っている。この名前は謡曲の『卒塔婆小町』の中に、深草の少将か小野小町の下へ九十九夜通い詰めた話のあるのに因んだもので、一から十までで99を表わすものだが長歌の形で出ている。小野小町に取り憑いた四位の少将の霊が「一夜二夜や三夜四夜(五六はあらで)七夜八夜九夜十夜と」99夜小町の元に通った事を歌う。歌通り5、6を除くと 1+2+3+4+7+8×9+10=99 である。もう一つのやり方としては
 一二三四五六七八九十 の中央から対称の位置にある数同士を掛け合わせたものを合計し、これから中央の五と六を引くと、
 1×10+2×9+3×8+4×7+5×6=110
 110-5-6=99 となるのである。
 なお、小町算は『勘者御伽双紙』より100年前の元禄11(1698)年に書かれたといわれる田中由真〔たなかよしざね、1651~1719年、江戸中期の和算家。京都の人。〕の『雑集求笑算法』(写本)の中にも見られ、非常に古くからあることが判る。
※中根彦循(なかねげんじゅん):1701-1761年、江戸時代中期の和算家。元禄(げんろく)14年生まれ。中根元圭(げんけい)の子。京都の人。江戸で建部賢弘(たけべ-かたひろ)、久留島義太(よしひろ)にまなぶ。のち京都にかえり算学をおしえた。高次方程式の近似解法を案出している。宝暦11年8月21日死去。61歳。名は卞。通称は保(安)之丞。号は法舳。著作に「開方盈肭術(かいほうえいじくじゆつ)」「竿頭(かんとう)算法」など。
※謡曲『卒塔婆小町』〔終わりの部分を転写〕:シテ 小野小町《おののこまち》(面・老女《ろうじょ》) ワキ 高野山の僧 ワキヅレ 従僧二人
9329986a.jpeg シテ「いや小町といふ人は。あまりに色が深うて。あなたの玉章こなたの文。かきくれて降る五月雨の。空言
なりとも。一度の返事もなうて。いま百年になるが報うて。あら人恋しやあら人恋しや。
 ワキ「人恋しいとは。さておことには如何なる者のつきそひてあるぞ。
 シテ「小町に心を懸けし人は多き中にも。殊に思深草の四位の少将の。
地「恨の数のめぐり来て車の榻に通はん。日は何時ぞ夕暮。月こそ友よ通路の。関守はありとも留まるまじや出で立たん。
 シテ「浄衣の袴かいとつて。地「浄衣の袴かいとつて。立烏帽子を風折り狩衣の袖をうちかづいて。人目忍ぶの通路の。月にも行く暗にも行く。雨の夜も風の夜も。木の葉の時雨雪深し。
 シテ「軒の玉水。とくとくと。
地「行きては帰り。かへりては行き一夜二夜三夜四夜。七夜八夜九夜。豊の明の節会にも。逢はでぞ通ふ鶏の。時をもかへず暁の。榻のはしがき百夜までと通ひいて。九十九夜になりたり。
 
 この小町算については以前も触れたことがあるように思ったので、調べてみたら2010/10/19 (火)のブログでも取り上げていた。
http://sechin.blog.shinobi.jp/Entry/697/
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46500cb5.jpeg  今年の年明けは、まず隅田川の初日の出をカメラに収めようと、言問橋の上に出た。東京の日の出は午前6時50分ということなので、時計が7時を指すのを待構えて、言問橋の上に出てみたが、すでに大勢の人がカメラを手に屯していた。言問橋西詰の下流側公園入口から、隅田公園に入り、言問橋を潜り抜け、築山沿いの遊歩道を上流に向かって歩いてみたが、どこも人・人・人でカメラを構える場所がない。
 とうとう、山谷堀水門まできてしまった頃(7時15分ごろ)に、川向こうのスカイツリーの左のほうから初日の出がみられた。山谷堀広場で婆様の姪の婿であるKS君に出会い、初日を背にシャッターを押してもらった。
 
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4b1780a2.jpeg 昨日2日は午後から塾友たちが年賀に来てくれた。午後1時頃からお粗末ながら、新年会。皆が帰宅してしまった頃には当たりは暗くなっていた。
 

f59eb5d3.jpeg 本日は婆さまの78歳の誕生日。爺は婆様と外にご馳走を食いに逝く約束を忘れ、朝食後年明け以来怠けていた徘徊を取り戻すべく少々歩きすぎて、腰は痛むし、足は痛むしで約束を反古にしてしまった。全く申し訳ないことをした。
 
 いやはや、あっという間の三が日ではあった。
  謹賀新年 今年も宜しくね
 
 蛇年にちなんで、「蛇」のつく4字熟語を集めてみた。
 
e81b073b.jpeg 画蛇添足(がだてんそく): 無用で不必要なものをつけ足すこと。余計なもの。また、無用なものをつけ足してしくじること。蛇の絵を描いて、蛇にはない足をたし描く意から。▽略して「蛇足(だそく)」ともいう。「蛇」は「じゃ」とも読む。「蛇へびを画えがきて足あしを添そう」と訓読する。 出典 戦国策 斉策 前漢の劉向(BC77年~BC6年)著
 
 竜頭蛇尾(りゅうとう-だび):初めは勢いがよいが、終わりのほうになると振るわなくなること。頭は竜のように立派なのに、尾は蛇のよのようにか細くて、前と後とのつりあいがとれない意から。▽「竜」は「りょう」とも読む。 出典 『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく、道原によって編纂された禅宗を代表する燈史)』21。「惜しむべし竜頭翻かえって蛇尾と成る」
 
bf90ad7e.jpeg 斗折蛇行(とせつ-だこう):斗(北斗七星)のように折れ曲がり、蛇のようにくねくねと曲がりながら進むこと。転じて、道や川などにカーブが多く、くねくねと続いていくさま。▽「蛇行」は曲がりくねって進むこと。「蛇」は「じゃ」とも読む。  出典 「至小丘西小石潭记(しょうきゅうのにししょうせきたんにいたるのき)  唐の柳宗元(りゅうそうげん、773~819年)著
 
 牛鬼蛇神(ぎゅうき-だしん):妖怪や鬼神。もとは怪しげでとりとめがなく、幻のような作風・作品のたとえ。どうにも奇妙でしまりがなでしまりがないさま。また、邪よこしまなことをするさまざまな悪人のたとえ。さらに容貌ようぼうの醜いたとえとして用いられることもある。▽「牛鬼」は頭が牛の形をした鬼神・怪物のこと。転じて、容姿が醜いたとえ。「蛇神」は顔が人で身体が蛇の姿をした神。 出典 「李賀集序(りがしゅ)」  杜牧(とぼく、803~853年)
 
 封豕長蛇(ほうし-ちょうだ):貪欲(どんよく)で残酷な人や国のたとえ。大きな豚と長い蛇の意から。▽「封」は大きい意。「豕」は豚、いいのししの意。 出典 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』定公(ていこう)四年
 
c089e3ec.jpeg 打草驚蛇(だそう-きょうだ):草をたたいてその奥にいる蛇を驚かす意から、あるものを懲らしめることによって、他のものに警告するたするたとえ。後に、よけいなことをして、かえってつまらない災難を受けるたとえ。無用のことをしてかえって相手に警戒心を起こさせてしまうたとえ。▽「打草」は草をたたく、「驚蛇」は蛇を驚かす意。一般に「草を打うって蛇を驚かす」と訓読を用いる。 出典 『南唐近事(なんとうきんじ)』 鄭文寶(ていぶんぽう、953~1013年)著
 
 蜿蜿長蛇(えんえん-ちょうだ)うねうねと長く続いているもののたとえ。▽「蜿蜿」は蛇や竜などが、うねうね曲がりながら進むさま。「蜿蜒」「蜒蜒」とも書く。「長蛇」は長い蛇。転じて、長い列の形容。
 
 今日は大晦日。来年は巳年(蛇年)。蛇について調べてみた。
 ヘビの語源には、「這虫(ハヒムシ)」の略など這うように動く様子からとする説や、脱皮をすることから「変身(ヘンミ)」の転とする説、小動物を丸呑みするところから「食む(ハム)」の転といった説がある。
 ヘビが体をくねらせて前進する姿は特徴的であるし、脱皮の「ヘンミ」が「ヘミ」「ヘビ」へと変化する過程で、「ビ(尾)」の意味が加わったとも考えられる。また、「ハブ」や「ハミ(マムシ)」は、「食む(ハム)」からと考えられているため、「食む」を語源とする説も十分に考えられる。
 古く、「ヘビ」は「ヘミ」と呼ばれており、「ヘミ」が変化して「ヘビ」になったと考えられているが、ヘビの方言には、「ヘミ」「ヘブ」「ヘベ」「ハビ」「ハベ」「ハム」「ハメ」「バブ」「パプ」「ヒビ」などのほか、これら二音の中間に「ン」を挟んだ「ヘンビ」「ヘンミ」など数多くの呼称があり、どの語が元で多くの方言が生じたか定かではないため、語源もどの説が正しいとは言い切れない。
 漢字「蛇」の「它」は、頭の大きいヘビを描いた象形文字で、元々は「它」のみで「ヘビ」を表したが、「かれ」「それ」などの 第三人称に「它」が転用されたため、「虫」を加えて「蛇」と表すようになったという。
 「巳」(み、し)という字は、胎児の形を表した象形文字で、蛇が冬眠から覚めて地上にはい出す姿を表しているとも言われ、「起こる、始まる、定まる」などの意味がある。
 「巳 」を動物にあてはめると「蛇」になるが、古来より、蛇は信仰の対象となっており、谷神(やとのかみ、谷や低湿地を司る)、豊穣神、天候神などとして崇められてきた。祭祀や祀りごとの「祀」に「巳」が用いられているのは、「祀」とは自然神を祀ることをいい、自然神の代表的な神格が巳(蛇)だったからであるという。
17879a5a.jpeg また、蛇は脱皮をすることから「復活と再生」を連想させ、餌を食べなくても長く生きることから「神の使い」として崇められ、全国各地に蛇神を祀っている神社がある。たとえば、七福神のひとつである「弁財天」は蓄財と芸能の女神であるが、蛇の形をした神として祀られていることも多い。日本神道古来の神である宇賀神とも習合して一体化し、弁天の頭上に宇賀神が載っている像や蛇身の弁天像もある。宇賀神は日本固有の神で、老人の頭を持ち身体は白蛇(人頭蛇身)の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされる。また、蛇の抜け殻を財布に入れて蓄財を願うなど、お守りにする風習が今でもみられる。
 巳の特徴は探究心と情熱。蛇は執念深いとされているが、恩を忘れず、助けてくれた人には恩返しをすると言われている。
 12月の初め五反田に住まうF氏より電話があり、「先だってYと呑んだのだが、長いこと水門会の会合をやっていないが、みんなにあいたいなぁという話が出た。忘年会か新年会でもやって集まってはどうか?」ということであった。
 何時だったか、横浜市在住のK氏がよく利用するという品川のグリルで船橋市在住のN氏を交えて会食したことがあったがそのとき、K氏より「ここは水門会の会合なんかでも使えるよ。よければ今度はここで水門会をやれば、俺もお手伝いできると思うよ」と言っていたのを思い出し、F氏にK氏と連絡とって、企画すればと言っておいたが、それっきり連絡がないのでK氏・F氏に経過を訊ねるうちに、この爺がグリルへの連絡やなにやらでお世話することになった。1月17日(木)に品川の「つばめグリル」ということで、各人への連絡はK氏・F氏・Y氏に頼んだ。結局集計はこの爺がやることになり、最終的に19名の出席が決まった。
 3人の連絡を信用しないわけではなかったが、電話連絡で聞き違いなどあってはということで、改めて日時と場所を葉書に印刷して、出席者各人に発送すると言うお節介をやらかしてしまった。
b1d99eef.jpeg 本日爺のお節介に、横浜のB氏から返信が届いた。彼とは今から60年を遡る昔、九州から上京した当初、爺の住まっていた野方によく遊びにきてくれたし、爺も彼の国分寺の下宿に遊びに行った。品川プリンスで水門会があったときに出会ったきりで、もう何年になるだろう。いつもこの爺のことを忘れず、去年か、一昨年か東京ドームの巨人戦の入場券を送ってくれたりもした。

ee0e95eb.jpeg アメリカはシアトルから塾友のHitoちゃんから年末・年始の挨拶状が届いた。いやはや、息子と娘に日本の武士道を叩き込むらしい。





  何時ものように朝食後、隅田川に沿って散策。午後10時過ぎ、山谷堀水門広場に来ると、テントの設営が行なわれているので、近寄ってみると、今月5日になくなった中村勘三郎の追悼記帳所が設営されているところだった。
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 此処山谷堀水門広場には今年6月まで平成中村座の仮設小屋が建てられ大勢の人々が出入りしていたこと、それに近くの猿若町(現、浅草6・7丁目)は歌舞伎の本拠地であったこともあって、猿若町会などが中心となって、ここに追悼記帳場が儲けられることになったのだろう。
 30分程前にはここを、勘九郎に抱かれた勘三郎の遺骨が神輿とともに通ったという。
 
 本日のウェブニュースより
719596c3.jpeg 中村勘三郎さん本葬:「息遣いよみがえる」早すぎる死悼む ―― 5日に57歳で亡くなった歌舞伎俳優、中村勘三郎さんの本葬が27日正午、東京都中央区の築地本願寺で営まれた。歌舞伎俳優の坂田藤十郎さん、片岡仁左衛門さん、野球の王貞治さんらが名優の早すぎる死を悼んだ。/祭壇には「十八代目中村勘三郎を祝う会」で、写真家の篠山紀信さんが撮影した手を合わせほほ笑む遺影が飾られ、約15000本の菊の花が会場を囲んだ。「髪結新三(かみゆいしんざ)」など当たり役の写真も並び、往年の勘三郎さんをしのばせた。戒名は「演暢院釈明鏡大居士(えんちょういんしゃくみょうきょうだいこじ)」。/歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんは「今でも目をつぶれば、横で踊っている君の息遣い、躍動する体がよみがえってくる。本当にさびしい」と弔辞を述べた。/葬儀に先立ち、遺骨は長男勘九郎さん、次男七之助さんら遺族とともに、平成中村座公演の行われた隅田公園(台東区)と来年4月開場予定で建設が進む歌舞伎座などをまわった。  〔毎日新聞 2012年12月27日 13時09分〔最終更新 12月27日 13時30分〕
 今日は姉の1周忌。これに先立って福岡のN家では22日に姉夫婦が住んでいた太宰府の家て法要がいとなまれた。東京でも15日の浅草寺五重塔の参拝日に簡単ではあるが、回向を申し込み、爺と婆の2人で姉の1周忌のささやかな法要とした。
 思えば、姉とは原爆の廣島を通り抜け、中国山地の山間の邑三次での疎開生活をともにしてきた。その間、枕崎台風で木小屋を改装した住まいが吹き飛ばされそうになったこと、方々の農家に買出しに出かけたこと、終戦の年の年末、木小屋のすき間から雪が舞い込む12畳の部屋の隅で父の死を見取ったこと、姉にとっては広島でのたけのこ生活は一際忘れられないことだったのだろう。毎年必ず三次市にある日高家の墓参りに出かけていた。多くは丹波篠山にいる自分の娘(爺の姪)と一緒であった。
2e5d00c8.jpeg この姪は22日の福岡の法要を済ませ、篠山に帰宅する途中ひとりで三次にも立ち寄って、日高家の墓にお参りしてくれたらしい。三次から携帯で電話が入り、「叔父さん、お祖父さんやお祖母さんに何かいうことありませんか?」ということであったので、ついつい「叔父さんも間もなくそちらに逝くから、宜しくねと伝えておいてよ」と言うと、電話が切れてしまった。もしかしたら、爺の縁起でもない返答で、姪の機嫌をそこねたのかもしれない。数分の後携帯にメールで、日高家の墓の写真が送られてきた。返信に「日高家の墓にお参りしてありがとう」と認(したた)めておいた。

a18b5d3c.jpeg そういえば、12月の初め、姪から「母の遺品の中にあった」と、次兄が舞鶴の海軍兵学校から爺宛に、薄っぺらなパトロン紙に書かれた、手紙を送ってきた。1945年の敗戦間近の夏、(7月乃至8月初め)に九州の門司に届いたものらしい。多分、次兄が家族宛に書いた封書のなかに含まれていたものだろう。何となく爺も昔に見た記憶がある。
 とにかく、姉はN家に嫁いでからも日高家のことについては何かと世話をしてくれた。その日高の家も、この爺を最後に消滅することになる。これも世の倣いというものか。
  この「贋金の問題」は発表と同時に大きな反響を呼び、多くの数学者や数学愛好者を熱中させた。忽ちの内に、さらに一般化した形の「コイン12枚の問題」が創案されて、《Scripta Mathematical》に発表され、海を渡って、イギリスの《Mathematical Gazette》にも、この種の問題がしばしば掲載されるようになったという。その過熱振りは相当なものであったらしく、ドイツの潜水艦を沈めるために使われるべき多くの頭脳が、この遊戯のために消費されたと書く本もあったということである。
 「コイン8枚の問題」がアメリカで発表された時は、不幸にも我が国ではこのアメリカを相手に交戦中であった。我が国で人々がこの問題を知ったのは昭和22(1947)年に『リーダース・ダイジェスト』を通じてであったが、これでは贋金の問題ではなく、ボールの重さの問題になっていた。この問題は我が国でもかなりの問題となったが、以後我が国では贋金の問題が、ボールまたはパチンコ玉の問題として扱われるようになった。
 話をアメリカに戻すと、この「コイン8枚の問題」から発展して、「コイン12枚の問題」となったが、こけは《Scripta Mathematica》1945年9~12月号に載ったH.Grossman(グロスマン)という人の問題であるという。曰く、
 「見かけは全く同じコインが12枚あるが、そのうち1枚は僅かに重さが異なっている。その重さが重いか軽いかを知らずに、3回天秤を使うだけでそのコインを指摘するには、どうすればよいか。」
2b2e894a.jpeg この問題は、贋金が本物と重さが違うというだけで、重いか軽いか全くわからないところに難しさがある。
8枚のコインのときと同じように、Lを天秤の左側が軽い時、Hを左側が重いとき、Sを両方がつりあった場合として、コインに1~12まで番号をつけて表わすと、やり方は表1のようにすればよい。
 つまり、最初4枚ずつさらに載せて重さを較べ、釣り合ったらその中の3枚と残りのうちの3枚との重さを較べ釣り合ったら、それも釣り合ったら、本物1枚と残り1枚とを較べる。これで贋金の確認と、本物より重いか軽いかが決定できる。……という具合に、各場合についてやっていけばよい。この方法は順に贋金を選(え)り出していく「逐次選別法」である。
 
 「8枚のコインの問題」で述べたと同じように、機械的に3回の試行を行なって、その結果から贋金を判別する「機械的選別法」がある。「逐次選別法」に較べるとパズル的な面白さにはかけるが、この方法でも各自に選別を行うことができる。そのやり方は、まず、つぎのⅠ、Ⅱ、Ⅲ計3回の試行を行なう。
 (Ⅰ)(1、2、3、4)――(5、6、7、8)
 (Ⅱ)(1、2、3、5)――(4、9、10、11)
 (Ⅲ)(1、6、9、12)――(2、5、7、10)
9e235009.jpeg そして、判定は表2によるのであるが、L、H、Sの意味は前述下通りである。
 「コイン12枚の問題」のように、贋金が本物より重いか軽いかがわからない場合、N枚のコインがあって、そのNの値が (3ⁿ⁻¹-1)/2≦N<(3ⁿ-1)/2 であれば、n回の試行で贋金を確認することが出来る。もし贋金の重さを確認する必要がなければ、Nの値が、 (3ⁿ⁻¹-1)/2<N≦(3ⁿ-1)/2 の時に、n回の試行で贋金を指摘することが出来る。この場合全く計量されないコインが1枚出来るので、それが贋金の場合は、確認もそれが重いか軽いかの判定はつかないことになる。
 
  第2次世界大戦も終りに近づいた1945年、アメリカの数学雑誌『American Mathematical Monthly』に次のような問題が載った。出題者はバージニア州アーリントンのE.D.Schell(シェル)という人である。曰く、「同種のコイン8枚と天秤が1台ある。コインのうち1枚は贋金で、他のものよりも目方が軽い。天秤を2回使うだけで、贋金の存在を確認し、それをみつけだすことができるだろうか?」
 普通のやり方だと、天秤の左右のさらに4枚ずつを載せて重さを較べ、軽い方を2枚ずつに分けて、再度主さを較べる。そして、最後にその軽いほうの2枚の重さを比較して、軽いほうを贋金とする。しかし、このやり方だと3回量る必要がある。それを2回で済ますにはどうしたらよいだろうか。
 この問題は大きな反響を呼び起こし、解答が続々と編集部宛に寄せられ、その解答は8~9月号に発表されたという。皆さん方は、ここで1度このブログを読むのをやめて、しばらく自分で考えて戴きたいものだ。
 
81269ee3.jpeg 正解は左図で示すようになる。4枚ずつ測らずに、 (枚数+1)÷3、つまり3枚ずつ測るのが妙手である。このようにすると、N枚のコインがあって、Nが 3n―1≦ N < 3n  である場合は、n回の測定で贋金を見つけだすことができる。ただし、にせがねが混ざっていることが確実で、その確認をする必要がなければ、Nが 3ⁿ⁻¹ < N ≦ 3ⁿ  のときにn回の測定で贋金を指摘することが可能なのである。
 このコイン8枚から1枚の軽いものを選別するのに、次のような機械的方法でも選別することが出来る。8枚のコインにそれぞれ1~8まで番号をつけ、
(Ⅰ)(1、2、3)――(4、5、6)
(Ⅱ)(1、4、7)――(2、5、8)
の2回の試行をおこなう。右側が軽い時はL(Light)、左右が釣り合った時はS(Same)、右側が重い時はH(heavy)で表わすことにすると、
 試行結果 LL LH LS HL HH HS SL SH
 贋   金  1  2  3  4  5  6  7  8
のように出来る。
 
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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