瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
隅田川の桜は満開で、今日・明日が見ごろ。それに今年は風が強く、花の寿命も短いようである。28日の水門会の花見はソメイヨシノは、もはや葉桜になっているに違いない。まあ、花より皆が集まってワイワイ賑やかにやるのが目的なのだから、日にちの選定を誤ったことは勘弁してもらおう。
今日は定期健診の日。帰りに山谷堀公園を抜けて帰ってきた。ソメイヨシノが満開で明日・明後日の土曜・日曜は此処は大勢の花見客で賑わうことだろう。
3月19日にクロネコ便でブログ集26を送った。受け取りのメールが届いた。
IN氏より3月21日19:04発信:日高 節夫 様/先日は、電話で隅田川の桜開花状況をご連絡、ありがとうございました。/その節、予告の「ブログ集」26号がきょう夕方到着しました。ありがとうございました。/今週は、月曜の朝から、昨日の水曜日午後まで2泊3日で、家内が、福岡に行き、実母、実妹の病気見舞いで留守をしました。私は、昨日は親父の春の彼岸会で追悼のため、大森の浄土真宗の寺に彼岸会法要に出かけました。/「人間死んだらそれでおしまいよ。そのあとは魂がどんな状態で存在するのやら分かりはしないのだから、宗教団体の法要なんぞは、無意味なものだ」と思っておりましたが、親父の死に水を取ったことがないという負い目を感じて、戦友の聞き書きで全国を旅していらい、すぐ隣の戦場で戦っていた、友軍の砲兵連隊の戦友会が主催する永代供養に便乗させてもらって、寺詣りをしているのは、堕落の極みです。/家内いわく「あれだけ、既存の宗教を悪く言っていた人が、ことお父さんのことになると、前言を翻して寺詣りをするのね」とからかい半分のコメントを述べます。/私の論理はこうです。「おれはね、来世なんぞはないと思っている。だから、おれが死んでも、仏教に頼って成仏するように祈ってもらわなくて結構。しかし、親父の死に水を取っていないわたしは、親父の菩提だけは、親父の信仰の世界で果たしてあげたいと思う。だから、いままで馬鹿にしていた、寺詣りをするのだ。おれのためではない。親父のアラミタマ(荒御魂)そ鎮めるためなんだ」と答えることにしている。/私が死んでも、寺の坊さんを呼んで、極楽浄土の蓮の台に安座なんぞさせていただかなくてもいいと思っている。/家内は、わたしの言行不一致をなじり、「あれだけ、軽蔑していたお寺詣りをするから、私も父のお墓詣りをしてきます」と唐津の菩提寺まで行ったらしい。/きょう、車で、我が家の近くの桜並木を見て来たが、まだ三分咲きだったが、墨堤の桜はどんな状態だろうかね。/取りあえず、「ブログ集26号」拝受の御礼、依って件の如し。
MY氏より3月21日23:07発信:日高 様/「ブログ集 X X X V I」本日拝受しました。/冊子をパラパラ捲って見ると正に「頭の体操」のオンパレードです。/古今東西の全く多種多様な問題をよく集められたものだと改めて感服します。/その都度、固くて凍りついた小生の悪い頭を使って問題に向かったものの
解が見出せるのはほんの極僅かという有様でした。冊子に纏まったところでもう一度ゆっくり見直してみようかなと思ったりしています。
今日は定期健診の日。帰りに山谷堀公園を抜けて帰ってきた。ソメイヨシノが満開で明日・明後日の土曜・日曜は此処は大勢の花見客で賑わうことだろう。
3月19日にクロネコ便でブログ集26を送った。受け取りのメールが届いた。
IN氏より3月21日19:04発信:日高 節夫 様/先日は、電話で隅田川の桜開花状況をご連絡、ありがとうございました。/その節、予告の「ブログ集」26号がきょう夕方到着しました。ありがとうございました。/今週は、月曜の朝から、昨日の水曜日午後まで2泊3日で、家内が、福岡に行き、実母、実妹の病気見舞いで留守をしました。私は、昨日は親父の春の彼岸会で追悼のため、大森の浄土真宗の寺に彼岸会法要に出かけました。/「人間死んだらそれでおしまいよ。そのあとは魂がどんな状態で存在するのやら分かりはしないのだから、宗教団体の法要なんぞは、無意味なものだ」と思っておりましたが、親父の死に水を取ったことがないという負い目を感じて、戦友の聞き書きで全国を旅していらい、すぐ隣の戦場で戦っていた、友軍の砲兵連隊の戦友会が主催する永代供養に便乗させてもらって、寺詣りをしているのは、堕落の極みです。/家内いわく「あれだけ、既存の宗教を悪く言っていた人が、ことお父さんのことになると、前言を翻して寺詣りをするのね」とからかい半分のコメントを述べます。/私の論理はこうです。「おれはね、来世なんぞはないと思っている。だから、おれが死んでも、仏教に頼って成仏するように祈ってもらわなくて結構。しかし、親父の死に水を取っていないわたしは、親父の菩提だけは、親父の信仰の世界で果たしてあげたいと思う。だから、いままで馬鹿にしていた、寺詣りをするのだ。おれのためではない。親父のアラミタマ(荒御魂)そ鎮めるためなんだ」と答えることにしている。/私が死んでも、寺の坊さんを呼んで、極楽浄土の蓮の台に安座なんぞさせていただかなくてもいいと思っている。/家内は、わたしの言行不一致をなじり、「あれだけ、軽蔑していたお寺詣りをするから、私も父のお墓詣りをしてきます」と唐津の菩提寺まで行ったらしい。/きょう、車で、我が家の近くの桜並木を見て来たが、まだ三分咲きだったが、墨堤の桜はどんな状態だろうかね。/取りあえず、「ブログ集26号」拝受の御礼、依って件の如し。
MY氏より3月21日23:07発信:日高 様/「ブログ集 X X X V I」本日拝受しました。/冊子をパラパラ捲って見ると正に「頭の体操」のオンパレードです。/古今東西の全く多種多様な問題をよく集められたものだと改めて感服します。/その都度、固くて凍りついた小生の悪い頭を使って問題に向かったものの
解が見出せるのはほんの極僅かという有様でした。冊子に纏まったところでもう一度ゆっくり見直してみようかなと思ったりしています。
テレビの報道に拠ると、
「桜前線」 東京に観測史上最も早い開花 ―― 早くも桜前線が関東に上陸です。16日午前、東京でソメイヨシノが開花しました。観測史上、最も早い記録です。
気象庁職員:「開花でお願いします」
東京・靖国神社にあるソメイヨシノの標本木で5輪ほど花が開き、気象庁は、東京のソメイヨシノ開花を発表しました。3月に入って気温の高い状態が続いたため、平年よりも10日早く、2002年に並ぶ観測史上、最も早い開花です。開花から満開までの期間は1週間が目安で、来週末には見ごろを迎えそうです。 (ANN NEWS 03/16 11:45)
一昨日も、昨日も初夏を思わせるような日和であった。ここのところ、日本では春と秋が短くなったような気がする。たったこの前まで例年にないほど寒さに震えていたのだが、もう初夏を思わせるような20℃の気温で、長袖1枚だけで日溜まりを歩いていると汗ばんでくる。
体育館のプール脇に植えられているハクモクレンはいまや満開である。山谷堀水門広場に出るとあざやかな緑の芽を吹き出した垂れ下がった柳の枝の間にスカイツリーが望める。桜橋西詰のソメイヨシノは後2・3日で、開花しそうである。橋場のテラスではモクレンが紫色の花をつけているし、向島のテラスでは木瓜が満開で真っ赤な花をつけている。帰途、花川戸では早咲きの大寒桜が満開で、もうすぐいなくなるであろうユリカモメがスカイツリーの前を行き交っていた。いや、まさしく一度に「春が来た」という観である。今年も春は短く、暑くて長い夏がやってきそうだ。
いやはや、この分では28日(木)の水門会の花見の時には花は散ってしまっているのではないかと心配である。
「桜前線」 東京に観測史上最も早い開花 ―― 早くも桜前線が関東に上陸です。16日午前、東京でソメイヨシノが開花しました。観測史上、最も早い記録です。
気象庁職員:「開花でお願いします」
東京・靖国神社にあるソメイヨシノの標本木で5輪ほど花が開き、気象庁は、東京のソメイヨシノ開花を発表しました。3月に入って気温の高い状態が続いたため、平年よりも10日早く、2002年に並ぶ観測史上、最も早い開花です。開花から満開までの期間は1週間が目安で、来週末には見ごろを迎えそうです。 (ANN NEWS 03/16 11:45)
一昨日も、昨日も初夏を思わせるような日和であった。ここのところ、日本では春と秋が短くなったような気がする。たったこの前まで例年にないほど寒さに震えていたのだが、もう初夏を思わせるような20℃の気温で、長袖1枚だけで日溜まりを歩いていると汗ばんでくる。
体育館のプール脇に植えられているハクモクレンはいまや満開である。山谷堀水門広場に出るとあざやかな緑の芽を吹き出した垂れ下がった柳の枝の間にスカイツリーが望める。桜橋西詰のソメイヨシノは後2・3日で、開花しそうである。橋場のテラスではモクレンが紫色の花をつけているし、向島のテラスでは木瓜が満開で真っ赤な花をつけている。帰途、花川戸では早咲きの大寒桜が満開で、もうすぐいなくなるであろうユリカモメがスカイツリーの前を行き交っていた。いや、まさしく一度に「春が来た」という観である。今年も春は短く、暑くて長い夏がやってきそうだ。
いやはや、この分では28日(木)の水門会の花見の時には花は散ってしまっているのではないかと心配である。
Chinese ringは二進法を利用すると、容易に最少手数が求められ、その上外す手順を知る事ができる。左の図(昨日のブログの図と重複)の「4連のものを外す手順」の右端の二進法の数を順に追ってゆけば、十進法で10、9、8、……1、0となっている。つまり、10から始めて0までの数を二進法で表わして、前述とは逆にChinese ringの環の位置に翻訳すれば、環を外す手順が示されることになる。
二進法の数から環の位置を知るには、ちょっとしたコツが必要である。最高位からみて、
(1)最初に0が1個以上あれば、その個数だけ外れた輪がある。
(2)最初に出てくる1は必ず嵌まった環を示す。
(3)同じ数が2個以上続く場合は2個目から先は外れた環を示す。
といったことに注意すれば、間違えずに翻訳することが出来るのである。
このことをふまえて、左の図に示す(イ)から(ロ)にする手順を示してみよう。
昨日のブログの(a)(b)の約束によって、(イ)(ロ)をそれぞれ二進法で表わすと、
(イ)は01101、(ロ)は10011となる。十進法に直すと13と19であるから、14から18までの数を二進法で表わして、それを環の位置に翻訳すればよいのである。
二進法の数から環の位置を知るには、ちょっとしたコツが必要である。最高位からみて、
(1)最初に0が1個以上あれば、その個数だけ外れた輪がある。
(2)最初に出てくる1は必ず嵌まった環を示す。
(3)同じ数が2個以上続く場合は2個目から先は外れた環を示す。
といったことに注意すれば、間違えずに翻訳することが出来るのである。
このことをふまえて、左の図に示す(イ)から(ロ)にする手順を示してみよう。
昨日のブログの(a)(b)の約束によって、(イ)(ロ)をそれぞれ二進法で表わすと、
(イ)は01101、(ロ)は10011となる。十進法に直すと13と19であるから、14から18までの数を二進法で表わして、それを環の位置に翻訳すればよいのである。
西洋では、イタリアのGerolamo Cardano(ジェロラモ・カルダーノ、1501~1576年、数学者)が1550年に書いた本の中で論じているから、相当古くからあることがわかるが、中国との関係はよくわからない。その後イギリスのJohn Wallis(ジョン・ウォリス、1616~1703年、数学者)も論じている。注目すべきは、1872年にフランスのM .L.グロ(詳細不明)が二進法を利用してこの問題を巧みに解明したことであるという。
二進法は、2になるごとにケタが上がり、数字は0と1しか用いない。われわれが普通使っている十進法の数を2進法に直すには、左の図のように、どんどん2でわっていき、割り切れたときには0、余ったときには1と右側に書く。この書き留めた数を下のほうから順に並べると、二進法の数になる。つまり、十進法の26は 二進法であらわすと、 11010 となるのである。
反対に二進法の数を十進法に直すには、二進法のn位は2ⁿ⁻¹ を単位としているわけであるから、11010 は、 2⁴+2³+0+2¹+0=16+8+2=26 が十進法で表わした数となる。
チャイニーズ・リングを少しいじってみると分かるが、3月14日のブログでも述べたように、一番右端の環は自由にはずせる。また二番目の環もはずすことができる。しかし、3番目から先は簡単にはいかない。一般にn番目の環は、(n-2)番目の環までは全部はずれていて、(n-1)番目の環がはまっているときに限ってはずすことができるのである。
ここでM .L.グロのやり方を簡単に説明してみよう。まず横線を一本引いて、竿にはまっている環はその上部に、はずれている環はその下部に○印で表すことにする。この記載法で4連のものをはずす手順を図に示すと、左図の「4連のものを外す手順」の中央のような図になる。なお、この図は一番端の、自由にはずせる環のある方を右に置いている。
ところで、
(a) 横線より上にある○には、左から1、0、1、0、・・・と、交互に1と0をつける。
(b) 横線より下にある○には、それより左側にはまっている環がなければ全部0、あればそれと同じ数字をつける。
という約束にすると、今の4連のものを解く過程は、左図の「4連のものを外す手順」の各右側に示すようように表せることになる。
ここで、この数を二進法の数と考えてみよう。M.L.グロはChinese ringの環を1個嵌めたり外したりする度に、必ずこの数が1だけ変わることに注目したのである。4連の場合は、全部嵌っている状態 1010 から、全部外れた状態 0000 にするには、その差だけの手数が必要ということになる。二進法の1010は十進法では
2³+0+2+0=8+2=10 であるから、最低10手が必要なわけである。
環の数が奇数個の場合、すなわち、1個の場合は二進法で1回、3個の場合は二進法では101回、5個の場合は二進法で10101回の手数がかかることになり、これを十進法に直すとそれぞれ1、5、21となる。
環の数が偶数この場合、すなわち、2個の場合は二進法で10回、4個の場合は二進法で1010回、6個の場合は二進法で101010回の手数がかかることになり、これを十進法に直すとそれぞれ2、10、42となる。
一般に環の数がn個の時の最少手数は、nが奇数の場合と偶数の場合に分けて、左の式で求めることが出来る。
二進法は、2になるごとにケタが上がり、数字は0と1しか用いない。われわれが普通使っている十進法の数を2進法に直すには、左の図のように、どんどん2でわっていき、割り切れたときには0、余ったときには1と右側に書く。この書き留めた数を下のほうから順に並べると、二進法の数になる。つまり、十進法の26は 二進法であらわすと、 11010 となるのである。
反対に二進法の数を十進法に直すには、二進法のn位は2ⁿ⁻¹ を単位としているわけであるから、11010 は、 2⁴+2³+0+2¹+0=16+8+2=26 が十進法で表わした数となる。
チャイニーズ・リングを少しいじってみると分かるが、3月14日のブログでも述べたように、一番右端の環は自由にはずせる。また二番目の環もはずすことができる。しかし、3番目から先は簡単にはいかない。一般にn番目の環は、(n-2)番目の環までは全部はずれていて、(n-1)番目の環がはまっているときに限ってはずすことができるのである。
ここでM .L.グロのやり方を簡単に説明してみよう。まず横線を一本引いて、竿にはまっている環はその上部に、はずれている環はその下部に○印で表すことにする。この記載法で4連のものをはずす手順を図に示すと、左図の「4連のものを外す手順」の中央のような図になる。なお、この図は一番端の、自由にはずせる環のある方を右に置いている。
ところで、
(a) 横線より上にある○には、左から1、0、1、0、・・・と、交互に1と0をつける。
(b) 横線より下にある○には、それより左側にはまっている環がなければ全部0、あればそれと同じ数字をつける。
という約束にすると、今の4連のものを解く過程は、左図の「4連のものを外す手順」の各右側に示すようように表せることになる。
ここで、この数を二進法の数と考えてみよう。M.L.グロはChinese ringの環を1個嵌めたり外したりする度に、必ずこの数が1だけ変わることに注目したのである。4連の場合は、全部嵌っている状態 1010 から、全部外れた状態 0000 にするには、その差だけの手数が必要ということになる。二進法の1010は十進法では
2³+0+2+0=8+2=10 であるから、最低10手が必要なわけである。
環の数が奇数個の場合、すなわち、1個の場合は二進法で1回、3個の場合は二進法では101回、5個の場合は二進法で10101回の手数がかかることになり、これを十進法に直すとそれぞれ1、5、21となる。
環の数が偶数この場合、すなわち、2個の場合は二進法で10回、4個の場合は二進法で1010回、6個の場合は二進法で101010回の手数がかかることになり、これを十進法に直すとそれぞれ2、10、42となる。
一般に環の数がn個の時の最少手数は、nが奇数の場合と偶数の場合に分けて、左の式で求めることが出来る。
中国には、古くから輪が九個のものがあり、九連環と呼ばれていた。材質は鉄か銅であったが、そのもとのものに石で作られた知恵の輪があった。中国の古い歴史の本『戦国策』の中に出てくる玉連環がそれだと言われている。話はこうである。
戦国時代(BC403 ~ 221年)のことである。大国秦の始皇帝の使者が斉にやってきた。当時、斉では襄王が亡くなって、その后の君王后が政治を行っていた。使者は君王后に玉連環を献上してこう言った。
「斉には知恵者が多いと聞きました。ぜひこの環をはずしてみて下さい。」
君王后は家臣の者に玉連環を渡したが、だれもはずすことができなかった。すると后は槌を取り寄せると、玉連環を打ち壊し、秦の使者にこう言った。
「謹んではずしましたよ」 (3月12日のブログ「君王后」を参照)
一方では九連環は、「諸葛亮(181~234年)が、妻の無聊(ぶりょう)の退屈を慰めるために考案した」という伝説もある。孔明が開発したものには諸葛菜・銅弩機・木牛・流馬・紙芝居・諸葛錦・饅頭などなど、沢山ののものがあるが、そのなかでも孔明が開発したといわれる玩具に孔明鎖とこの九連環があるというのである。
九連環は、17世紀後半には、日本でもよく知られたパズルになっている。結構人気のあったことは、紋章に知恵の輪の紋(左図参照)まであることでも知られよう。また、『大坂独吟集(1675《延宝3年》刊、編者未詳)』の中にある「智恵の輪や 四条通に ぬけぬらん」という鶴永(井原西鶴、1642~1693年)の句などから窺うことができる。
杉田玄白(1733~1817年)の『蘭学事始』の中には「明和6(1769)年、長崎のオランダ商館長(カピタン)Jan Crans(ヤン・クランス)が江戸の長崎屋に滞在した時、酒宴の席で平賀源内(1728~1780年)が金袋の口に取り付けられていた智恵の輪を苦も無くあけてしまったという記事が書かれている。(3月13日のブログ「カランスと源内」を参照)
大数学者で、関孝和に対抗して最上(もがみ)流という一派を立てた会田安明(あいだやすあき、1747~1817年)は、数え年九歳(1755年)のとき、人から九連環をもらった。父親に見せると、昔やったことがあると言って、三つ四つ輪をはずしたが、それ以上はできなかった。これだけはずせるのなら、理詰めで全部はずせるはずだと安明が言うと、父親は「では考えてみなさい」と言った。それから安明は一晩寝ないで考え、とうとう知恵の輪の原理を解明した。彼はこれで自信を得て、数学の道へ進む決心をしたという。
偉人のエピソードというものは後年の創作が多いが、この話は安明自身自叙伝の冒頭に書いているので、信用してもよいだろう。
戦国時代(BC403 ~ 221年)のことである。大国秦の始皇帝の使者が斉にやってきた。当時、斉では襄王が亡くなって、その后の君王后が政治を行っていた。使者は君王后に玉連環を献上してこう言った。
「斉には知恵者が多いと聞きました。ぜひこの環をはずしてみて下さい。」
君王后は家臣の者に玉連環を渡したが、だれもはずすことができなかった。すると后は槌を取り寄せると、玉連環を打ち壊し、秦の使者にこう言った。
「謹んではずしましたよ」 (3月12日のブログ「君王后」を参照)
一方では九連環は、「諸葛亮(181~234年)が、妻の無聊(ぶりょう)の退屈を慰めるために考案した」という伝説もある。孔明が開発したものには諸葛菜・銅弩機・木牛・流馬・紙芝居・諸葛錦・饅頭などなど、沢山ののものがあるが、そのなかでも孔明が開発したといわれる玩具に孔明鎖とこの九連環があるというのである。
九連環は、17世紀後半には、日本でもよく知られたパズルになっている。結構人気のあったことは、紋章に知恵の輪の紋(左図参照)まであることでも知られよう。また、『大坂独吟集(1675《延宝3年》刊、編者未詳)』の中にある「智恵の輪や 四条通に ぬけぬらん」という鶴永(井原西鶴、1642~1693年)の句などから窺うことができる。
杉田玄白(1733~1817年)の『蘭学事始』の中には「明和6(1769)年、長崎のオランダ商館長(カピタン)Jan Crans(ヤン・クランス)が江戸の長崎屋に滞在した時、酒宴の席で平賀源内(1728~1780年)が金袋の口に取り付けられていた智恵の輪を苦も無くあけてしまったという記事が書かれている。(3月13日のブログ「カランスと源内」を参照)
大数学者で、関孝和に対抗して最上(もがみ)流という一派を立てた会田安明(あいだやすあき、1747~1817年)は、数え年九歳(1755年)のとき、人から九連環をもらった。父親に見せると、昔やったことがあると言って、三つ四つ輪をはずしたが、それ以上はできなかった。これだけはずせるのなら、理詰めで全部はずせるはずだと安明が言うと、父親は「では考えてみなさい」と言った。それから安明は一晩寝ないで考え、とうとう知恵の輪の原理を解明した。彼はこれで自信を得て、数学の道へ進む決心をしたという。
偉人のエピソードというものは後年の創作が多いが、この話は安明自身自叙伝の冒頭に書いているので、信用してもよいだろう。
Chinese ring(チャイニーズ・リング)と呼ばれる知恵の輪がある。これは左図のように、細長い板Bに柄のついた環Cが数個(通常4から9個)はめこまれていて、これにAのようなサオが通っている。このAを取り外すパズルである。用具は飛騨の高山で民芸品として売られたほか、時折り輸入品が市販されているという。又、市販の「智恵の輪セット」にも、よく組み込まれている。左図に示したものは五連環である。
この右端の環C₁は左図「リングの外し方」の図1のように自由に外すことが出来る。2番目の環C₂も外すことが出来て(図2参照)、続いてC₁を外せば2環連続して外すことができる。しかし、3番目以降の環をはずすにはそう簡単にはいかない。一般にn番目の環は、(n-2)番目の環までは全部はずれていて、(n-1)番目の環が嵌っているときに限って取り外し可能である。したがって、C₁とC₂が外れている状態ではC₄を外すことは出来るが、C₃を外すことは出来ない。もし、C₃を外したければ、もう一度C₂を嵌める必要がある(図3参照)。
1個の環をサオに嵌めたり、サオから外したりする動作を1手と数えると、n個の環を外す最少手数は、
環が奇数の場合は (2ⁿ⁺¹-1)/3回、
環が偶数の場合は (2ⁿ⁺¹-2)/3回 である。 (左表参照)
この右端の環C₁は左図「リングの外し方」の図1のように自由に外すことが出来る。2番目の環C₂も外すことが出来て(図2参照)、続いてC₁を外せば2環連続して外すことができる。しかし、3番目以降の環をはずすにはそう簡単にはいかない。一般にn番目の環は、(n-2)番目の環までは全部はずれていて、(n-1)番目の環が嵌っているときに限って取り外し可能である。したがって、C₁とC₂が外れている状態ではC₄を外すことは出来るが、C₃を外すことは出来ない。もし、C₃を外したければ、もう一度C₂を嵌める必要がある(図3参照)。
1個の環をサオに嵌めたり、サオから外したりする動作を1手と数えると、n個の環を外す最少手数は、
環が奇数の場合は (2ⁿ⁺¹-1)/3回、
環が偶数の場合は (2ⁿ⁺¹-2)/3回 である。 (左表参照)
杉田玄白の蘭学事始の一文に平賀源内に触れた次のような件(くだり)がある。
何れの年なりしか、右にいふカランスといへる甲比丹(カピタン)参向の時なりしが、ある日、かの客屋に人集まり酒宴ありし時、源内もその座に列なりありしに、カランス戯れに一つの金袋を出し、この口試みに明け給ふべし。あけたる人に参らすべしといへり。その口は知恵の輪にしたるものなり。座客次第に伝へさまざま工夫すれども、誰も開き兼ねたり。遂に末座の源内に至れり。源内これを手に取り暫く考へ居しが、たちまち口を開き出せり。座客はいふに及ばず、カランスもその才の敏捷なるに感じ、直にその袋を源内に与へたり。
オランダが、医術やいろいろの技芸も発達している国であるということがようやく世に知れわたり、世の人もその影響を受けてきた。このころから、オランダ人が江戸へ来るたびに、もっぱら官医の志ある人々は、毎年対話ということを願い出てその宿に行き、治療法・処方のことなどをたずね、また天文家の人も、同じくそれぞれ自分の専門のことを問いただした。当時はその人々の門人なら、いっしょに連れて行くことも自由であった。それで、なかにはその人たちの門人だといって出入した人もあった。長崎では規則があって、みだりに彼らの宿へ出入はできないのであるが、江戸のほうは、しばらくの間のことであるから、自然にかまいもしないというありさまであった。
そのころ、平賀源内という浪人があった。この人の専門は本草家で、生まれつき理論にさとく、才能もすぐれていて、ちょうど当時の気風に適した生まれの人であった。何年のことであったか、Jan Crans(ヤン・カランス、明和4年or5年来日?)がカピタンとして江戸へ来たときのことである。ある日、彼らの宿に人が集まって、酒盛があったとき、源内もその席にいた。そのときカランスは、戯れにお金を入れる袋をひとつ出して、この袋の口をあけてごらんなさい、あけた人にあげましょう、という。その口は「知恵の輪」の仕掛けになっている。客はこれをつぎつぎに回して、いろいろとくふうするのだが、だれも開くことができない。とうとう座の末にいた源内の番になった。源内はこれを手にとってしばらく考えていたが、すぐに口を開いてみせた。一同はいうまでもなく、カランスもその才のするどいのに感心して、すぐにその袋を源内に与えた。こんなことがあってからは、カランスと源内との親しみは深くなり、源内はその後はたびたび宿へ行って博物のことをたずねた。
またある日、カランスはひとつの碁石のような形の「スランガステーン」というものを出して、源内に見せた。源内はこれを見て、その効能をたずねて帰り、あくる日別に新しく一個つくって持って行って、カランスに見せた。カランスはこれを見て、これはきのう見せたものと同じ品だといった。そこで源内は、あなたがお見せになったものは、あなたのお国の産物か、それとも外国で求めたものか、とたずねると、カランスは、インドのセイロンというところで求めて来たものであると答えた。源内はまた、その国のどんな場所から産するのかとたずねると、カランスが答えていうには、その国でいいつたえているところでは、大蛇の頭の中から出る石だということだ。源内は、そんなことはないでしょう。これは竜の骨でつくったものでしょうという。カランスはこれを聞いて、竜などというものは実在しないものである。どうしてその骨からつくることができるかという。そこで源内は、自分の故郷の讃岐の小豆島から出た、大きな竜の歯につづいている竜の骨を出して見せて、これが竜骨である。『本草綱目』というシナの本に、蛇は皮をかえ、竜は骨をかえると説いている。わたしがお見せしたスランガステーンは、この竜の骨でつくったものであるといった。カランスはこれを聞いて大いにおどろき、ますます源内の奇才に感じた。そしてカランスは『本草綱目』を買い、竜骨を源内からもらって帰った。カランスはその返礼として、ヨンストンスの『禽獣譜(きんじゅうふ)』、ドドネウスの『生殖本草』、アンボイスの『貝譜(かいふ)』などというような博物家のためになる書物を贈った。
もちろんこれらのことは、オランダ語を直接に話して弁じたのではなく、付き添った内通詞部屋附といったような人が通弁したのであって、一言一句通じたわけではない。
源内は、そののち長崎へ行ってオランダの本や器なども求めて来て、またエレキテルというふしぎな器械を手に入れて江戸に帰り、その働きのことも考えて、多くの人をおどろかした。
何れの年なりしか、右にいふカランスといへる甲比丹(カピタン)参向の時なりしが、ある日、かの客屋に人集まり酒宴ありし時、源内もその座に列なりありしに、カランス戯れに一つの金袋を出し、この口試みに明け給ふべし。あけたる人に参らすべしといへり。その口は知恵の輪にしたるものなり。座客次第に伝へさまざま工夫すれども、誰も開き兼ねたり。遂に末座の源内に至れり。源内これを手に取り暫く考へ居しが、たちまち口を開き出せり。座客はいふに及ばず、カランスもその才の敏捷なるに感じ、直にその袋を源内に与へたり。
オランダが、医術やいろいろの技芸も発達している国であるということがようやく世に知れわたり、世の人もその影響を受けてきた。このころから、オランダ人が江戸へ来るたびに、もっぱら官医の志ある人々は、毎年対話ということを願い出てその宿に行き、治療法・処方のことなどをたずね、また天文家の人も、同じくそれぞれ自分の専門のことを問いただした。当時はその人々の門人なら、いっしょに連れて行くことも自由であった。それで、なかにはその人たちの門人だといって出入した人もあった。長崎では規則があって、みだりに彼らの宿へ出入はできないのであるが、江戸のほうは、しばらくの間のことであるから、自然にかまいもしないというありさまであった。
そのころ、平賀源内という浪人があった。この人の専門は本草家で、生まれつき理論にさとく、才能もすぐれていて、ちょうど当時の気風に適した生まれの人であった。何年のことであったか、Jan Crans(ヤン・カランス、明和4年or5年来日?)がカピタンとして江戸へ来たときのことである。ある日、彼らの宿に人が集まって、酒盛があったとき、源内もその席にいた。そのときカランスは、戯れにお金を入れる袋をひとつ出して、この袋の口をあけてごらんなさい、あけた人にあげましょう、という。その口は「知恵の輪」の仕掛けになっている。客はこれをつぎつぎに回して、いろいろとくふうするのだが、だれも開くことができない。とうとう座の末にいた源内の番になった。源内はこれを手にとってしばらく考えていたが、すぐに口を開いてみせた。一同はいうまでもなく、カランスもその才のするどいのに感心して、すぐにその袋を源内に与えた。こんなことがあってからは、カランスと源内との親しみは深くなり、源内はその後はたびたび宿へ行って博物のことをたずねた。
またある日、カランスはひとつの碁石のような形の「スランガステーン」というものを出して、源内に見せた。源内はこれを見て、その効能をたずねて帰り、あくる日別に新しく一個つくって持って行って、カランスに見せた。カランスはこれを見て、これはきのう見せたものと同じ品だといった。そこで源内は、あなたがお見せになったものは、あなたのお国の産物か、それとも外国で求めたものか、とたずねると、カランスは、インドのセイロンというところで求めて来たものであると答えた。源内はまた、その国のどんな場所から産するのかとたずねると、カランスが答えていうには、その国でいいつたえているところでは、大蛇の頭の中から出る石だということだ。源内は、そんなことはないでしょう。これは竜の骨でつくったものでしょうという。カランスはこれを聞いて、竜などというものは実在しないものである。どうしてその骨からつくることができるかという。そこで源内は、自分の故郷の讃岐の小豆島から出た、大きな竜の歯につづいている竜の骨を出して見せて、これが竜骨である。『本草綱目』というシナの本に、蛇は皮をかえ、竜は骨をかえると説いている。わたしがお見せしたスランガステーンは、この竜の骨でつくったものであるといった。カランスはこれを聞いて大いにおどろき、ますます源内の奇才に感じた。そしてカランスは『本草綱目』を買い、竜骨を源内からもらって帰った。カランスはその返礼として、ヨンストンスの『禽獣譜(きんじゅうふ)』、ドドネウスの『生殖本草』、アンボイスの『貝譜(かいふ)』などというような博物家のためになる書物を贈った。
もちろんこれらのことは、オランダ語を直接に話して弁じたのではなく、付き添った内通詞部屋附といったような人が通弁したのであって、一言一句通じたわけではない。
源内は、そののち長崎へ行ってオランダの本や器なども求めて来て、またエレキテルというふしぎな器械を手に入れて江戸に帰り、その働きのことも考えて、多くの人をおどろかした。
戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に編集し、まとめ上げた書物として前漢の劉向(BC77年~BC6年)が33篇の一つの書にまとめた「戦国策」の『斉策』に次のような件(くだり)がある。
齊閔王之遇殺、其子法章變姓名、為莒太史家庸夫。太史敫女、奇法章之狀貌、以為非常人、憐而常竊衣食之、與私焉。莒中及齊亡臣相聚、求閔王子、欲立之。法章乃自言於莒。共立法章為襄王。襄王立、以太史氏女為王后、生子建。太史敫曰:「女無謀而嫁者、非吾種也、汙吾世矣。」終身不睹。君王后賢、不以不睹之故、失人子之禮也。襄王卒、子建立為齊王。君王后事秦謹、與諸侯信、以故建立四十有餘年不受兵。秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環、曰:「齊多知、而解此環不?」君王后以示群臣、群臣不知解。君王后引椎椎破之、謝秦使曰:「謹以解矣。」及君王后病且卒、誡建曰:「群臣之可用者某」。建曰:「請書之。」君王后曰:「善。」取筆牘受言。君王后曰:「老婦已亡矣!」君王后死、後后勝相齊、多受秦間金玉、使賓客入秦、皆為變辭、勸王朝秦、不脩攻戰之備。
〔訳〕斉の閔王が殺されるや、その子法章は、姓名を変えて、莒(きょ)の太史の家の雇い人になった。太史敫(きょう)の娘は、法章の容貌風姿を奇(く)しと見、只者ではないであろうと、同情して、始終こっそり衣食を恵み、情交を通じた。やがて、莒をはじめ斉(首都臨淄)の姿をくらましていた臣下達が相寄って、王に立てようと、閔王の子を探しにかかった。そこで、法章は莒で自分から名乗り、臣下達はともどもに法章を立てて襄王とした(BC273年)。襄王は即位すると、太史の娘を王后に立て、子建(けん)を生んだ。太史敫(きょう)は、
「仲立ちなしに嫁いだ娘は、わたしの眷族ではない。わたしの生涯に泥をぬりおった」
と言い、終生あわなかった。が君王后はよく出来た婦人で、会ってくれぬからと、子としての礼を欠くことはなかった。
襄王が卒し、子建が立って斉王となった。君王后は、秦に仕えて恭謹、諸侯とは信義をもって交わった。そのため、建が立って四十余年というもの、侵攻を蒙らなかったのである。
秦の始皇帝が、使者を遣り、こういって君王后に玉連環(玉を組合わせた智恵の輪)を贈らせたことがあった。
「斉には知恵者が大勢おいでだが、この環をお解けかな?」
君王后が群臣に見せたところ、誰にも解き方が判らない。すると君王后は椎(つち)を引き寄せて打ち砕き、秦の使者に謝して言った、
「つつしんで、お解きいたしました」
君王后は、病んでいまわの際に及び、建を戒めて、
「君臣の中で、お用いになるべきは某」
と言った。建が、
「書き取らせてください」
と言うと、君王后は、
「いいよ」
と言ったが、いざ、書きものと書きしるす板とを持って待ち受けると、君王后は言った。
「おいぼれめが、はや忘れてしまいました」
君王后がみまかると、后勝〔こうしょう、未詳〕が斉の宰相となり、秦の間諜からしこたま金玉を貰いうけ、賓客たちを秦に送り込んだ。賓客達はいずれもおためごかしを言い、秦に入朝するように王に勧めて、戦の具えを怠らせたのであった。
齊閔王之遇殺、其子法章變姓名、為莒太史家庸夫。太史敫女、奇法章之狀貌、以為非常人、憐而常竊衣食之、與私焉。莒中及齊亡臣相聚、求閔王子、欲立之。法章乃自言於莒。共立法章為襄王。襄王立、以太史氏女為王后、生子建。太史敫曰:「女無謀而嫁者、非吾種也、汙吾世矣。」終身不睹。君王后賢、不以不睹之故、失人子之禮也。襄王卒、子建立為齊王。君王后事秦謹、與諸侯信、以故建立四十有餘年不受兵。秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環、曰:「齊多知、而解此環不?」君王后以示群臣、群臣不知解。君王后引椎椎破之、謝秦使曰:「謹以解矣。」及君王后病且卒、誡建曰:「群臣之可用者某」。建曰:「請書之。」君王后曰:「善。」取筆牘受言。君王后曰:「老婦已亡矣!」君王后死、後后勝相齊、多受秦間金玉、使賓客入秦、皆為變辭、勸王朝秦、不脩攻戰之備。
〔訳〕斉の閔王が殺されるや、その子法章は、姓名を変えて、莒(きょ)の太史の家の雇い人になった。太史敫(きょう)の娘は、法章の容貌風姿を奇(く)しと見、只者ではないであろうと、同情して、始終こっそり衣食を恵み、情交を通じた。やがて、莒をはじめ斉(首都臨淄)の姿をくらましていた臣下達が相寄って、王に立てようと、閔王の子を探しにかかった。そこで、法章は莒で自分から名乗り、臣下達はともどもに法章を立てて襄王とした(BC273年)。襄王は即位すると、太史の娘を王后に立て、子建(けん)を生んだ。太史敫(きょう)は、
「仲立ちなしに嫁いだ娘は、わたしの眷族ではない。わたしの生涯に泥をぬりおった」
と言い、終生あわなかった。が君王后はよく出来た婦人で、会ってくれぬからと、子としての礼を欠くことはなかった。
襄王が卒し、子建が立って斉王となった。君王后は、秦に仕えて恭謹、諸侯とは信義をもって交わった。そのため、建が立って四十余年というもの、侵攻を蒙らなかったのである。
秦の始皇帝が、使者を遣り、こういって君王后に玉連環(玉を組合わせた智恵の輪)を贈らせたことがあった。
「斉には知恵者が大勢おいでだが、この環をお解けかな?」
君王后が群臣に見せたところ、誰にも解き方が判らない。すると君王后は椎(つち)を引き寄せて打ち砕き、秦の使者に謝して言った、
「つつしんで、お解きいたしました」
君王后は、病んでいまわの際に及び、建を戒めて、
「君臣の中で、お用いになるべきは某」
と言った。建が、
「書き取らせてください」
と言うと、君王后は、
「いいよ」
と言ったが、いざ、書きものと書きしるす板とを持って待ち受けると、君王后は言った。
「おいぼれめが、はや忘れてしまいました」
君王后がみまかると、后勝〔こうしょう、未詳〕が斉の宰相となり、秦の間諜からしこたま金玉を貰いうけ、賓客たちを秦に送り込んだ。賓客達はいずれもおためごかしを言い、秦に入朝するように王に勧めて、戦の具えを怠らせたのであった。
本日のウェブニュースより、桜開花予想。
2013年桜開花予想(第3回)~春の兆し到来 開花と満開は平年並みか早め~
一般財団法人日本気象協会(本社:東京都豊島区、会長:繩野克彦)は、2013年3月6日(水)に日本全国90地点の桜(ソメイヨシノほか)の開花予想(第3回)を発表します。今回の発表から満開日の予想も発表します。
(1) 概況
2013年の桜(ソメイヨシノほか)の開花日と満開日は、九州・四国地方は平年より2~6日早く、中国から関東地方は平年と同じか1~4日早いでしょう。九州から関東にかけては3月最後の週末にお花見の楽しめるところが多くなりそうです。甲信・北陸地方から北海道の開花日と満開日は平年とほぼ同じでしょう。
(2) 本文
2013年3月は、春一番でスタートし、その後、北海道で猛吹雪になるなど、寒暖の変動が大きくなっています。この先、明日(3月7日)から来週にかけて、九州から関東地方は気温がかなり高く、初夏のような陽気の日もあるでしょう。このため、九州から関東地方の桜のつぼみは順調に生長し、開花と満開は平年並みか平年より早くなるでしょう。その後、寒暖の変動を繰り返しながら5月にかけて、気温は概ね平年並みに経過する見込みです。このため、甲信・北陸地方から北海道の桜の開花と満開は平年並みでしょう。桜前線は3月17日に高知県を出発して九州地方へ進み、3月下旬には中国、近畿、東海、関東地方からも桜の便りが届くでしょう。
3月5日(火)に「水門会のお花見通知(左図)」を発送。一応、関東地域に在住の会員34名に通知したが、はてさて、今年は何名が参加することやら。
隅田公園花川戸の大寒桜が綻び始めた。テラス沿いに北上。白鬚橋手前で折り返し、今戸神社前を通って帰宅した。今戸神社の河津桜が7分咲き。
大野勝 発 3月1日12時10分消印
♪春は名のみの風の寒さや……♪ /その後お変わりないことと存じます。/この度は『八十路の「水門」』
立派な冊子にしたてていただいてありがとう! /良い憶い出の一つとして残しておきましょう。/これからの余生、さほどもない筈、ならば今のうち、ぜひぜひおはなみかいよろしく。/お礼旁々厚顔詩意お願いまで 草々
2013年桜開花予想(第3回)~春の兆し到来 開花と満開は平年並みか早め~
一般財団法人日本気象協会(本社:東京都豊島区、会長:繩野克彦)は、2013年3月6日(水)に日本全国90地点の桜(ソメイヨシノほか)の開花予想(第3回)を発表します。今回の発表から満開日の予想も発表します。
(1) 概況
2013年の桜(ソメイヨシノほか)の開花日と満開日は、九州・四国地方は平年より2~6日早く、中国から関東地方は平年と同じか1~4日早いでしょう。九州から関東にかけては3月最後の週末にお花見の楽しめるところが多くなりそうです。甲信・北陸地方から北海道の開花日と満開日は平年とほぼ同じでしょう。
(2) 本文
2013年3月は、春一番でスタートし、その後、北海道で猛吹雪になるなど、寒暖の変動が大きくなっています。この先、明日(3月7日)から来週にかけて、九州から関東地方は気温がかなり高く、初夏のような陽気の日もあるでしょう。このため、九州から関東地方の桜のつぼみは順調に生長し、開花と満開は平年並みか平年より早くなるでしょう。その後、寒暖の変動を繰り返しながら5月にかけて、気温は概ね平年並みに経過する見込みです。このため、甲信・北陸地方から北海道の桜の開花と満開は平年並みでしょう。桜前線は3月17日に高知県を出発して九州地方へ進み、3月下旬には中国、近畿、東海、関東地方からも桜の便りが届くでしょう。
3月5日(火)に「水門会のお花見通知(左図)」を発送。一応、関東地域に在住の会員34名に通知したが、はてさて、今年は何名が参加することやら。
隅田公園花川戸の大寒桜が綻び始めた。テラス沿いに北上。白鬚橋手前で折り返し、今戸神社前を通って帰宅した。今戸神社の河津桜が7分咲き。
大野勝 発 3月1日12時10分消印
♪春は名のみの風の寒さや……♪ /その後お変わりないことと存じます。/この度は『八十路の「水門」』
立派な冊子にしたてていただいてありがとう! /良い憶い出の一つとして残しておきましょう。/これからの余生、さほどもない筈、ならば今のうち、ぜひぜひおはなみかいよろしく。/お礼旁々厚顔詩意お願いまで 草々
全部の石を違った色にして考える場合には、石に色をつけるよりも、番号を書いたほうが手っ取り早い。先ず左から、順に12345--と石を並べ、隣り合った2つを一緒に動かして、数字の順序を逆にしてみよう。この解は、左の図のように七手の解が2通りある。最後の形が右寄りに来るようにするには、八手が必要である。これらの解が最少手数であることは、人手によるしらみつぶしで確かめることが出来る。
逆にする並べ替えが出来たら、でたらめに並べたものを番号順に並べなおしてみよう。やってみると、どうしてもうまくゆかない場合がある。例えば、 12354-- のように、二つだけ入れ替えたものはどうしてもどうしても元に戻すことが出来ない。
番号順に並べ替えができるのは「偶順列」の場合だけである。偶順列とは大きさ順の転倒が偶数個ある順列のことである。例えば、 25413-- では、1の前には自分より大きい数字が3個(2・5・4)、3の前には2個(5・4)、4の前には1個(5)で合計 3+2+1=6 で合計6個あるから、「順列の転倒は偶数個、つまり偶順列」というのである。隣り合った石を2個一緒に動かせば、順序の転倒は必ず偶数個(0も含めて)増減するから、何回動かしても偶順列ばかりが出来るわけである。
しかし、「偶順列ならすべて順序通りに並べ替えが出来ることの証明」はやや難しいので、ここでは省略する。
逆にする並べ替えが出来たら、でたらめに並べたものを番号順に並べなおしてみよう。やってみると、どうしてもうまくゆかない場合がある。例えば、 12354-- のように、二つだけ入れ替えたものはどうしてもどうしても元に戻すことが出来ない。
番号順に並べ替えができるのは「偶順列」の場合だけである。偶順列とは大きさ順の転倒が偶数個ある順列のことである。例えば、 25413-- では、1の前には自分より大きい数字が3個(2・5・4)、3の前には2個(5・4)、4の前には1個(5)で合計 3+2+1=6 で合計6個あるから、「順列の転倒は偶数個、つまり偶順列」というのである。隣り合った石を2個一緒に動かせば、順序の転倒は必ず偶数個(0も含めて)増減するから、何回動かしても偶順列ばかりが出来るわけである。
しかし、「偶順列ならすべて順序通りに並べ替えが出来ることの証明」はやや難しいので、ここでは省略する。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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