瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 
仲邑菫初段、デビュー戦敗れる 史上最年少プロ棋士 ―― 4月に囲碁の史上最年少プロ棋士となった仲邑菫(なかむらすみれ)初段(10)の公式戦初対局が22日、大阪・梅田の日本棋院関西総本部であった。同じく今春棋士となった大森らん初段(16)に敗れ、ほろ苦い黒星デビューとなった。
 
 
対局は考慮時間の短い早碁棋戦「竜星戦」の予選。通常なら大部屋で打って記録係もつかないが、大部屋を特別対局室に模様替えし、記録係もつけて対局者を迎えた。押し寄せた報道陣は約40100人。ドイツのテレビ局など海外メディアの姿もあり、日本棋院の広報担当者は「経験のない盛り上がり」と言う。
 
午後2時半、身長126センチの仲邑初段と159.5センチの大森初段が向かい合い、対局開始。先手番の仲邑初段が第1着を打ち下ろすと、ぐるりと囲んだカメラの放列から一斉にシャッターの連写音が鳴り響いた。
 
 
与えられた考慮時間は各1時間あったが、仲邑初段は序盤から相手が打つと即座に打ち返す。しかし中盤に逆襲されて劣勢に立たされると、残り時間はみるみる減って、最後は秒読みに追われた。逆転のチャンスは訪れず、174手で投了した。
 
対局後、仲邑初段は硬い表情で会見室に現れた。「どんな対局でしたか?」の質問には「緊張してうまくいかなかった」。「いまのお気持ちは?」には「悔しい」。しかし目標を聞かれると、これまでの取材と同じく「女流タイトルを取って、世界で戦いたい」と、きっぱり言い切った。
 
 仲邑初段は現在10歳1カ月で、これまで藤沢里菜女流三冠(20)が持っていた最年少対局記録(11歳8カ月)を、9年ぶりに更新した。   (朝日新聞DIGITAL 20194221954分)


 

ウェブニュースより
 
(ニュースQ3)新5千円札、津田梅子の写真を反転? ―― 2024年度にデザインが変わる新5千円紙幣の顔となる津田塾大学創設者、津田梅子の肖像が「元となった写真を左右反転している」とネットで話題を集めている。16日には菅義偉・官房長官が記者会見で言及する事態になった。どういうことなのか。
 
「複数の写真参考」
 財務省が9日に新5千円紙幣の見本としてログイン前の続き公表した画像では、紙幣の右側に津田の肖像が描かれている。その顔の向きは、紙幣の中心に向かうように正面から見てやや左側を向いている。従来のお札の構図だ。
 一方、津田塾大が資料として財務省に提供した複数の写真のうち、「最も紙幣の肖像と近い」とみられる1枚は、正面から見て右側を向いている。紙幣とは逆だ。
 このため、ネット上では、「画像を反転させただけの『裏焼き』(写真のネガを表裏逆に使うこと)に見える」「やり直すべきでは」といった声が上がった。
 財務省が公表した画像はまだ見本段階のもので、今後、原版をつくるための彫刻作業が行われるという。ただ、財務省の担当者は、この見本の紙幣の肖像も、特定の写真を転写したものではない、と話す。さらに、新紙幣を作成する際は、複数の写真を参考にしながら、紙幣用の「オリジナル」の原版を、彫刻を専門とする印刷局の職員が彫る。この作業に手間がかかることも、新紙幣発行の準備に5年近い時間がかかる理由の一つだという。
 菅官房長官は16日の会見でこの問題について問われ、「様々な写真を収集して、それらを参考に、彫刻を行って原画を作成する。既存の写真がそのまま肖像として、印刷されることはない」と説明した。
 ■「非常識」批判続く
 菅官房長官や財務省の説明はあまり納得を得られておらず、ツイッターでは「人間の顔は左右非対称だし、非常識」などと、批判が続いている。
 津田の弟の孫にあたる津田守・大阪大名誉教授は朝日新聞の取材に「お札の内側を向いた肖像にするために反転させたんだろうと思うが、見本とはいえ、本当の梅子の顔とは違うものになってしまった。違和感がある」と疑問を示す。「このままお札を刷ってしまえば、財務省は将来も言い訳をしつづけないといけなくなる。他の写真をもとに作り直したほうがよいと思う」。一方、写真を財務省に提供した津田塾大は「コメントする立場にない」(企画広報課)としている。
 ■慣例では左向き
 なお、近年は「お札の顔」となる人物を誰にするかは、「写真が残っている人物であることが大前提」だ。お札に顔を刷るのは、見慣れた顔ならばちょっと違うだけで違和感を抱き、「ニセ物」と見抜く人間の能力を使いたいという事情もある。その役目を果たすため、お札の肖像には、写真に近いレベルの精巧さが求められるという。
 また、お札に描かれる肖像は紙幣の右側にあるが、その位置はあくまで慣例で、法令などで決まっているわけではない。肖像が紙幣の右側にあるため、紙幣の中心に向かうように、正面から見て左向きで描かれてきた。今回の新紙幣でも、従来通りの向きにしたのは、「皆さんが慣れているから」と財務省の担当者は話す。   (朝日新聞DIGITAL 20194180500分)
 


2024年からの新札発行にともない、新しい5,000円札は津田梅子が候補者であると報道されました。
 
彼女はどんな人物か?
 
一言でいえば帰国子女のはしりともいえる人であり、津田塾大学の創始者という人物です。
 
この時代の女性としては割と有名かもしれませんが、しかしそれ以外の点となると、意外に知られていないのではないでしょうか。
 
女子教育の先駆者と呼ばれる津田梅子。彼女は一体どんな女性だったのか。その辺もあわせて見て参りましょう。
 
岩倉遣欧使節とともに海路で渡米
 
梅子は、元幕臣の父・津田仙の次女として、現在の東京都新宿区で誕生。
 
明治時代に入ってから、仙が北海道開拓使次官の黒田清隆と知り合ったことで、梅子の運命は八割がた決まりました。
 
黒田が女子教育にも関心を持っていたため、仙もそれに同調し、当時6歳の梅子を海外留学させることに決めたのです。
 
物心ついたばかりの娘に対して、仙は一体どんな説明をしたんでしょうね。
 
こうして梅子は、岩倉遣欧使節とともに海路でアメリカへ向かいます。
 
 
現地では画家のチャールズ・ランマンという人の家に預けられ、英語やピアノを習いながら、アメリカでの生活に慣れていきました。
 
 
幼かったぶん飲み込みも早かったようで、ちょっとした弊害もありました。
 
日本語から遠ざかっていってしまったために、日本にいる父親への手紙も英語で書くようになったのです。
帰国後は「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」
 
14歳のときには私立女学校へ進学し、語学・英文学・自然科学・心理学・芸術を学習。
 
17歳のときに日本から帰国命令が出ましたが、山川捨松(後の大山捨松)と梅子は在学中だったため、延長を申請しました。
 
 
捨松と梅子はこれ以外のことでも一緒に行動するなど、大変仲が良く、帰国してからも長く友情を続けています。
 
同時に、捨松のホストファミリーだったベーコン家の末娘・アリスも二人と友情を育みました。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行するなどもしてエンジョイしておりました。
 
梅子らが帰国したのは、明治十五年(1882年)のことです。
 
しかし、人格形成に最も影響する幼少期を異国で過ごした彼女らにとって、母国は決して身近なものではありませんでした。
 
現在でさえ、儒教の価値観から完全に脱してはいない日本です。明治時代ならいわずもがな。
 
せっかく身につけた西洋の学問や生活習慣・見識を、女性が活かせる場所はほとんどありません。
 
捨松ともう一人の女子留学生・永井繁子は軍人に嫁ぎましたが、梅子は日本での結婚観に嫌気が差し、生涯独身を貫くことを決めます。
 
あっちこっちから縁談はあったそうですが、後々手紙で「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」と書いているくらいですから、よほどしつこく勧められたのでしょうね。
 
当時の結婚観からすると、アメリカで学んだことが無駄になる可能性が高かったから、でしょうか。


伊藤博文から下田歌子を紹介される
 
自らの進むべき道を模索していた梅子。そんな折、外務卿(現在の外務大臣)・井上馨から夜会への招待がきます。
 
ここで梅子は、伊藤博文から下田歌子を紹介されました。
 
歌子はこの頃、桃夭女塾を開いて数年目。まだまだ人材がほしいところだったのです。
 
梅子は伊藤や桃夭女塾の生徒たちに英語を教えながら、歌子から日本語を教わり、日本人として、大人としてスタートを切りました。こうした努力と意思は伊藤に認められ、華族女学校の英語教師にも推薦されています。
 
 
ただ、華族=元公家・元武家のお嬢様が通う学校ですから、気風にはあまり馴染めなかったようです。
 
なんせ女子の体育の授業が新聞に書き立てられるような時代です。
 
庶民と華族の間に相当の隔たりがあったことは想像に難くありませんよね。
ヘレン・ケラーを訪ね、ナイチンゲールとも会見
 
24歳のときにはアリス・ベーコンが来日し、再度の留学を勧められて二回目の渡米を決意。
 
 
父のツテで留学と学費免除を取り付けることができ、再度渡海して生物学を学びました。
 
成績はなかなかのものだったようで、大学からは「ここに残って研究を続けたらいいじゃないか」と言われたとか。
 
しかし、再びアメリカで生活したことで、梅子は自分がやるべきことを見いだせたようで、誘いを断って三年で帰国を決意します。
 
日本女性の現状を知った上で再び留学したことにより、女子教育を広める大切さを実感したのでしょう。
 
帰国後は再び華族女学校に勤めながら、明治女学院でも講師を務め、自宅に女学生を預かるなど、女子教育の支援を積極的に行いはじめました。
 
34歳のときには女子高等師範学校教授を兼任し、アメリカで日本女性の代表として万国婦人クラブ連合大会で挨拶しています。
 
その足でヘレン・ケラーを訪ね、さらにイギリスに招かれてフローレンス・ナイチンゲールやヨーク大主教とも会見するなどしていますので、ますます女子教育の重要性を肌で感じたと思われます。
 
 
タイミングを図ったかのように、梅子35歳のときに日本では高等女学校令、私立学校令が公布。
 
これによって、法的に女子教育の足がかりができました。
 
梅子は他の学校の講師を辞め、父やアリス・ベーコン、大山らの協力を得て、「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立しました。
 
ここで彼女は、「身分にとらわれない女子教育」を実現すべく邁進していきます。
 
実学重視の方針に逃げ出す学生たちもいた
 
それまで女性への教育というと、学問というより教養という面が強いものでした。
 
しかし梅子は、女性が社会に出て役に立てるような、実用的な教育を行います。
 
その厳しさに逃げ出す学生もいたそうですが、梅子たち講師陣も難しい状況に置かれていました。
 
というのも、外部から教育方針への干渉を受けないように、スポンサーを求めることを極力避けていたからです。
 
当初梅子らは、無償で授業を行うことで資金不足を補っていましたが、学生や教師が増えるとそうもいきません。明治三十六年(1903年)には専門学校令が公布されたため、これに申請して塾を社団法人としたことで、大分マシになったようです。
 
梅子は大正八年(1919年)に健康上の理由で塾長を辞任し、後進に学校を任せました。
 
その後は鎌倉の別荘で療養していたそうが、10年後の昭和四年(1929年)に脳出血のため64歳で亡くなっています。
 
その後、女子英学塾は津田英学塾と改名し、戦災によって校舎を失いながらも、津田塾大学として今に続いております。
 
 
世情の変化と教育制度の整備により、女性が教育を受けること、社会に出て自立することはごく当たり前になりました。
 
梅子がこれを見て満足しているか、あるいは偏差値主導の風潮に不満を抱くか……さて、どっちなのでしょう。


 

甥の東樹氏よりメールが入りました。曰く、
 
中村東樹です。
 
今日三次の日高家の墓参りに、上野さん、千里と3人で行ってきました。叔父さんの分もしっかり手を合わせてきました。昨日は母の誕生日で、存命なら92才でした。喜んでくれたのか、天気は快晴で三次まで4時間のドライブも快適でした。
 


一昨日の磯部松之助氏からの電話によると水門会の旧友平野智美氏が亡くなったようです。

 
東京新聞の記事より、
 
平野智美さん 上智大名誉教授、教育哲学 (東京新聞)
 
2019130日 関連地域 : 東京 コメント : 0
 
平野智美さん(ひらの・ともみ=上智大名誉教授、教育哲学)25日、心不全のため死去、86歳。北九州市出身。葬儀・告別式は家族葬で行った。喪主は妻妙子(たえこ)さん。 


ウェブニュースより
 
ノートルダム火災、修復には時間も ―― パリ中心部のノートルダム寺院で15日夜(日本時間16日未明)に大規模な火災が起きた。保護された文化財もあるが、尖塔(せんとう)や屋根が焼失した。フランスの歴史や宗教の象徴的な存在である寺院の災禍は、フランス国民に大きな衝撃を与えた。マクロン仏大統領は「大聖堂を再建する」と宣言したが、修復には数十年かかるとの見方もある。
 
 
消防当局者は出火から約15時間が経過した16日午前10時(日本時間午後5時)ごろに火災が鎮火したと発表した。現場では約400人の消防隊員が消火活動にあたった。

 
寺院の屋根裏付近から出火したとみられ、高さ約90メートルの尖塔が焼け落ちた。屋根の骨組みには大量の木材が使われ、これが激しく燃えた一因とみられている。
 
パリの検察当局は16日、「現状では、事故の可能性が高いとみている」と語った。屋根の改修工事が出火原因だった可能性があるとみて、作業員から事情を聞くなどして原因の特定作業を進めている。
 
フランスのカトリック信仰の中心である同寺院には貴重な文化財が多数ある。イダルゴ・パリ市長はキリストが十字架刑の際にかぶっていたとされる聖遺物「いばらの冠」など「複数の主要な文化財は安全な場所にある」と明らかにした。   (日本經濟新聞 2019/4/16 21:00


 

ウェブニュースより
 
パリのノートルダム寺院で大火災 世界遺産の尖塔崩落、失火の疑い ―― 【パリ共同】パリ中心部の観光名所で世界遺産のノートルダム寺院(大聖堂)で15日午後650分(日本時間16日午前150分)ごろ、高層部から出火、屋根が炎上する大火災となり、高さ約90メートルの尖塔が焼け落ちた。消防当局は16日未明まで懸命の消火活動を続け、建物の崩壊を防いだ。検察当局は失火の疑いがあるとみて捜査を始めた。
 
 フランスのテレビは消防士1人が重傷を負ったと伝えた。寺院関係者や観光客の死傷の情報はない。パリ市当局者は寺院が保有する宗教芸術など多数の貴重な文化財は守られたと述べた。マクロン大統領は寺院再建を誓った。
 寺院は一部が改修工事中だった。   (一般社団法人共同通信社 2019/4/16 11:09

ウェブニュースより
 
藤井七段、森内九段に勝利 王将戦・1次予選 ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太七段(16)が12日、東京都渋谷区の将棋会館で指された第69期王将戦の1次予選で、森内俊之九段(48)に92手で勝った。藤井七段は「新年度の初対局を白星スタートできたのはよかった。今年も成長できる1年になるといいと思う」と話した。
 
 
相手の森内九段は名人を8期務めた「十八世名人」の資格保持者。藤井七段は2017年9月のNHK杯戦でも勝っている。森内九段は「作戦の岐路であまり予想していなかった手が出て、いつの間にかペースを握られてしまった。前回の対局は持ち時間の短い将棋だったので、今回はゆっくり指せると楽しみにして臨んだが、うまく指されてしまいました」と話した。
 
https://www.youtube.com/watch?v=II4kMoxE3Wk
 王将戦の1次予選では、あと2回勝てば2次予選に進む。さらに2次予選を勝ち抜くと7人による挑戦者決定リーグ戦に入り、そこで成績1位になれば挑戦権が得られる。   (朝日新聞DIGITAL 20194121853分)


 

中世の七不思議
 
時代の変遷とともに、ヨーロッパ人の地理的知識が広がり、七不思議として世界中の建造物が選ばれるようになりました。選者・年代ともに不明(14世紀以降と見られる)ながら、次の7つが一般に挙げられます。
①ローマのコロッセウム
 
②アレクサンドリアのカタコンベ
 
③万里の長城
 
④ストーンヘンジ
 
⑤ピサの斜塔
 
⑥南京の大報恩寺瑠璃塔(陶塔。中文)
 
⑦イスタンブールの聖ソフィア大聖堂
 
 
南京の陶塔以外は現存します。

世界七不思議 ⑦アレクサンドリアの大灯台
 
 
ファロス島の大灯台、あるいはアレクサンドリアのファロスとも呼ばれます。ファロス島は、アドリア海に同名の島(現在のフヴァル島)がありますが、それとは別で、アレクサンドリア港の一方の端に人工の埋め立てにより出来上がった半島の突端にあった小さな島です。
 
 
14世紀の二度の地震によって全壊したが、七不思議の中ではギザの大ピラミッドに次ぐ長命な建造物でした。
建造に至る経緯
 
紀元前332年、アレクサンドロス3世によってナイル河口にアレクサンドリアが建設されました。アレクサンドロスの死後、エジプトは彼の部下であるプトレマイオス1世の統治下に置かれ、ここにプトレマイオス朝が開かれました。
 
プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都としましたが、この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もありませんでした。そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建造を決定しました。
 
建造の指揮はクニドスのソストラトスに任せられました。建造地にはアレクサンドリア湾岸のファロス島が選ばれました。島とアレクサンドリア港との間は人工的な通路で結ばれた。紀元前305年から工事を開始し、完成したのはプトレマイオス2世の代でした。
 
構造
 
灯台の全高は約134メートル(約440フィート)。建造当時は地球上で最も高い人工物の一つでした。建材には大理石が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていきました。
 
形状の異なる三つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部はひとまわり細い八角柱、上層部はさらに細い円柱形でした。
 
 
頂点には鏡が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていたといいます。
 
灯台の四つ角には、角笛を吹く海神トリトンの彫像が置かれていました。また、ローマ時代には頂点にも彫像が置かれていました。
 
内部には、螺旋状の通路が設けられ、そこをロバを使い薪を運んでいたと考えられています。


 

荒幾則氏からメールが入りました。曰く、
 
日高先生
 
返信メール、有難うございます。
 
こうしてみると、以前からの2つのメールアドレスを使われている事が分かりました。
 
さて私の日程ですが、5月16日(木)晩に羽田到着。28日(火)昼に成田発です。
 
但し 最初の週末(金〜日)は三社祭。次の週末(金〜日)は千葉鴨川でサーフィンを予定しています。
 
ですから平日の晩となると、日数が限られ 既に仕事関連などで埋まってしまいました。
 
三社祭中は、日高先生の所に集まるのでしょうか?
 
集まるのであれば、その日時に伺いたいと思います。
 
それとも 何処かの店に行く様であれば、そちらへ伺います。
 
お手数ですが、日高先生のスケジュールをお知らせ下さい。
 
尚 日本到着前には、私の携帯番号とか連絡先をお知らせします。
 
以上 どうぞ宜しくお願いします。      荒 幾則

三社祭
 
東京都 台東区 浅草2-3-1
 
2019517 - 2019519
 
宮戸川(隅田川)で投網をしていた、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が捧持された観音像を土師真中知(はじのまつち)が自宅にお祀りしたのが浅草寺のはじまり。のちに土師真仲知命と檜前浜成命・竹成命の三名を三社権現と称しお祀りされたのがこの浅草神社の起源となる。江戸時代から現代において当代随一の荒祭りとして全国的に知られるようになった三社祭は、江戸三大祭りのひとつに数えられ、下町の情緒を今に残す名物行事になっている。
 


世界七不思議 ⑥ロドス島の巨像
 
 
エーゲ海南東部に浮かぶロードス島。紀元前4世紀頃、この島は地中海貿易の中継地として、繁栄をきわめていました。
 
ところが紀元前305年、4万から成るマケドニアの大軍が突如、侵攻してきました。苦境に陥ったロードスです。そこに援軍を派遣してくれたのは、エジプトのプトレマイオス1世だったのです。こうしてマケドニア軍の撃退に成功したロードスの人々は、プトレマイオス1世への感謝と、自分たちの勝利を記念して、マンドラキ港に島の守護神である太陽神ヘリオスの巨像を造る事にしたのです。
 
 
制作者は彫刻家のカレスで、主な材料は青銅でした。巨像は、マケドニア軍が放棄した青銅製の武器を利用して造られたといいます。
※カレス:ギリシアの彫刻家で、リュシッポス(紀元前4世紀の古代ギリシアの彫刻家)の弟子。ロードス島のデメトリオス1世に対する勝利を記念して巨大なヘリオス神像(世界の七不思議の一)を作りました。
 
紀元前302年に制作を始め、12年の歳月を費やして完成したということです。白い大理石で造られた高さ15メートルの台座をもちます。
 
その上に外港を威圧するかのように建てられた像そのものの高さは33メートル。両方を加えると、実に48メートルに達します。
 
現在アメリカ、ニューヨーク港に建つ自由の女神の高さが46.3メートルだから、古代の人々ならずしても、途方もない大きさの像でした。だが、資料が少ないため、その実態は謎に包まれたままです。
 
像の形態にしても、両足を開いて港の入り口をまたぐようにして、防波堤の突端に立っていたとする説がある一方で、足を揃えていたとするなど諸説あります。 ただし、現在のマンドラキ港の入り口の幅は約60メートルあります。
 
当時も同程度の幅だったとすれば、港をまたいでいた場合、巨像は前述の高さより巨大でなければなりません。そのため、最近では足を揃えていたとする説が有力です。
 
巨像の内部には螺旋状の階段が設けられ、両目の内側にある燭台が夜を徹して赤々と燃えていました。右手には煮えたぎる油を満たして器を持っていて、港に侵入する敵船に上から注ぎ落とす工夫がなされていたともいいます。
 
製作法も謎に包まれたままだ。鋳造説が有力だが、鉄の補強材で組み立てて石材で安定させ、その表面に青銅板を貼り付けたなどの説もあります。残念ながらこの巨像は、紀元前224年、地震によって倒壊しました。
 
その後、900年近くも倒れたまま放置されていたが、672年にアラブ軍が同島を占領。残骸をスクラップにして売り飛ばしてしまい、跡形もなく地上から姿を消したのでした。
 
19877月初め、ロードス島の沖合700メートル、深さ52メートルの海底で、石灰岩の彫刻物が発見されました。それは縦160センチ、横180センチ、厚さ85センチ、重さ1トンという巨大なもので、左手で拳を握ったような形をしているといいます。この彫刻物が、幻の巨像の拳であるかどうかの結論は出ていません。


 

イギリス在住の塾友 荒幾則氏よりメールが入りました。曰く、
 
日高先生
 
お元気ですか? 5月に久し振りに日本へ行きます。
 
16日(木)着 〜 28日(火)発の予定で、三社祭が目的です。
 
是非 お会いしたいと思いますので、このメールが届きましたら 受領報告をお願いします。
 
どうぞ宜しくお願い致します。    荒 幾則


早速写真を添えて返信しました。曰く、
 
メール有難う。
 
在日中の予定が判ればお知らせください。
 
皆さんとも会える機会を設けてもよいのではと思います。
 
またの連絡をお待ちしています。    日高節夫
 

 
3月9日以降お留守になっている世界七不思議についての記述を続けます。
世界七不思議 ⑤ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
 ハ
リカルナッソスのマウソロス霊廟
 
 
マウソロスとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟です。
 
 
ギリシア人建築家のピュティオスとサテュロスによって設計され、スコパス、レオカレス、ブリュアクシス、ティモテオスという4人の高名な彫刻家によってフリーズ(彫刻帯)が施された。その壮麗さから、世界の七不思議のひとつに選ばれています。
 
また、ヨーロッパ圏で使用される単語「マウソレウム(一般に巨大な墓の意、英語:mausoleum)」はこの霊廟に由来するといいます。
 
マウソロスは、カリア国の首都をハリカルナッソス(現在のトルコ共和国ボドルム)に定め、周囲の地域も支配下に置きました。この霊廟は、マウソロスの死後に妃アルテミシアが夫のために建造したといわれているが、実際にはマウソロスの生存中に建造が開始されたと考えられています。マウソロスの死から3年後、アルテミシアの死から1年後にあたる紀元前350年に完成したといわれています。
 
アルテミシアは霊廟建設の費用を全く惜しみませんでした。彼女は、当時最も優れた建築家と芸術家を連れてくるため、ギリシアに使いを送りました。こうして2人の一流建築家ピュティオス、サテュロスと4人の高名な彫刻家スコパス、ブリュアクシス、レオカレス、ティモテオスが造営に参加しました。中でもスコパスは、他の世界の七不思議のひとつエフェソスのアルテミス神殿も手がけています。
 
 
霊廟は町を見渡す丘の上に建てられた。工事場はレンガの壁に囲まれ、建築家たちはその中で作業をしました。まず、その中央に墓本体となる石壇が置かれ、ライオンの石造を横に配した階段が石壇に向かって築かれました。そして、この外壁に沿って神や女神の像が置かれ、角ごとには馬に乗った戦士の像が墓を守るように置かれました。これが霊廟の第1層です。また、この層の上部にはギリシア神話や歴史の一場面を描いた彫刻帯が施されました。スコパスが東側、ブリュアクシスが北、ティモテオスが南、レオカレスが西の彫刻を担当しました。スコパスは、ギリシア人とアマゾン族(好戦的女性部族)の闘争を描き、他の3人はラピテス族とケンタウロスの闘争などを描きました。
 
 第
1層から第2層へと工事は移ります。第1層から第2層へと36本の柱が上げられました。第2層は外に露出した円柱の集まりである。短い辺に9本ずつ、長い辺に11本ずつ柱が配されたと考えられています。柱と柱の間には1体ずつ像が置かれ、柱に囲まれた内側には、巨大な屋根を支えるため石のブロックが積まれました。
 
第3層は、24段のピラミッド型の屋根であった。この頂上には、巨大なクァドリガ(4頭立ての馬車)の像が置かれた。この馬車に、マウソロスとアルテミシアの像が乗っていたとも言われていますが、何も乗っていなかったという説が有力です。根拠としては、ギリシア世界では主のいない馬車は主の死を意味していたこと、マウソロスとアルテミシアの像は馬車の像のそばで発見されましたが、彼らの像が馬車に乗る格好をしていなかったことなどが挙げられます。どうやら、彼らの像は、第2層あるいは第1層に他の像と同様に置かれていたようです。
 
マウソロスの霊廟は、ハリカルナッソスの中心地に何世紀もの間建っていました。紀元前334年にアレクサンドロス大王によって町が陥落したときも、紀元前60年前後に海賊の襲撃を受けたときも、被害を受けずに残っていました。そして、1600年もの間、廃墟となった町を見下ろすように建っていましたが、度重なる地震によって柱は崩れ、屋根に乗っていた馬車の像は地面に落ちてしまったといいます。1404年には、ただ土台だけが確認できたのみでした。
 
15世紀のはじめ、聖ヨハネ騎士団がこの地を侵略し、巨大な城を建てました。1494年にこの城を要塞化することが決まると、彼らはマウソロス霊廟の残骸を資材として使いまし。さらに1522年、オスマン軍が攻めてくるという噂が流れると、彼らはボドルム(旧ハリカルナッソス)の要塞を強化し、残っていた残骸もすべて城壁に使われてしまいました。今日でもこの要塞跡の壁に、かつて霊廟に使われていた大理石を見ることができます。
 
 
記録によれば、このころ騎士の一団が霊廟跡の土台に立ち入り、棺の間を発見しています。発見した日はすでに帰営の時間になっていたので、一団は棺を開けずに立ち去ります。翌日、彼らが棺を開けると、あるべき宝やマウソロスとアルテミシアの遺体は無くなっていました。騎士たちは、周辺の住民か海賊が略奪したと主張しましたが、実際に略奪したのは騎士たち自身であったとも言われています。
 
マウソロス霊廟の残っていた彫刻が砕かれて城壁の資材とされる前に、騎士たちはいくつかの優れた作品を移動してボドルム城に集めておきました。それらは、十字軍が引き上げた後も300年にわたりそこに保存されました。また、これらの内いくつかは大英博物館に収蔵され、後の霊廟跡の発掘にも資料として影響を与えることとなりました。


 

 4月1日に政府が発表した新元号「令和」は、日本最古の和歌集である「万葉集」の出典だといいます。しかし、中国の古典に詳しい一部ネットユーザーからは、中国の詩文集「文選」(もんぜん)までさらにさかのぼれるのではないかという声が上がっています。
 万葉集巻五「梅花歌三十二首」には、詩歌の背景や趣旨を説明する「題詞」の中に「于時初春令月 氣淑風和」(時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ)という語句があり、「令和」はこれを出典としたとしています。
 しかし、これと似た漢文が、万葉集(780年頃成立)以前の中国の詩文集「文選」(530年頃成立)にあります。
 文選巻十五に収められた、後漢の文学者であり科学者の張衡(ちょうこう)が詠んだ「帰田賦」には、「於是仲春令月 時和氣清」(これにおいて、仲春の令月、時は和し気は清む)とあります。
 
 「ブリタニカ国際大百科事典小項目事典」や「大辞林 第三版」によれば、「日本に早くから伝わり、日本文学に大きな影響を与えた」とあることから、梅花歌三十二首の題詞の著者が文選を参考にした可能性があります。
 日本の元号は「平成」まで、出典が明らかなものについては全て中 { 国の書物が典拠だとされています。
 「令和」は初めて国書を典拠とする元号となったが、その源流にはやはり中国があるのかもしれません。この機会に日本や中国の古典を読み解くのも面白そうです。 



ウェブニュースより
 最優秀棋士賞に豊島将之2冠 藤井聡太七段は“神の一手”で升田幸三賞初受賞 ―― 平成30年度の将棋大賞選考会が1日、東京都渋谷区の将棋会館で行われ、最優秀棋士賞には豊島将之2冠(28)が初選出された。
 
 優秀棋士賞は王将、棋王の渡辺明2冠(34)が6度目の獲得。
 昨年「7冠」を獲得した藤井聡太七段(16)は記録部門で最高勝率0.849の1冠に終わったが、升田幸三賞の初受賞が決まった。

 同賞は新戦法や妙手を編み出した棋士に与えられるもので、昨年6月5日に行われた竜王戦5組ランキング戦・石田直裕五段戦の終盤に指した「7七同飛成」が対象。AIを超えた「神の一手」として有名になった。  [ Sponichi Annex 2019年4月1日 15:14 ]





 

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