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中国本部の北側に築かれた防御用の城壁です。この城壁は1987年に世界遺産の文化遺産として登録されています(世界文化遺産)。その延長は地図の上からは約2700キロメートルであるが、重複している部分を加えるとその倍以上になります(2009年の発表では、現存する明代の長城の総延長は8851.8キロメートル)。
 
 
春秋時代の斉(せい)が領土防衛のため国境に築いたのが長城の起源で、戦国時代の諸国もこれに倣いました。秦(しん)の始皇帝は中国統一(前221年)後、匈奴(きょうど)の侵入を防ぐため、甘粛(かんしゅく/カンスー)省南部から北へ、黄河(こうが/ホワンホー)大屈曲部の北を巡って東に延び、東北地区の遼河(りょうが/リヤオホー)下流に至る長城を築きましたが、なかば以上、戦国時代の燕(えん)、趙(ちょう)などの長城を利用したものでした。この長城の東部の遺址(いし)が東北地区で発見されています。
 
 
前漢の武帝(在位前141~前87年)のころ、河西(かせい/ホーシー)回廊を匈奴から守るため、長城を蘭州(らんしゅう/ランチョウ)北方から西に、敦煌(とんこう/トゥンホワン)の西の玉門関まで延長しました。南北朝時代には北方民族の活動で長城の位置は南下し、6世紀中ごろ、北斉(ほくせい)は大同の北西から居庸関(きょようかん)を経て山海関に至る長城を築き、隋(ずい)は突厥(とっけつ)、契丹(きったん)に備えてオルドス南辺に長城を築きました。長城が現在の規模になったのは明(みん)代で、モンゴルの侵入を防ぐためでした。ほぼ北斉以来の線に沿ったもので、15世紀の前半には河北(かほく/ホワペイ)、山西(さんせい/シャンシー)の北部の長城が強化され、内長城もつくられてこの付近の長城は二重となり、後半にはオルドス南部から蘭州を経て嘉峪関(かよくかん)までの長城が修築され、16世紀中ごろには大同北西から山海関までが堅固に改修されました。
 
長城の構造は、古くは版築で、楊柳(ようりゅう)(ヤナギ)やアシなどを束ねて土と交互に重ね、突き固めてある。日干しれんがも一部に用いられていたが、山西方面より東方は明代以後、焼いたれんがで被覆されるようになりました。首都北京(ペキン)防衛のためもありますが、モンゴルの侵攻がこの方面で激しかったことを示しています。現在観光の対象となっている八達嶺(はったつれい/パーターリン)付近の長城は、高さ8.5メートル、厚さは底部6.5メートル、頂部5.7メートル。頂部上には高さ1.7メートルの連続した凸字状の垣である女牆(じょしょう)を築き、銃眼が開きます。また120メートル間隔で台(とんだい)(一種の見張り所)が設けられ、軍の駐留と監視に役だてました。
 
 
長城が交通路と交差する要地には堅固な城壁で囲んだ関城が設けられていました。山海関、古北口、張家口、雁門関(がんもんかん)、殺虎口(さっここう)、嘉峪関などがそれです。清(しん)代に入ると長城は軍事的意味を失い、中国本部とモンゴルとの間の政治的境界にすぎなくなりました。なお歴史的事実のうえからみると、外敵防御という長城構築の目的はほとんど達成されておらず、単に威圧感を与えた程度といってよかったといえます。


 

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