瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 
(ニュースQ3)新5千円札、津田梅子の写真を反転? ―― 2024年度にデザインが変わる新5千円紙幣の顔となる津田塾大学創設者、津田梅子の肖像が「元となった写真を左右反転している」とネットで話題を集めている。16日には菅義偉・官房長官が記者会見で言及する事態になった。どういうことなのか。
 
「複数の写真参考」
 財務省が9日に新5千円紙幣の見本としてログイン前の続き公表した画像では、紙幣の右側に津田の肖像が描かれている。その顔の向きは、紙幣の中心に向かうように正面から見てやや左側を向いている。従来のお札の構図だ。
 一方、津田塾大が資料として財務省に提供した複数の写真のうち、「最も紙幣の肖像と近い」とみられる1枚は、正面から見て右側を向いている。紙幣とは逆だ。
 このため、ネット上では、「画像を反転させただけの『裏焼き』(写真のネガを表裏逆に使うこと)に見える」「やり直すべきでは」といった声が上がった。
 財務省が公表した画像はまだ見本段階のもので、今後、原版をつくるための彫刻作業が行われるという。ただ、財務省の担当者は、この見本の紙幣の肖像も、特定の写真を転写したものではない、と話す。さらに、新紙幣を作成する際は、複数の写真を参考にしながら、紙幣用の「オリジナル」の原版を、彫刻を専門とする印刷局の職員が彫る。この作業に手間がかかることも、新紙幣発行の準備に5年近い時間がかかる理由の一つだという。
 菅官房長官は16日の会見でこの問題について問われ、「様々な写真を収集して、それらを参考に、彫刻を行って原画を作成する。既存の写真がそのまま肖像として、印刷されることはない」と説明した。
 ■「非常識」批判続く
 菅官房長官や財務省の説明はあまり納得を得られておらず、ツイッターでは「人間の顔は左右非対称だし、非常識」などと、批判が続いている。
 津田の弟の孫にあたる津田守・大阪大名誉教授は朝日新聞の取材に「お札の内側を向いた肖像にするために反転させたんだろうと思うが、見本とはいえ、本当の梅子の顔とは違うものになってしまった。違和感がある」と疑問を示す。「このままお札を刷ってしまえば、財務省は将来も言い訳をしつづけないといけなくなる。他の写真をもとに作り直したほうがよいと思う」。一方、写真を財務省に提供した津田塾大は「コメントする立場にない」(企画広報課)としている。
 ■慣例では左向き
 なお、近年は「お札の顔」となる人物を誰にするかは、「写真が残っている人物であることが大前提」だ。お札に顔を刷るのは、見慣れた顔ならばちょっと違うだけで違和感を抱き、「ニセ物」と見抜く人間の能力を使いたいという事情もある。その役目を果たすため、お札の肖像には、写真に近いレベルの精巧さが求められるという。
 また、お札に描かれる肖像は紙幣の右側にあるが、その位置はあくまで慣例で、法令などで決まっているわけではない。肖像が紙幣の右側にあるため、紙幣の中心に向かうように、正面から見て左向きで描かれてきた。今回の新紙幣でも、従来通りの向きにしたのは、「皆さんが慣れているから」と財務省の担当者は話す。   (朝日新聞DIGITAL 20194180500分)
 


2024年からの新札発行にともない、新しい5,000円札は津田梅子が候補者であると報道されました。
 
彼女はどんな人物か?
 
一言でいえば帰国子女のはしりともいえる人であり、津田塾大学の創始者という人物です。
 
この時代の女性としては割と有名かもしれませんが、しかしそれ以外の点となると、意外に知られていないのではないでしょうか。
 
女子教育の先駆者と呼ばれる津田梅子。彼女は一体どんな女性だったのか。その辺もあわせて見て参りましょう。
 
岩倉遣欧使節とともに海路で渡米
 
梅子は、元幕臣の父・津田仙の次女として、現在の東京都新宿区で誕生。
 
明治時代に入ってから、仙が北海道開拓使次官の黒田清隆と知り合ったことで、梅子の運命は八割がた決まりました。
 
黒田が女子教育にも関心を持っていたため、仙もそれに同調し、当時6歳の梅子を海外留学させることに決めたのです。
 
物心ついたばかりの娘に対して、仙は一体どんな説明をしたんでしょうね。
 
こうして梅子は、岩倉遣欧使節とともに海路でアメリカへ向かいます。
 
 
現地では画家のチャールズ・ランマンという人の家に預けられ、英語やピアノを習いながら、アメリカでの生活に慣れていきました。
 
 
幼かったぶん飲み込みも早かったようで、ちょっとした弊害もありました。
 
日本語から遠ざかっていってしまったために、日本にいる父親への手紙も英語で書くようになったのです。
帰国後は「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」
 
14歳のときには私立女学校へ進学し、語学・英文学・自然科学・心理学・芸術を学習。
 
17歳のときに日本から帰国命令が出ましたが、山川捨松(後の大山捨松)と梅子は在学中だったため、延長を申請しました。
 
 
捨松と梅子はこれ以外のことでも一緒に行動するなど、大変仲が良く、帰国してからも長く友情を続けています。
 
同時に、捨松のホストファミリーだったベーコン家の末娘・アリスも二人と友情を育みました。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行するなどもしてエンジョイしておりました。
 
梅子らが帰国したのは、明治十五年(1882年)のことです。
 
しかし、人格形成に最も影響する幼少期を異国で過ごした彼女らにとって、母国は決して身近なものではありませんでした。
 
現在でさえ、儒教の価値観から完全に脱してはいない日本です。明治時代ならいわずもがな。
 
せっかく身につけた西洋の学問や生活習慣・見識を、女性が活かせる場所はほとんどありません。
 
捨松ともう一人の女子留学生・永井繁子は軍人に嫁ぎましたが、梅子は日本での結婚観に嫌気が差し、生涯独身を貫くことを決めます。
 
あっちこっちから縁談はあったそうですが、後々手紙で「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」と書いているくらいですから、よほどしつこく勧められたのでしょうね。
 
当時の結婚観からすると、アメリカで学んだことが無駄になる可能性が高かったから、でしょうか。


伊藤博文から下田歌子を紹介される
 
自らの進むべき道を模索していた梅子。そんな折、外務卿(現在の外務大臣)・井上馨から夜会への招待がきます。
 
ここで梅子は、伊藤博文から下田歌子を紹介されました。
 
歌子はこの頃、桃夭女塾を開いて数年目。まだまだ人材がほしいところだったのです。
 
梅子は伊藤や桃夭女塾の生徒たちに英語を教えながら、歌子から日本語を教わり、日本人として、大人としてスタートを切りました。こうした努力と意思は伊藤に認められ、華族女学校の英語教師にも推薦されています。
 
 
ただ、華族=元公家・元武家のお嬢様が通う学校ですから、気風にはあまり馴染めなかったようです。
 
なんせ女子の体育の授業が新聞に書き立てられるような時代です。
 
庶民と華族の間に相当の隔たりがあったことは想像に難くありませんよね。
ヘレン・ケラーを訪ね、ナイチンゲールとも会見
 
24歳のときにはアリス・ベーコンが来日し、再度の留学を勧められて二回目の渡米を決意。
 
 
父のツテで留学と学費免除を取り付けることができ、再度渡海して生物学を学びました。
 
成績はなかなかのものだったようで、大学からは「ここに残って研究を続けたらいいじゃないか」と言われたとか。
 
しかし、再びアメリカで生活したことで、梅子は自分がやるべきことを見いだせたようで、誘いを断って三年で帰国を決意します。
 
日本女性の現状を知った上で再び留学したことにより、女子教育を広める大切さを実感したのでしょう。
 
帰国後は再び華族女学校に勤めながら、明治女学院でも講師を務め、自宅に女学生を預かるなど、女子教育の支援を積極的に行いはじめました。
 
34歳のときには女子高等師範学校教授を兼任し、アメリカで日本女性の代表として万国婦人クラブ連合大会で挨拶しています。
 
その足でヘレン・ケラーを訪ね、さらにイギリスに招かれてフローレンス・ナイチンゲールやヨーク大主教とも会見するなどしていますので、ますます女子教育の重要性を肌で感じたと思われます。
 
 
タイミングを図ったかのように、梅子35歳のときに日本では高等女学校令、私立学校令が公布。
 
これによって、法的に女子教育の足がかりができました。
 
梅子は他の学校の講師を辞め、父やアリス・ベーコン、大山らの協力を得て、「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立しました。
 
ここで彼女は、「身分にとらわれない女子教育」を実現すべく邁進していきます。
 
実学重視の方針に逃げ出す学生たちもいた
 
それまで女性への教育というと、学問というより教養という面が強いものでした。
 
しかし梅子は、女性が社会に出て役に立てるような、実用的な教育を行います。
 
その厳しさに逃げ出す学生もいたそうですが、梅子たち講師陣も難しい状況に置かれていました。
 
というのも、外部から教育方針への干渉を受けないように、スポンサーを求めることを極力避けていたからです。
 
当初梅子らは、無償で授業を行うことで資金不足を補っていましたが、学生や教師が増えるとそうもいきません。明治三十六年(1903年)には専門学校令が公布されたため、これに申請して塾を社団法人としたことで、大分マシになったようです。
 
梅子は大正八年(1919年)に健康上の理由で塾長を辞任し、後進に学校を任せました。
 
その後は鎌倉の別荘で療養していたそうが、10年後の昭和四年(1929年)に脳出血のため64歳で亡くなっています。
 
その後、女子英学塾は津田英学塾と改名し、戦災によって校舎を失いながらも、津田塾大学として今に続いております。
 
 
世情の変化と教育制度の整備により、女性が教育を受けること、社会に出て自立することはごく当たり前になりました。
 
梅子がこれを見て満足しているか、あるいは偏差値主導の風潮に不満を抱くか……さて、どっちなのでしょう。


 

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お役所仕事
明らかに「反転」させてるのに、官房長官自ら言い訳していて信じられません。着物姿を反転させると左前になり本当に失礼。昔なら許されなかったと思います。
だいたい、5年も先の新紙幣をなぜ今発表する必要があったのか?福岡県知事選での麻生財務相の失点が、かき消されたような気がするのは私だけでしょうか?

御代がわりで国民が浮かれている間に、いろんな事がどこかで決まってしまい、いつの間にか、身動きできないようになってしまうのかもしれませんね。






爺の姪 2019/04/19(Fri) 編集
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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