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松を詠める歌
15
15-3621我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる

◎長門(ながと)の島は、現在の広島県呉市の南にある倉橋島(くらはしじま)で、北側の音戸町と南側の倉橋町とで構成されています。倉橋町の桂浜(かつらがはま)には造船歴史館があり、実物大に復元された遣唐使船が展示されています。

15-3655:今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ

◎舞鶴公園は、福岡城址周辺の公園で、桜の名所ですが、四季を通じて花を楽しめる公園のようです。また、スポーツ施設も多数あります。福岡城は江戸時代初め、黒田長政が造った城で、舞鶴城ともいわれます。
 なお、ここには、上代から外交使節のために建設された「鴻臚館」(当時は、筑紫の館)がありました。現在は、跡地に展示館が公開されています。
 さて、歌碑は下の写真です。

15-3721:ぬばたまの夜明かしも船は漕ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ

◎「御津」は大伴氏の本拠があったとされる大阪湾の東浜一帯を指します。

15-3747:我が宿の松の葉見つつ我れ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに

中臣朝臣宅守(なかとみのあそんやかもり、生没年不詳)
 奈良時代の歌人です。『万葉集』巻15の目録に、蔵部の女孺(後宮蔵司の女官か)狭野茅上娘子を娶ったときに流罪に断ぜられたとあり、越前国に配流されます。原因は、時の政情に絡むかと推測されますが、禁を犯して娘子と結ばれたためともいいます。天平12(740)年6月の大赦では「赦の限りに在らず」とされており、罪せられたのは同11年2月の大赦以後でしょうか。同13年9月の大赦で帰京した蓋然性が高い。天平宝字8(764)年藤原仲麻呂の乱に連座して除名(重罪の官人から位勲のすべてを剥奪する付加刑)されます。『万葉集』の40首は、配所での、都の娘子との贈答が主だが、娘子の23首をも含め、編者(大伴家持か)の手で再構成されたといわれ、全体が悲劇的な愛の物語の趣を呈します。
※狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ、生没年不詳)
 奈良時代の歌人です。蔵部(くらべ)の女嬬(にょじゅ)(後宮の女官)です。中臣宅守(なかとみの-やかもり)の妻でもあります。天平(てんぴょう)11(739)ごろ夫が越前(えちぜん)(福井県)に流されたとき、ふたりでかわした贈答歌が「万葉集」巻1563首おさめられています。うち23首が娘子の短歌で、宅守へのはげしい思慕がうたわれています。

ウェブニュースより
 【ジャンプ】小林陵侑24年ぶり金「2本ともいいジャンプ」札幌の“金銀銅”からちょうど50年 ―― <北京オリンピック(五輪):ジャンプ>◇男子ノーマルヒル決勝◇6日◇国家ジャンプセンター
 ノルディックスキー・ジャンプ男子個人ノーマルヒルで、小林陵侑(25=土屋ホーム)が104.5メートル、99.5メートルの合計275.0点で金メダルを獲得した。ジャンプ日本勢の金メダルは1998年長野大会のラージヒルの船木和喜と団体以来24年ぶり。ジャンプの日本勢として海外開催の五輪では初の頂点だ。

 1972年札幌五輪で笠谷幸生ら「日の丸飛行隊」が表彰台を独占したのは同じ2月6日。ちょうど50年後、日本のエースが偉業を達成した。
      ◇    ◇    ◇
 金メダルを確信した。小林陵は着地すると右手でガッツポーズ。得点がアナウンスされ、金メダルが決まると、兄の潤志郎と抱き合い、雄たけびをあげた。1972年2月6日、札幌五輪。笠谷幸生ら「日の丸飛行隊」が表彰台を独占して日本を湧かせた。ちょうど50年後、小林陵が歴史に名を刻んだ。
 1回目は不利な追い風ながら最長不倒104.5メートル。1位で迎えた2回目。プレッシャーがかかる中、99.5メートルの確実なジャンプで金メダルを決めた。「2本ともいいジャンプをそろえられてうれしい」。

 師匠と弟子の特訓の成果だった。当初、葛西紀明には小林陵の姿に悔しさを感じられなかった。1617年にW杯にフル参戦。1度も30位以内に入れず、W杯ポイントを獲得できなかった。「ノーポイント」と呼んであえてからかった。ハッパを掛けた。17年夏のスロベニア・プラニツァ。「悔しくないのか」「悔しいです」「強くなりたいか」「なりたいです」のやりとり後、葛西から「じゃあ『葛西メソッド』を教えるから」とコツを伝授された。
 「5割の力で飛べ」。曲げた膝の角度を保ちながら、まずは全力を出さずに飛び出す。49歳で現役の葛西でさえ「難しい」という動きを1、2回飛んで成功させた。「100本、1000本飛んでできる選手、何千本飛んでもできない選手って分かれる。陵侑は天才なんじゃないかな」とレジェンドを驚かせた。平昌五輪では未完成で7位。翌19年にW13勝の大ブレークを果たした。
 2人の出会いは小林陵が高2だった13年夏。札幌・宮の森ジャンプ競技場だった。葛西の目には「シュリーレンツァウアーに似てるジャンプをするやつ」と映った。粗削りだったが、飛び出しから空中にかけて腰がくの字に曲がったスタイルが、W杯男子歴代最多53勝の記録を持つオーストリア人選手と重なった。
 この日、師匠・葛西はテレビ局のコメンテーターとして現地で観戦。目の前で最高の恩返しをした。    [日刊スポーツ 2022262235]


 

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