瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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7b20e081.jpg 言問通りを西進、左衛門橋通りを左折しここを南進、かっぱ橋本通り、淺草通りを横切って、元浅草にはいると、誓教寺がある。朝早くでまだ門が閉まっていて境内に入ることは出来ないが、門の傍の台東区教育委員会の標示板に曰く、「江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖である。本姓は中島、名ははじめ時太郎のち鉄蔵といった。号は春朗、宗理、可候、画狂人、卍翁など三十余ある。宝暦10年(1760)9月江戸本所割下水で生まれ、父は徳川家用達の鏡師中島伊勢といった。十四、五才の時彫刻師に学び、十九の時に浮世絵師勝川春章の門に入ったが、ひそかに狩野派の画法を学び師の知るところとなり破門。以来土佐派、淋派、洋風画、中国画などを学び独自の画境を開いた。肉筆画、版画、絵本、さし絵などに手腕をふるい、特に風景画は広重とともに称賛され、「富岳三十六景」をはじめ傑作が多い。彼の作品はヨーロッパに多く流れ、フランスの印象派の人びとに大きな影響を与えた。」
bb4fb79b.JPG 葛飾北斎は、本所で生まれ、障害に30回以上の改名、93回の引越しを重ねたそうで、嘉永2年(1849)、山谷堀遍照院裏店で90歳で没したという。ここ誓教寺に保存される北斎の「絹本着色骸骨図(平成7年度登録)」と「紙本墨画淡彩達磨図(平成10年度登録)」は台東区登録文化財に指定されているという。

f9c26711.jpg 左衛門橋通りを蔵前橋通りに出る手前の鳥越1丁目に200mの惣菜店を中心とした商店街がある。この町は元々町工場が多く、共働きの家庭が多かったため、この通りでおかずを買い求め、家ではご飯を炊きさえすれば食事が出来るというスタイルをとっていた家庭が多かったため、惣菜店が発達したという。
 蔵前橋通りに出ると、ここを東へ進み、蔵前橋を渡ってテラスに降り北上して、吾妻橋から枕橋を通り、桜橋を渡って帰宅した。
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1932/02/04
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