瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  荀子 宥坐篇第二十八 より
5 孔子觀於東流之水。子貢問於孔子曰:「君子之所以見大水必觀焉者、是何?」孔子曰:「夫水遍與諸生而無為也、似德。其流也埤下、裾拘必循其理、似義、其洸洸乎不淈盡、似道。若有決行之、其應佚若聲響、其赴百仞之谷不懼、似勇。主量必平、似法。盈不求概、似正。淖約微達、似察。以出以入以就鮮絜、似善化。其萬折也必東、似志。是故見大水必觀焉。
0771d284.JPG 孔子が東に流れる河をじっと見つめていた。子貢が孔子に、
「君子が大きな河を見ると必ずじゅうぶん観察するのはどうしてでしょう」と問うた。孔子は、
「水というものは万物に生命を与えていながら、なにもしていないような状態でいるのは、徳と似ている。其の流れは低い方に従って直曲し、必ずこの道理に従うといういうことでは、義と似ている。水がこんこんと湧き出て尽きることがないということでは、道と似ている。もし堰(せき)を切って水を流すと、声に応ずる響きの速さで流れゆき、百仞(ひゃくじん)の谷でも何処でも恐れずに流れてゆくのは、勇気と似ている。くぼんだ所にそそいで必ず平らになるのは、法度に似ている。一杯になってもますかきで余分を除く必要もなく、たいらになるということでは、正に似ている。弱弱しくても大変小さな所まで浸透してゆくと言うことでは、洞察力に似ている。その中に出入りすることによって清潔になれるということでは、立派な感化に似ている。数多く曲がりくねっていても必ず東に流れると言うことでは、意志に似ている。だから君子は大きな河を見ると必ずじゅうぶんに観察して考えるのである」と答えた。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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