瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
「物類称呼」では江戸よりまだ東国方言が多く、同書刊行から幕末までの約百年間が、江戸語から東京語への準備期間として一層重要な意味を持つことになるのです。しかし、「物類称呼」の序文にも述べられているように「都会の人物は万国の言語にわたりてをのづから訛少なし」という具合で、都市における言語の平均化が共通語的な性格を備えて全国へと広まっていくのです。
「物類称呼」からさらに「諺苑」や「俚言集覧」を見てくると、もうほとんどが江戸語=東京語と考えられるほどに成熟してきています。明和・安永から文化・文政のいわゆる江戸文学の爛熟期もこうした江戸語なしには到底咲き誇ることの出来ない文学でした。
次に二・三、江戸文学の中から生きたコトバを選んでみましょう。
◇遊子方言 明和七(1770)年・洒落本
〔通り者〕これこれ色男々々 〔むすこ〕いやこれはどぶでござります 此間先生と御噂申しました 〔通り者〕先生はさえぬはゑはゑ おまへどこへ行きなさる 〔むすこ〕伯父きの病気でおりまして見舞にさんじます 〔通り者〕ここはみんなが乗伊豆屋といふ舟宿だ 毎日おれも乗所だ こっちからのろを(中略) 〔船頭〕どこへつけますゑ申 〔通り者〕あがりましょあがりましょ とづつとあがり見せのまん中へ大あぐらにてすはる 大ぶ今夜はしづかだの 〔女房〕いゑまだ二階にお客が御座ります あなたはどなた様でござりましたね 〔通り者〕これはどぶだ これはこれはいかに久敷こないとて見わすれた顔はねいは しかしそふだあろ
※ 深川の女郎買いに行く発端のところ。商家の息子(色男)としったかぶった通り者の出会いです。
◇咄本 「福来すずめ」天明九(1789)年、「鬼外福助噺」文政二(1819)年
歯がた:無性に見栄をしたがる隠居、我とわが腕を食付き「コレ見やれ、年がよっても気に惚れたさうでかのなじみ奴が食付きをった」「此の歯形は女にしてはだいぶ大きいね」「そのははづ、笑いながわョ」
家見:ヲヤ太郎兵へ、てめへこゝへこして来たらいゝ所だ となりにはや桶屋はあるし、むかふは寺なりなんどきしんでも事はかゝねへな」 太郎「べら坊め、新宅へきてそんな気にかゝるを=ことをいふなへ ヲツトこいつはあやまった そんなら事をかくかく。
思い寝:朝寝ずきの息子 けふはいつにない早起きをしてはたらくゆへ親仁ふしぎにおもひ けさはなんとしてはやくおきたといへば むすこ けふは目黒へさそわれましたから参ふとぞんじまして おやぢ イヤイヤけふはならぬ 大分用があるとけちをつけられ むすこ なむさんしまった はやくおきてはたらいただけうまらねへ……。
多少コトバの色合いがちがいますが、青字で示したところは江戸語として通用するものです。〈色男・見栄・べら坊め・けちをつける〉などはいまでも生きたコトバとして東京の人の口にものぼるものです。オマヘ・アナタは現代とやや異なっていて敬意が強くなっています。ここで注意しておくのは、ナイ~ネイ・オマヘ~テメヘ(オメヘ)・ゴザリマス~ダ――というように常体と変体の二つの相がみられることです。この変体は江戸方言→東京方言へと流れていく一傾向なのです。式亭三馬が下司下郎の使う江戸訛りとこっぴどくきめつけているがこうしたコトバでした。大概をテーゲー、考えをカンゲー(ai→êとなまる)というのもみなこの種のナマリです。江戸っ子が啖呵を切る時に使う江戸の庶民語でもありました。
次に常体についてもう少し実例を挙げておきましょう。
◇咄本・口拍子(安永2〈1773〉年)
いてう:どうぞとゝ様ゆもじにめずらしいもやうを染てほしうござんす それはやすい事なにがよかろふ ソレソレいてうがよい。 イヤわたしやいてうはいやでござります。 デモいてうがよい ナゼとゝ様 そのよふにいてういてうとはをつしやります イヤサ虫がつかいでよい。
◇人情本・仮名文章娘節用(天保元〈1830〉年)
金「だんだんと事をお心ふかき御教訓きつと骨身にこたえましてありがとふござります(中略) あなたもずいぶんお身のうへを御大切に御養生なされおすこやかにおくらしなされてくださいまし 文「イヤそれはかくべつ おかめ(女名)もそちとおなじやうにちいさいときから共にそだち兄妹同様にくらしたから、今わかるゝもかなしかろが、これも定まる約束事 無分別の出ぬやうによくいとまごひしたがよい
前者は両家での親と娘の会話であり、後者は武家の親子の対話です。先に示したのと比べると言葉の調子もゆっくりとしており用語にも相違があります。ゆもじは文字詞(もじことば)といって女性専用のコトバで、腰巻のことですが、もともと京都の女官の間に発生した女房詞です。流れ流れて江戸に入り、江戸の上層町人や武家の子女の間で専ら用いられるようになりました。とゝ様も一般庶民はオトッアンであり、さらにくだればチャンですから、現代のオトウサマに当たる高いくらいのコトバなのです。〈をっしやります(言うの敬語)や〈虫がつかいで(虫がつかないで)〉などの表現はあきらかに上方語なのです.さらに後者の会話は折り目正しくかなり丁寧なコトバづかいです。おや御の用法も丁寧さと経緯をふくめてしっかりと用いられています。おすこやかにおくらしなされてくださりませ――など子から親へのコトバとして礼儀作法の観念なしには発することの出来ないコトバづかいでしょう。
こうした筋目正しいコトバが武士の家庭では普通に用いられていたわけです。子が親にアナタと呼びかけているのは多少異様に響きますが、これも江戸時代にはアナタがかなり敬意の高い代名詞であったことを考えれば納得できます。御教訓・御養生・無分別など適宜漢語が加わっているのも当時の知識人の一般傾向なのです。このような人々の口からはネイやテメヘなどの江戸っ子コトバは勿論、デスとかデアリマスなどの特殊語は聞かれないのです。
デス・デアリマス・ザアマスなど東京語としては一躍その中核にすえられますが、江戸後期~明治初年にかけては特殊語として常体でも変体でも聞かれず、主として遊女や芸者がもちいている(東京のいわゆる山手婦人の専用とするザアマスコトバの一源泉はこの特殊語にあるようです)ゴザリマス・ゴザンスも上方語系ですから、常体は上方語の伝統を生かした江戸語的なものという複雑な性格を持つのです。しかもこうした江戸語こそ正統なものとして東京語へ受け継がれ、代表的日本語としての光栄ある地位を獲得することになるのです。ただこれらのコトバ洗練された軽妙さにかけ、人間と人間が裸で話し合うコトバではありません。
そこへ行くと、
濁酒(にごりざけ)の粕食(かすくれへ)め とんだ奴じやァねへかい。是許(これんばかし)もいざァ云た事のねへ東子(あづまっこ)だ…… おれに取てかかったのが胸屎(むねつくそ)だ」(浮世風呂・文化六年)というような江戸っ子のコトバは卑俗ではありますが、その調子といい、表現といい長い年月に鍛えられぴちぴちと血が通っています。
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