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7f90dfbf.jpg 山谷堀水門広場から北東の空は朝焼けが綺麗だ。桜橋を渡って墨堤通りを北上。東白鬚公園を抜けて水神大橋をわたる。東京ははや梅雨明けの空模様。久し振りに東京スカイツリーが雲に包まれることなく全身を見せる。明治通りを横切り、橋場でテラスに降りてみる。
3119b328.JPG この辺りは隅田川でも最も早くから開けたところらしく「橋場の渡し」のあったところである。「白鬚の渡し」とも称されるが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い渡しのため、幾度も渡しの位置の変更があり名称も一定せず、それぞれ別の渡しとして存在していた可能性も高い。現在の白鬚橋付近にあったものが代表的なものである。 律令時代より制定があり、承和2年(835年)の太政官符に「武蔵、下総両国界住田河四艘。元二艘今加二艘右河等。崖岸廣遠。不得造橋。仍増件船(武蔵国と下総国の国境の住田河(隅田川)には現在4艘の渡し舟がある。岸は崖で広く、橋が造れないので2艘から増船した)」と書かれたものが残っており、この「住田の渡し」とはこの渡しと想定されるという。歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いている。白鬚橋の完成に伴い、大正期に廃止されたといわれる。墨堤通りの大正通り入口の所には今でも奥州、総州への古道が残っており、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。橋場はその歴史的な土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並んでいたという。そのため有名な料亭なども多く華族や文人などが出入りしていた。池波正太郎も小説「剣客商売」で小兵衛が贔屓にしていた料亭「不二楼」をこの地に設定している。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあったという。白鬚橋西詰にはこの碑が建つ。
 今戸の渡しは寺島の渡しとも称され、現在の桜橋上流付近にあったという。橋場に対して、新しく作られたということで「今」戸と呼ばれた? というらしいがどうやら眉唾物。橋場の渡しと名称や渡河位置の錯綜が多く見られることから、ほぼ同じ渡しの流れとも考えられる。
37f75955.jpg 三四物産橋場給油所の下では給油船が停泊中であり、給油作業の最中である。




 

fbd4e784.jpg
5dc66097.jpg 何時も遊歩道で挨拶を交わすお方が桜橋方向から近付いて来られる。こんな所でお会いするのは珍しいので、東京スカイツリーをバックに写真撮影。何でも京葉道路辺の緑・石原町付近にお住いの方という。
 桜橋で遊歩道に戻り、帰宅した。
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