栲(たく)を詠める歌3
巻4-0704: 栲縄の長き命を欲りしくは.......(長歌)
※巫部麻蘇娘子(かんなぎべのまそのおとめ、生没年未詳)
巫部が氏で麻蘇は字(あざな。通称)でしょうか。または巫部麻蘇で一つの氏名(うじな)だったのでしょうか。
巫部氏は祭祀氏族の一つで、姓ははじめ連、のち宿禰でした。
神に仕え、音楽や舞で神の心を和らげる役割を負ったことからの氏名かと言われます。『新撰姓氏録』によれば、平安右京・山城・摂津・和泉の諸国に居住しました。なおマソは麻のことで、特に神祭の際用いられた麻を言います。
名からすると、神子(みこ)だったのしょうか。
巻13-3324: かけまくもあやに畏し藤原の.......(長歌)
題詞:挽歌
題訓:挽歌(ばんか)
原文:<挂>纒毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 満雖有 君下 大座常 徃向 <年>緒長 仕来 君之御門乎 如天 仰而見乍 雖畏 思憑而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 國見所遊 九月之 四具礼<乃>秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡<芽>乎 珠<手>次 懸而所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二 所取賜而 所遊 我王矣 烟立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 憑有時尓 涙言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方 [一云 者] 雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道従 角障經 石村乎見乍 神葬 々奉者 徃道之 田付S不知 雖思 印手無見 雖歎 奥香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有
万葉集 巻13-3324
作者:不明
よみ:かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと 我が思へる 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝は 刺し柳 根張り梓を 大御手に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うちひさす 宮の舎人も [一云 は] 栲のほの 麻衣着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷へる間に あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験をなみ 嘆けども 奥処をなみ 大御袖 行き触れし松を 言問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はな 畏くあれども
意訳:訳 口に出すのも恐れ多い。藤原の都に人は多く満ち満ちており、君と呼ばれる方々は多くいらっしゃるが、長年月お仕え申し上げた君の御門。天上のごとく仰ぎたてまつり、恐れ多くも思い頼んできた君。一刻も早く成長なさって立派になってほしいと思ってきた皇子の命(みこと)。春になると植槻(うゑつき)の丘に松の下道を通ってお登りになり、国見をなさった。長月(旧暦九月)のしぐれの秋には御殿の石畳にいっぱい露が降りる。その露を受けてなびく萩の花をたすきをかけるように心に懸けられ、愛でられる。雪が降る冬の朝は、挿し木した柳が根を張るように、大御手に取って梓弓を張り、狩りをなさった大君。霞がたち込める春の長い一日見飽きることのない君。永久にかくのごとく元気であらせられるだろうと、大船に乗った気でいたその矢先、わが泣く目の錯覚かと思った。仰ぎ見た御殿は真っ白な布で飾られ、大宮人たちも(あるいは「は」という)白装束をしていた。その光景にあまりのことに夢かうつつかと呆然とした。その間に城上(きのへ)から磐余(いはれ)に向けて神を葬り申し上げた。私は行く道もその方法も分からずに思い惑った。思う甲斐もなく、嘆いても際限がない。せめて、国見の際お触れになった松を、もの言わぬ木ではあるが、毎月命日には振り仰いで皇子をお忍び申し上げよう。恐れ多いけれど。
左注:右二首
注訓:右二首
◎集歌3324の長歌の「皇子命」及び集歌3325の反歌の「皇可聞」の表現から、挽歌で詠われた人物は、藤原京時代に大嘗祭を迎える前の「皇太子」の立場として亡くなられ、挽歌を贈られています。そして、葬られた場所は磐余の地だったようです。万葉集が準公的な和歌集であるとすれば、皇族の肩書きは慎重に考慮され、選択されていると考えています。また、これが万葉集での公的な歌を解釈・鑑賞するときの基準です。
さて、亡くなられたのは、どの皇子でいらしたのでしょうか。草壁皇子でも、高市皇子でもありません。一説に弓削皇子説もありますが、歌で「何時可聞 日足座而(いつしかも 日足らしまして)」と詠うように年若い皇子でなければならない条件から、現在まで該当する皇子は不明です。また、万葉集の歌が示す藤原京時代に大嘗祭を迎える前の皇太子が亡くなられているとする歴史と日本書紀や続日本紀が示す歴史とが違うため、実に不思議な挽歌となります。
なお、集歌3324の歌には柿本人麻呂の匂いが感じられます。
sechin@nethome.ne.jp です。
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