瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今日は東京大空襲から67年目。
0309050f.jpeg 言問橋西詰の隅田公園入口にある『東京大空襲戦災犠牲者追悼碑』の説明案内板には
「隅田公園のこの一帯は、 昭和20年3月10日の東京大空襲により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京慰霊堂(隅田区)に納骨された。 戦後四十年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。」とある。さらに碑の横に置いてある『言問橋の縁石』の説明版には「ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際に、 その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、 大勢の人が犠牲になりました。この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。」と書かれている。
 
 ウェブニュースより
9903a650.jpeg 母と子の戦場:3・10東京大空襲/上 息子抱き、火の粉走る川へ ―― ◇燃える街、逃げ惑った末に いかだに泳ぎ着き、助けられた 「戦争加担した」しょく罪に体験語る
 「炎が吹き付けられる中、1歳3カ月の息子を背負って逃げました。突然、背中の子がギャーッと異常な声を上げたんです。見ると口の中で火の粉が燃えていた」
 被害が大きかった東京都江東区に建てられた東京大空襲・戦災資料センター。橋本代志子さん(90)は、小学生の子どもたちの食い入るようなまなざしを受け、時折声を詰まらせながらあの夜のことを語った。
   × × ×
 一家は、両国近くに8人で暮らしていた。メリヤス工場を営む両親のもと、4人姉妹の長女として育った橋本さんは、跡取りとして夫を迎え長男に恵まれた。初孫で、娘ばかりの家に生まれた久しぶりの男の子。祖父母の愛情を一身に集め「博、博」とかわいがられた。「暗い時代、博は両親の唯一の生きがいだった」。橋本さんは振り返る。
 何もかもが不足していた。日々の食べ物に事欠き、橋本さんは母乳が出なかった。母乳が出ない証明書を医師からもらい、町会長の印を受け、区役所に届けて初めて粉ミルクが買えた。量が足りず穀類の粉を混ぜて飲ませた。おしめにする布もなく、親戚中から古い浴衣を集めて縫った。
 午後になると町内を歩き回り、空を見上げるのが日課だった。風呂を沸かすまきが不足し、営業している銭湯は数少ない。煙突から煙が出ている銭湯を見つけては、息子をおぶって行った。「丸々とした赤ちゃんなんかいなかった」と橋本さん。銭湯の洗い場でもせっけんやタオルから目が離せない。うっかりすると盗まれてしまうからだ。赤ちゃんとのんびり湯船につかることなどできなかった。小さくなったせっけんをそっと泡立て、大切に使った。
 1945年3月9日夜、軍務に就いていた夫は近隣の国民学校に駐屯していて不在だった。1歳だった博さんは、久しぶりに入浴してぐっすり眠っていた。
 深夜、警報が鳴った。両親と3人の妹、博さんを背負った橋本さんは防空壕に避難した。B29の爆音がおなかに響いた。子を抱いて身を縮めた橋本さんに、外を見に行った父が叫んだ。
 「いつもの空襲と違う」
 壕の外は真昼のような明るさで、強風にあおられて火の粉が吹雪のように吹き付けた。ガスバーナーの炎を四方から浴びるようだった。逃げ惑う群衆で道はあふれ、妹(17)を見失った。妹は5升炊きの大きな釜を抱えており、手をつなげていなかった。「お姉ちゃん、待っててー」。2度ほど聞こえた叫び声が、最後となった。
 炎にあおられ逃げ場を失った人々で、竪川に架かる三之橋は身動きできなかった。かまどの中にいるような熱さ。橋の中央では人が生きながら焼かれていた。母は橋の際に橋本さんと博さんらを引き寄せ、ねんねこをかぶせその上に身を伏せた。さらに父が覆いかぶさり、火に耐えようとした。
 橋本さんの髪がちりちりと音を立て、きな臭いにおいがした。頭巾のない人たちの多くは、髪に火がつき、転げ回っていた。
 「代志子、川へ飛び込め」。父が叫んだ。「飛び込め、飛び込め」。ためらう橋本さんに、父は激しい声で繰り返した。母は頭巾を脱ぎ、橋本さんにかぶせた。白髪交じりの髪が熱風で逆立っていた。無言で見つめる悲しげな母の顔を、70年近くたった今も忘れられない。
 息子をぎゅっと抱きしめ、川へ飛び込んだ。猛烈な熱さの中から冷たい水に入り、肌が刺されるように痛んだ。水面を火の粉が走り、頭や顔に絶えず水をかけないといられなかった。古式泳法を習っていた橋本さんは、流れてきたいかだ目がけて泳ぎ、赤ん坊を乗せた。「この子の命だけは救いたい」。その一心だった。
 いかだで流されていると、男性2人が乗った小舟が近づき、助けてくれた。川の中からずっとうめき声が聞こえ、人が水中に沈むのも見た。両親と17歳の妹の消息はついにわからない。遺骨代わりに、三之橋のたもとの砂を持ち帰った。
 橋本さんらは、疎開のため用意していた千葉県の家に身を寄せた。よちよち歩いていた博さんは一時歩けなくなり、黒い便を毎日した。もうだめかもしれないと覚悟したが、無事に育ってくれた。戦後、2児に恵まれた橋本さんはいま、博さん一家と暮らし、6人の孫、2人のひ孫にも恵まれた。
   × × ×
 茶色く変色しボロボロになった「妊産婦手帳」を、橋本さんは大切に保管している。腹立たしいのは、出産予定日が「生産予定日」と記されていることだ。「女性は子どもを生産する機械だったのか」。当時は気づかなかった一文に、女性と子どもが置かれていた立場を思う。
 東京大空襲・戦災資料センターで体験を語ることは、作家の早乙女勝元さんに誘われ10年前から始めた。空襲体験を話す前日は、今でも眠れない。もう話したくないとも思う。
 でも「大人だった自分も戦争に加担した」しょく罪の気持ちが、橋本さんを突き動かしている。勝つために、国の命令に従い我慢したことが、大切な家族を死なせることにつながったのではないか。首に茶色く残るやけどの痕のように、後悔は消えない。
 資料センターで話し終えると、子どもたちに折り紙で作った「羽ばたく鶴」を手渡している。「多くの命が失われた中で生き残り、生きることの素晴らしさをしみじみ感じる。子どもたちには命の大切さを伝えたい」
   × × ×
 一夜にして10万人の命が失われた67年前の東京大空襲。今年もまた3月10日が巡ってくる。子を背負い猛火をくぐった2人の母の証言を聞いた。【木村葉子】    毎日新聞 2012年3月8日 東京朝刊
 
 母と子の戦場:3・10東京大空襲/下 背中の娘に生かされた ―― ◇川に落ち、ずぶぬれで一夜/翌朝、動かぬ口に母乳含ませる/戦後は児童施設で数百人の「母」に
8a4ac7a2.jpeg くすんだ色の展示物が多い中、ひときわ鮮やかな一角が目を引く。赤い着物と、赤い毛糸のチョッキ。東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)には、鎌田十六(とむ)さん(99)の娘の早苗さんが、3月10日の東京大空襲の夜に着ていた着物が飾られている。襟元のぼんぼんは、早苗さんがよくしゃぶっていたという。
 母におぶわれた早苗さんは猛火をくぐり、冷たい川に落ちた。過酷な逃避は生後6カ月の小さな命を奪った。鎌田さんはこの晩、恋愛結婚をした八つ年下の夫と母も亡くした。幸せな結婚生活は、3年しか続かなかった。
   × × ×
 「まだ生まれていないのか」
 逆子のため陣痛は2日間に及び、いきむ力もなくなった鎌田さんを見た産院の院長は、驚いた。1944年の夏。当時まだ一般的ではなかった帝王切開の手術を受けた。駆けつけた夫は、「手術も病室も一番いいものにしてください」と頼み込んだ。
 真夏の暑さもあって傷口は化膿(かのう)し、子どもと一緒に1カ月も入院した。1等個室は居心地がよく、看護婦の対応も丁寧だった。娘が次第に愛らしさを増すのがうれしかった。「お人形さんみたい」。すやすや眠る初孫の顔をのぞき込んで、母は繰り返した。子煩悩の夫は、家にいる時は片時も早苗さんを離さなかった。せきも鼻水も出ていないのに「風邪かもしれない」と、病院に連れていった。
   × × ×
 灯火管制で町は暗闇に包まれていた。1945年に入ってから、東京は夜も昼も空襲があった。鎌田さんはおぶった娘に月を見せ、「今夜も無事でありますように」と手を合わせた。
 3月9日深夜、空襲が始まった。火の手は人の体も吹き飛ばすような強い風にあおられて広がり、住んでいた浅草・蔵前も火の海になった。鎌田さんは早苗さんを背負い、70歳を超えた母とおしめを入れたかばんは、夫が守ってくれた。
 人波に流されて、隅田川のほとりに来た。火の粉と煙が吹きつけ目が開けられない。数歩進んでつまずき、川の中に頭から落ちた。水音に気づいた夫も、川に飛び込んだ。
 冷たい水が肌を刺す。ずっと寝ていた早苗さんは、細い泣き声を上げた。鎌田さんは眠気に襲われた。「このまま寝ていれば、冷たさを忘れられるだろう」
 はっと我に返った。「早苗はどうなる」。川の中に横倒しになった大八車があった。「子どもを何とかして」。声を振り絞ると、誰かが荷台に上げてくれた。
 気を失っている間に夜は明けた。ずぶぬれで凍えた体は動かない。多くの遺体がくすぶる焼け野原を歩き出した。避難所の学校にたどりつき、保健婦に子どもの様子を尋ねた。
 「亡くなっています。赤ちゃんの分まで元気になって」。静かな声だった。
 人があふれる教室で娘を下ろした。鼻や額に点々とやけどがあるが、寝ているようだった。一晩飲ませず球のように張った乳房から、冷たい口元に母乳を絞り入れた。
 夫の遺体は1週間後に川から見つかり、母の死は焼けた衣類の一部で確認した。「私が助かったのは、早苗をおぶっていて背中がぬれなかったから」。鎌田さんはそう思っている。
   × × ×
 翌年の3月。上野の地下道は人いきれでむっとした暑さだった。焼け出された人が足の踏み場もないほど寝ていた。ぼろぼろの服をまとったさみしげな子どもたちが、家族を亡くした自分の姿と重なった。
 この光景が忘れられず、子どもの世話をする仕事につこうと思った。東京都内の児童養護施設で、保母として働くことになった。70歳まで勤め上げ、育てた子どもは数百人に上る。
 戦後すぐに働いた養育院では、90畳の大部屋に子どもたちが布団を4列に敷いて寝ていた。ある晩鎌田さんは、訪ねてきた知人にベッドを譲り、子どもの布団に滑り込んだことがある。「隣で寝たでしょ。うれしかったよ」と言われた。その子の笑顔はずっと胸に残っている。
 「施設の子」と言われぬよう、しつけには気を配った。ほうきの持ち方やほこりの集め方、人の目を見てあいさつすること……。厳しく言い含めた。4~5歳の子どもが幼い子の入浴を手伝うのを見ると、「甘えたい盛りなのに」とふびんに思う気持ちがこみ上げた。
 住み込みで働く鎌田さんの居室には、「お母さん」「お母さん」と子どもの出入りがしょっちゅうあった。24時間休みはなく、だれかが風邪をひけば一気に広まり、休日も返上だ。鎌田さんは当時を振り返る。「いくらしんどくても、子どもといればつらいことは吹き飛んでしまった」
8bf6bc73.jpeg 子を持つ人からの再婚話を何回か持ちかけられた。でも「自分の子が育てられなかったのに、人様の大事な子どもは育てられない」と断り続けた。早苗さんを背負った重みや抱いた時の感覚は、忘れられない。
 鎌田さんはいま都内で妹と暮らしている。写真館で撮った早苗さんの写真は空襲で焼けてしまった。娘が生きていた唯一の証しである着物を、’07年に戦災資料センターに寄贈したとき、鎌田さんは願った。
 「もう二度と、早苗のような子が出る世の中になりませんように」【木村葉子】 毎日新聞 2012年3月9日 東京朝刊
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