瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日の予報では、今朝は雨の予報であった。毎夜の熱帯夜でうんざりしていたが、今朝は窓から吹き込む風に秋を感じさせられた。予報ははずれて雨は降っていなかった。
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341e710c.jpg 真正面にスカイツリーを見上げながら言問橋をわたり、東武・業平橋駅から東武橋に出る。北十間川沿いに東進、京成橋に出る。スカイツリーの現在の高さは418mと標示されていた。
 昨日のブログで木母寺の三遊塚のことに触れたが、京成橋の先にある法性寺に「昔ばなし柳塚」があるのを思い出し、柳島まで足を伸ばした。ここ法性寺は「柳島の妙見さま」として葛飾北斎も帰依した寺で、北斎について調べ頃何度も訪ねた所である。寺の入口に「昔ばなし柳塚」の案内板を一読して境内にはいる。
 法性寺をでると北十間側に架かる十間橋を渡り、川沿いの北道を通り、押上商店街に出る。ここから、桜橋通りを西進して桜橋を渡って帰宅した。
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fa261d21.JPG 柳派(やなぎは)は、江戸(東京)落語の一派のこと。柳派の祖は初代麗々亭柳橋で、江戸時代後半から明治初期にかけて、初代談洲楼燕枝(前名柳亭燕枝)が柳派の中心となり、三遊亭圓朝を中心とする三遊派と対抗していく様になっていったという。
 1888年には完全に三遊派とは独自に興行を実施するようになっていった。5日ごとに行われていた寄席興行のうち、半分を柳派が、もう半分を三遊派が担当するという興行方式がこの頃に確立し、1923年に柳派と三遊派が合併する頃まで続けられた。柳派に属していた落語家の多くは滑稽噺を得意としており、人情噺を得意としていた三遊派とは対をなしていた。
 昨日のブログにとりあげたように、明治時代、木母寺に三遊派が三遊塚を建てており、おそらく三遊派と覇を競っていた柳派がその存在を誇示するためにここ柳島の法性寺にこの「昔ばなし柳塚」を建てたものだと思われる。

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