福岡の甥から依頼の「新ネット俳句4」が出来上がりました。
甥からメールが入りました。曰く、
FW: 「新ネット俳句4」受け取りました。
KSさんと、MYさんから「新ネット俳句4」お礼のメールが届きました。
転送しておきます。
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拝啓
このたびは、新ネット俳句集4の送付の件で、お世話になりました。
本日受け取りました。
いつも日高様にはご尽力いただいております。
このたびの印刷トラブルの件も、さぞかし大変だっただろうなぁと、感謝いたします。
なかなか直接的にお伝えできないため、ぜひよろしくお伝えくださいませ。
番外編も興味深く、熟読させていただきます。
これからも俳句の楽しみを教えてください。
よろしくお願いいたします。
敬具
平成30年8月27日
KS
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中村先生
本日、「新ネット俳句4」が届きました。俳句以外にも文章や絵、写真など満載で、読み応えがあります。
印刷製本をしてくださる日高様にも感謝いたします。
ありがとうございます! MY
RT様からも、メールが届きました。曰く、
Tです
ネット句会句集届きました。ありがとうございました。
新たな気持ちで読むと、学ぶことがたくさんあります。貴重な読み物にも感謝です。
このような立派な冊子に見合う句が作れるよう精進したいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
RT様には、返信メールを出しました。曰く、
わざわざ、メールを下さり、ありがとうございます。
私には俳句は駄目ですが、これからも微力ながら体力の続く限り、お手伝いさせて頂きたいと思っています。
今後とも東樹君ともども宜しくお願い申し上げます。
尚、送ってくださった、添付文書は、私のパソコンでは開けませんでした。残念です。 日高節夫
杉田久女とは
生涯
昭和初期に活躍した日本を代表する女性俳句の先駆者。
1890(明治23)年5月、官吏であった父赤堀廉蔵、母さよの三女として父の赴任先の鹿児島市で生まれた。本名ひさ(久)。父の転勤に伴い、鹿児島から沖縄、さらに台湾へ転居を重ね、1902(明治35)年(一説には03年)、名門の女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)附属高等女学校に入学した。
1909(明治42)年に旧制小倉中学校(現小倉高校)の図画教諭杉田宇内(うない)と結婚し、小倉市(現北九州市小倉北区)に転居した。夫宇内は東京美術学校(現東京芸術大学)卒業の秀才であった。長女昌子、次女光子の二子をもうけ、久女26歳のとき、日明(ひあがり)(現小倉北区日明1丁目)の家を訪ねてきた次兄赤堀月蟾(げっせん)(忠雄)の手ほどきで俳句と出会った。翌1917(大正6)年俳句雑誌ホトトギスの「台所雑詠」に 鯛を料(りょう)るに俎板(まないた)せまき師走かな が初入選するなど頭角を現していった。
久女の代表作として名高い 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ は1919(大正8)年の作品である。ホトトギスを運営し当時の俳壇の実力者であった高濱虚子は「男子の模倣を許さぬ特別の位置に立つてゐ(い)る」と高く評価した。
1922(大正11)年 足袋つぐやノラともならず教師妻 は、芸術活動と家庭生活との両立に悩み、夫宇内との離婚問題もあったようであるが、娘たちを思い家庭に戻ることを選択した心境を詠んだものとされている。一方で、この頃、当時の北九州の文化サロンとも言われた櫓山荘(ろざんそう)(現北九州市小倉北区中井浜)で、戦後の俳壇をリードすることとなる橋本多佳子と出会い、俳句の手ほどきをすることとなった。
1931(昭和6)年、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社共催の「日本新名勝俳句」に応募し、英彦山(ひこさん)で詠んだ 谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ が全国10万3千余句の応募の中からわずか20句に授与される帝国風景院賞を受賞した。
1932(昭和7)年3月、女性による女性のための俳句雑誌「花衣」を創刊し、この間 白妙の菊の枕をぬひあげし 風に落つ楊貴妃桜房のまゝ 無憂華(むゆうげ)の木蔭はいづこ仏生会(ぶっしょうえ) などの代表句を詠んだほか、女性俳句研究なども発表したが、わずか5号(同年9月)で廃刊とした。
「花衣」は廃刊するものの、同年10月にはホトトギス同人に推挙されるなど、1931(昭和6)年から1934(昭和9)年にかけては久女の俳句にとって最良の時期であった。
1936(昭和11)年10月、ホトトギスに「同人のうち日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除」するとの同人変更の社告が掲載された。日野、吉岡は当時盛んだった新興俳句運動の中で、虚子との対立が鮮明だったが、久女の除名ははっきりとした理由がわからず、多くの俳人を驚かせた。久女が自らの句集刊行を切望し、句集刊行に向けた行動にその理由があるのではないかという、その後の研究もある。
蝶追うて春山深く迷ひけり 同人除名後の1937(昭和12)年の作品である。
ホトトギス俳壇から遠ざけられた久女だが、他の俳句結社に移ることはなく、ホトトギスに投句を続けた。また、句集刊行をあきらめたわけではなく、戦局深まる中、空襲時は句稿とともに防空壕に避難し作品を守ったという。しかし、終戦直後の1945(昭和20)年10月、太宰府の県立筑紫保養院に入院、1946(昭和21)年1月21日腎臓病悪化のため55歳で逝去した。物資不足による栄養失調が原因と推測されている。
久女念願の句集は、1952(昭和27)年10月、戦後間もない物資不足のなか、長女昌子の何としても母の句集を出したいとの一途な思いと行動によって、師と慕い続けた虚子の序文も得て角川書店から世に出た。
句集の最末尾に掲載された句は、鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな である。
年譜
明治23年(1890)
5月30日、鹿児島市で官吏の父・赤堀廉蔵、母・さよの三女として生まれる。本名ひさ。父の転勤に伴い、沖縄、台湾へ転居。
明治36年(1903)
台北(台湾)にて小学校卒業。女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)附属高等女学校に入学。
明治40年(1907)
女子高等師範学校附属高等女学校卒業。
明治42年(1909)
愛知県出身で東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業し小倉中学校美術教師を務める杉田宇内(25歳)と8月に結婚。小倉に移住。
明治44年(1911)
長女昌子出生。
大正5年(1916)
次女光子出生。
秋に次兄の赤堀月蟾(渡辺水巴門下)から俳句の手ほどきを受ける。
大正6年(1917)
「ホトトギス」1月号の「台所雑詠」に6句初掲載。5月、高浜虚子に初めて会う。翌年、「ホトトギス」4月号「雑詠」に初入選。
大正10年(1921)
家庭不和に悩み、教会へ通い始める。教会活動を熱心に行い、しばらく俳句から遠ざかる。
昭和2年(1927)
教会活動から離れ、再び俳句への道へ戻る。
昭和6年(1931)
東京日日新聞・大阪毎日新聞共催の「日本新名勝俳句」で「谺して山ほととぎすほしいまゝ」が帝国風景院賞を受賞。
昭和7年(1932)
俳誌「花衣」創刊、主宰(5号で廃刊)。 10月、「ホトトギス」同人となる。
昭和11年(1936)
10月、「ホトトギス」同人を除名される。
昭和14年(1939)
「俳句研究」7月号掲載の「プラタナスと苺」四二句以降発表作途絶える。
昭和21年(1946)
1月21日、太宰府の県立筑紫保養院で腎臓病悪化のため逝去。命日には、ゆかりの圓通寺で久女忌が営まれる。
昭和27年(1952)
長女石昌子の尽力により、高浜虚子序文の『杉田久女句集』(角川書店)が刊行される。
sechin@nethome.ne.jp です。
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