日本語がどういう系統に属する言語なのかということは、わが国においても明治の初めから論じられてきました。アジア北方の言語であるウラル・アルタイ語族といわれたり、朝鮮語やアイヌ語との関係が問題とされてきました。朝鮮語との比較論は、明治十二年に、東京の英国公使館にいたアストンが「日鮮両語比較研究」を発表して以来、明治から大正にかけてさかんに行われてきました。
邪馬台国論でも知られる白鳥庫吉は、「日・韓・アイヌ三国語の数詞について」(明治四十二年)なる論文において、それぞれの数詞を考察し比較しています。白鳥は、この論文の中で、日本語と朝鮮語とが同族といわれ、自分も密接な関係があるはずだと信じて研究してきましたが、あまり似ていないことがわかりました。また、アイヌ語にはウラルアルタイ語系の要素が認められますが、日本語とは似ていないと述べています。
今日では、日本語と朝鮮語とは、同系であるとしても極めて古い時代に分かれたとするのが通説です。白鳥の言葉は、日朝両語同系論の帰趨を示していて興味深いものです。ここでは白鳥説のうち日本語の数詞についての語義解釈を取り上げます。
白鳥は、日本語の数詞のもつ次の特徴に注目しています。
1: hi ― 2: hu
3: mi ― 6: mu
4: yo ― 8: ya
5: i-tu ― 10 :to-wo (5はiを接頭語とみて省いて比較)
倍数関係にある語は、先頭の子音が同じである。このことは、すでに江戸時代に荻生徂来が言及しており、知られていたことではありますが、白鳥は次のように解します。
古代においては指で数を数えました。今の日本人は、親指から順に折っていきますが、太古の人は、少し異なるやり方をしました。例えば、6の場合、左の指3本、右手の指3本を並べて表した。8なら左右4本ずつ指を並べます。そこから倍数表現が生まれました。そして、倍数となる語は、もとの数の母音を変えることによって作ったのだというのです。
7と9は奇数であるから、両手で並べて表すことは不可能である。そこで、7は、
ナナ ナ(並ぶ)ナ(無し)
と表現したというのです。「並べようのない数」だというのです。
同様に、9は、
ココノ コゴ(屈める)ノ(無し)
です。ここで「屈める」とは、指を屈める、つまり指を折って数えることで、これも「計算できない数」の意味だというのです。
1から5までは、次の通り。
1:ヒト (hito) 「太し」の意。太い指(親指)を立てて表すから。
2:フタ (huta) ヒト(ツ)の複数形。
3:ミ (mi) 「多い」の意。「増す」「マスマス」などのm。
4:ヨ (yo) 「イヨイヨ(iyoiyo)増加する」のyo。
5:イツ (itu) 「イト(最)」、「至って」「頂き」のイタ。
白鳥は、父を チチ、トト、テテなどのようにいう例をあげて、日本語では母音が変わっても意味には変化がないとし、頭韻の一致だけを説いています。
1については、初期の論文では、ハジ(端)、ハツ(初)などの「ハ」に通じるものとしていましたが、後に上のように改めたといいます。
3から5までは、いずれも「多い」の意とします。われわれの祖先が、数詞を作り上げるまでには、思いもよらぬほどの長年月を要したでしょう。未開の民族には、3以上の数を「多数」と表現するものがあります。太古の日本語でも、そうした時代があったと考えられます。3以上の数を「ミ」といった時代が幾年続いたかはわかりませんが、さらに大きな数が必要となり、今度は「ヨ」という語が選ばれました。5は、手の指全部をよみ尽くしたことを表し、「至極・絶頂」の義があるとしています。
これが、白鳥説の概要である。白鳥がいうように、倍数関係のある語の間に、fi~fu mi~mu yo~ya のような関連が見いだせるというのは、たしかに不思議な現象であります。現代の学者もこの関係に注目しています。世界言語辞典も日本語の特徴として記していますし、大野晋は、ヨ(4)とヤ(8)の関係を論じ、ヨを「イヨイヨ盛ん」のヨ、ヤを「ますます」の意の副詞の「ヤ」であるといい、ほぼ白鳥説を踏襲しています。
数を倍数的に表す民族がないわけではありません。トーレス・ストレート島のタスマニア人の西部民族の方言では、
2 okosa 4 okosa okosa 6 okosa okosa okosa
だそうであり、オーストラリアのカミラロイ語では、
3 guliba 6 guliba guliba
だそうです。だから、古来の日本人も、6や8を、3や4に関連づけて表したというのは考えられないことではありません。
しかし、3~6では、母音はi~uという対応であるのに対し、4~8では、o~aという対応です。対応の規則が一貫しているわけではありませんし、母音変化で複数をあらわす例が、他に日本語の中にあるわけでもありません。まして、日本人の中に、六を左右三本ずつの指を立てて表したり、八を四本ずつ立てて表したりする風習が残っているわけではありません。
さらに、7(並べられない)、9(屈められない)というのも、かなり苦しい説明であります。「並べられない数」では、具体的にどんな数も表さないし、9は、九本の指を屈めればよいのだから、屈められないとはいえません。また、ミ(3)を「増す」などと母音の違いを無視して説明するのも、日本語では母音に何の分別機能もないことになり疑問です。
白鳥は、東洋史家として著名であり、また数詞に関しては他にたいした説もないので、これまで白鳥説が問題とされてきたのでしょう。しかし、白鳥説はどうも釈然としません。納得性に乏しいので、もう一度、最初から考え直してみた方がよさそうです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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