後漢の楊震は、茂才(科挙の名、秀才と同じ)に推挙され、順々に出世して遂に荊州刺史となりました。その後、東莱の太守に任命されたので、東莱郡へ向かう途中、昌邑とゆう場所を通りました。
その時の昌邑令は王密というひとでした。この男は、かつて楊震が荊州刺史だった時、茂才に推挙した人間でした。王密は、大恩ある楊震が自分の任地に来ていると知り、挨拶に来ました。そして深夜、懐からこっそりと金十斤を取り出して、楊震へ贈ったのです。すると、楊震は言いました。
「私は君の人格を見込んで推挙したのに、君は私の人格を見くびっている。」
「まあまあ、夜も遅く、誰も知る人はいませんから。」
「天が知っている。神が知っている。私が知っているし、君も知っている。知る者が居ないなどとんでもない!」
王密は恥じ入って退出したといいます。
楊震は清廉潔白な人間で、内緒の贈り物など、絶対に受け取らなかったのです。それで、子や孫は粗食に甘んじ馬車も持てないほどの暮らしぶりだったといいます。楊震の知り合いはこれを見かね、子孫の為に生活の基盤を造ってやれと助言しましたが、楊震は言いました。
「清白な官吏の子孫とゆう誉れを遺してやるのだ。それが最高の遺産ではないか。」
その後、安帝の時に太尉となりましたが、中常侍(宦官)に讒言され、卒したと言います。
至夜懷金十斤、以遺震。震曰、故人知君、君不知故人、何也。密曰、暮夜無知者。震曰、天知、神知、我知、子知、何謂無知。密愧而出。 後漢書、楊震伝より
夜(よる)に至(いた)り金(きん)十斤(じっきん)を懐(ふところ)にし、以(もっ)て震(しん)に遺(おく)らんとす。震(しん)曰(いわ)く、「故人(こじん)君(きみ)を知(し)る、君(きみ)故人(こじん)を知(し)らざるは、何(なん)ぞや」と。密(みつ)曰(いわ)く、「暮夜(ぼや)なれば知(し)る者(もの)無(な)し」と。震(しん)曰(いわ)く、「天(てん)知(し)る、神(しん)知(し)る、我(われ)知(し)る、子(し)知(し)る、何(なん)ぞ知(し)るもの無(な)しと謂(い)うや」と。密(みつ)愧(は)じて出(い)ず。
後漢の楊乗は、字は叔節といい、楊震の子でした。桓帝の時、太尉となり、朝廷に問題が起こる度に忠を尽くして進言し、その多くは採用されたといいます。
秉性不飲酒、又早喪夫人、遂不復娶、所在以淳白稱。嘗從容言曰:「我有三不惑:酒、色、財也。」〔延熹〕八年薨、時年七十四。 後漢書 楊震伝より
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