昨日の夕刊で、北の湖理事長が福岡で病院に搬送されたという記事を読みましたが、今朝の新聞の一面で理事長の死亡を知りました。ウェブニュースより
北の湖・日本相撲協会理事長死去:「憎らしいほど強い」 輪島らと名勝負 ―― 大相撲の幕内優勝24回、日本相撲協会の理事長職を10年あまり務めた北の湖理事長が20日、亡くなった。現役時代には、笑顔を見せない土俵態度で「憎らしいほど強い」と言われた。不祥事で一度は理事長を退きながらも返り咲き、さまざまな方面に気を配って、協会の公益法人化認定にこぎ着けた。現職理事長のまま、現場でたおれた、その姿は、相撲に対する責任感と熱意そのままだった。
20日午前、体調不良を訴えて救急搬送された北の湖理事長。そのまま帰らぬ人となった。以前は、時間が空くと両国国技館の周囲を歩き、付けた歩数計を見せては「まだ足りないよ」と健康に気を使う一面を見せていたが、近年は各場所恒例の協会ごあいさつで呼び出しの手を借りないと土俵を下りることができず、八角理事を代行に立てていた。がん手術から数年。体力低下が目に見えていた。
だが今場所も「毅然(きぜん)とした理事長」を務めていた。白鵬が立ち合いで相手の顔の前で両手をたたいた「猫だまし」を、「横綱のするべき立ち合いではない」と批判。現役時代、土俵外に放り出した相手に見向きもせず、くるっと背を向けて勝ち名乗りを受ける自らの姿を、自ら「手を差し伸べるのは失礼でしょ。勝った相手から。悔しいものだ」と振り返った「強い横綱」そのものだった。
東京都内の中学に通いながら、スピード出世記録を塗り替え、「怪童」と呼ばれた。1974年名古屋場所後に21歳2カ月での横綱昇進は今も史上最年少記録。強くて人気のあるものの代名詞に、高度成長期には「巨人、大鵬、卵焼き」があったが、嫌われ者の代表格として「江川(卓・元巨人投手)、ピーマン、北の湖」と言われた。
日大出身で同時期のライバル横綱・輪島と「輪湖(りんこ)時代」を築いたが、輪島の優勝回数14を大きく上回った。75年春場所千秋楽の貴乃花親方の父、大関・貴ノ花(故人)戦、81年初場所優勝決定戦の千代の富士(九重親方)戦。ともに敗れて、相手に初優勝を許した一番は視聴率が50%を超え、大相撲の高視聴率記録だ。
2002年に理事長に就任。インターネット時代に敏感に反応。早くからホームページを作って勝負結果の速報や、序ノ口からの全取組の中継を推進するなど、時代の潮流に敏感に反応した。
一方、不祥事の大波にも翻弄(ほんろう)された。08年の大麻騒動でいったんは辞任したが、11年の八百長問題が収束した12年に理事長職に再登板した。第1期では、世間の批判に対して「そういう見方をするのか。もう分かった」とあからさまに立腹の表情を見せて、口を閉ざす一面もあったが、公益法人認定に向けて内閣府や文部科学省との丁々発止の交渉に直面した第2期は、がんの手術後に協会をまとめて年寄名跡を協会管理化し、14年に公益法人認定を取り付けた。当時の文科省幹部は「悪役を一手に引き受けていた」と話していた。
「おいしさのコツはみりんとお酒」と、ちゃんこのだしを自ら作ったり、「飲みたい人が自分でするのが一番」とお酒を気軽に作って出したりする、飾らない人だった。激動の協会の屋台骨を支えた白鵬の幕内優勝回数について「40回くらい行くでしょ」。大記録を見ることなく逝った。
◇「涙止まらない」元朝青龍
元横綱・朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏が20日、ツイッターに追悼コメントを寄せた。同氏は「悲し涙が止まらない!昼に連絡して電話出なかた! 部屋付き親方と話した! 命まで大丈夫と安心したけど! 悲し涙」(原文のまま)と述べた。北の湖理事長が理事長に就いていた2007年、ダグワドルジ氏はけがで巡業を休場していた間にモンゴルでサッカーに興じる騒動を起こしていた。 (毎日新聞 2015年11月21日 東京朝刊)
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