瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 2日間の雨続きで、今朝は4時30分に徘徊に出掛ける。言問橋を渡り、三つ目通りを南下。北斎通りまで来ると右折して西進。2つ目の路地に何やら標柱が見えるので近寄ってみると、三遊亭圓朝の住居跡の標柱である。先だって8月に、谷中の全松庵にある圓朝の墓に詣でたばかりである。
a73c6f30.JPG 明治9(1876)年秋、円朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り移り住んだ。 庭は、割下水(わりげすい=堀割)から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、円朝の生涯のうちで最も贅沢で工夫を凝らした邸宅だったという。また、三遊宗家の故藤浦富太郎の記憶によれば、庭の隅には方形萱葺き屋根を乗せた2坪半ほどの庵室があり、円朝は就寝・食事・入浴以外のすべての時間をこの庵室で過ごして創作を行っていたという(『明治の宵』)。
 円朝は、新宿へ転居するまでの約10年間をこの本所南二葉町で過ごしたが、ここで円朝作品のうちで最も有名な「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」の噺を速記本として刊行し、「松操美人生埋(まつのみさおびじんのいきうめ)」「鶴殺疾刃庖刀(つるころしねたばのほうちょう)」「月謡荻江一節(つきにうたうおぎえのひとふし)」などの噺を創作したという。
 他に「真景累ケ淵」、「文七元結」等を創作した。本業以外にも多彩で、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(の目利き)等、さらには建築、作庭にも秀でていた。晩年、内藤新宿に自邸の数寄屋作りの建物や茶室をこしらえ、百坪当たりの枯山水の庭園は見事であった。この当時は落語から離れて禅に興味を示していたという。明治33年(1900)8月11日、下谷車坂の自宅にて死去した。享年62才。墓石には山岡鉄舟筆による「三遊亭円朝無舌居士之墓」とある。晩年収集した”幽霊画”は有名で、命日には全生庵で公開される。

b28a7cdf.jpg 北斎通りをつき詰めると、そこは大江戸博物館。博物館脇の遊歩道を通って国技館前に出る。ここから隅田川の両国テラスに降りて、吾妻橋まで北上。
ae016a2e.jpg
71e86010.jpg 墨田区役所裏の広場を通って、枕橋に出る。アサヒビールのジョッキタワーに現在470メートルの姿が綺麗に写っている。ここから枕橋に向うと坂道での前方に、今しもご来光を迎えるスカイツリーが黒く聳え立つ。向島の遊歩道を北上し、桜橋を渡って帰宅した。



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