瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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サ行はヘボン式ローマ字でsa・shi・su・se・soと表わされることからもわかるように、次のように二つの違った子音があらわれます。
 
サ・ス・セ・ソ:[sa]・[su]・[se]・[so](s:歯茎摩擦音)
 
シ      :[∫i]         (∫:後部歯茎摩擦音。硬口蓋歯茎摩擦音)
 
また北九州の人の中に「シェンセイ、ジェンジェン解りません。」などと発音する人がいます。セ「se」、ゼ「ze」の音をシェ[∫e]ジェ「je」と発音するわけです。
 
このように現在のサ行音は二種の子音を使いわけているのですが、シ・セは16世紀末頃にはシ([∫i])・シェ([∫e])であったと考えられています。そこで16世紀末に来日したポルトガル人宣教師J・ロドリゲスの『日本大文典』にみられる、当時の関東におけるサ行頭子音にたいする抜書きしてみますと、
 
「○ xe(シェ)の音節はささやくやうにse(セ)又はce(セ)に発音される。例へばXecai(世界しえかい)の代りにCecai(せかい)といひ、Saxeraruru(さしぇらるる)の代りにSaseraruru(させらるる)といふ。この発音をするので、関東のものは甚だ有名である。」とあります。



 これによれば、シェンシェイ(先生)、ジェンジェン(全然)という発音は、田舎において発達したものではなく、むしろ、室町時代においては都で普通に行われていた発音で、関東の田舎者が、セの〔se〕の発音を始めたことが分る。セをシェならぬ〔se〕に発音することは、関東から始まって、西へ西へと広まって行き、今日では北九州だけにシェが残ったのです。
 
上の記述からその当時関東でセ、都ではシェと発音していたことがわかります。そして現在の京都方言(むかしの京訛り)ではセであることから、シェ→セの変化があったと考えることができます。つまり上の考えにしたがえば、過去のある時期にはシェの発音が関東以西をおおっていたと考えることができます。
 
ところでこのようにシェはセに変化したと考えると、現代のサ行音の中でシのみ後部歯茎摩擦音([])である理由は次のように考えることができます。
 
「・・・歴史的に見ると、[i]は狭い母音に同化されて[si]から変化したわけでなく、逆に、狭い母音[i]の前に立ったために[si]に移行せず[i]のままに保存されているという事実である。・・・」
 
つまり狭い母音iの影響で[i]shi→[si]si)へ変化せず、現在も[si](スィ)でなく[i](シ)にとどまっていると考えることができます。
 
ところでこのようにスィへ変化せず、しぶとくシにとどまってきたこのシもスィに変化しはじめているというのです。
 
「これと並んで現在進行中なのは、「シ」の音の変化である。シを[∫i]と発音するのが標準的であったのですが、現在の若者たちの間では、これを[si]で発音する者が増えつつある。これは[sa][si][su][se][so]とサ行をすべて[s]で発音して、[∫]と[s]の区別を一つ減らして、簡略化しようとするものである。現在の[se]は三百年、四百年以前には[∫e]「シェ」と発音するのが標準だったのに、関東のほうから[se]という発音が始まって広まり、全国に行きわたった。その例から推せば[si]の音もいずれ全国に徐々に、しかし着実に広まるだろう。・・・」
 
上で観察、推測されているこのようなシをスィと発音する新しい変化は現代日本語における言葉の乱れとしておおいに話題になっていて、特に(東京近辺の現代)女子大生に顕著であると、次のように報告されています。
 
「大野 発音のことでいうと、女の子が「し」と「す」がちゃんと発音できなくなって、非常におかしくなっている。「千葉県の人」を「ツィバ県のストが」というんですよ。それと、サシスセソと言えない、スァスィスゥスェスォになっちゃう。「スォんなことスィないわよ」になるんです。で、「君の発音はおかしい、サ・シ・ス・セ・ソといってごらん」と言ったら、「エエッ、そんなことやったら私の英語の発音がだめになっちゃう」というんですよ。」
 
*注:回答者座談会「国語の授業では発音を教えない」の項の大野晋氏の発言。



 「…ところが、とくに若い女性、中学生から高校生くらいの女性の発音を聞いていると、印象だけれども30%くらいの人が「スィ」[si]という発音になる。「ワタスィ」という発音になっている。…(途中省略)…そういう「スィ」という人たちは、「シャ・シュ・ショ」いわゆる拗音の発音も少し違っていて[sja,sju,sjo]という発音になる。「イッショ」と言わなくて「イッスィョ」と言う。」
 
このような傾向はスルをシルというサ変活用にみられる「そうしるか そうしればいい」(千葉県・埼玉県・神奈川県に)といった言葉使いにもあらわれています。
 
ところでこのような[](後部歯茎摩擦音)→[s](歯茎摩擦音)への変化は、琉球方言の形容詞の形式の変化にもみられます。そこで琉球の古典である『おもろさうし』の形容詞の形式と本土方言との対応を次にみてみることにします。



 「…「基本語幹+さ(sa)」「基本語幹+しや(a)」の形はもっとも優勢である。この「さ形式」「しや形式」は単独で体言を修飾したり、述語になって文を終止したり、また名詞形になったりする。
 
「―さ形式」は国語のク活形容詞と、「―しや形式」はシク活形容詞と次のような対応関係をもっている。
 
  オモロ例   国語例    (意味)   対応
 
  たかさ    ―たかし   (高し)   ク活
 
  とうさ    とほし   (遠し)   ク活
 
  わかさ    ―わかし   (若し)   ク活
 
  うれしや   ―うれし   (嬉し)   シク活
 
  かなしや   かなし   (悲し)   シク活
 
  まさしや   ―まさし   (正し)   シク活
 
「―さ形式」には論理的概念をあらわす語が多く、「―しや形式」には情緒的概念をあらわす語が多いという事実も、国語のク活形容詞、シク活形容詞の意味的内容と通ずるものです。」
 
そしてこの「―さ形式」「―しや形式」の変化は、次のようになっています。
 
「…その他、組踊、琉歌などをみても、「―さ形式」「―しや形式」の優勢が続きますが、明治初期の『沖縄対話』まで下ってくると、「―さ形式」「―しや形式」のほかに「―さん形式」「―しゃん形式」が新しくあらわれてきます。さらに『琉球会話』になると、「―さ形式」「―しや形式」がほとんどみられず、「―さん形式」「―しゃん形式」に変りきっていて、現代方言の形容詞とほとんど同じ形になってきます。ただ、琉歌などのように古格を重んずる歌語では、「―さ」「―しや」形式が踏襲されているのです。
 
「―さん形式」「―しゃん形式」のうち、現代では「―しゃん形式」が弱まって「―さん形式」が優勢であるといいます。また「―さん」から変化した「―はん」が新しく発生してきているといいます。」



 このように本土方言だけでなく琉球方言にもサ行の直音化([∫]→[s])が起こっているので、このサ行の直音化は日本語の古来からの音韻変化の方向であると考えることができます。そしてもしこのようなサ行の直音化を認めるなら、東京近辺の現代女子大生がシ([∫i])をスィ([si])と発音するのは現代日本語における言葉の乱れではなく、ましてや英語の発音にひきずられスィのほうがかっこよいと考えているために起こっている現象ではありません。つまりシのスィへの変化はサ行の直音化という日本語の古来からの音韻変化の方向であるために、「いずれ全国に徐々に、しかし着実に広まるだろう。」という大野氏の予想は正しいと認めることができるでしょう。若者言葉としておおいに話題になっているスィへの変化の原因をサ行の直音化という日本語の古来からの音韻変化にもとめず、「[∫]と[s]の区別を一つ減らして、簡略化しようとするものです。」というあなたまかせな大野氏の発言はおおいに問題とすべきでしょう。ここで大野氏をはじめとする国語学者といわれる方々が問うべきことは「シスィの変化が起きるのはなぜか?」「サ行の直音化はなぜ起こっているのか、なぜ起こるのか」といったことであるはずです。(もちろんシよりもスィのほうがかっこよいと考える現代女子大生達の意識の問題はこれはこれで大いに考えなければならない問題ですが。)


 


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