瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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()を詠める歌3
巻2-0162: 明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし.......(長歌)
標題:明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛真人天皇、謚曰天武天皇/天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首
標訓:明日香清御原宮に御宇天皇の代(みよ)、天渟中原瀛真人天皇、謚(おくりな)して曰はく天武天皇/天皇の崩(かむあが)りましし後八年の九月九日、奉為(おほんため)の御齊會(ごさいゑ)の夜に夢のうちに習(なら)ひ賜へる御謌(おほみうた)一首
原文:明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子
           万葉集 巻2-0162
         作者:持統天皇(沙羅羅大后)
よみ:明日香の 浄御原(きよみはら)の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡ける波に 潮(しお)()のみ 香(かほ)れる国に 御()(こも)りし あやにともしき 高照らす 日の御子

意訳:明日香の浄御原の宮で天下を御統治された、天下をあまねく統治なされる私の大王の天の神の世界まで照らしあげる日の皇子は、どのようにお思いになられたのか、神の風が吹く伊勢の国の沖から藻を靡き寄せる波の潮気だけが香る清い国に御籠りになられて、私は無性に心細い。天の神の世界まで照らす日の御子よ。
◎この歌は天武天皇の崩御された後の持統七年、九月九日に行われた御斎会(ごさいゑ)の夜に天武天皇の霊と夢で逢った持統天皇(沙羅羅大后)が詠まれた一首。実際には持統天皇の代わりに夢の中で霊と対話する占い師が存在してその者が詠んだ歌と思われますが、形式上、持統天皇の作となっています。
 内容としては明日香の浄御原で即位して天下をお治めになった天皇…と天武天皇を讃え、その天武天皇の魂が伊勢の国に行ってしまわれたと、天皇の亡くなられたことを哀しんでいます。
 歌の中では「香れる国に」のあとに、天皇が「おいでになってしまわれた」と続く部分が省略されているわけですね。
 そして「あやに(不思議なほどに)慕わしい天高き日の御子よ」と、天武天皇への愛情の深さを詠って天武天皇の魂を慰めている訳です。
 一応、代作でありますが、この時代の歌はあくまで言霊としての呪術的意味合いのあるなものなので誰の作であるかはあまり問題ではなく、実際に口に唱えて霊に詠い掛けることが出来ればそれでよかったわけです。持統天皇(沙羅羅大后)もきっと、この歌を何度も何度も口ずさんで、遠き伊勢の国にいる天武天皇の魂にその慕わしい思いを語り掛けたことでしょう。
巻2-0194: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に生ふる玉藻は.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌
標訓:柿本朝臣人麿の泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献(たてまつ)れる歌一首并せて短歌
原文:飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸経 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔庸尚乎 釼刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無(一云、何礼奈牟) 所虚故 名具鮫魚天 氣留敷藻 相屋常念而(一云、公毛相哉登) 玉垂乃 越乃大野之 旦露尓 玉裳者泥打 夕霧尓 衣者沽而 草枕 旅宿鴨為留 不相君故
            万葉集 巻2-0194
          作者:柿本人麻呂
よみ:飛ぶ鳥の、明日香(あすか)の川の、上(かみ)つ瀬に、生()ふる玉藻(たまも)は、下(しも)つ瀬に、流れ触らばふ、玉藻(たまも)なす、か寄りかく寄り、靡(なび)かひし、嬬(つま)の命(みこと)の、たたなづく、柔肌(にきはだ)すらを、剣太刀(つるぎたち)、身に添へ寝ねば、ぬばたまの、夜床(よとこ)も荒()るらむ、[一云、荒()れなむ]、そこ故(ゆゑ)に、慰(なぐさ)めかねて、けだしくも、逢ふやと思ひて、[一云、君も逢ふやと]、玉垂((たまだれ)の、越智(をち)の大野の、朝露(あさつゆ)に、玉裳(たまも)はひづち、夕霧(ゆふぎり)に、衣(ころも)は濡()れて、草枕(くさまくら)、旅寝(たびね)かもする、逢はぬ君故(きみゆゑ)

意訳:明日香(あすか)の川の上流の瀬に生える玉藻は、下流の瀬に流れて触れ合います。その玉藻のように寄り添い寝た夫の君の柔肌さえも、(剣や刀のように)身に添えては寝ないので、夜の床も荒れていることでしょう(一つには、荒れてゆくでしょう)
 そのために、慰めることもできなくて、もしかしたら逢えるのではと思って(一つには、君に逢えるかと)、越智(をち)の大野の朝露(あさつゆ)に玉裳は濡れ、夕霧に衣は濡れて、旅寝をするのでしょうか。逢うことのできない君ですから。
左注:右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、献泊瀬部皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子河嶋薨。
注訓:右は或る本に曰はく「河嶋皇子を越智野に葬(はふ)りし時に、泊瀬部皇女に献(たてまつ)れる歌なり」といへり。日本紀に曰はく「朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔の丁丑、浄大参皇子河嶋薨(かむあが)りましぬ」といへり。
巻2-0196: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に石橋渡し.......(長歌)
標題:明日香皇女木瓲殯宮之時、柿本人麻呂作歌一首并短歌
標訓:明日香皇女の木瓲(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本人麿の作れる歌一首并せて短歌
原文:飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡(一云、石浪) 下瀬 打橋渡 石橋(一云、石浪) 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾生乃 立者 玉藻之如許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 唯見不献 三五月之 益目頬染 所念之 君与時ゞ 幸而 遊賜之 御食向 木瓲之宮乎 常宮跡定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨(一云、所己乎之毛) 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬(一云、為乍) 朝鳥(一云、朝霧) 往来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼往此去 大船 猶預不定見者 遺問流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将往 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此為
             万葉集 巻2-0196
           作者:柿本人麻呂
よみ:飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生()ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも 吾が生()ふの 立てば 玉藻のごところ 臥せば 川藻の如く 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背(そむ)き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢ)かざし 敷栲(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛()づらしみ 思ほしし 君と時々 幸(いでま)して 遊び給ひし 御食(みけ)向ふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定め給ひて あぢさはふ 目()(こと)も絶えぬ 然(しか)あるかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋嬬 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思い萎えて 夕(ゆふ)(つつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 遣()り問()ふる 情(こころ)もあらず そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも 絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河 万代(よろづよ)までに 愛しきやし わご王(おほきみ)の 形見かこれは

意訳:飛ぶ鳥の明日香川の川上には石橋を渡し、川下には杭を打って木橋をかける。石橋のたもとに生えて靡く玉藻は、なくなればまた生え育つ。木橋のたもとに生えている川藻も、枯れてはまた芽生えて来る。それなのに、私を養われる、立つと玉藻のようで、身を横たえると川藻のような、その皇女が靡いてお慕いした相応しい夫君が、貴女と過ごした朝宮をどうしてお忘れになるのでしょう。また、貴女と過ごす夕宮をお嫌いになるでしょうか。この世の現実のことと思われた時には、春は花を折り髪にかざし、秋になると黄葉を髪にかざして、夜の敷いた床の栲の上でお互いの袖を交わして、鏡のように見ても飽きない満月のように、ますます慕わしくお思いになっていた夫君とともに、時々に、お出ましになり遊ばれた。その皇女に御食を捧げる城上の宮を永遠の宮とお決めになり、二匹の味鴨が寄り添うように貴女が夫君に寄り添い、お目にかかることも何か申される辞もなくなってしまった。そのためでしょう、いいようもなく悲しく、ぬえ鳥が片恋する妻、その朝鳥が心を妻に通わすように亡き妻に心を通わす夫君が、夏草のように悲しみしおれ、夜空の星が移り行き、大船が揺れるように心が揺れ動いているのを見ると、行ってお気持ちを尋ねる思いもありません。そのために、夫君に対してどのようにすれば良いのでしょうか。皇女のお噂だけでも、御名だけでもいつまでも天地のともに永久にお慕いしていきましょう。お名前にかかわる明日香川は、万年の後までも夫君の愛しい皇女の形見でしょうか。ここは。
◎明日香皇女(あすかのひめみこ、生年不明)
 天智天皇皇女です。飛鳥皇女とも表します。母は橘娘(父:阿倍内麻呂)です。同母の妹は新田部皇女です。忍壁皇子の妻とする説があります。
 持統天皇6年(692年)8月17日に持統天皇が明日香皇女の田荘に行幸しています。持統天皇8年(694年)8月17日に明日香皇女の病気平癒のために沙門104人を出家させました。
 文武天皇4年(700年)、浄広肆の位で4月4日に死去。もがりの折に柿本人麻呂が、夫との夫婦仲の良さを詠んだ挽歌を捧げいます。
 明日香皇女は、持統天皇の訪問を受けたり、彼女の病気平癒のために108人の沙門を出家させたりなど、他の天智天皇皇女に比べて異例の重い扱いを受けています。


 

()を詠める歌2
巻2-0121: 夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻刈りてな

※弓削皇子(ゆげのみこ、?~699年)
 7世紀後半の皇族です。天武天皇と天智天皇の娘大江皇女の子。第6皇子。同母弟に長皇子がすまか。『懐風藻』所収の葛野王伝によれば、天武天皇の第1皇子高市皇子の死(696)後、弓削皇子は皇太子を選ぶ群臣会議で兄弟による皇位継承を主張しますが、兄弟による継承は乱の原因になると主張し、草壁皇子(母がのちの持統天皇)の子軽皇子による継承を支持する葛野王らに敗れます。軽皇子はのちの文武天皇です。「万葉集」に短歌8首があります。文武天皇3年7月21日死去。
巻2-0131: 石見の海角の浦廻を浦なしと人こそ見らめ.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌
標訓:柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の石見(いはみの)国より妻に別れて上(のぼ)り来(こ)し時の歌二首并せて短歌
原文:石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等 [一云 礒無登] 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 [一云 礒者] 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 [一云 波之伎余思 妹之手本乎] 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志<>布良武 妹之門将見 靡此山
             万葉集 巻2-131
           作者:柿本人麻呂
よみ:石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと [一云 礒なしと] 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は [一云 礒は] なくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を [一云 はしきよし 妹が手本を] 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山
意訳:石見の海の津野の浦を、船を泊めるよい浦がないと人は見るだろう。藻を刈るのによい潟がないと〔一は云はく、釣りをするよい磯がないと〕人は見るだろう。たとえよい浦はなくても、たとえよい潟は〔一は云はく、磯は〕なくても鯨でさえ捕れるほどの海から海岸に向けて、和多津の荒磯の上に青々とした美しい藻、海底の藻を、朝は溢れるように風が寄せ、夕方には溢れるように波が寄せて来る。その波のように私に寄りかかり寄る、美しい藻のように側によって寝る妻を〔一は云はく、妻の袂を〕露霜の置くように家に置いてきたので、この旅路の道のたくさんの曲がり角ごとに、何度も何度も振り返ってみるけれど、ますます妻のいる里は遠くなってしまった。ますます高く山も越えてきてしまった。夏草の萎えるようにように恋しさに萎えて私を思っているだろう妻のいる家の門を見たいものだ。靡け山々よ。
この歌は石見の国(現在の島根県の西半分)に赴任していた柿本人麿が大和へ戻る際に石見の国に残してきた現地妻を思って詠んだ一首。
 非常に長い長歌となっていますが、意味は無駄がなく「調べ(リズム)」も人麿らしい重厚な美しさを持った名歌のひとつなのでこの歌もぜひ記憶しておいてもらえればと思います。
 内容としては歌の前半を石見の国の土地讃めに使い、そこから石見の家に残してきた妻に想いを馳せる土地讃め歌と、妻を想うことで旅路での心の不安を鎮める旅の鎮魂歌的な両方の要素も持った恋歌となっています。
 結句の「靡けこの山」は、妻のいる家が見えるように目の前の山々に伏してくれと祈っているわけですが、山に向かって「靡け」とはなんとも壮大で呪術的な言の葉ですよね。
 あまりにも長い長歌であるために一見しただけで避けてしまわれる方もいらっしゃるかも知れませんが、口語訳を参考に内容を理解して読んでくださればそれほど難しい歌ではないですし、なによりも「調べ(リズム)」の美しい一首ですので、この歌もぜひ実際に口に出して(出来れば石見の国の海や山を眺めながら)詠ってもらえればと思います。

 そうすることで、千数百年の時を越えて蘇った人麿の言の葉の力によって実際に目の前の山々が動き出しそうなそんな不思議な感覚も味わっていただけるかと思います。
巻2-0135: つのさはふ石見の海の言さへく唐の崎なる.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首[并短歌]
標訓:柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の石見(いはみの)国より妻に別れて上(のぼ)り来(こ)し時の歌二首[并せて短歌]
原文:角<>經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽 深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃 [一云 室上山] 山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而<>
            万葉集 巻2-0135
          作者:柿本人麻呂
よみ:つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の 黄葉の 散りの乱ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上の [一云 室上山] 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ

意訳:石見の海の辛の崎にある海石(海中の岩)には、海松(海草)が生い茂り、荒磯にも美しい藻が生い茂っている。 その玉藻のように、添い寝した妻を、その深海松の名のように、深く思いながら、共に寝た夜は、いくらもなかった。 今、這う蔦の先の別れるように、別れてきたので、心を痛め、悲しい思いにふけりながら、振り返り見るけれども、 渡の山の紅葉の葉が散り乱れていて、妻の振る袖もはっきりとは見えず そして、屋上の山の雲間を渡る月が姿を隠していくように 妻の姿も見えなくなってしまった。 その時、入日が淋しく射してきた。ひとかどの男子だと思っていたわたしも、衣の袖が涙でしみ通るほど濡れてしまった。
この歌は巻2-0131の長歌とともに、石見の国に派遣されていた柿本人麿が大和へ帰るときに詠んだもう一首の長歌です。
 「海松(みる)」は海の底深くに生えている海藻。
 「言さへく韓」は「言葉の通じない韓の国」の意味で、ここでは「韓の崎(現在の島根県那賀郡国府町、唐鐘の崎か?)」を引き出す修飾語となっています。
 内容としては巻2-0131の長歌とおなじく相聞歌の分類に含まれていますが土地誉めや旅の鎮魂歌の要素も多く持っている一首といえるでしょう。
 巻2-0131の歌が石見の家に残してきた妻を中心に詠っていたのに対して、こちらではおなじく石見の家に残してきた子のことにも触れて、別れの哀しさを際立たせる内容となっています。
 また、海の底深くの「海松」や散り乱れる山の黄葉も詠い込み、巻2-0131の長歌の内容をさらに深めた内容となっていますね。
 このように呪術的な鎮魂歌としての要素を盛った歌でありながらも読み手を飽きさせない工夫がなされているのは、道々の精霊や土地の神々を飽きさせない言葉にこそ大きな言霊としての霊力が宿ると人麿たちの時代の人々が信じていたからなのでしょう。
巻2-0138: 石見の海津の浦をなみ浦なしと人こそ見らめ.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌/或本歌一首并短歌
標訓:柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)の石見(いはみの)国より妻に別れて上(のぼ)り来(こ)し時の歌二首并せて短歌/或る本の歌一首并せて短歌
原文:石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
            万葉集 巻2-0138
          作者:柿本人麻呂
よみ:石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き我が寝し 敷栲の 妹が手本を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし 我が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山
 
意訳:石見の海の津の浦を、船を泊めるよい浦がないと人は見るだろう。藻を刈るのによい潟がないと人は見るだろう。たとえよい浦はなくても、たとえよい潟はなくても鯨でさえ捕れるほどの海から海岸に向けて、柔田津の荒磯の上に青々とした美しい藻、海底の藻を、朝が来れば波が寄せ、夕方には風が寄せて来る。その波のように私に寄りかかり寄る、美しい藻のように側によって私が寝た敷栲の妻の袂を、露霜の置くように家に置いてきたので、この旅路の道のたくさんの曲がり角ごとに、何度も何度も振り返ってみるけれど、ますます妻のいる里は遠くなってしまった。ますます高く山も越えてきてしまった。愛しくて仕方ないわが妻である子が夏草の萎えるようにように恋しさに萎えて嘆いているだろう。妻のいる角の里を見たいものだ。靡け山々よ。
◎この歌も石見の国(現在の島根県の西半分)に赴任していた柿本人麿が大和へ戻る際に石見の国に残してきた現地妻を思って詠んだ一首で、巻2-0131の歌の異伝です。
 内容自体は巻2-0131の歌とまったく同じですが、語句などが少し変わっていますね。
 万葉集の歌の中にはこの歌のように同じ歌が異伝として少し形を変えて伝わっているものが多く含まれていますが、この時代の人々には著作権という概念などは当然無く、歌が呪術的な言霊の記録として伝誦される過程で享受者などによってこのような語句の変化を見せたのでしょう。
 物などへの記載の際か、あるいはそれ以前の口伝の過程で変化したのか…
 場合によっては人麿自身が歌を記録として残す際に時期によって語句を推敲した可能性なども考えられるかと思いますが、このように同じ歌の異伝がどのような意図を持って語句の変化として表れたのかを想像し、比べてみるのも万葉集の楽しみのひとつといえるのではないでしょうか。


 

()を詠める歌1
 藻は海や淡水の水性植物、たとえば昆布や若布(わかめ)などの総称です。古くは藻葉などと言われたそうです。海藻類は、塩焼き、食用として使われていました。海藻類にはミネラル(鉄やカルシウムなど)・ビタミンAが豊富に含まれているので当時の健康食品としては最適だったのでしょうね。
 万葉集には80首以上に登場します。厳藻(いつも)、藻塩(もしお)、奥つ藻、玉藻(たまも: 藻の美称)などとして登場します。
 海藻類の当時の呼び名は次のようなものがありました。
    (中公新書 食の万葉集 廣野卓著 19981220日発行より)
 現在名     万葉時代の名
 あまのり    無良佐木乃利(むらさきのり)
 あらめ     阿良米(あらめ)
 てんぐさ    古留毛波(こるもは)
 ふのり     布乃利(ふのり)
 ほんだわら   莫告藻(なのりそ)
 みる      海松(みる)
 わかめ     和可米(わかめ)

巻1‐0023: 打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります

※麻続王(おみのおおきみ、生没年未詳)
 伝未詳。麻続は正しくは麻績でしょうが、万葉集の古写本には「麻續王」とあります(續は続の正字)。日本書紀によれば、三位の位にあった天武四年(675)四月、罪により因幡に流されます。同時に一子は伊豆島(伊豆大島か)、別の一子は血鹿(ちか)の島(長崎県の五島列島)に流されたといいます。如何なる罪を犯したかなど、詳しいことは不明です。この時ある人が詠んだ歌が万葉集に載りますが、詞書に「伊勢国伊良虞島」に流されたとあります。この歌に和した麻続王の歌は、後年の仮託の作と見られています。なお『常陸国風土記』の行方郡板来村(今の茨城県の潮来)の条には、同地を麻続王の配所とする記事を伝えています。
巻1‐0024: うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む

巻1‐0041: 釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ

巻1‐0043: 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ

※作者は当麻麻呂妻(たいまのまろのつま)です。
 夫である当麻麻呂についても、持統天皇が伊勢に御幸された際に従駕したこと以外よくわかっていません。
◎4143番には、次の「左注」が付いています。
左注:右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮
注訓:右、日本紀ニ曰ク、朱鳥六年壬辰春三月丙寅ノ朔戊辰、浄広肆廣瀬王等ヲ以テ、留守官ト為ス。是ニ中納言三輪朝臣高市麻呂、其ノ冠位カガフリヲ脱キテ、朝ニササゲテ、重ネテ諌メテ曰ク、農作ナリハヒノ前、車駕以テ動スベカラズ。辛未、天皇諌ニ従ハズシテ、遂ニ伊勢ニ幸シタマフ。五月乙丑朔庚午、阿胡行宮ニ御ス。
巻1‐0050: やすみしし我が大君高照らす日の皇子.......(長歌)
標題:藤原宮之役民作歌
標訓:藤原の宮営(つくり)に役(たて)る民のよめる歌
原文:八隅知之 吾大王 高照 日<>皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
                  万葉集 巻10050
          作者:役民(えきみん)
よみ:やすみしし、我()が大君(おほきみ)、高(たか)()らす、日の皇子(みこ)、荒栲(あらたへ)の、藤原(ふぢはら)が上(うへ)に、食()す国を、見したまはむと、みあらかは、高(たか)()らさむと、神(かむ)ながら、思(おも)ほすなへに、天地(あめつち)も、寄()りてあれこそ、石走(いはばし)る、近江(あふみ)の国の、衣手(ころもで)の、田上山(たなかみやま)の、真木(まき)さく、桧()のつまでを、もののふの、八十宇治川(やそうぢがは)に、玉藻(たまも)なす、浮()かべ流(なが)せれ、其()を取ると、騒(さわ)く御民(みたみ)も、家(いへ)(わす)れ、身もたな知らず、鴨(かも)じもの、水に浮()き居()て、我()が作る、日の御門(みかど)に、知らぬ国、寄()し巨勢道(こせぢ)より、我が国は、常世(とこよ)にならむ、図(あや)()へる、くすしき亀(かめ)も、新代(あらたよ)と、泉(いづみ)の川に、持ち越せる、真木(まき)のつまでを、百(もも)()らず、筏(いかだ)に作り、泝(のぼ)すらむ、いそはく見れば、神(かむ)ながらにあらし

意訳:我が大君、日の皇子(みこ)様が、藤原の地で国内をごらんになるとして、宮を高くおつくりになろうと、神であるままにお考えになると、天地も従っているので、近江(おうみ)の国の田上山(たなかみやま)の檜(ひのき)を宇治川(うじがわ)に美しい藻のように浮かべて流しています。それを取ろうと働く人々も、家のことも忘れて、自分のことも考えないで、鴨(かも)でもないのに水に浮かんでいます。私たちが造る宮に、知らない国も従わせ、巨勢道(こせぢ)からわが国が理想的な国になるという、めでたい模様のある霊験(れいけん)あらたかな亀(かめ)も新しい時代だと示しています。泉川(いずみがわ:現在の木津川)に運んだ檜(ひのき)の丸太をいかだに組んで、川を上っているのでしょう。人々が一生懸命に働いているのを見ると、神でいらっしゃる大君の思いのままのようです。
左注:右日本紀曰 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮
注訓:右、日本紀ニ曰ク、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原ノ宮地ニ幸ス。八年甲午春正月、藤原宮ニ幸ス。冬十二月庚戌ノ朔乙卯、藤原宮ニ遷リ居ス。◎滋賀県の田上山(たなかみやま)で伐採(ばっさい)した木材を筏(いかだ)に組んで、琵琶湖から宇治川へ、そして木津川へ運んだのですね。そして木津からは陸路など(運河も造られたとの事です)で藤原の地へ運ばれたようです。
◎亀(かめ)の甲羅(こうら)の六角形の模様は吉兆(きっちょう:良いことの知らせ)を示すと考えられてきました。

巻1‐0072: 玉藻刈る沖へは漕がじ敷栲の枕のあたり忘れかねつも

※藤原宇合(ふじわらのうまかい、694737年)

 奈良初期の政治家です。不比等(ふひと)の三男。母は右大臣蘇我武羅自古(そがのむらじこ)の女(むすめ)娼子(しょうし)。式家(しきけ)の祖です。馬養とも書きます。716年(霊亀2)遣唐副使となり従(じゅ)五位下に叙されます。717年(養老1)多治比県守(たじひのあがたもり)らと渡唐、翌年10月帰国しました。その後常陸守(ひたちのかみ)を経て式部卿(しきぶきょう)に任ぜられます(式家の名のおこり)。724年(神亀1)蝦夷(えみし)の反乱に際し、持節大将軍としてこれを討ち、翌年勲二等を与えられました。また726年から知造(ちぞう)難波宮事(なにわぐうじ)として難波宮の造営にあたり、731年(天平3)参議、畿内(きない)副惣管(そうかん)、さらに翌年には西海道(さいかいどう)節度使に任命され大宰帥(だざいのそち)を兼ねました。734年正三位(さんみ)となったが、737年8月全国的に流行した天然痘のために没しました。文武両道に通じ、家集二巻を残しています。


 

むろの木を詠める歌2
11-2488:礒の上に立てるむろの木ねもころに何しか深め思ひそめけむ

15-3600:離れ礒に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも

15-3601:しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ

16-3830:玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため

◎神事で使用する掃除用具のシンボルとしての高貴な玉掃と実用品の掃除用具の対比と、鎌のあだ名をもつ鎌麿がたまたま宴会にいたようです。この対比と言葉遊びを楽しんでください。
 「玉掃(たまばはき)」は、キク科の高野箒(こうやぼうき)のことで、これで儀式(ぎしき)などに使う箒(ほうき)を作りました。

ウェブニュースより
 五輪開催契約、IOCに「全権」 中止なら日本が賠償も ―― 東京五輪・パラリンピックの開催について国内外で悲観論がやまない。そんな中、国際オリンピック委員会(IOC)と日本側が結んだ「開催都市契約」に注目が集まっている。大会中止に関する権利や手続きなどが定められており、その中身は圧倒的にIOCに有利なものだ。日本側が中止を要望した場合、IOCが多額の賠償金を請求してもおかしくないと専門家は指摘する。
 開催都市契約は五輪の日本開催が決まった201397日、ブエノスアイレスで結ばれた。IOCと東京都、日本オリンピック委員会(JOC)、大会組織委員会が取り交わす文書を読むと、不平等条約ともいえるような条項が並ぶ。
 中止する権限は日本になくIOCだけが持つ。「参加者の安全が理由の如何を問わず深刻に脅かされると信じるに足る合理的な根拠がある場合」などに中止が可能で、日本側は「いかなる形態の補償、損害賠償またはその他の賠償またはいかなる種類の救済に対する請求および権利を放棄」することになっている。
 仮に日本の要請で中止となった場合などに、IOCやテレビ局などに損害が出ないよう日本側が補償する義務も定められている。国際スポーツ大会の契約に詳しい弁護士の松本泰介・早大准教授は「IOCは日本側に損害賠償を求める可能性がある」と話す。
 IOCにも切羽詰まった事情がある。収入のうち、IOCは9割を各スポーツの国際競技連盟(IF)や世界各国・地域のオリンピック委員会(NOC)に分配する。この資金に頼るマイナー競技のIFは少なくなく、昨年の延期時も金策に追われたIFがあった。中止の場合は賠償請求などの手を尽くさないと、トーマス・バッハ会長ら執行部がIOC委員やIFから突き上げを食らうだろう。

 金額的に最も大きいのが放映権料だ。1316年のIOCの総収入57億ドル(約6200億円)のうち、放映権料は実に73%を占める。最大の得意先が米NBCユニバーサル。32年までの夏冬6大会の放映権料を765000万ドル(約7800億円=14年当時)で契約している。「IOCNBCは保険に入っているが、中止の損害の全てがカバーされることはないだろう」と松本弁護士。賠償請求金額は数百億円規模に上る可能性があるとみる。
 ただ、延期で既に多大な損失を被っている日本に追加負担を迫れば、IOCに世界の批判が集まる可能性が高い。スポーツビジネスに詳しい武藤泰明・早大大学院教授は「感染症が10年、20年に1度起こりうる時代になった。今後、開催を検討する全ての国が同じリスクを背負う」と語り、賠償請求が今後の開催都市探しに悪影響を及ぼすとみる。
 五輪の開催都市契約は、国際的な契約としては異例だとも松本弁護士は語る。「不可抗力でイベントを開催できない場合、契約を結ぶ双方が責任を逃れられるように免責条項を入れるのが普通。私が携わった他のスポーツの世界大会もそうだった。五輪のような形はレア中のレア」
 19年のラグビーワールドカップ(W杯)日本大会も例外の一つで、中止権限はIFだけが持っていた。「日本側の事情で中止になると損害賠償が必要だった」。当時の大会組織委の関係者は語る。同大会は夏季五輪、サッカーW杯とともに世界3大スポーツ大会と称される。大きなお金が動き招致を望む国が多いイベントほど、主催するスポーツ団体の力が強い。「(招致国を決める際の)バイイングパワーは圧倒的にIOCが強いから一方的な契約が問題視されてこなかったのだろう」と松本弁護士は話す。
 17年にIOCと日本側が守秘義務契約を見直して公開された今回の契約内容は、巨大スポーツイベントのいびつな構造をあぶりだした。ただ、巨額賠償の可能性があったとしても、開催可否の判断はコロナ下でも安全に大会を運営できるかどうかに尽きる。国民の視線が厳しいときだからこそ、不安を払拭する具体的計画と説明が最優先になる。    【日本經濟新聞 2021527 23:00 (2021528 5:13更新)


 

むろの木を詠める歌1
 むろの木は、ヒノキ科ビャクシン属の鼠刺し(ねずみさし)です。4月頃に、花をさかせます。杉の葉に似た葉が細く鋭く、鼠さえも刺すことができることから、鼠刺し(ねずみさし)という名がついたそうです。ネズとも呼ばれます。
 万葉集にむろの木を詠んだ歌は、七首あります。

巻3-0446:我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき

巻3-0447:鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

巻3-0448:礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 


ウェブニュースより
 「縄文遺跡群」世界遺産へ 三内丸山など登録勧告―「定住社会発展示す」・諮問機関 ―― 日本最大級の縄文集落跡で知られる三内丸山遺跡(青森市)など17の遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田各県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が世界文化遺産への登録を勧告した。文化庁が26日、明らかにした。

 自然遺産の「奄美大島、徳之島、沖縄県北部および西表島」(鹿児島、沖縄両県)の登録も10日に勧告されており、いずれも7月にオンラインで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定される見通し。
 国内の世界遺産は、これまでに23件登録されている。縄文遺跡群が登録されれば、文化遺産は2019年の「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)に続き20件目となる。
 登録が勧告された17遺跡は、竪穴住居跡などの集落跡や環状列石(ストーンサークル)、共同墓地などで構成。国の特別史跡に指定されている三内丸山遺跡と大湯環状列石(秋田県鹿角市)のほか、北黄金貝塚(北海道伊達市)、御所野遺跡(岩手県一戸町)などの史跡も含まれる。

 縄文時代は約1万5000年前に始まり、稲作が本格化する弥生時代まで1万年以上続いた。農耕や牧畜を基盤とした同時期の世界の他地域と異なり、採集や漁労、狩猟をなりわいとする定住生活で、イコモスは「先史時代の農耕を伴わない定住社会と複雑な精神文化に加え、定住社会の発展段階やさまざまな環境変化への適応を示している」と評価した。
 一方、「不適切な構造物」の撤去なども求めた。大湯環状列石は中央部に道路が通っており、文化庁は自治体と協議し対応を検討する。    (JIJI.COM 2105262145分)

 春の夜空に大きな赤銅の月 皆既月食、国内3年ぶり ―― 月が地球の影にすっぽりと入る皆既月食が26日夜、3年ぶりに日本で観測された。多くの地域で曇りや雨だったが、月が地球に近づいて大きく見える「スーパームーン」という状態と重なり、晴れた場所では午後8時9分から約20分間、春の夜の珍しい天体ショーとなった。

 皆既月食は、太陽からわずかに届く光に照らされ、月が真っ暗にはならず赤黒い「赤銅色」に見えるのが特徴。国立天文台によると、月食の始まりは午後6時44分で、一部地域では既に欠けた状態で月が昇った。
 次に日本で皆既月食が見られるのは202211月8日となる。前回は18年7がつに観測された。日本でスーパームーンと重なったのは1997年9月以来。
 皆既月食は太陽、地球、月が一直線に並んで起きる。〔共同〕    【日本經濟新聞 2021526 21:29 (2021527 1:10更新)


 

紫草を詠める歌2
巻7-1392:紫の名高の浦の真砂土袖のみ触れて寝ずかなりなむ

10-1825:紫草の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも

12-2974: 紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ

12-3099: 紫草を草と別く別く伏す鹿の野は異にして心は同じ

12-3101: 紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ

14-3500: 紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに

16-3870: 紫の粉潟の海に潜く鳥玉潜き出ば我が玉にせむ


ウェブニュースより
 下町の変遷 見守り90年 都心への玄関口 東武・浅草駅 ―― 東武鉄道浅草駅が今日、開業九十周年を迎える。浅草寺に近く、開業当時、東京随一のにぎわいがあった浅草のシンボルは、一九三一年五月二十五日、関東初の本格的な百貨店併設のターミナルビルとして開業。以来九十年間、東京大空襲の戦禍、戦後の復興、外国人観光客の増加、新型コロナの影響など、移りゆく浅草の街を見守ってきた。

 駅ビルは、当時の社長の「繁華街浅草の象徴となり得るような立派な駅ビルを」との指示で、地上七階、地下一階、外装はアールデコ調のモダンな造りとなり、デパートの松屋が入った。二階に直接東武線が乗り入れる形は、当時としては画期的だった。
ターミナルビルとしては阪急の大阪梅田駅直結の阪急百貨店を上回り日本一の広さを誇った。「関東大震災からの復興のシンボルとして誕生しました。隅田川の対岸からは巨大な船が浮かんでいるようだったそうです」と浅草駅の佐藤和之駅長(58)は話す。

 浅草駅は、もともと隅田川を挟んだ東側、現在の「とうきょうスカイツリー駅」(旧業平橋駅)だったことはあまり知られていない。一九二三年の関東大震災後、東武鉄道は悲願だった都心への進出を図ろうと、隅田川に鉄橋を渡して国鉄(現JR)上野駅までの延伸を狙った。しかし地下鉄が浅草新橋間に計画されていたので、現在の浅草駅までしか認可されなかった。この結果、浅草駅は埼玉や栃木、群馬など北関東方面への始発駅となり、「都心への玄関口」として沿線の人たちが特別な思い入れを抱く駅になった。

 「東武鉄道大追跡」の著書があるライターの岸田法眼さん(44)は「浅草駅には華やかさと下町情緒がある。時代の流れに振り回されず、九十年間同じ駅舎が続いて親しまれているのは奇跡的だ」と魅力を話す。
 駅の特徴は、隅田川にかかる橋から、ほぼ直角に駅構内に入ってくる急カーブ。制限速度は時速十五キロで慎重に駅構内に列車が出入りする。東京大空襲では、ビル内部や停車していた車両が焼失する大被害を受けたが、焦土と化した下町とともに復興し、改修工事を重ねて現在は開業当時の姿になっている。

 昨年、隅田川の鉄橋に歩道「すみだリバーウォーク」が誕生。浅草と約一キロ先の東京スカイツリーの二大観光拠点を結び、観光客の回遊性を高めた。
 佐藤駅長は「十年後の開業百周年に向けて、下町ならではの粋なおもてなしでお客さまをお迎えしたい」と話し、コロナ収束と一日も早く浅草ににぎわいが戻ることを願った。

1931年5月25日 浅草駅(旧・浅草雷門駅)開業
  同11月1日 松屋浅草店(旧・浅草支店)開業
 45年3月10日 東京大空襲で内部焼失
  同10月1日 浅草雷門駅を浅草駅に改称
2012年5月   開業当時の外装にリニューアル
 21年5月25日 浅草駅開業90周年      (東京新聞 2021525 0705分)


 

紫草を詠める歌1
 ムラサキ科ムラサキ属の多年草です。6月~7月に丘の草地に白い花を咲かせます。高さは4070センチ程度までに成長します。根が太く、紫色の染料に利用されていました。
 万葉集には10首に登場します。紫草そのものを詠んだものと、紫色のイメージを詠んだものがあります。

巻1‐0020:あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

10021:紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも


 ◎注意
 歌の解釈の前提として、集歌20の歌と集歌21の歌は「相聞」ではなく、蒲生野の狩りの宴で披露された余興の歌としての「雑歌」の分類で解釈します。この前提では、集歌20の歌の「君」は、蒲生野での狩りの宴に参加する王族・高官に対する男性に対しての一般名称と解釈するのが穏当です。一方、集歌21の歌の「妹」は「紫草能尓保敝類」と公式の宴会で着用している衣の色を指定していますから、紫の御衣を纏う倭皇后を示すことになります。つまり、額田王が宴会で一般名称の「君」の名称で列席する男性陣に対して詠った歌を、皇太子がその歌を引き取って倭皇后を宴に参加する女性の代表として返歌を女性陣に返したと理解するのが相当です。つまり、これら二首は、集歌21の歌の左注にあるように、律令体制での官位と公式着衣色の理解の下に解釈する必要があります。
巻3-0395:託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり

◎託馬野は滋賀県の坂田郡米原町筑摩や熊本県長嶺町付近など候補地が分かれていてはっきりとは確定していません。
※笠女郎(かさのいらつめ、生没年不詳)
 奈良時代の歌人です。笠朝臣氏出身だが、閲歴も不明です。『万葉集』に残る短歌29首は、すべて大伴家持に贈ったものです。家持の和した歌は2首のみで、天平4(732)年ごろから数年間の交渉で終わのでしょうか。巻4に、同時の作ではないにもかかわらず、24首が一括して収められることが目を引きます。これは、斬新な比喩を用いた「闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに」、また恋情を繊細かつ優美に表出する「我がやどの夕影草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも」などから窺えるように、家持が、彼女の力量を高く評価し、その作品の保存を心掛けていた結果でしょう。

ウェブニュースより
 米、日本への渡航「中止勧告」 警戒レベル最高に ―― 米国務省は24日、日本の新型コロナウイルスの感染拡大を受け、米国民に日本への渡航を中止するよう勧告した。東京五輪・パラリンピックの開催予定日が近づくなか、渡航の警戒レベルを4段階のうち最高レベルに引き上げた。

 米疾病対策センター(CDC)は日本の感染状況について4段階のうち最高の「非常に高い」とした。日本の現況を踏まえると「コロナワクチンの接種を終えた人でも変異株に感染し、感染を広める可能性がある」と指摘し、渡航を避けるよう呼びかけた。
 日本政府はコロナの感染が広がるなか、東京都などに出している緊急事態宣言の延長を検討している。日本はワクチンの接種が他の先進国と比べても大幅に遅れており、米国内では五輪開催を懸念する声がある。    【日本經濟新聞 2021525 3:47

 高橋洋一参与が辞任 首相「本人が大変反省」 ―― 政府は24日、高橋洋一内閣官房参与が同日付で退職する人事を発表した。高橋氏は自身のツイッターで新型コロナウイルスの感染状況を「さざ波」と投稿するなど批判を浴びていた。

 菅義偉首相は24日、高橋氏本人から辞任の申し出があったと明らかにした。「大変申し訳ない、これ以上迷惑をかけられないと辞任された。大変反省していた」と述べた。都内で記者団の取材に答えた。
 高橋氏は21日にツイッターで、新型コロナの緊急事態宣言について「欧米から見れば、戒厳令でもなく『屁(へ)みたいな』もの」と投稿した。24日に「不適切表現を改める」と陳謝した。
 9日には国内の感染状況を「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」とツイートした。首相は13日、高橋氏から謝罪があったと説明し「非常に残念だ」と話していた。立憲民主党の枝野幸男代表は24日の役員会で「総理の見識が問われる」と批判した。    【日本經濟新聞 2021524 17:02 (2021524 22:04更新)


 

ウェブニュースより
 大相撲 照ノ富士が優勝 2場所連続4回目 夏場所千秋楽の結果 ―― 大相撲夏場所は千秋楽です。大関 照ノ富士は「本割」で大関 貴景勝に敗れて123敗で並ばれましたが、大関どうしの優勝決定戦では貴景勝に勝って、2場所連続4回目の優勝を果たしました。
 中入り後の勝敗です。
▽琴ノ若に石浦は、石浦が下手ひねり。琴ノ若は負け越しました。

○石浦 流れでいいところがとれたので自分の相撲になった。(東前頭16枚目で7勝目)大きいと思うが、それより今日はいい相撲をとろうと。それだけで臨めたのがいい結果につながったと思う。
▽大奄美に輝は、大奄美が突き落とし。

●輝 あせりすぎですね。もっとゆっくり体をぶつけながら出たらよかった。全体的に攻めの甘い相撲が多かった。一から自分の相撲を見直して、また来場所に向けて頑張りたいです。
▽志摩ノ海に千代翔馬は、千代翔馬が寄り切りで勝ち越しです。志摩ノ海は負け越しました。

○千代翔馬 (立ち合い変化で勝ち越し)今日はどうしても勝ちたかった。土俵に上がる前は突っ張っていこうと思ったが、最後の仕切りで決めました。
●志摩ノ海 (相手が立ち合い変化)何でもしてくるタイプだったので、悔いの残らないように当たっていこうと思っていた。
▽千代丸に宝富士は、宝富士が押し出し。

○宝富士 あわてたら相手の思うツボなんで、しっかり相撲をとって勝てたのでよかった。(78敗に)少しでも来場所に向けて番付が落ちないようにと思っていたんで、結果としてよかった。
▽栃ノ心に魁聖は、魁聖が寄り切り。

○魁聖 立ち合いが遅れた分、向こうがまわし取れなかったのがよかった。勝ち越せるかヒヤヒヤしたが、何とか勝ち越せてよかったです。
▽英乃海に天空海は、天空海が掛け投げ。

○天空海 (掛け投げは)前に圧力かけながら、相手が出てきてくれたんでうまく投げられた。(今場所は)下半身がバタバタで内容が悪かった。どう対処するか勉強しないと。
●英乃海 (自己最高位の場所を終えて、スタミナ面は)余力なしでした。ゼロです。途中で足も痛めましたし、いつも以上に疲れた。連敗グセと気持ちの切り替えがうまくできるようになりたい。自分の足りないところも分かったし、そこも稽古して補っていきたい。
▽千代大龍に阿武咲は、千代大龍がはたき込み。阿武咲は負け越しました。

○千代大龍 (立ち合い変化で17年名古屋場所以来の2桁白星到達)あの内容だと「ふざけんな」と言われるかもしれないけど、1桁と2桁は差がすごい。さっき聞いたら4年ぶり。それに関しては驚いている。本当にうれしい。周りの応援してくれる後援者の皆様にも喜んでいただけると思う。
●阿武咲 (立ち合い)変化は頭に入ってなかったですね。自分が弱かっただけ。また出直します。
▽霧馬山に剣翔は、霧馬山が寄り切り。

●剣翔 体調が悪い中、15日間取り切れた。腰は慢性のものだが、場所中に脇腹を肉離れ。言い訳になりませんが、今日もひどくならなくてよかったと思う。
▽碧山に照強は、照強が下手投げ。

▽豊昇龍に翔猿は、豊昇龍が寄り倒し。

●翔猿 苦しかったですね。稽古が足りなかったんだと思います。前に出る力をもっとつけて頑張ります。
▽明生に隠岐の海は、隠岐の海が小手投げ。

▽玉鷲に北勝富士は、玉鷲が押し出し。

●北勝富士 首に電気が走って力が入らなかった。負け越した(69敗)が、最初の6連敗からここまで星を伸ばせたのは自信になります。
▽若隆景に琴恵光は、琴恵光が引き落とし。若隆景は2場所連続の技能賞受賞です。

●若隆景 (技能賞を獲得し)うれしいですね。自分でも力がついていると自信がついた。この番付で勝ち越せたのは手応えにつながった。(来場所に向けて)今日もだけど足が出ずに負ける相撲が何番かあった。足が出る相撲をできるようにしたい。
▽妙義龍に小結 大栄翔は、大栄翔が突き出し。

○大栄翔 最後に自分の相撲がとれたんでよかったと思う。まだまだ弱い部分がたくさんある。稽古が足りないんで、もっと稽古していきたい。
▽小結 御嶽海に逸ノ城は、御嶽海が押し出し。

▽高安と隆の勝の関脇どうしの対戦は、隆の勝がはたき込みで勝ちました。

○隆の勝 最後に勝てて終われた。いろいろ反省というか勉強になった場所。(原因は)稽古不足。膝をけがして十分な稽古ができなかった。来場所は成績(今場所510敗)が逆になるようにしたい。
▽大関 正代に遠藤は、正代が押し出し。

▽大関 照ノ富士に大関 貴景勝は、貴景勝が突き落としで勝って優勝決定戦となりました。

 照ノ富士は貴景勝との決定戦ではたき込みで勝って、2場所連続4回目の優勝を果たしました。

八角理事長「違反行為で大関休場 大変遺憾」
 
日本相撲協会の八角理事長は、千秋楽の23日の土俵上から行う協会あいさつで「本日、千秋楽を迎えることができました。これも今場所の感染対策にご対応頂きましたお客様のご協力のたまものと厚く御礼を申し上げます」とファンに感謝しました。
 一方で、外出が禁止されている期間に不要不急の外出をしたことを認め12日目から休場した大関 朝乃山を念頭に「違反行為により大関が休場したことは大変遺憾ではございますが、多くのお客様に大相撲をご観戦頂き、心のこもった応援を頂いたことに協会員一同、深く感謝しております」と述べました。
大関 正代「優勝争いに絡んで場所を盛り上げていけたら」
 
小結 大栄翔は6勝9敗で終え「まだまだ弱い部分もたくさんあったし、力不足だった。また稽古して上を目指したい。周りに負けたくない気持ちもあるし、自分のことを考えてやっていきたいです」と話していました。
 10勝5敗の小結 御嶽海は「途中で気持ちが崩れた部分があったが、負けても自分の立ち合いができたと思うので、総合的にはよかった。今場所は気を引き締めてやった。いろんな人に先を越されてしまった悔しい思いがあるので、上に行く意識でやっていきたい」と次の場所に向けて早くも気合いを入れていました。
 関脇に復帰した高安もふた桁の10勝を挙げ「今場所はぼちぼちという感じだ。いい相撲もあったが負けた相撲の内容は少し反省しないといけない。来場所に向けてしっかり体を鍛えて優勝争いに絡みたい」と話していました。
 関脇 隆の勝は5勝10敗と負け越し「場所前にひざをけがして十分な稽古ができていなかった。反省するところも多く勉強になったので、来場所は成績が逆になるくらいの活躍ができたらなと思う」と話していました。
 角番となった場所を9勝6敗で終えた大関 正代は「連敗したときは気持ちがあまり上がらないときもあったが、終わってみると9勝できて、今はとても安心している。優勝争いに絡んで場所をもっと盛り上げていけたらなと思う」と話していました。    (NHK WEB NEWS 2021523 1827分)

 コンゴで火山噴火、5人死亡か 空港に溶岩、住民避難 ―― 【ゴマAFP時事】コンゴ(旧ザイール)東部のニーラゴンゴ山が22日、噴火し、当局によると溶岩がゴマの空港に到達した。当局は23日、空港周辺の住民に「遅滞なく避難」するよう呼び掛けた。これまでに少なくとも3000人が隣国ルワンダに逃れた。軍高官は23日、最終確認はまだだと述べつつも「5人が死亡した」と語った。

 溶岩をめぐっては、空港の端で止まったと証言する住民もいる。軍高官は23日、「ゴマの郊外で止まった。市街地は救われた」と述べた。一方、火山を管轄する公園の当局者は「状況は悪化している」と部下に説明。チセケディ大統領は、欧州訪問を切り上げ帰国すると表明した。
  
JIJI.COM 202105231854分)


 

ウェブニュースより
 大相撲夏場所14日目 照ノ富士が2敗目 優勝決定は千秋楽へ ―― 大相撲夏場所は14日目、大関 照ノ富士が平幕の遠藤に敗れて2敗目を喫し、優勝決定は、23日の千秋楽に持ち越されました。
 中入り後の勝敗です。
▽千代翔馬に大奄美は千代翔馬がはたき込みで勝ちました。
大奄美は負け越しです。

▽照強に魁聖は魁聖が寄り切りで勝って勝ち越しを決めました。照強は負け越しです。

▽琴恵光に志摩ノ海は琴恵光が押し出し。琴恵光は勝ち越しです。

○琴恵光「自分から攻めることを意識して土俵に上がった。(勝ち越しは)自分の相撲で勝つことができたんでうれしいですね。」
▽石浦に剣翔は石浦が上手投げ。

○石浦「(立ち合い変化は)決めてました。今場所はまっすぐいく立ち合いの感覚がよくない。自分なりに工夫してやってます。」
▽千代丸に栃ノ心は栃ノ心が寄り切り。

○千代丸「最初のもろ手がすっぽ抜けて、それでもろ差しになられた感じですね。(千秋楽は)1番でも多く勝って、少しでも上にいけるようにしたい。」
▽千代大龍に霧馬山は霧馬山が寄り切り。

●千代大龍「はじいて突いていこうと思ったら、すぐまわしとられて。何やってんだって感じですね。」
▽妙義龍に琴ノ若は妙義龍が寄り切り。

▽天空海に碧山は、天空海の「つきひざ」で碧山が勝ちました。

○碧山「(天空海が)立ち合い変化してくると思って左上手を取りにいった。その後は落ち着いて相撲が取れた。(9日目から途中出場で)毎日、少しずつ痛めた所(腰)が良くなっている。それが結果につながっている。」
▽玉鷲に明生は明生が寄り切りで勝って勝ち越し。玉鷲は負け越しです。

○明生「土俵際で落ちたのが悪い所だったけど前に攻められたのは良かった。(東前頭2枚目で勝ち越し)苦しい展開が多かったので勝ち越せてよかった。」
▽翔猿に輝は翔猿が押し出し。輝は負け越しが決まりました。

▽隠岐の海に若隆景は若隆景が押し出し。

若隆景「下からおっつけて前に出ていったのが良かったと思います。内容はよかった。」
▽北勝富士に英乃海は北勝富士が押し出し。

○北勝富士「ちょっと緊張していた。(理由は)よく分からないけど、英乃海関と(の対戦)は十両以来であまりいい印象がなかった。」
▽宝富士に小結 御嶽海は御嶽海が寄り切り。宝富士は負け越しです。

○御嶽海「いい立ち合いが終盤の14日目にできたのが良かった。角度と出足がよかった。あと1番勝つ、勝たないでは大きい。気を引き締めていきたい。」
▽小結 大栄翔に阿武咲は阿武咲が寄り切り。

●大栄翔「攻められてしまったのでダメ。当たってどんどん出ていきたかったけど、先に攻められた。」
▽豊昇龍に関脇 高安は高安がはたき込みで勝って10勝目を挙げました。豊昇龍は負け越しです。

▽関脇 隆の勝に逸ノ城は逸ノ城がはたき込み。

▽大関 照ノ富士に遠藤は遠藤が下手投げで勝ちました。照ノ富士は2敗目を喫しました。

▽大関 貴景勝に大関 正代は貴景勝が突き落としで勝って3敗を守りました。

 大相撲夏場所は14日目を終えて2敗の照ノ富士を3敗で貴景勝と遠藤が追う展開で優勝争いはこの3人に絞られました
八角理事長「遠藤が最高の相撲 100点」
 日本相撲協会の八角理事長は、平幕の遠藤が大関・照ノ富士を破った一番について「大殊勲だ。勝因は遠藤が腕を二本差したことだ。きょうは遠藤が最高の相撲を取った。100点ですね」と高く評価しました。
 優勝争いについては「星の差1つでリードする照ノ富士が上だ。勝てばいいわけですから開き直ってあしたいくしかないですね」と話していました。
 一方で、照ノ富士と直接対決する貴景勝については「まず勝たないと。気持ちがまえのめりにならないように」と冷静な相撲を求めていました。
各力士の談話
▽魁聖は2場所連続の勝ち越しに「体は何とか動いている。暑くなると調子がいい。とりあえずあした無事に終わってくれればいい」とほっとした様子でした。
▽琴恵光も勝ち越し「自分の相撲で勝つことができたのでうれしい。残り一番、自分の形と自分の流れで相撲を取っていきたい」と表情を引き締めていました。
▽明生は行司軍配差し違えで8勝目を挙げ「前に攻められたのでよかった。やることをやってきたので、それが出ていると思う。稽古もしっかりやれている。苦しい展開が多かったので、勝ち越せてよかった」と話していました。
▽関脇・高安は10勝目を挙げ「まずふた桁に乗せられた。いい相撲取って終わりたい」と話しました。ともに平成生まれで初めての関取として話題を集めた元幕内・舛ノ山の引退については「負けたくない気持ちもあった。お疲れさまと伝えたい。年を重ねるごとに引退していく力士もいる。自分はまだまだ頑張りたい」と話していました。
▽行司軍配差し違えで大関・照ノ富士を破った遠藤は「自分から攻めないとだめだと思っていたので、しっかりとそうできてよかった」と振り返りました。3敗を守って初優勝の可能性を残したことについては「まだそんなにピンとこない。最後、しっかり集中してやるだけだ。最後だから特別ではなく、引き続き集中してやるだけだ」と冷静に話しました。
▽正代との大関対決を制し、3敗で優勝争いに残った貴景勝は「普通にきょうの一番で勝ちたい、集中して行こうと思った」と振り返ったうえで、照ノ富士との直接対決に向けては「一生懸命やるしかない。しっかり準備だけして。結果はなるようにしかならない」と淡々と話していました。    (NHK WEB NEWS 2021522 2233分)

 逃走のニシキヘビ発見 アパート屋根裏で―横浜 ―― 22日午後4時40分ごろ、横浜市戸塚区名瀬町のアパートの屋根裏で、逃走していたアミメニシキヘビが見つかった。神奈川県警などによると、市の委託を受けた業者や専門家が、飼われていたアパートの屋根の骨組みに巻き付いているヘビを発見。ヘビによるけが人は確認されていないという。

 ヘビは体長約3.5メートル、体重は10キロほどで、動物愛護法に基づき市の飼育許可が必要な「特定動物」に認定されている。
許可を受けた20代男性がケージに入れて飼育していたが、6日午後9時ごろに逃走。県警などが捜索したが21日までに発見されず、市はこの日、ヘビの習性に詳しい専門家の意見を参考に屋根裏を捜索していた。    (JIJI.COM 202105221949分)

 藤原京でブタ食べた? 便所跡から国内最古級の寄生虫卵 ―― 飛鳥時代にブタは普段から食べられていたらしい。奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が藤原京(694710年)にあった便所の遺構を発掘すると、豚肉を食べると感染する寄生虫の卵が見つかった。卵は豚肉食の科学的な証拠だといい、国内最古級の発見例という。渡来人が常食した可能性があるとみている。

 橿考研は2018年度、奈良県桜井市の藤原京跡の発掘調査を行い、藤原京の中枢部にあたる藤原宮跡の北東で便所遺構を検出した。橿考研共同研究員の奈良教育大・金原正明教授(環境考古学)と、一般社団法人文化財科学研究センター代表理事で妻の正子さんが土壌を分析した。
 金原教授らによると、土壌から発見されたのは、豚肉を食べて感染する寄生虫(有鉤条虫(ゆうこうじょうちゅう))の卵とみられる。サナダムシの一種で卵殻の状態で5個検出された。橿考研が00年度に行った藤原京の調査では、飼育された可能性があるイノシシかブタの骨が見つかっていたが、有鉤条虫の卵は確認されなかったという。
 同様の寄生虫の卵は、「古代の迎賓館」と呼ばれる鴻臚館(こうろかん)跡(福岡市)や秋田城跡(秋田市)の便所遺構からも見つかっている。ともに奈良時代のものとみられ、飛鳥時代の藤原京で見つかった卵よりも後の時代になる。
 また、弥生時代の遺跡からブタとみられる骨が見つかった事例もあるが、寄生虫の卵の発見は豚肉食のより直接的な証拠となるという。金原教授は生に近い状態で豚肉を食べ、寄生虫の卵が排泄(はいせつ)されたとみている。日常的に使われた便所跡で卵が見つかったことから、常食したと考えられるとする。
 日本最初の本格的な都城とされる藤原京が造営される少し前の7世紀後半、朝鮮半島では百済や高句麗が相次いで滅んだ。多くの人々が日本列島に渡ってきたと考えられている。金原教授らは、豚食文化のあるこうした人々が藤原京でブタを食べていた可能性があると考えている。    (朝日新聞DIGITAL 2021/05/22 16:00


 

ウェブニュースより
 照ノ富士1敗守る あす勝てば2場所連続優勝 大相撲夏場所13日目 ―― 大相撲夏場所は13日目、大関 照ノ富士は平幕の逸ノ城に勝って1敗を守り、2敗で追う大関 貴景勝が敗れました。照ノ富士は、22日に勝てば2場所連続、4回目の優勝が決まります。
 中入り後の勝敗です。
▽魁聖に千代翔馬は魁聖が寄り切り。

○魁聖「よく動く相手だから早くつかまえていこうと思った。何とか落ち着いて前に出てよかったです。」
▽琴ノ若に千代丸は千代丸が寄り切り。千代丸は勝ち越しを決めました。

▽天空海に照強は照強が寄り倒し。

●天空海「引いちゃったッスね。相手の術中にはまったというか、引かせる相撲だったんで。(残り2日)来場所につながる相撲をとりたい。」
▽玉鷲に千代大龍は千代大龍が突き倒し。

○千代大龍「左固めて当たると決めていた。今場所一番いい相撲だったと思いますね。昨日おかげさまで勝ち越すことができて、何も気負うことなく、らしい相撲が残り2日取れるんじゃないかと思う。」
▽石浦に輝は輝がはたき込み。石浦は負け越しです。

●石浦「立ち合い当たって差せても、持っていかれることは頭に入っていた。残せたのはよかったが、そこからがむしゃらにいきすぎた。負けている時はそんなものかもしれない。」
▽志摩ノ海に隠岐の海は志摩ノ海が寄り切り。

○志摩ノ海「しつこくしつこくが自分の持ち味と思っている。今日も下から下からでいけたと思う。自分の相撲であと2日、けがなくとりきれたらと思う。」
▽霧馬山に琴恵光は霧馬山が寄り倒し。

○霧馬山「中に入られて危なかったが、我慢して勝ててよかった。」
▽碧山に大奄美は碧山がはたき込み。

○碧山「下がると危ないから、前に出ることしか考えてなかった。相手の動きを見ていけてよかったです。」
▽栃ノ心に翔猿は翔猿が寄り切り。

▽明生に剣翔は明生が押し出し。

▽若隆景に北勝富士は若隆景が突き落としで勝ち越しです。

○若隆景「立ち合いでしっかり当たって圧力をかけられた。(今場所は)下からの攻めがいい。(勝ち越しは)うれしいけど、まだ2日あるので、しっかり相撲を取りたい。」
▽英乃海に小結 大栄翔は大栄翔が押し出し。英乃海は負け越しました。

○大栄翔「途中差してしまったりまだまだ甘さがある。徹底して突き押し相撲にならないとダメ。立ち合いも、もっともっと厳しくしないといけない。」
▽小結 御嶽海に阿武咲は御嶽海が寄り切りで勝ち越しました。

○御嶽海「勝ち越すことができて良かった。2桁勝つためには今日勝つしかないと思っていた。残り2日もしっかり自分の相撲を取って白星をつなげたい。」
▽豊昇龍に関脇 隆の勝は豊昇龍が上手投げ。

▽関脇 高安に妙義龍は高安が下手出し投げ。妙義龍は負け越しました。

▽逸ノ城に大関 照ノ富士は照ノ富士が寄り切って1敗を守りました。

▽角番の大関 正代に宝富士は正代が寄り切り。勝ち越しを決めた正代は角番脱出です。

▽遠藤に大関 貴景勝は遠藤が突き落としで勝ちました。

●貴景勝「明日に向かって集中してやっていきたいです。自分に原因があるので、しっかり考えてまた明日やっていきたい。」
 夏場所は、13日目を終えて1敗の照ノ富士が単独トップで2敗がいなくなりました。
 照ノ富士は22日に勝てば、千秋楽を待たずに2場所連続、4回目の優勝が決まります。
角番脱出の大関 正代「息苦しさ なくなった」 各力士談話
 千代丸はおととし九州場所以来の幕内での勝ち越しを決め「うれしいですね。立ち合いのもろ手で相手を動かす相撲が多く、調子がよかった感じだ。残り2日でふた桁勝てるように頑張りたい」と落ち着いて話していました。
 前頭筆頭の若隆景も勝ち越し「うれしいが、まだ2日あるので、残りもいい相撲取りたい。一番、一番、自分の相撲をしっかり取りきることだけです」と冷静でした。
 3場所続けて小結で勝ち越した御嶽海は「負けている相撲も当たって前に出ているので悪くなかったが、きょうみたいな相撲を取れればいいんじゃないか」と手応えを口にしていました。
 大関 照ノ富士は単独トップの1敗を守り「精いっぱい力を出すことしか考えてなかった。勝ててよかったです。1日一番、精いっぱい頑張ります」と、いつもどおり淡々と話していました。
 大関 正代は勝ち越して角番を脱出し「息苦しさがなくなった感じだ。もう少し早く勝ち越したいと思っていた。その日できる相撲を取りきって気持ちよく今場所を締めくくれたらいい」と誓っていました。
 大関 貴景勝を破った遠藤は、土俵際の突き落としについて「とっさに体が反応してくれた」と振り返った上で、大関を倒したことについて「相手が大関だからとかではなく、きょうはどうしても勝ちたかったのでよかった。1日、一番、しっかり集中してやるだけです」と笑顔で話していました。
 一方、3敗に後退した貴景勝は「自分に原因があるので、しっかり考えてまたあしたやっていきたい。一生懸命頑張ります」と淡々と話していました。    (NHK WEB NEWS 2021521 2020分)


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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