瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[307] [308] [309] [310] [311] [312] [313] [314] [315] [316] [317]
 一昨日・昨日は風もなく朝から暑い1日であった。本日はいくらか風はあったが、それでも暑い。桜橋~水神大橋間の隅田川を一巡して帰宅した。
eabf36de.JPG 木母寺前で先日読んだ正岡容〈いるる〉の「小説・圓朝」を思い起こした。以前木母寺境内で三遊亭圓朝が寄贈したという「三遊塚」の碑を見たからである。この「三遊塚」碑は明治22年3月10日、初代三遊亭圓生を追福するするため、木母寺に建立されたものといわれ、山岡鉄舟の揮毫になるという。円朝は師匠の2代目圓生からいわれのない仕打ち――弟子である圓朝の出し物を先に演じてしまうなどの妨害をした為、かえって圓朝に創作力が付いたといわれている。圓生は晩年は病がちになり不如意な生活を送ったが、その際、圓朝は怨みを忘れて手当てを贈ったという。没後も遺言に従い、三遊派が勢いを盛り返した慶応元(1865)年3月21日(初代圓生の命日)に本葬を行なったという。また、圓生の盲目の娘は、終生圓朝が世話をしたという。
 何代目かは不明であるが、圓生は噺の中で「梅若塚」は梅若塚ではなく、和歌を埋めたので「埋和歌塚」と語ったそうであるが、これは噺を面白くするためのこじつけであろう。
 また、木母寺は隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功並びに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣で」を行ったことから、江戸時代のころから「芸道上達」「学業精進」の祈願寺として大衆の信仰を集めているという。
 早朝のため、木母寺はまだ閉まっていて、境内には入れないので、写真はインターネットから拝借した。
 昨日は民主党政権が初めて迎えた終戦記念日。菅直人首相と全閣僚は靖国神社参拝を見送った。過去30年間で初めての閣僚参拝ゼロ。中国、韓国などアジア諸国が反発する光景も見られず、靖国問題が政治、外交の表舞台から遠のく穏やかなる夏となった。しかし、民主党が野党時代に掲げた「新たな国立追悼施設」構想の進展はなく、追悼のあり方の議論はストップ状態。
4e8ddf89.jpg
cfa4e572.jpg
a216bf57.jpg






 吾妻橋~白鬚橋を一巡。風もなく蒸し暑い。隅田公園のテラスのベンチはお寝みの方々で何処も塞がっている。日の出の位置が南によった所為かご来光のスカイツリーを撮ることが出来た。墨田区役所裏の広場ではくっきりとスカイツリーを写したアサヒビールのジョッキタワーの下でも、家無き方(ひと)が気持ちよさそうにお寝んね。白鬚橋の上でワンさんと出会う。帰宅後の万歩計の記録を見ると8535歩、5.54kmとある。
 今朝のウェブニュースより、
対抗馬の動き加速へ=小沢氏「原点回帰を」-民主代表選 ―― 民主党代表選〈9月14日投開票〉は、1日の告示まで半月となった。立候補の意向を示しているのは再選を目指す菅直人首相だけ。各グループは盆休み明けに順次会合を開く予定で、対抗馬擁立に向けた動きも加速する。首相批判を強める小沢一郎前幹事長の動向が最大の焦点だ。/小沢氏は参院選後、公の場で発言していないが、12日付のメールマガジンで「民主党は原点に戻り、『国民の生活が第一』の政策を一つ一つ実行」する決意を表明。衆院選マニフェスト(政権公約)への回帰を唱え、党内で相次ぎ結成された「反菅」派勉強会の動きに歩調を合わせた。/最大勢力の小沢氏支持グループには「小沢さんでないと戦えない」(若手)と、同氏自身の代表選出馬に期待する声が根強い。こうした中で党内の関心を集めているのは、鳩山由紀夫前首相のグループが19日に長野県軽井沢町で開く夏季研修会だ。鳩山氏は小沢グループを招待しており、小沢氏も「都合が付けば行きたい」としている。/鳩山氏は首相の再選支持を打ち出したものの、挙党態勢の構築など条件も付け、「小鳩」連携に含みを持たせている。研修会には小沢グループから多数の議員が参加する見通しで、小沢氏本人も出席した場合、反菅派が勢いづくことになりそうだ。小沢氏に近い山岡賢次副代表らでつくる勉強会も、17日に活動を再開する。/ただ、小沢氏は資金管理団体の政治資金規正法違反事件で、東京第5検察審査会の2度目の議決を控えている。再び「起訴相当」となれば強制起訴されるため、動きにくい状況であるのも事実。党内には、代表選後の幹事長など役員人事で自らの要求を首相にのませるのが小沢氏の狙いとの見方もある。/ 首相への対抗馬としては、鳩山グループに所属し、小沢氏にも近い海江田万里衆院議員が意欲を示すが、実際に出馬できるかは「親方(小沢氏)の意向次第」(小沢グループ若手)となりそうだ。
 ◇再始動した首相:一方、首相は15日、軽井沢での5泊6日の静養を終えて東京に戻り、全国戦没者追悼式に出席するなど公務を再開した。菅グループは、対抗馬擁立の動きを見極めた上で、支持拡大に向けた取り組みを本格化させる。/これまでに前原誠司国土交通相を中心とするグループが首相再選支持を決定。野田佳彦財務相のグループも再選支持の方向で、17日から2日間、神奈川県小田原市で開く研修会で結束を確認する。 〈jijicom.2010/08/15-14:47)
45a016e2.JPG 国会前で警察官が日本刀男に切られる 20代の男を逮捕 -- 15日午後2時20分ごろ、東京都千代田区永田町の永田町交番前の路上で、首相官邸の警備に当たっていた警視庁機動隊の男性警察官が日本刀のような刃物を持った男に切りつけられた。男は周囲を警備していた警察官に殺人未遂などで現行犯逮捕された。警察官は左手の指を切り、病院に搬送されたが意識はあり、命に別条はないという。/逮捕されたのは自称宮城県在住の20代の男で、政治団体などに所属していないという。逮捕された際に口にけがをしたとみられ、病院に搬送された。捜査関係者によると、男は「けがをさせたことは間違いない」と供述しているという。/目撃者などによると、男は髪を染めており、口にピアスをしていた。うつろな表情のまま両手で刃物を持ち、路上を歩いていたという。  (産経ニュース、2010.8.15 16:16)

4d0c5011.jpg
7531ab33.jpg 曇、殆んど風なし。白鬚橋の上でワンさんと遇う。橋の上で暫し立ち話。
 今週は、歩く量を減らして、1時間前後で桜橋~白鬚橋を一巡。それでも、大体6000歩前後、距離にして、凡そ4km。


 ここ2、3日前から、野生猿が出没し北区、文京区、荒川区で目撃され、そして淺草に逃げ込んだというテレビのニュースを見せられている。
 今朝のウェブニュースに曰く、
5001fe1c.JPG サルとうとう捕獲、都内横断の“冒険”終わる ―― 東京都台東区の住宅街で13日午後、サルが発見され、捕獲された。/体重約15キロの雄のニホンザルで、池袋など都内各地に出没していたサルと同一とみられる。保護した東京・上野動物園では「奥多摩などのサルが食べ物を求めて人里に下りてきたのではないか」と話している。/警視庁浅草署幹部によると、サルは同日午後2時頃、台東区今戸の住宅兼倉庫に玄関から入り、3階の倉庫部分に逃げ込んだ。/通報を受けた署員が駆け付け、上野動物園に連絡。午後5時10分頃、動物園の獣医師が麻酔銃で眠らせ、捕獲した。命に別条はないという。/現場は、JR南千住駅から南東に約1.5キロの住宅街。近くに住む男性〈73〉は「お年寄りが襲われないか心配だった」とホッとした様子。祖母と一緒に様子を見に来た小学1年の女児(7)は「大きいサルでビックリした」と話した。   (2010年8月13日21時07分 読売新聞)
 

 台風一過というけれど、今朝はどんよりと曇り、風も生暖かく足も重い。桜橋~白鬚橋一巡とここのところ、徘徊距離も減らしている。
e24ed66b.jpg 桜橋から少し離れたテラスにはベンチが並び、家無き人々の格好のお寝みどころとなっている。今日も場所取りに勝った人人がカメラを向けられたのにも気付かず高鼾。台風が去ったというのに、白鬚橋の上では結構風か強い。



46284037.jpg 家の近くのゴミの収集所に数羽のカラスがゴミ袋を引き千切っていた。カメラを向けると何羽かは飛び去ったが、執拗にゴミ袋を漁っているのもいる。このようにゴミをひっ散らかすカラスは皆からのきらわれものであるが、カラスは幼いときに親から口移しに餌を貰って育った恩を忘れず、生長してからも親に反哺するという。自分の親が行方不明になっても探そうともしない、いやはやその親の年金でぬくぬくと暮らしているような人間様にくらべれば、立派であるといわねばならぬ。帰宅後、中唐の詩人・白楽天の「慈烏夜啼」を繙(ひもと)く。

602dffb1.JPG「慈烏(じう) 其の母を失い/唖唖(ああ) 哀音を吐く/昼夜 飛び去らず/経年(けいねん) 故林を守る/夜夜 夜半に啼(な)き/   聞く者 為に襟を霑(うるお)す/声中 告訴(こくそ)するが如し/未だ反哺(はんぽ)の心を尽さずと/百鳥 豈(あ)に母無からんや/   爾(なんじ)独り 哀怨(あいえん)深し/応に是れ 母の慈(いつく)しみ重くして/爾をして悲しみ任(た)えざらしむるべし/昔呉起(ごき)という者有り/母没すれど 喪(も)に臨まず/嗟哉(ああ) 斯の徒輩/其の心 禽(とり)にも如かず/慈烏(じう) 復(ま)た慈烏/鳥中の曽参(そしん)たり」
 鳥は、母が産まれた子を六十日間養育すると、子は生長した後、母烏に六十日間餌を運んで恩返しをすると言い伝えられている。「反哺心」は、子が母に口移しに餌を与えて養うことから、孝行の心のことをいう。「呉起」は、戦国時代の衛の国の人。兵法軍事の大家として有名。まだ世に出る前に、「卿相にならなかったら、故国へは帰らない」との母への約束を守り、母の死に際しても帰国しなかったという。「曽参」は、孔子の弟子で、親孝行で有名。呉起の師であるが、母の死に帰国しない呉起を見て絶交したと言われる。
 大略は、「慈烏がその母烏を失い、カアカアと悲しげに啼いている/昼も夜も古巣の林を離れず、いつまでも、母烏を慕っている/毎夜 夜中過ぎに鳴き、聞く者はその哀しげな声につい涙で襟を濡らしてしまう/その声はまるで訴えているようだ、まだ自分は孝行を尽くしていないのだと/多くの鳥達にどうして母のいないことがあろうか、だが、お前だけが悲しみが深い/きっと母の愛情が深かったから、お前をこんなに悲しませているのだろう/昔、呉起というひとがいたが、母親が亡くなっても葬式に行かなかったと言う/ああ、こんな輩は、その心と言ったら禽にも劣ることだ/慈烏よ、ああ、慈烏よ、お前は鳥の中でも曽参というべきものだよ。」ざっとこんなもの。

1fdb40ce.jpg
d14bdf91.jpg 気象庁の発表によると、台風4号は午前6時には石川県輪島市の西170kmの海上を速度をやや速めて1時間に40kmの速さで東北東へ進んでいるという。本日は旧暦2日、東京湾の満潮は午前5時56分だという。
桜橋~白鬚橋を1巡する。台風のためか帽子が吹き飛ばされそうになるほど風が強いが、朝の陽射しは強く眩しいほどである。桜橋から東京スカイツリーはすっかり秋になったような空に聳え立つ。台風の影響と満潮のためか、橋場、今戸のテラスには水が打ち上げられ、桜橋の袂では水生植物の説明板が水の中に沈んで見える。台風は、今夜には北日本へ上陸の危惧あり。
 今朝のウェブニュースから。
8c45641f.JPG NHK・影山解説委員が自殺図り重体 ―― 11日午後5時25分ごろ、東京都渋谷区神南のNHK放送センター内西館8階のトイレ内で、NHKの影山日出夫解説委員(56)が首を吊っているのが見つかった。影山委員は病院に搬送されたが重体という。警視庁は自殺を図ったとみている。/関係者によると、職場の机の上に遺書らしきものがあり職員が放送センター内を捜索。トイレの個室のフックにネクタイをかけて首を吊っている影山委員を発見した。影山委員は政治全般を担当していた。(産経ニュース、2010.8.11 23:40)

 本日は初代三遊亭圓朝の110回忌である。
 初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう、天保10〈1839〉年~明治33〈1900〉年)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。よく、「三遊派は人情噺ができないと真打にしない」ということが昔は言われたものだが、その人情噺とは圓朝自作の二作(芝浜と文七元結)のことである。
 あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を新たに作った。
 圓朝による新作落語はほぼすべてが極めつきの名作といってよく、現代まで継承されている。圓朝が生きたのは江戸時代でなく明治であるが、彼の新作落語は例外的に「古典落語」に分類され、また古典落語の代表とされる。人情噺では前述のとおり、『芝浜』と『文七元結』、怪談では、『牡丹燈籠』『四谷怪談』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案は『死神』。近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷(元治元〈1864〉年~明治42(1909〉年)に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたという。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅(ルーシュン、1881年~1936年)は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。
 本日午前9時30分、圓朝の墓のある全生庵を訪ねた。花川戸のクロネコに立ちより、西宮のK氏にメール便を発送。松屋前から東西めぐりんで全松庵に赴いた。谷中小学校前で下車、三崎坂をしばし登り全生庵の山門をくぐる。ここで、先ずは三遊亭圓朝翁碑をカメラに収めた。
5a3f019d.jpg 当庵は山岡鉄舟居士が 徳川幕末 明治維新の際 国事に殉じた人々の菩提を弔うために 明治十六年に建立したという。鉄舟居士は慶応四年三月、江戸城総攻撃のため官軍東征するや徳川十五代将軍慶喜の命を受け、単身で静岡まで進軍して来た官軍の大本営に赴き、総参謀西郷南州に面接し江戸城無血開城の道をひらき、江戸市民を戦火の災厄から救い 徳川家の存続をも全からしめた 明治五年から十年間、明治天皇の侍従となり天皇を精神的に教導申し上げ英邁な明治大帝を育成したという。 また剣、禅、書の奥義を極め剣の無刀流を開いたという。全生庵の寺名は 明治七年居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の全生庵という額を人から貰い、これを書斎に掛けて愛蔵していたので、 明治十三年居士が一寺建立を発願し、寺域を道友国泰寺越叟和尚のすすめにより谷中の現在地に選定したところが計らずも、此の土地が七百年前道隆禅師が江戸に漂着し九死に一生を得て全生庵という庵室を作って閑居していた旧跡であるいことが判った。居士も奇縁に感じ明治十六年、全生庵を寺号とし、居士邸から曾て江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊としたという。
7551e47b.jpg 三遊亭圓長は人格面においても、全生庵開基・山岡鉄舟の導きにより禅をよく修し、その淵源を極め、京都天竜寺の滴水禅師より「無舌居士」の号を付与され「芸禅一如」の境涯に達した人物であるという。全生庵に所蔵している円朝遺愛の幽霊画コレクションは、円朝歿後その名跡を守られてきた藤浦家より寄贈された。伝円山応挙というものから、柴田是真、菊池容斎、松本楓湖、伊藤 晴雨、河鍋暁斎など、幕末から明治の著名な画家達の筆による大変ユニークな幽霊画である。全生庵では、毎年、円朝忌の行われる八月の一ヶ月間、幽霊画全幅を公開しており、十一日の円朝忌には、落語家により盛大な供養の会も行われているという。
 円朝辞世の句 「耳しいて 聞きさだめけり 露の音」 全生庵七世住職 平井正修
723911cc.jpg
d8e3feca.jpg
cb03cabd.jpg






dd50f35a.jpg
a25501cc.jpg
cd8e2d0b.jpg






c529c593.JPG まずは、圓朝と鉄舟のお墓に参ろうと、墓地に行く。入口にキンキラキンの巨大な観音菩薩の立像が立つ。「これが葵正観世音の霊像か?」「まあ、こんなに派手なキンキラキンなら、余り大したご利益は望めまいに」と、勝手な想像を廻らして、圓朝と鉄舟の墓に詣でて、本堂横の「幽霊画」の展示場へ行く。
 再び、東西めぐりんで浅草に出ると、観音横丁の中華料理店で冷やし中華の昼食を済ませ、帰宅した。
 夜は午後6時、Y家の尾通屋に参列。

 本日は初代三遊亭圓朝の120回忌である。
 初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう、天保10〈1839〉年~明治33〈1900〉年)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。よく、「三遊派は人情噺ができないと真打にしない」ということが昔は言われたものだが、その人情噺とは圓朝自作の二作(芝浜と文七元結)のことである。
 あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を新たに作った。
 圓朝による新作落語はほぼすべてが極めつきの名作といってよく、現代まで継承されている。圓朝が生きたのは江戸時代でなく明治であるが、彼の新作落語は例外的に「古典落語」に分類され、また古典落語の代表とされる。人情噺では前述のとおり、『芝浜』と『文七元結』、怪談では、『牡丹燈籠』『四谷怪談』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案は『死神』。近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷(元治元〈1864〉年~明治42(1909〉年)に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたという。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅(ルーシュン、1881年~1936年)は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。
 本日午前9時30分、圓朝の墓のある全生庵を訪ねた。花川戸のクロネコに立ちより、西宮のK氏にメール便を発送。松屋前から東西めぐりんで全松庵に赴いた。谷中小学校前で下車、三崎坂をしばし登り全生庵の山門をくぐる。ここで、先ずは三遊亭圓朝翁碑をカメラに収めた。
5a3f019d.jpg 当庵は山岡鉄舟居士が 徳川幕末 明治維新の際 国事に殉じた人々の菩提を弔うために 明治十六年に建立したという。鉄舟居士は慶応四年三月、江戸城総攻撃のため官軍東征するや徳川十五代将軍慶喜の命を受け、単身で静岡まで進軍して来た官軍の大本営に赴き、総参謀西郷南州に面接し江戸城無血開城の道をひらき、江戸市民を戦火の災厄から救い 徳川家の存続をも全からしめた 明治五年から十年間、明治天皇の侍従となり天皇を精神的に教導申し上げ英邁な明治大帝を育成したという。 また剣、禅、書の奥義を極め剣の無刀流を開いたという。全生庵の寺名は 明治七年居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の全生庵という額を人から貰い、これを書斎に掛けて愛蔵していたので、 明治十三年居士が一寺建立を発願し、寺域を道友国泰寺越叟和尚のすすめにより谷中の現在地に選定したところが計らずも、此の土地が七百年前道隆禅師が江戸に漂着し九死に一生を得て全生庵という庵室を作って閑居していた旧跡であるいことが判った。居士も奇縁に感じ明治十六年、全生庵を寺号とし、居士邸から曾て江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊としたという。
7551e47b.jpg 三遊亭圓長は人格面においても、全生庵開基・山岡鉄舟の導きにより禅をよく修し、その淵源を極め、京都天竜寺の滴水禅師より「無舌居士」の号を付与され「芸禅一如」の境涯に達した人物であるという。全生庵に所蔵している円朝遺愛の幽霊画コレクションは、円朝歿後その名跡を守られてきた藤浦家より寄贈された。伝円山応挙というものから、柴田是真、菊池容斎、松本楓湖、伊藤 晴雨、河鍋暁斎など、幕末から明治の著名な画家達の筆による大変ユニークな幽霊画である。全生庵では、毎年、円朝忌の行われる八月の一ヶ月間、幽霊画全幅を公開しており、十一日の円朝忌には、落語家により盛大な供養の会も行われているという。
 円朝辞世の句 「耳しいて 聞きさだめけり 露の音」 全生庵七世住職 平井正修
723911cc.jpg
d8e3feca.jpg
cb03cabd.jpg






dd50f35a.jpg
a25501cc.jpg
cd8e2d0b.jpg






c529c593.JPG まずは、圓朝と鉄舟のお墓に参ろうと、墓地に行く。入口にキンキラキンの巨大な観音菩薩の立像が立つ。「これが葵正観世音の霊像か?」「まあ、こんなに派手なキンキラキンなら、余り大したご利益は望めまいに」と、勝手な想像を廻らして、圓朝と鉄舟の墓に詣でて、本堂横の「幽霊画」の展示場へ行く。
 再び、東西めぐりんで浅草に出ると、観音横丁の中華料理店で冷やし中華の昼食を済ませ、帰宅した。
 夜は午後6時、Y家のお通夜に参列。

 昨日は、朝から雨で、徘徊はお休み。
 ここ2・3年前から、この季節になると谷中全生庵で行われる圓朝忌に行ってみようと思いながら、行きそびれていた。明8月11日が圓朝忌に当たるという。明日は全生庵を訪ねてみようということになった。圓朝コレクションの「幽霊画展」だけでも見て、圓朝のお墓にお参りして来よう。
 という訳で昨日は正岡容(まさおかいるる、明治37〈1904〉年~昭和33〈1958〉年、作家、落語・寄席研究家。歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれた)の「小説・圓朝」を読んでいた。まあ、明日の下準備というところ。
6761f0aa.jpg
92fca5e2.jpg 今日は、照ったり曇ったりの天気。桜橋~白鬚橋を一巡して帰宅した。橋場でテラスに降り、テラスを歩いた。テラスから対岸の墨田区側のテラスを見ると恰好のお寝(やす)みどころとなっているらしい。





 

 今日は立秋。テレビでは毎日猛暑の報道が続くが、早朝の徘徊は心地よい。川風にあたると何処かしら秋の気配を感じる。
1634c151.jpg 花川戸で取った対岸の写真を合成してみる。同じ時刻に撮ったのに明るさが違うのは、カメラを向けた向きの違いから起こったものだろうか。
 隅田公園を南下、駒形橋を渡って、吾妻橋東詰めから墨田区役所前に出て、旧水戸庭園をぬけて白鬚橋を渡り、橋場・今戸の遊歩道を南下して帰宅した。
 きょうも、暑い一日になりそうだ。
 

 秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行(古今169)
 毎日猛暑が続く。明日は立秋だという。今日は節分ということで、ここ2・3日テレビは恵方巻きの宣伝に飽くことを知らぬ。
b8f08579.jpg 朝から馬鹿暑い。汗で濡れた夜着をぬぎすてて、家を出ると吾妻橋~白鬚橋をひと回りする。旧水戸庭園では白鳥も何だかこの暑さでぐったりしているようだ。でも、川筋に出ると川風が心地よく、まさに秋風。白鬚橋でワンさんとすれ違う。「毎日、毎日暑いですね」「この暑さまだまだ続くようだから気を付けてくださいね」
b04a77ef.jpg 橋場・今戸の遊歩道からみるスカイツリーの後ろを白い雲が走っている。思えば65年前の昔、この時刻にまだ中学1年だった爺は山陽線の上り列車にいた。数時間後廿日市のホームで阿鼻叫喚の地獄を見ることも知らないで。―― 今日は廣島に原爆が落とされた日である。

b25109b0.JPG 厚生労働省は先月末に「2009年の日本人の平均寿命は女性86.44歳、男性79.59歳で、いずれも4年連続で過去最高を更新した」と発表している。特に、女性は4年連続で世界一であるという。
01522b9b.JPG しかし、足立区の即身成仏ミイラ事件、杉並区の都内最高齢者夫人行方不明事件以来、事情が少々変わってきたようだ。今朝のウェブニュースに曰く、「高齢者所在不明 さらに調査へ ―― 自治体に住民登録などがありながら所在が確認できない高齢者が全国で相次いでいる問題で、所在がわからない100歳以上の高齢者は、少なくとも57人に上っており、各自治体は、6日も職員が住民票の住所地を訪ねて関係者から話を聞くなど調査を進めることにしています。NHKのまとめによりますと、住民登録などがある自治体が所在を確認できていない100歳以上の高齢者の数は、これまでに東京で10人、大阪府で9人、千葉県で7人、兵庫県で5人、北海道と岡山県で4人、和歌山県で3人など、18の都道府県で少なくとも57人に上っています。このうち大阪府では5つの自治体で少なくとも9人の所在が確認できておらず、中でも吹田市では100歳から103歳までの男女5人の所在がわからず、このうち4人については市が住民登録を削除する手続きを進めています。大阪では、ほかにも東大阪市で13人の高齢者と依然、連絡が取れておらず、所在がわからない人は、さらに増える可能性もあります。また、北海道では、札幌市で106歳の女性が、旭川市で100歳の男性が、いずれも所在がわからなくなっていることもわかりました。こうした高齢者の中については、同居していた親族が「数十年前から行方がわからない」などと話しているケースも目立ち、各自治体は6日も、職員が住民票に記された住所地を直接訪ねたり、関係者から話を聞いたりして、さらに調査を進めることにしています。(NHK 8月6日 4時35分)」
 こうなると厚労省発表の平均寿命もあまり確かなものでないようだ。
 人間死ぬべき時を失すると碌なことはないようだ。どこでか「日本は世界一の長寿国であるが、幸福度は90位」という記事を見たことがある。長寿必ずしもお目出度きものではあるまい。
 長命の者はおのずから長命なのであり、短命の者はおのずから短命なのであり、逆境の者はおのずから逆境に、地位高き者はおのずから地位高く、地位低き者はおのずから地位低く、金持ちはおのずから金持ちに、貧乏人はおのずから貧乏人になるすぎない。なんで他人を羨んだり、妬んだりすることがあろうか。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/