何代目かは不明であるが、圓生は噺の中で「梅若塚」は梅若塚ではなく、和歌を埋めたので「埋和歌塚」と語ったそうであるが、これは噺を面白くするためのこじつけであろう。
また、木母寺は隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功並びに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣で」を行ったことから、江戸時代のころから「芸道上達」「学業精進」の祈願寺として大衆の信仰を集めているという。
早朝のため、木母寺はまだ閉まっていて、境内には入れないので、写真はインターネットから拝借した。
吾妻橋~白鬚橋を一巡。風もなく蒸し暑い。隅田公園のテラスのベンチはお寝みの方々で何処も塞がっている。日の出の位置が南によった所為かご来光のスカイツリーを撮ることが出来た。墨田区役所裏の広場ではくっきりとスカイツリーを写したアサヒビールのジョッキタワーの下でも、家無き方(ひと)が気持ちよさそうにお寝んね。白鬚橋の上でワンさんと出会う。帰宅後の万歩計の記録を見ると8535歩、5.54kmとある。
今朝のウェブニュースより、
対抗馬の動き加速へ=小沢氏「原点回帰を」-民主代表選 ―― 民主党代表選〈9月14日投開票〉は、1日の告示まで半月となった。立候補の意向を示しているのは再選を目指す菅直人首相だけ。各グループは盆休み明けに順次会合を開く予定で、対抗馬擁立に向けた動きも加速する。首相批判を強める小沢一郎前幹事長の動向が最大の焦点だ。/小沢氏は参院選後、公の場で発言していないが、12日付のメールマガジンで「民主党は原点に戻り、『国民の生活が第一』の政策を一つ一つ実行」する決意を表明。衆院選マニフェスト(政権公約)への回帰を唱え、党内で相次ぎ結成された「反菅」派勉強会の動きに歩調を合わせた。/最大勢力の小沢氏支持グループには「小沢さんでないと戦えない」(若手)と、同氏自身の代表選出馬に期待する声が根強い。こうした中で党内の関心を集めているのは、鳩山由紀夫前首相のグループが19日に長野県軽井沢町で開く夏季研修会だ。鳩山氏は小沢グループを招待しており、小沢氏も「都合が付けば行きたい」としている。/鳩山氏は首相の再選支持を打ち出したものの、挙党態勢の構築など条件も付け、「小鳩」連携に含みを持たせている。研修会には小沢グループから多数の議員が参加する見通しで、小沢氏本人も出席した場合、反菅派が勢いづくことになりそうだ。小沢氏に近い山岡賢次副代表らでつくる勉強会も、17日に活動を再開する。/ただ、小沢氏は資金管理団体の政治資金規正法違反事件で、東京第5検察審査会の2度目の議決を控えている。再び「起訴相当」となれば強制起訴されるため、動きにくい状況であるのも事実。党内には、代表選後の幹事長など役員人事で自らの要求を首相にのませるのが小沢氏の狙いとの見方もある。/ 首相への対抗馬としては、鳩山グループに所属し、小沢氏にも近い海江田万里衆院議員が意欲を示すが、実際に出馬できるかは「親方(小沢氏)の意向次第」(小沢グループ若手)となりそうだ。
◇再始動した首相:一方、首相は15日、軽井沢での5泊6日の静養を終えて東京に戻り、全国戦没者追悼式に出席するなど公務を再開した。菅グループは、対抗馬擁立の動きを見極めた上で、支持拡大に向けた取り組みを本格化させる。/これまでに前原誠司国土交通相を中心とするグループが首相再選支持を決定。野田佳彦財務相のグループも再選支持の方向で、17日から2日間、神奈川県小田原市で開く研修会で結束を確認する。 〈jijicom.2010/08/15-14:47)
曇、殆んど風なし。白鬚橋の上でワンさんと遇う。橋の上で暫し立ち話。
今週は、歩く量を減らして、1時間前後で桜橋~白鬚橋を一巡。それでも、大体6000歩前後、距離にして、凡そ4km。
ここ2、3日前から、野生猿が出没し北区、文京区、荒川区で目撃され、そして淺草に逃げ込んだというテレビのニュースを見せられている。
今朝のウェブニュースに曰く、
サルとうとう捕獲、都内横断の“冒険”終わる ―― 東京都台東区の住宅街で13日午後、サルが発見され、捕獲された。/体重約15キロの雄のニホンザルで、池袋など都内各地に出没していたサルと同一とみられる。保護した東京・上野動物園では「奥多摩などのサルが食べ物を求めて人里に下りてきたのではないか」と話している。/警視庁浅草署幹部によると、サルは同日午後2時頃、台東区今戸の住宅兼倉庫に玄関から入り、3階の倉庫部分に逃げ込んだ。/通報を受けた署員が駆け付け、上野動物園に連絡。午後5時10分頃、動物園の獣医師が麻酔銃で眠らせ、捕獲した。命に別条はないという。/現場は、JR南千住駅から南東に約1.5キロの住宅街。近くに住む男性〈73〉は「お年寄りが襲われないか心配だった」とホッとした様子。祖母と一緒に様子を見に来た小学1年の女児(7)は「大きいサルでビックリした」と話した。 (2010年8月13日21時07分 読売新聞)
鳥は、母が産まれた子を六十日間養育すると、子は生長した後、母烏に六十日間餌を運んで恩返しをすると言い伝えられている。「反哺心」は、子が母に口移しに餌を与えて養うことから、孝行の心のことをいう。「呉起」は、戦国時代の衛の国の人。兵法軍事の大家として有名。まだ世に出る前に、「卿相にならなかったら、故国へは帰らない」との母への約束を守り、母の死に際しても帰国しなかったという。「曽参」は、孔子の弟子で、親孝行で有名。呉起の師であるが、母の死に帰国しない呉起を見て絶交したと言われる。
大略は、「慈烏がその母烏を失い、カアカアと悲しげに啼いている/昼も夜も古巣の林を離れず、いつまでも、母烏を慕っている/毎夜 夜中過ぎに鳴き、聞く者はその哀しげな声につい涙で襟を濡らしてしまう/その声はまるで訴えているようだ、まだ自分は孝行を尽くしていないのだと/多くの鳥達にどうして母のいないことがあろうか、だが、お前だけが悲しみが深い/きっと母の愛情が深かったから、お前をこんなに悲しませているのだろう/昔、呉起というひとがいたが、母親が亡くなっても葬式に行かなかったと言う/ああ、こんな輩は、その心と言ったら禽にも劣ることだ/慈烏よ、ああ、慈烏よ、お前は鳥の中でも曽参というべきものだよ。」ざっとこんなもの。
桜橋~白鬚橋を1巡する。台風のためか帽子が吹き飛ばされそうになるほど風が強いが、朝の陽射しは強く眩しいほどである。桜橋から東京スカイツリーはすっかり秋になったような空に聳え立つ。台風の影響と満潮のためか、橋場、今戸のテラスには水が打ち上げられ、桜橋の袂では水生植物の説明板が水の中に沈んで見える。台風は、今夜には北日本へ上陸の危惧あり。
今朝のウェブニュースから。
初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう、天保10〈1839〉年~明治33〈1900〉年)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。よく、「三遊派は人情噺ができないと真打にしない」ということが昔は言われたものだが、その人情噺とは圓朝自作の二作(芝浜と文七元結)のことである。
あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を新たに作った。
圓朝による新作落語はほぼすべてが極めつきの名作といってよく、現代まで継承されている。圓朝が生きたのは江戸時代でなく明治であるが、彼の新作落語は例外的に「古典落語」に分類され、また古典落語の代表とされる。人情噺では前述のとおり、『芝浜』と『文七元結』、怪談では、『牡丹燈籠』『四谷怪談』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案は『死神』。近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷(元治元〈1864〉年~明治42(1909〉年)に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたという。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅(ルーシュン、1881年~1936年)は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。
本日午前9時30分、圓朝の墓のある全生庵を訪ねた。花川戸のクロネコに立ちより、西宮のK氏にメール便を発送。松屋前から東西めぐりんで全松庵に赴いた。谷中小学校前で下車、三崎坂をしばし登り全生庵の山門をくぐる。ここで、先ずは三遊亭圓朝翁碑をカメラに収めた。
円朝辞世の句 「耳しいて 聞きさだめけり 露の音」 全生庵七世住職 平井正修
再び、東西めぐりんで浅草に出ると、観音横丁の中華料理店で冷やし中華の昼食を済ませ、帰宅した。
夜は午後6時、Y家の尾通屋に参列。
初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう、天保10〈1839〉年~明治33〈1900〉年)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。よく、「三遊派は人情噺ができないと真打にしない」ということが昔は言われたものだが、その人情噺とは圓朝自作の二作(芝浜と文七元結)のことである。
あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を新たに作った。
圓朝による新作落語はほぼすべてが極めつきの名作といってよく、現代まで継承されている。圓朝が生きたのは江戸時代でなく明治であるが、彼の新作落語は例外的に「古典落語」に分類され、また古典落語の代表とされる。人情噺では前述のとおり、『芝浜』と『文七元結』、怪談では、『牡丹燈籠』『四谷怪談』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案は『死神』。近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷(元治元〈1864〉年~明治42(1909〉年)に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたという。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅(ルーシュン、1881年~1936年)は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。
本日午前9時30分、圓朝の墓のある全生庵を訪ねた。花川戸のクロネコに立ちより、西宮のK氏にメール便を発送。松屋前から東西めぐりんで全松庵に赴いた。谷中小学校前で下車、三崎坂をしばし登り全生庵の山門をくぐる。ここで、先ずは三遊亭圓朝翁碑をカメラに収めた。
円朝辞世の句 「耳しいて 聞きさだめけり 露の音」 全生庵七世住職 平井正修
再び、東西めぐりんで浅草に出ると、観音横丁の中華料理店で冷やし中華の昼食を済ませ、帰宅した。
夜は午後6時、Y家のお通夜に参列。
昨日は、朝から雨で、徘徊はお休み。
ここ2・3年前から、この季節になると谷中全生庵で行われる圓朝忌に行ってみようと思いながら、行きそびれていた。明8月11日が圓朝忌に当たるという。明日は全生庵を訪ねてみようということになった。圓朝コレクションの「幽霊画展」だけでも見て、圓朝のお墓にお参りして来よう。
という訳で昨日は正岡容(まさおかいるる、明治37〈1904〉年~昭和33〈1958〉年、作家、落語・寄席研究家。歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれた)の「小説・圓朝」を読んでいた。まあ、明日の下準備というところ。
今日は、照ったり曇ったりの天気。桜橋~白鬚橋を一巡して帰宅した。橋場でテラスに降り、テラスを歩いた。テラスから対岸の墨田区側のテラスを見ると恰好のお寝(やす)みどころとなっているらしい。
毎日猛暑が続く。明日は立秋だという。今日は節分ということで、ここ2・3日テレビは恵方巻きの宣伝に飽くことを知らぬ。
こうなると厚労省発表の平均寿命もあまり確かなものでないようだ。
人間死ぬべき時を失すると碌なことはないようだ。どこでか「日本は世界一の長寿国であるが、幸福度は90位」という記事を見たことがある。長寿必ずしもお目出度きものではあるまい。
長命の者はおのずから長命なのであり、短命の者はおのずから短命なのであり、逆境の者はおのずから逆境に、地位高き者はおのずから地位高く、地位低き者はおのずから地位低く、金持ちはおのずから金持ちに、貧乏人はおのずから貧乏人になるすぎない。なんで他人を羨んだり、妬んだりすることがあろうか。
sechin@nethome.ne.jp です。
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