瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
まだ明けきらない川辺は肌寒く感じるが、そのうち朝日が照り始め、歩を進めるうちに汗ばんでくる。本日は雲一点もない日本晴れ。これで開花に手間取ったソメイヨシノも盛りに近付いたが、東北関東大震災のためか、自粛自粛で活気がない。桜橋を渡り向島の遊歩道を北上白鬚橋を渡るとテラスにおりる。
テラスにモクレンが今を盛りと咲いている。モクレン(木蓮、木蘭)は、モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。花が紫色であることから、シモクレン(紫木蓮)の別名もある。昔は「木蘭(もくらん)」と呼ばれていたこともあるが、これは花が蘭に似ていることに由来する。今日では、蘭よりも蓮の花に似ているとして「木蓮(もくれん)」と呼ばれるようになったという。スカイツリーは目的の634mに達したらしいが、隅田川の静かな川面にその全体像を落としている。
山谷堀水門広場に冬のうちに枝を切り落とされた柳の樹があるが、春を感じて新緑の芽を吹き出している。日本で時代劇に出てくるお堀端の「しだれ柳」の楚々とした風情は、怪談ばなしに、つきものとなっているが、空海が中国を訪れていた時代には長安では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったという。また、柳は枝や葉にサリチル酸を含むことから、解熱鎮痛薬としても用いられ、後にアスピリンが作られるこになったという。日本でも枝が歯痛止めや爪楊枝の材料として用いられた。
阿倍仲麻呂(698~770年)は阿部船守の子で吉備真備や玄昉とともに開元五(717、我が国の養老元)年、留学生として多治比県守(あがたもり)らの遣唐使に従って入唐、時に16歳であった。玄宗の時には秘書監・衛尉卿(えいいけい)などの官になったという。天宝十一載(752年、わが天平勝宝4年)入唐の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らが翌年に帰国するとき、ともに第一船に乗って帰国しようとし、明州(今、鄞県)で詩を作ったという。この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説ある。紀貫之は『土佐日記』の中で次のように述べている。
二十日の月出でにけり。山の端もなくて海の中よりぞ出で来る。かやうなるを見てや、昔、阿倍の仲麿といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、舟に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけん、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。これを見てぞ仲麿の主、「我が国に、かかる哥をなん神世より神も詠む給び、今は上中下の人も、かやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む」とて、詠めりける歌、「青海原ふりさけ見れば春日なる/三笠の山に出でし月かも」とぞ詠めりける。かの国人聞ゝ知るまじう思ほえたれども言の男文字にさまを書き出だして、こゝの言葉伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞ゝ得たりけむ、いと思ひの外になん賞でける。唐土とこの国とは言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらん。さて、今、当時を思やりてある人の詠める歌、「都にて山の端に見し月なれど/浪より出でゝ波にこそ入れ」
現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれているという。
仲麻呂の乗船した船は奄美大島あたりで暴風雨に遭い、北ベトナムに流され、一時その死が伝えられたという。のち清河らと長安に帰り、大暦7(770)年、唐で死んだ。
李白は天宝12載(753年)晁衡の溺死が伝えられたとき『哭晁卿衡』という七言絶句を作って仲麻呂を痛んだという。
(訳)阿倍仲麻呂を悼む:日本の衛尉晁衡は帝都に別れを告げ/船の帆を張って蓬莱をめぐって行った/明月が沈めば帰らぬと同じく青海に沈み/白雲は愁いの色を帯びて海中の蒼梧山にみちている
テラスにモクレンが今を盛りと咲いている。モクレン(木蓮、木蘭)は、モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。花が紫色であることから、シモクレン(紫木蓮)の別名もある。昔は「木蘭(もくらん)」と呼ばれていたこともあるが、これは花が蘭に似ていることに由来する。今日では、蘭よりも蓮の花に似ているとして「木蓮(もくれん)」と呼ばれるようになったという。スカイツリーは目的の634mに達したらしいが、隅田川の静かな川面にその全体像を落としている。
山谷堀水門広場に冬のうちに枝を切り落とされた柳の樹があるが、春を感じて新緑の芽を吹き出している。日本で時代劇に出てくるお堀端の「しだれ柳」の楚々とした風情は、怪談ばなしに、つきものとなっているが、空海が中国を訪れていた時代には長安では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったという。また、柳は枝や葉にサリチル酸を含むことから、解熱鎮痛薬としても用いられ、後にアスピリンが作られるこになったという。日本でも枝が歯痛止めや爪楊枝の材料として用いられた。
阿倍仲麻呂(698~770年)は阿部船守の子で吉備真備や玄昉とともに開元五(717、我が国の養老元)年、留学生として多治比県守(あがたもり)らの遣唐使に従って入唐、時に16歳であった。玄宗の時には秘書監・衛尉卿(えいいけい)などの官になったという。天宝十一載(752年、わが天平勝宝4年)入唐の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らが翌年に帰国するとき、ともに第一船に乗って帰国しようとし、明州(今、鄞県)で詩を作ったという。この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説ある。紀貫之は『土佐日記』の中で次のように述べている。
二十日の月出でにけり。山の端もなくて海の中よりぞ出で来る。かやうなるを見てや、昔、阿倍の仲麿といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、舟に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけん、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。これを見てぞ仲麿の主、「我が国に、かかる哥をなん神世より神も詠む給び、今は上中下の人も、かやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む」とて、詠めりける歌、「青海原ふりさけ見れば春日なる/三笠の山に出でし月かも」とぞ詠めりける。かの国人聞ゝ知るまじう思ほえたれども言の男文字にさまを書き出だして、こゝの言葉伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞ゝ得たりけむ、いと思ひの外になん賞でける。唐土とこの国とは言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらん。さて、今、当時を思やりてある人の詠める歌、「都にて山の端に見し月なれど/浪より出でゝ波にこそ入れ」
現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれているという。
仲麻呂の乗船した船は奄美大島あたりで暴風雨に遭い、北ベトナムに流され、一時その死が伝えられたという。のち清河らと長安に帰り、大暦7(770)年、唐で死んだ。
李白は天宝12載(753年)晁衡の溺死が伝えられたとき『哭晁卿衡』という七言絶句を作って仲麻呂を痛んだという。
(訳)阿倍仲麻呂を悼む:日本の衛尉晁衡は帝都に別れを告げ/船の帆を張って蓬莱をめぐって行った/明月が沈めば帰らぬと同じく青海に沈み/白雲は愁いの色を帯びて海中の蒼梧山にみちている
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目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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