瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は、3月10日。64年前の未明、東京は一瞬にして焼野原と化してしまった。



朝早くは雨模様だったので、昼飯の腹ごなしに白鬚橋の方を一周するべく徘徊に出掛けた。言問橋西詰の公園入口にある東京大空襲慰霊碑の前に来てみると、東京大空襲犠牲者追悼集会が開かれていた。慰霊碑の前は通れないので、脇道から隅田公園に入りスポーツセンターに向けて進んだ。



スポーツセンター脇の白木蓮は清楚な白い花を咲かせていた。日が照り始めて、風も生暖かく感じる。何時もの遊歩道を通り、白鬚橋を渡り、青色御殿の前を通って、常夜灯までくると、26日に企画している花見の回答FAXに「長命寺のさくら餅が食いたい」というのがあったのを思い出した。花見当日は店の前には長蛇の列が出来るので、とても購入することは出来ない。26日午後1時~2時に来店するからと15個入りの折を予約しておいた。



言問橋を東詰から渡り、再び西詰の隅田公園入口に来ると東京大空襲犠牲者追悼集会は終わっていて、慰霊碑の前には沢山の花や飲み物が供えられていた。公園内を通って帰宅した。
スポーツセンター脇の白木蓮は清楚な白い花を咲かせていた。日が照り始めて、風も生暖かく感じる。何時もの遊歩道を通り、白鬚橋を渡り、青色御殿の前を通って、常夜灯までくると、26日に企画している花見の回答FAXに「長命寺のさくら餅が食いたい」というのがあったのを思い出した。花見当日は店の前には長蛇の列が出来るので、とても購入することは出来ない。26日午後1時~2時に来店するからと15個入りの折を予約しておいた。
言問橋を東詰から渡り、再び西詰の隅田公園入口に来ると東京大空襲犠牲者追悼集会は終わっていて、慰霊碑の前には沢山の花や飲み物が供えられていた。公園内を通って帰宅した。
今日は日曜日。婆様が百花園に行こうと言い出した。午後から雨模様というので昼飯前に出掛けた。スポーツセンター脇の白木蓮は白い花びらを露にし始めた。隅田川西岸の遊歩道を通って白鬚橋を渡る。
そのまま明治通りを真っ直ぐに百花園まで歩くことにする。途中、曹洞宗の法泉寺に立ち寄る。法泉寺は近世以前開創という区内でも古い寺院であると聞く。山門を入りすぐ左手に安置されている総高357センチメートルの地蔵菩薩立像は、享保2年(1717年)の造立で、三段の石造基壇の上に、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち円光背を持つ。地蔵菩薩と並んで立ち、婆様にデジカメのシャッターを押してもらうが、押しが甘く映像が取り込めていなかった。残念!



明治通りから百花園に道を取り、園内をひと回り。茶亭さはらで甘酒を飲む。甘酒を差し出してくれた主人に訊ねてみる。「お宅は佐原さんですか? 鞠塢(きくう)さんの子孫なんですね?」「そういうことです。」「妙なことをお尋ねするようですが、枕橋茶やでお聞きしたのですが、『隅田川諸白』というお酒はどこでもとめることができるのですか?」「松屋で売っていませんか?」「方々で訊ねたのですが、松屋も浅草の酒屋でも売っていないんですよ」「ええとですね…」といいながら、地図を持ち出してあれこれ調べてくれていたが、「ちょっとお待ち下さい」というと、親切にも受付事務所まで言ってコピーを撮ってくると、ボールペンで印を付けながら丁寧に教えてくださった。
明日にでも、幻の酒『隅田川諸白』にお目にかかれるかもしれない。
明治通りから百花園に道を取り、園内をひと回り。茶亭さはらで甘酒を飲む。甘酒を差し出してくれた主人に訊ねてみる。「お宅は佐原さんですか? 鞠塢(きくう)さんの子孫なんですね?」「そういうことです。」「妙なことをお尋ねするようですが、枕橋茶やでお聞きしたのですが、『隅田川諸白』というお酒はどこでもとめることができるのですか?」「松屋で売っていませんか?」「方々で訊ねたのですが、松屋も浅草の酒屋でも売っていないんですよ」「ええとですね…」といいながら、地図を持ち出してあれこれ調べてくれていたが、「ちょっとお待ち下さい」というと、親切にも受付事務所まで言ってコピーを撮ってくると、ボールペンで印を付けながら丁寧に教えてくださった。
明日にでも、幻の酒『隅田川諸白』にお目にかかれるかもしれない。
明けたばかりの言問橋の上をかなり強い川風が吹いていたが、そんなに冷たくはない。春の兆しを感じながら、水戸街道に続く三つ目通りを南下する。浅草通り、春日通り、蔵前橋通りを横切り、北斎通りに出る。
さらに、総武線のガードをくぐり、京葉道路にでると、右折して両国橋に向けて西進、回向院前を通って、両国橋をわたる。何時もなら、柳橋を渡るとそのままはす違いに道を取り、江戸通りを北上して帰路に着くのだが、何となく神田川沿いに歩いてみたくなり、南岸を浅草橋まで出る。浅草橋を渡ると、さらに神田川を上ってみたく、北岸沿いに左衛門橋まで来てしまった。
浅草通りから駒形堂に出たときは7時55分。急ぎ足で家に辿り着いたのが、8時15分。
Omron万歩計は14039歩、9.1kmを示していた。所要時間は約2時間20分。
先日、ブログでも取り上げた隅田川諸白は、半田市の中埜醸造株式会社で作っているのだが、インターネットで探しても見当たらずどうやら通販で求めることは出来ないらしい。台東区、墨田区の酒屋にぶち当たると訊ね回っているのだが何処にも売っていない。
今日は久し振りの晴天だというので、まだ明け切っていない5時半に家を出て、桜橋を渡ると、墨堤通り沿いに明治通りまで北上。東白鬚公園をさらに北上、梅若橋まで来ると、何となくもっと先まで進みたくなり、梅若橋を越えて、再び墨堤通りに出ると、東の空から朝日が昇るところであった。おやおや、鐘淵紡績発祥の地に建つカネボウ物流の広告塔が、変わっている。どうやら、ここはカネボウ化粧品になつたらしい。綾瀬橋を渡り、千住曙町に出る。ここは、昨年はずっとイニシア千住曙町の建設現場であったが、ほぼ完成されたらしい。千住汐入大橋の北詰からみると、ここで隅田川が大きく彎曲しているのが良く判る。橋の上から見ると南詰の南千住のマンション群が目に入る。よくもこれだけのマンションを建設したものだと感心するばかり。
昨年は水門会の有志6名で花見の宴をはった。今年もという声につられて企画、昨日参加者応募の葉書を出したので、今朝ほどその下見を兼ねて、企画したコースを回ってみた。






桜橋を渡り、長命寺・弘福寺をめぐり、墨堤通りに戻り、三囲社の表参道に降りて、再び墨堤通りへ出る。言問橋を潜り、牛嶋神社から水戸邸の日本庭園をまわり、枕橋茶やから北十間川沿いに川の北側を東進。源森橋を渡り、今度は川の南側を東進、小梅橋を渡り再び川の北側を東進して東武橋に出る。橋の上で東京スカイツリーの建設現場をカメラに収める。工事は急ピッチで進んでいるようで、はや20mぐらいの高さかな?

浅草通りにでると、業平橋を渡り、ここを西進、吾妻橋を渡る。昨日炊き出しが行われていた築山の上でlocation が行われていた。まだ、撮影は行われていなかったので、カメラマンに「なんの撮影ですか?」と訊ねると「テレビのドラマ撮影ですよ」という答えであった。
帰宅後omron万歩計の結果は8231歩、5.3km(1歩65cmに設定)と記録されていた。
帰宅後omron万歩計の結果は8231歩、5.3km(1歩65cmに設定)と記録されていた。
松屋から隅田公園に入り、桜のうちでも早咲きの大寒桜の下で、写真を撮り帰宅した。
かつての蟻の町は今はまったく整備され、築山になっているが、この築山に大勢の人が屯(たむろ)しているので、のぼってみると、そこで炊き出しが行われていた。いやいや、麻生総理ですら散歩の途中でホームレスに間違えられたというのだから、この爺だって施しに預かりにこの群れに集まったと思われてもいたし方あるまい。早々に、築山を駆け下りて、帰宅した。小雨が降り出した所為か梅まつりに仮設されたテントは急ぎ片付けられている最中であった。
昨日は、1日中降ったり止んだりの天気。それに真冬並みの寒さで、霙になったり、ときには雪の舞うこともあり、家に閉じ篭っていた。

今朝は、6時に家を出ると、全長750mという山谷堀公園を突き抜けて、地方橋へと出る。ここから土手通りを北上、三ノ輪に抜けた。昔はこの土手通りは吉原土手といわれ。これに並行して山谷掘りがあり、堀を船で通うで通う遊客も多かったという。堀と通りの間が土手になっていたそうだが、現在では取り崩されている。
吉原歓楽街への正面玄関が大門であった。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされ、江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、明治44(1911)年の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去されたということである。





永井荷風は『里の今昔』の中でこの辺りの風情を「見返り柳の立っていてた大門外の堤に佇立んで、東の方を見渡すと、地方今戸町の低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小塚ケ原の女郎屋の裏手が見え、堤の直ぐ下には屠牛場や元結いの製造場などがあって、山谷堀へつづく一条の溝渠が横たわっていた。毒だみの花や、赤のままの花のさいていた岸には、猫柳のような灌木が繁っていて、髪洗橋などという腐った木の橋が幾筋もかかっていた。見返り柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降りる細い道があった。これが竜泉寺町の通りで、「たけくらべ」第一回の書始めに見る叙景の文は即ちこの処であった。道の片側は鉄漿溝(おはぐろどぶ)に沿うて、郭者の住んでる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町1丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引き上げられた幾筋の刎橋(はねばし)が見えた。」のように記している。



土手通りの終わる所が三ノ輪である。ここから、明治通りに沿って東進、白鬚橋西詰めから隅田川沿いの遊歩道をくだって、山谷堀の水門前広場に出る。





この遊歩道に沿う橋場のマンションの裏手にはさまざまな庭木や草花が植えてあり、四季それぞれによって目を楽しませてくれる。バスの駐車場に植えられている柳は良く見ると青い芽を吹いていた。桜の花芽はまだ固いが、スポーツセンター脇の白木蓮は花芽の皮を破って白い花びらをみせはじめている。山谷橋の広場に来ると八重椿が綺麗な花を咲かせていた。気温は低く、風も寒いが、もうそこら中に、春が来たような気分させてくれる。
隅田公園の梅園では、今日・明日「梅まつり」が行われることになっており、梅園の入口にはテントが立ち並んでいた。
吉原歓楽街への正面玄関が大門であった。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされ、江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、明治44(1911)年の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去されたということである。
土手通りの終わる所が三ノ輪である。ここから、明治通りに沿って東進、白鬚橋西詰めから隅田川沿いの遊歩道をくだって、山谷堀の水門前広場に出る。
この遊歩道に沿う橋場のマンションの裏手にはさまざまな庭木や草花が植えてあり、四季それぞれによって目を楽しませてくれる。バスの駐車場に植えられている柳は良く見ると青い芽を吹いていた。桜の花芽はまだ固いが、スポーツセンター脇の白木蓮は花芽の皮を破って白い花びらをみせはじめている。山谷橋の広場に来ると八重椿が綺麗な花を咲かせていた。気温は低く、風も寒いが、もうそこら中に、春が来たような気分させてくれる。
隅田公園の梅園では、今日・明日「梅まつり」が行われることになっており、梅園の入口にはテントが立ち並んでいた。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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