昨夜は五反田のF氏より、本日の埼玉のY氏の告別式参列時の服装について問い合わせがあった。故人にたいする気持ちの問題だから、何も堅苦しい礼服でなくても、黒っぽい平服でいいのではないかと、平服で行くことに決め、その旨世田谷のKK氏・船橋のKN氏に連絡することにした。
傍でこの遣り取りを聞いていた見栄っ張りの婆様がいちゃもんをつけたので、ひと悶着あったが、これから平服で埼玉へY氏の告別式に出掛ける。
天元術による代数表示は、未知数をxで表す現在の方式に比べるとはるかに不便である。しかし、ヨーロッパの場合も、直ちに現在の方式になったわけではない。16世紀初めから18世紀末まで紆余曲折を経て現在の表示になったという。簡単で便利な記号が作られることは単に記号だけの問題でなく、数学自体の発展を齎す。中国の代数が李冶の時代のままでそれ以上の発展を見なかったのは残念なことである。
天元の一を立てて仮に求める値とする。次に、題の条件によって加減乗除を施して既知数と等しい式をつくり、それと既知数とを相消することで開方式(方程式)を得る。そして、それを開方(方程式の根を得る計算)して答えを得る。 相消とは、等しい数を減じて0の値を得る事で、つまり西洋で、等号で結ぶこと、また、等式の右辺を0にすることにあたる。拙痴无爺も理解できない部分もあるが、天元術の実際を見てみよう。
例題:今長方形がある。その長方形の積は15で、長辺と短辺の和が8であるとき、長辺と短辺の長さはそれぞれいくらか。
求める数を長辺として、まず、天元の一を立てて長辺とす、と言って算盤の実級(定数項)を空(0)とし、法級(xの一次項)に係数1の算木をしく。すなわち、0 + xの式である。(図1)
次に、長短辺の和8より長辺(つまり求める数x)を減じ、短辺とする、と言って実級に8の算木をしいて法級に-1の算木をしく。すなわち8 − x = 短辺 の式である。(図2)
この式(つまり短辺)を長辺(つまり求める数x)と、あい乗じて積とする。xがかかって次数が一つあがるので、法級に8をしき、廉級(x^2の項)に-1をしく。すなわち0 + 8x − x^2 = 積 の式である。「これを左に寄す」と言ってこの式をひとまずおいておく。(図3)
この式が、積に等しいので、積15を列しこれを左に寄すと相消す、と言い、左に寄せた式より積15を引き、長辺(x)を得る開方式(方程式)を得る。すなわち − 15 + 8x − x^2 = 0の方程式である。(図4)
これを開方することで商(根)に長辺の値の5を得る。また、長辺短辺の和よりこれを引いて短辺を得る。
以上が天元術の一例である。
現在のやり方なら 一辺をxとすると他辺は 8-x であるから、x(8-x)=15、 8x-x^2=15、 x^2-8x+15=0 の方程式を得る。左辺を因数分解して (x-3)(x-5)=0 ∴ x=3or5 Ans. 長辺5、短辺3 と筆算でできるのである。
塾友N君3兄弟のご母堂が逝去され、昨夕は通夜、本日は葬儀に出席した。92歳―― 平均寿命を10歳以上上回るから天命を全うされたと言うべきだろう。兼愛塾の塾友は5人の兄弟のうち3名であるが、アルバイトとはいえ兄上・姉上とも何がしかのご縁がある。したがって、ご母堂とも既になくなられた父上同様旧知の間柄といえる。いやはや近い間柄なれば、吾が身もやがては同じような日を迎えると思い、余計に諸行無常をを感じる。
涅槃経にある詩句にその修行者を雪山童子と呼ぶところから「雪山偈」といわれる詩句がある。この雪山偈を今様歌に作ったのが、一般には弘法大師の作といわれている七五調の『いろは歌』である。
拙痴无爺が国民学校6年のときに習った国語の教科書には「修行者と羅刹」という題でこの涅槃経の物語が載せられていた。
「色はにほへど散りぬるを わがよたれぞ常ならむ。」/どこからか聞こえて来る尊いことば。美しい声。ところは雪山(せっせん)の山中である。長い間の難行苦行に、身も心も疲れきつた一人の修行者が、ふとこのことばに耳を傾けた。/いひ知れぬ喜びが、かれの胸にわきあがつて来た。病人が良薬を得、渇者が清冷な水を得たのにもまして、大きな喜びであつた。
「今のは仏の御声ではなかつたらうか。」と、かれは考へた。しかし、「花は咲いてもたちまち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。無常は生ある者の免れない運命である。」という今のことばだけでは、まだ十分でない。/もしあれが仏のみことばであれば、そのあとに何か続くことばがなくてはならない。かれには、さう思はれた。/修行者は、座を立つてあたりを見まはしたが、仏の御姿も人影もない。ただ、ふとそば近く、恐しい悪魔の姿をした羅刹のゐるのに気がついた。/「この羅刹の声であつたろうか。」/さう思ひながら、修行者は、じつとそのものすごい形相をみつめた。
「まさか、この無知非道な羅刹のことばとは思へない。」と、一度は否定してみたが、 「いやいや、かれとても、昔の御仏に教へを聞かなかつたとは限らない。よし、相手は羅刹にもせよ、悪魔にもせよ、仏のみことばとあれば聞かなければならない。」/修行者はかう考へて、静に羅刹に問ひかけた。
「いつたいおまへは、だれに今のことばを教へられたのか。思ふに、仏のみことばであらう。
それも前半分で、まだあとの半分があるに違ひない。前半分を聞いてさへ、私は喜びにたへないが、どうか残りを聞かせて、私に悟りを開かせてくれ。」/すると、羅刹はとぼけたように、「わしは、何も知りませんよ、行者さん。わしは腹がへつてをります。あんまりへつたので、つい、うは言が出たかも知れないが、わしには何も覚えがないのです。」と答へた。/修行者は、いつそう謙遜な心でいつた。
「私はおまへの弟子にならう。終生の弟子にならう。どうか、残りを教へていただきたい。」/羅刹は首を振つた。/「だめだ、行者さん。おまへは自分のことばつかり考へて、人の腹のへつてゐることを考へてくれない。」/「いつたい、おまへは何をたべるのか。」/「びつくりしちやいけませんよ。わしのたべ物といふのはね、行者さん、人間の生肉、それから飲み物といふのが、人間の生き血さ。」
しかし、修行者は少しも驚かなかつた。/「よろしい。あのことばの残りを聞かう。さうしたら、私のからだをおまへにやつてもよい。」/「えつ。たつた二文句ですよ。/二文句と、行者さんのからだと、とりかへつこしてもよいといふのですか。」/行者は、どこまでも真剣であつた。
「どうせ死ぬべきこのからだを捨てて、永久の命を得ようといふのだ。何でこの身が惜しからう。」/かういひながら、かれはその身に着けてゐる鹿の皮を取つて、それを地上に敷いた。/「さあ、これへおすわりください。つつしんで仏のみことばを承りませう。」/羅刹は座に着いておもむろに口を開いた。あの恐しい形相から、どうしてこんな声が出るのかと思はれるほど美しい声である。
「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず。」と歌ふやうにいひ終ると、「たつたこれだけですがね、行者さん。お約束だから、そろそろごちそうになりませうかな。」といつて、ぎよろりと目を光らした。
行者は、うつとりとしてこのことばを聞き、それをくり返し口に唱へた。すると、「生死を超越してしまへば、もう浅はかな夢も迷ひもない。そこにほんたうの悟りの境地がある。」といふ深い意味が、かれにはつきりと浮んだ。心は喜びでいつぱいになつた。/この喜びをあまねく世に分つて、人間を救はなければならないと、かれは思つた。/かれは、あたりの石といはず、木の幹といはず、今のことばを書きつけた。
『色はにほへど散りぬるを、わがよたれぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず。』
書き終ると、彼は手近にある木に登つた。そのてつぺんから身を投じて、いまや羅刹の餌食にならうといふのである。
木は、枝や葉を震はせながら、修行者の心に感動するかのように見えた。修行者は、「一言半句の教へのために、この身を捨てるわれを見よ。」と高らかにいつて、ひらりと樹上から飛んだ。/とたんに、たえなる楽の音が起つて、朗かに天上に響き渡つた。と見れば、あの恐しい羅刹は、たちまち端厳な帝釈天の姿となつて、修行者を空中にささげ、さうしてうやうやしく地上に安置した。
もろもろの尊者、多くの天人たちが現れて、修行者の足もとにひれ伏しながら、心から礼拝した。 (『初等科国語』八)
訳:聖者観自在菩薩が深遠なる般若はらみつにおいて、修行を行っていた時、人間は五蘊の構成要素から成立していると照見した。しかもそれらの五種の構成要素は、その本性は空であると洞察した。/シャーリプトラ(舎利子)よ、この世において物質現象は実体のないもの(空)である。実体のないものこそが、物質現象として成立するのである。実体のないことは、物質現象を離れてあるのではない。物質現象も実体のないことと別にあるのではない。およそ物質現象であるものが、そのままじったいのないものなのである。実体のないことが、そのまま無物質現象なのである。感覚・表象・意志作用・判断についても、これと全く同じことである。/シャーリプトラよ、この世において、存在物はすべて、実態のないことを特質としているのである。生じたと言えないものであり、減じたとも言えないものであり、汚れたとも言えず、汚れを離れたものでもない。減ることもなく、増すこともない。それ故にシャーリプトラよ、実体がないという見方に立てば、物質現象は成立せず、感覚も成立せず、表象も成立せず、意志作用も成立せず、判断も成立しない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識も存在しない。色、声、香り、味、触れられるもの、観念も存在しない。視覚の領域も存在せず、ないし、意識的判断の領域も存在しない。/智慧もなく、無知もなく、智慧の滅尽もない。ないし、老いること、死ぬこともなく、老いること、死ぬことの滅尽もない。苦・集・滅・道(の四つの真理)もなく、智もなく、悟りに達することもない。それに故に、達するということがないから、人は菩薩の般若はらみつを依り所として、心の覆障なしに住している。心に覆障がないから、恐怖がなく、顛倒を超越しており、究極のnirvaaNa(ニルヴァーナ、涅槃)に入っている。三世における諸仏たちはすべて、般若はらみつを依り所として、無上の正しい悟りを現実にさとったのである。/それ故に知るべきである。般若はらみつの大いなる真言、大いなる智慧の真言、無上の真言、比較を絶した真言はすべての苦悩を鎮めるものであり、偽りがないから真実あると。その真言は般若はらみつにおいて次の如くとかれている。/gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā(ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スワーハー)「行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、彼岸に共に行ける者よ、さとりよ、栄えあれ!」
中村 元(なかむら はじめ、1912~1999年、インド哲学者、仏教学者)の訳による
今朝ほどメールを開くとshinさんから返信が届いていた。
「寧為玉砕、不為瓦全」日高さんへ: 日高さん、こんばんは。/韓信の「胯下之辱」は、わたしの小学生のころ、教科書には出ていなかったのですが、ほかの子供向けの雑誌にはよく掲載されたものです。/これは越王勾践の「臥薪嘗胆」と似ている思想内容ですね。ただこれは桜が散るごとき日本の武士道の精神と対照的です。/たしかに中国では武士道に似ている「寧為玉砕、不為瓦全」(節度を持って死を全うする よりも、むしろ玉砕した方がいい)という諺が用いられることがありますが、基本的に生きることを大切にすることが寧ろ中国文化の主流ではないかと思います。これは老荘、楊朱の思想からよく表わされているものです。/瘋癲爺はよく老荘の思想を引用していますが、死生観にかんしてはいかなる立場でしょうかね? Shin
そして、更らに、衆人の前で信を辱めて言った。「信、死ねるものなら俺を刺してみろ。死ねないのなら、俺の股の下をくぐれ。」
すると、信はまずその若者を熟視し、首を垂れて四つん這いになり、その股の下をくぐった。市(いち)中の人はみな、信を嘲笑して臆病者だと思った。
話を元に戻すと、『九章算術』の中で、二元や三元の1次連立方程式や、1元2次方程式が取り扱われており、これら今日では代数の問題として処理されている。その意味からすれば中国の代数学はすでに『九章算術』の時代に始ったといえようが、未知数を表す記号の使用によって代数学を特徴付ければ、中国では金末の頃に始まったのであり、これを「天元術」と呼ばれている。以下天元術に多少なりとも関わる学者を列挙する。
李 冶(りや)は、金末から元初にかけての数学者。字は仁卿、号は敬斎。真定・欒城の出身。/金の1230年に進士となり、河南・鈞州の知事となるが、1232年にモンゴル軍の侵入で鈞州が攻められると、脱出してそのまま隠退した。後、太原などに移り住むが、1251年に河北・元氏の封龍山に住みかを定め、以後は研究生活を送る。天元術を発展させて、幾何などの他の数学分野に応用した。1248年に『測円海鏡』12巻、1259年に『益古演段』3巻を著した他、元好問ら同じ隠遁文人らとの交流も多く、漢詩の作品も現存している。世祖(フビライ・ハーン)はたびたび彼を召して一度は翰林学士に任じたが、すぐにこれを辞退して遂に仕官には応じなかった。88歳で死去。
楊輝(ようき)は字を謙光といい、銭塘(淅江省杭州市)の人であるが、生没年や経歴は判っていない。1261年に『詳解九章算法』を著してから、以来7巻の数学書を著作をしたが、後人が纏めて『楊輝算法』と名付けた。朝鮮ではこれを底本として復刻さた。この数学書は中国ではその後その伝を失ったが、本書によって、魔方陣、円陣の方法が後世に影響を与えたという。
朱世桀(しゅせいけつ、生没年不詳、1300年頃)は元の初めの数学者で字は漢卿、号は松庭といった。燕山(北京市)に住んでいたが、諸国を20年以上も遊歴し、広陵(江蘇省楊州)に行ったときには多くの学者が彼の下に集まったという。朱世桀の著した『算学啓蒙』(1299年)には、完成しつつあった天元術がはっきりと説明されている。
数の世におけるや、厥(それ)孔碩(こうせき=はなはだ大きいこと)を用(も)ってす。仰観(ぎょうかん)俯察(ふさつ)せば、数にあらずんば、巫医(ふい=巫女と医者)工商より下向(げこう=高所から下に向かう)して、以って尺寸・斗斛・斤秤・律呂に至るまで達せず。壹(いつ)に是、皆、之(これ)に因らざるはなし。而して后(のち)、焉(これ)を推(お)せば、昔者(むかし)、本朝の隆、科を設けること四あり。紀伝・明経・明法・算道、これなり。三善氏これを伝え、小槻氏これを任(たも)ち、賀茂保憲・光榮、咸(みな=皆)その術をもって著(いちじる)し。又、嘗(かつて)宋帝、古(いにしえ)より青史(せいし=歴史。汗青、殺青とも)に垂名(すいめい=名を残す。垂芳、流芳とも)する者、六十余人を物色(ぶっしょく=さがしもとめる)し、両廊(=東西の廊廟)に従祀(じゅうし=主となる者に合わせてまつる)し、五等の爵(=公侯伯子男の爵位)を賜(たま)う。何(なん)ぞ其の盛(さか)んなるや(=なんと盛んなことか)。余が識(し)るところの玄哲という者、この芸を鋭思し、積むこと歳月あり。凡(およ)そ算の書、索(もと)めざることなくして、これを睹(み=見)、惟(おも)わざることなくして、これを獲(え)る。其の河洛(=河図と洛書)推歩(=天文暦学)の術、僉(みな)克(よく)貫穿(かんせん=つらぬき通す。ひろく学問に通じる)す。一日(=ある日)、慨然(=奮然)、これを講ずるの徒の心を尽くさざるを思い、其間(このごろ)挟(おび=持)るところの一編を出(い)だす。庸(なんぞ)来裔(らいえい=未来の子孫)に詒(おく)り、無窮の利をなさん。其の志、嘉尚(かしょう=ほめたたえる)すべし。伝えて曰く、下学して上達す、と。数は六芸の末に居すと雖も、関係するところは夥(おびただ)し。庖犠(=伏羲)氏の易に参(あずか=仲間に入る)らんと欲する者は、これを捨(かえりみ)ずして、宜(よろしく)大いなる者ならざるべし。他日(=いつの日か)、若(も)し四道の科(=前出の紀伝・明経・明法・算道)の大観の選あらば、すなわち必ずこの人をもって、當(まさ)に其の人者(じんしゃ=仁者。有徳の士)たるべし。旹(とき)に、
萬治元 (1658) 年、歳名著雍(ちょよう=戊)閹茂(えんも=戌)、月旅南呂(なんりょ=8月)、日得癸未、
梅所土師(はじ、はせ)道雲謹書。
下地氏、電気代値上げ発言に抗議=枝野長官が与謝野経財相を注意 ―― 国民新党の下地幹郎幹事長は25日午後、首相官邸に枝野幸男官房長官を訪ね、与謝野馨経済財政担当相が電力確保対策として家庭用電力料金の値上げに言及したことについて「原発や計画停電の問題があり、都民や各県民が困っている段階で値上げの話をするのはおかしい」と抗議し、発言の撤回を求めた。/下地氏はさらに「発言を取り消さない場合は罷免に値する。亀井静香代表が菅直人首相に罷免の話をする」と強調した。/枝野長官はこの後、首相官邸に与謝野担当相を呼び、事情を聴取。与謝野担当相は「個人の家庭でものすごく大量に電力を消費しているところは何か考えなければならないと言っただけだ」と釈明したが、枝野長官は「間違った印象を与えないようにした方がいい」と注意した。/与謝野担当相の発言をめぐっては、民主党の安住淳国対委員長も25日の記者会見で「そういう話は時期尚早だ」と批判した。 (jijicom 2011/03/25-18:43)
また、中国には古くから河図洛書《古代中国における伝説上の瑞祥である河図(かと)と洛書(らくしょ)を総称したもの。八卦や洪範九疇の起源と考えられて重視された。》の伝説があった。
金末から元初にかけての時代1200年前後の数十年間に河北の地で医学や数学の面では革新的な仕事が行われたのは恐らく全真教の隆盛と切り離しては考えられないだろう。北宋時代に古典の医学や数学書が刊行され、それが華北の地に普及されていたことも見逃せないが、同時に隠者的生活の中で神秘思想に沈潜した学者たちは官僚生活に役立つという数学の範囲を踏み出して、天元術という代数学を生み出したのである。
「白骨は乱麻のように散らばり/いつの間にか郷里(くに)は砂漠と化していた/河北の地に 人は絶えたと聞いたが/壊れた屋根から細々と煙のあがる数軒の家」という意味の詩がある。
こうした厳しい戦乱の時代にどうして学問が発達したのであろうか。16世紀のヨーロッパでドイツを中心に新教運動が盛んであったときに、隣国ポーランドでコペルニクスが地動説を唱えた。この事実と全真教の活動とが重なって見える。困窮した生活にも拘らず、華北の漢人学者の間に精神活動の高揚があったはずである。
しかし、母は74歳まで生きたし、姉は30歳を過ぎて乳癌を手術したものの今もなお86歳で元気で生きている。この爺も79歳で未だに無駄飯を食っている。原爆手帳を貰えと勧める人がいるが、この年まで生き延びて原爆の影響を受けているわけでもないし、手帳を貰う資格はないと思っている。
今朝のウェブニュースより、
東日本大地震被災状況に伴い、平成23年度浅草神社例大祭(三社祭)斎行中止決定の御案内(平成23年3月20日)
浅草神社(東京都台東区 宮司:矢野泰良)及び浅草神社奉賛会(会長:鈴木秋雄) と致しましては、平成23年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震により東日本全域 に及ぶ被災状況をはじめ、それに伴う福島原発事故の影響、また首都圏に おける電力不足からなる計画停電等々、今後未曾有の事態をも想定される現状とそれ に伴う社会的情勢を鑑み、本年5月20日(金)・21日(土)・22日(日)に予定しておりま した本社神輿渡御を含む浅草神社例大祭(三社祭)の斎行中止を同社総代会及び同社 奉賛会役員会において協議の上、決定させて頂きました。
尚、土曜日午前10時の「例大祭式典」につきましては、被災地早期復興祈願の趣旨を 加え、謹んで斎行致します。
御関係の皆様方に上記の旨を御案内申し上げると共に、諸事御賢察の上、御理解賜りますよう伏してお願い申し上げます。 浅草神社・浅草神社奉賛会
金 鶏 (述異記) 祖 冲之 (中国古典文学大系24 六朝・唐・宋小説選 平凡社より)
むかし、ある人がこの山中で畑を耕していたら、はるか向こうに金鶏が出て遊んでいるのが見えた。すると、背の高い男が一人、弾丸(たま)を弓につがえて打った。鶏はそれを見るなり、洞穴の中に飛び込んだ。弾丸は洞穴の真上に命中し、直径六尺ほどの石が落ちてきて、洞穴の入口を塞いだ。隙間はまだ残ったが、人間はもう入れなくなってしまった。
また、ある人が下流から船で県城へ帰る途中、この洞穴のある崖まであと数里という所に来た時、全身に黄色の着物を纏い、貴色の瓜を入れた籠を二つ担いだ男が現れて、船に乗せてくれと言った。乗せてやると、その男は食べ物が欲しいというので、料理と酒を出してやった。
男が食べ終えた時、船は丁度崖の下にさしかかっていた。船の主は瓜をくれと言ったが、男は断わって唾を吐きかけ、さっさと岸へ上がって洞穴の中に入った。船の主は唾を吐かれた時はひどく腹を立てたが、相手が洞穴の中に入ったのを見て、初めて神通力を持つ人と悟り、さっき出した食器を取り寄せて調べた。すると、皿の上の唾はすべて黄金に変わっていた。
壬昉(460~508年)は字を彦昇(げんしょう)といい、南朝・梁の文人。斉の竟陵王・蕭子良(しょう しりょう、460~494年、南朝の斉の武帝の第2子)の文学サロンに参加し、文章家として知られ、人々は競って上奏文の代作を頼んだという。また沈約(しんやく、441~513年)・蕭衍(しょうえん、464~549年、南朝梁の初代皇帝)とも親しく、斉・梁交替の時には禅譲文の執筆を依頼されたという。家に万巻の書を蔵し、宮中の図書校合の任に当たり、著書としては「述異記」の他に「文章縁起」がある。壬昉の散文は長文のものが多いが、「劉先生夫人墓誌」を挙げる。劉先生とは南朝斉の劉瓛(りゅうけん、403~489年)で、博く経書に通じて一世の大儒といわれ、死後詔勅が下って石碑が建立されたという。
劉先生夫人の墓誌 壬 昉 (中国古典文学大系23 漢・魏・六朝・唐・宋散文選 平凡社より)
今朝のウェブニュースより
過去にもトラブル続きだった福島第1原発 ―― 壊滅的な地震と津波が冷却システムを崩壊させ、この25年間で最悪の原発の危機を引き起こす前から、福島第1原子力発電所は国内で最もトラブルの多い原発だったことが、独立行政法人原子力安全基盤機構への報告書を本紙が分析した結果、明らかになった。/またエンジニアらが、定期検査のために使用中の核燃料を原子炉から取り出し保護が万全ではない「使用済み核燃料」プールに数週間から数カ月間置いておくという日本の原発での慣行 が、今回の危機の大きな要因となったと指摘していることが明らかになった。/3月11日にマグニチュード9.0の地震と津波に襲われたとき、福島第1原発の4号機の使用中核燃料は、定期検査のため原子炉からすべて取り出され、常時冷却水で満たしておかなければならないプールに貯蔵されていた。そのプールは、震災によって保護冷却水の多くが失われ、火災と広範囲の放射線放出の危険を招いたことから、同原発事業者である東京電力(東電)にとって最大級の問題となった。/一方、原子力安全基盤機構に提出された事故報告書についての本紙の調べによると、福島第1原発の事故率は、データが入手可能な2005年~2009年の5年間で、日本の大規模原発の中で最も高かった。そのため同原発の作業員は、ほかのほとんどの原発の作業員よりも多くの放射線に被曝(ひばく)していた。/東電では、福島第1原発をおおむね安全に運転してきたとしている。また、事故率が高めなのは同原発が古いことによるもので、11日以前の事故はすべて、比較的軽微なものだったという。/20日、東電は、第1原発の施設に外部から電源を引き一部の施設に通電できる体制を整えた。また、長時間の連続放水作戦によって、とりわけ4号機の使用済み核燃料プールの水位が上がり、放射線レベルが低下した。/その成功の鍵となったのは、東京消防庁のエリート災害対応チーム、ハイパーレスキュー隊と、同隊の遠距離大量送水装置「スーパーポンパー」だった。/ハイパーレスキュー隊の高山幸夫統括隊長は本紙に「放射能を含んだ煙がもこもこと出ているのだから、いくら装備を付けていても、ちょっと触れたり、吸ったりすれば、それイコール死んでしまうというイメージがあった。恐怖心はみんなにあった」と語った。/東電の監督官庁である経済産業省で原子力安全・保安院の広報を担当する務める西山秀彦大臣官房審議官(通商政策局担当)は、この週末に行われる最も重要な作業は、3号機と4号機の使用済み核燃料プールへの放水だったと述べた。/地震発生時、4号機は定期検査中で停止していた。検査の一環として、東電は5カ月前にすべての燃料棒(放射性燃料ペレットを収めた重い円筒)を原子炉内部から、いわゆる「使用済み核燃料プール」へと移した。これは、原子炉自体ほどは厳重に保護されていないコンクリート製貯蔵タンクだ。/東電の巻上毅司原子力設備管理課長は、「4号炉 は地震の前、原子炉の内部の点検を行っていたため、核燃料を原子炉の外に出す必要があった」と語った。/地震発生時、使用可能な燃料棒がそのプールの中にあったが、津波が非常用発電機を流し去り、プールの水を循環できなくなった上、真水をポンプで注水することもできなくなった。その結果、プールに貯蔵されていた燃料棒が過熱し始め、水蒸気が発生するとともに、放射性燃料棒の一部が大気にさらされ、きわめて危険な状況になった。熱は火災を引き起こし、プール上方の屋根を一部破損させ、放射線が外に漏れた。/4号機で起きたことは、定期検査時の停止中に原子炉内のすべての燃料をプールに移送する「全炉心取り出し」という、日本で広く行われている慣行の危険性を露呈した。/東電の巻上氏は、まだ使用可能な核燃料を取り出して使用済み核燃料プールに保管しておくというこの慣行に関し、豊富な水が利用可能で、かつ、燃料棒間の十分な間隔が維持される限り、安全に行いうるとして、これを擁護した。/米国では、核燃料交換のための原子炉停止時には通常、放射線放出への防護性能がはるかに優れた分厚い鋼鉄製原子炉格納容器に核燃料の大半を入れたままにしておく。核燃料交換時の停止中には、使用済み燃料を新しい燃料と交換し、併せてその他の保守を行うが、各燃料棒の損耗を均等化するため、自動車のタイヤローテーションのような手順で燃料棒の位置の入れ替えを行う。/また米国では通常、最も損耗した燃料棒だけが取り出されて、貯蔵用に使用済み核燃料プールに移され、そこに数十年間放置されることになる。そのため、米国のプールには、最も古い使用済み核燃料だけが収容される。こうした核燃料は、低温で放射能も低い。/対照的に、日本の電力会社では、一時的にすべての燃料棒を取り出すのが普通だ。新しい燃料棒はその後原子炉圧力容器に戻される一方、古い燃料棒に代えて新しい燃料棒が補給される。古い燃料棒は貯蔵プールに放置される。/燃料棒をプールに長年放置するのには二つの理由がある。第一に、燃料棒を冷却する必要があること。第二に、大量貯蔵した使用済み核燃料をどう始末するかという問題があるためだ。この問題を解決した国はいまだにない。その結果、使用済み核燃料の大部分は電力会社の貯蔵施設にとどまったままだ。/4~6号機は、定期検査で停止中だったこともあり、地震直後の数日間、関係者は4号機の状況を注視していなかった。/しかし、地震発生から4日後の3月15日に、最初の火災発生に伴い4号機の問題が重大問題として浮上した。東電関係者によると、4号機のプールで発生した熱は、地震当日に自動停止した3つの原子炉の使用済み核燃料プールで発生した熱を大きく上回っていた。/原子力安全基盤機構に提出された事故報告書によると、今回の地震と津波のダブルパンチに見舞われる、はるか前から、福島第1原発は、国内で最も事故率の高い原発だった。/東電の巻上氏は、報告書の中で同原発に関するいくつかの数字が良くない理由について、「古い原発であることが主な要因」としている。同原発の原子炉はすべて、1970年代に稼働を開始した。/巻上氏によると、東電は頻繁に修理を行っており、「個々の部品を最新のものに取り替えることで、古い発電所でも新しい発電所と同じような性能を出せるよう努力しているが、実際にはなかなか難しい」と明かした。/本紙が行ったデータ分析によると、同原発では05年以降、15件の事故が起きている。これは、3機を超える原子炉を有する日本の原発では最も多い。設備の修理における問題が主だが、設備が古いことが大きな要因となってきたかどうかは不明だ。/09年2月、1号機原子炉内の圧力レベルが急上昇し、蒸気を安全弁から抜かざるを得なかった。ボルトの折損を確認したことから、原子炉を手動停止させた。調査の結果、ナットの締め込みが不十分で、かつ、定期的な点検が行われていなかったことが判明した。/福島第1原発の事故はどれも、安全上の大きな問題とはみなされず、今回の事故まで、負傷を招いたり、原発外への放射性物質の放出につながったりする事故はなかった。ほとんどの国で言えることだが、原発は在来型化石燃料の発電所よりも多くの問題を報告することを義務付けられているため、ささいな事故に関しても詳細な報告が行われる。/経産省の西山氏は、大地震が4年と置かずに起きたことをはじめ、東電が深刻な問題に見舞われてきたと指摘する。/ただ同氏は、東電は情報公開面で大きく改善したという。東電には回復力があるとしながらも、同氏は、今回の緊急事態が収まり次第、東電の対応方法を評価する必要があると述べた。/原子力安全基盤機構に提出された報告書によれば、福島第1原発の作業員は、過去10年間、どの年をとっても、日本の全原発の作業員の中で平均放射線被曝量が最高だった。東電の他の原発も、日本の他のほとんどの大手原発よりも高い放射線量に作業員をさらしてきた。/東電の小林照明原子力管理課長は、「福島第1原発は古い。そのため新しい原発に比べて修理や点検が頻繁に必要。デザインも旧式なため、放射線への被曝が高くなりがちだ」と語る。/ 「大きな工事や点検を行うと、どうしても放射能を浴びやすくなる」と小林氏は述べた。 記者: Rebecca Smith and Ben Casselman and Mitsuru Obe
(THE WALL STREET JOURNAL 日本版 2011年 3月 22日 13:04 JST )
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