瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 4月8日にshinさんを誘って浅草寺宝展に行くことになった。昨日は日曜日、暇に任せてshinxさんにメールした。
8067f4fd.JPG  今年は何時までも寒い様ですね。隅田公園の桜もまだまだのようです。/まあ、4月に入ればいくらか暖かくなるでしょう。/本日は浅草寺の寺宝絵馬展から「韓信の股くぐり」を紹介します。/私たちが小学校のときに「修身」という学科があって、「ならぬ堪忍するが堪忍」の項目でこの「韓信の股くぐり」を習いました。この絵を画いた堤等琳(3代目)は生没年は不詳ですが、『増補浮世絵類考』に、「浅草寺に韓信の額あり、秋月と云しを三代目等琳と改名せし時の筆なり、今猶存す、(中略)門人あまたあり、絵馬や職人、幟画職人、提灯屋職人、総て画を用る職分のものは、皆此門人となりて画法を学ぶもの多し」と述べられています。/4月8日(金)を楽しみにしています。/先ずは、暇に任せてメールいたします。  日高 節夫  e-mail sechin@nethome.ne.jp

 今朝ほどメールを開くとshinさんから返信が届いていた。
「寧為玉砕、不為瓦全」日高さんへ: 日高さん、こんばんは。/韓信の「胯下之辱」は、わたしの小学生のころ、教科書には出ていなかったのですが、ほかの子供向けの雑誌にはよく掲載されたものです。/これは越王勾践の「臥薪嘗胆」と似ている思想内容ですね。ただこれは桜が散るごとき日本の武士道の精神と対照的です。/たしかに中国では武士道に似ている「寧為玉砕、不為瓦全」(節度を持って死を全うする よりも、むしろ玉砕した方がいい)という諺が用いられることがありますが、基本的に生きることを大切にすることが寧ろ中国文化の主流ではないかと思います。これは老荘、楊朱の思想からよく表わされているものです。/瘋癲爺はよく老荘の思想を引用していますが、死生観にかんしてはいかなる立場でしょうかね?  Shin
                                                              
6b4a136f.JPG 准陰(わいいん)の屠殺者仲間のうちに、信を侮るものがいていった。「お前は図体がでかくて、このんで刀剣を佩びているが、内心は臆病なだけだろう。」
そして、更らに、衆人の前で信を辱めて言った。「信、死ねるものなら俺を刺してみろ。死ねないのなら、俺の股の下をくぐれ。」
すると、信はまずその若者を熟視し、首を垂れて四つん這いになり、その股の下をくぐった。市(いち)中の人はみな、信を嘲笑して臆病者だと思った。

0895e358.JPG 代数を意味するalgebra(アルゼブラ)という語は9世紀前半のイスラムの数学者al-Khwārizmī(アル・ファーリズミー、生没年不詳)に始ったが、当初の意味はことなっていた。al-Khwārizmīはインドの数学から学んだことを『インドの数の計算法』として著し、イスラム世界に広めたが、その中でのアラビア語のal-jabrとは、「al」は定冠詞、「jabr」が「バラバラのものを再結合する」「移項する」という意味である。このアラビア語から代数学を意味するalgebraという言葉が生まれたという。この言葉が代数を意味する用語として使われるようになったのは、やっと15世紀の半ば過ぎからであるという。
49fcf0cf.JPG はじめこの言葉がアラビア人によってスペインに伝わった頃には、この言葉から生まれたアルゼブリスタは、接骨医の意味に使われた。かつてのヨーロッパの理髪師は外科医を兼ね表看板に「接骨師・瀉血師(アルゼブリスタ・サングラドール)」とあったという。現在理髪店で赤と青と白を斜めら塗ったポールを置くのは瀉血師の仕事を示す名残だという。三色ねじり棒(看板)の赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表し、1540年頃、パリの外科医(メヤーナキール? )が創案し、彼の医院の看板に用いたのが始まりという。その後、理髪店でも用いる様になり、日本では東京 常磐橋の側に在った、「西洋風髪剪所(かみはさみしょ、経営は川名浪吉)」で、明治4年に用いたのが最初だという。
 話を元に戻すと、『九章算術』の中で、二元や三元の1次連立方程式や、1元2次方程式が取り扱われており、これら今日では代数の問題として処理されている。その意味からすれば中国の代数学はすでに『九章算術』の時代に始ったといえようが、未知数を表す記号の使用によって代数学を特徴付ければ、中国では金末の頃に始まったのであり、これを「天元術」と呼ばれている。以下天元術に多少なりとも関わる学者を列挙する。
986ba5cc.JPG 秦 九韶(しん きゅうしょう、1202~1261年)は南宋時代の数学者。字は道古。ただし、生年に関しては異説がある。また、先祖に従って本貫(籍)は魯郡としているが、実際には四川で生まれている(魯郡は当時、金の支配下にあった)。/若い頃は南宋の官僚であった父に従って各地を転々とし、父が首都臨安に赴任した際に太史局に通って数学や暦学、天文学を学んだ。後に、父に従って一旦は四川に戻り、彼も地元の県尉に任じられる。以後、順調に昇進して1244年に建康府通判に任じられるが、母の服喪を理由に一旦官を辞し、1247年に『数書九章』を著す。1254年に沿江制置司参議に任じられるが、政争に巻き込まれて、1260年に広東・梅州の知州に左遷されて間もなく病死した。/彼の著した数書九章(すうしょきゅうしょう)全18巻は、大衍・天時・田域・測望・賦役・銭穀・営建・軍旅・市物の9類(章)81問、各類全2巻(各9問ずつ)で構成されていて、問題の後に「答」(答え)・「術」(計算方法)・「草」(具体的な計算式)が付けられており、実用的でかつ算木を用いれば比較的簡単に解ける構成となっている。ただし、問題に記されたデータが豊富でそこから求めることが可能な答えの数も多い。大衍求一術と呼ばれた剰余方程式や雨量観測法の研究、過去の暦法の不明となっていた計算方法を明示するなど、優れた研究を残したものの、一時同書の存在は忘れ去られ、再評価を受けたのは清代に入ってからの事であったため、中国や日本に対する影響は小さかった。
 李 冶(りや)は、金末から元初にかけての数学者。字は仁卿、号は敬斎。真定・欒城の出身。/金の1230年に進士となり、河南・鈞州の知事となるが、1232年にモンゴル軍の侵入で鈞州が攻められると、脱出してそのまま隠退した。後、太原などに移り住むが、1251年に河北・元氏の封龍山に住みかを定め、以後は研究生活を送る。天元術を発展させて、幾何などの他の数学分野に応用した。1248年に『測円海鏡』12巻、1259年に『益古演段』3巻を著した他、元好問ら同じ隠遁文人らとの交流も多く、漢詩の作品も現存している。世祖(フビライ・ハーン)はたびたび彼を召して一度は翰林学士に任じたが、すぐにこれを辞退して遂に仕官には応じなかった。88歳で死去。
 楊輝(ようき)は字を謙光といい、銭塘(淅江省杭州市)の人であるが、生没年や経歴は判っていない。1261年に『詳解九章算法』を著してから、以来7巻の数学書を著作をしたが、後人が纏めて『楊輝算法』と名付けた。朝鮮ではこれを底本として復刻さた。この数学書は中国ではその後その伝を失ったが、本書によって、魔方陣、円陣の方法が後世に影響を与えたという。
 朱世桀(しゅせいけつ、生没年不詳、1300年頃)は元の初めの数学者で字は漢卿、号は松庭といった。燕山(北京市)に住んでいたが、諸国を20年以上も遊歴し、広陵(江蘇省楊州)に行ったときには多くの学者が彼の下に集まったという。朱世桀の著した『算学啓蒙』(1299年)には、完成しつつあった天元術がはっきりと説明されている。
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414676c3.JPG ○土師道雲跋 【訓読】
 数の世におけるや、厥(それ)孔碩(こうせき=はなはだ大きいこと)を用(も)ってす。仰観(ぎょうかん)俯察(ふさつ)せば、数にあらずんば、巫医(ふい=巫女と医者)工商より下向(げこう=高所から下に向かう)して、以って尺寸・斗斛・斤秤・律呂に至るまで達せず。壹(いつ)に是、皆、之(これ)に因らざるはなし。而して后(のち)、焉(これ)を推(お)せば、昔者(むかし)、本朝の隆、科を設けること四あり。紀伝・明経・明法・算道、これなり。三善氏これを伝え、小槻氏これを任(たも)ち、賀茂保憲・光榮、咸(みな=皆)その術をもって著(いちじる)し。又、嘗(かつて)宋帝、古(いにしえ)より青史(せいし=歴史。汗青、殺青とも)に垂名(すいめい=名を残す。垂芳、流芳とも)する者、六十余人を物色(ぶっしょく=さがしもとめる)し、両廊(=東西の廊廟)に従祀(じゅうし=主となる者に合わせてまつる)し、五等の爵(=公侯伯子男の爵位)を賜(たま)う。何(なん)ぞ其の盛(さか)んなるや(=なんと盛んなことか)。余が識(し)るところの玄哲という者、この芸を鋭思し、積むこと歳月あり。凡(およ)そ算の書、索(もと)めざることなくして、これを睹(み=見)、惟(おも)わざることなくして、これを獲(え)る。其の河洛(=河図と洛書)推歩(=天文暦学)の術、僉(みな)克(よく)貫穿(かんせん=つらぬき通す。ひろく学問に通じる)す。一日(=ある日)、慨然(=奮然)、これを講ずるの徒の心を尽くさざるを思い、其間(このごろ)挟(おび=持)るところの一編を出(い)だす。庸(なんぞ)来裔(らいえい=未来の子孫)に詒(おく)り、無窮の利をなさん。其の志、嘉尚(かしょう=ほめたたえる)すべし。伝えて曰く、下学して上達す、と。数は六芸の末に居すと雖も、関係するところは夥(おびただ)し。庖犠(=伏羲)氏の易に参(あずか=仲間に入る)らんと欲する者は、これを捨(かえりみ)ずして、宜(よろしく)大いなる者ならざるべし。他日(=いつの日か)、若(も)し四道の科(=前出の紀伝・明経・明法・算道)の大観の選あらば、すなわち必ずこの人をもって、當(まさ)に其の人者(じんしゃ=仁者。有徳の士)たるべし。旹(とき)に、
萬治元 (1658) 年、歳名著雍(ちょよう=戊)閹茂(えんも=戌)、月旅南呂(なんりょ=8月)、日得癸未、
梅所土師(はじ、はせ)道雲謹書。

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韓信は「淮」陰のひとですね^^
 淮陰は現在の江蘇省淮安市にあたります。
 ところで、数学者って、中国からはよく輩出していましたね。
シン 2011/03/28(Mon) 編集
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目高 拙痴无
年齢:
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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