瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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     李長吉小傳  李商隠
京兆杜牧爲李長吉集叙、状長吉之奇甚尽、世傳之。長吉姉嫁王氏者、語長吉之事尤備。
長吉細痩、通眉、長指爪。能苦吟疾書、最先爲昌黎韓愈所知。
所与游者、王参元、楊敬之、權璩、崔植輩爲密。
毎旦日出与諸公游、未嘗得題然後爲詩、如他人思量牽合以及程限爲意。
恒従小奚奴、騎距驢、背一古破錦嚢、遇有所得、即書投嚢中。
及暮歸、太夫人使婢受嚢出之、見所書多、輒曰「是児要当嘔出心乃已爾!」上灯、与食、長吉従婢取書、研墨畳紙足成之、投他嚢中。非大醉及弔喪日率如此、過亦不復省。
王、楊輩時復来探取写去。
長吉往往独騎往還京、洛、所至或時有著、随弃之、故沈子明家所余四卷而已。
長吉将死時、忽昼見一緋衣人、駕赤?、持一板書若太古篆或霹靂石文者、云「当召長吉。」長吉了不能読、欻下榻叩頭、言阿醜老且病、賀不願去。緋人笑曰「帝成白玉楼、立召君爲記。天上差樂、不苦也!」長吉独泣、邊人尽見之。少之、長吉気絶。常所居窗中、(火+孛)(火+孛)有烟気、聞行車湃管之声。太夫人急止人哭、待之如炊五斗黍許時、長吉竟死。王氏丘非能造作謂長吉者、實所見如此。
鳴呼!天蒼蒼而高也、上果有帝耶?帝果有苑圃宮室觀閣之玩耶? 苟信然、則天之高襞、帝之尊厳、亦宜有人物文采愈此世者、何独眷眷于長吉而使其不寿耶? 噫!又豈世所謂才而奇者、不独地上少、即天上亦不多耶?長吉生時二十七年、位不過奉礼太常、時人亦多排擯毀斥之。又豈才而奇者、帝独重之、而人反不重耶?又豈人見会勝帝耶?

 
 京兆の杜牧、李長吉の序を為り、長吉の奇を状し、甚だ尽せり、世々これを伝う。長吉の姉の、王氏に嫁せる者、長吉の事を語るにもっとも備われり。
 長吉は痩細通眉、長き指爪にして、能く苦吟、疾書し、最も先ず昌黎、韓愈に知らる。
 与に遊びし所の者は、王参元、楊敬之、権璩、崔植と密を為す。毎旦、日出づれば、諸公と遊ぶ。
675dddf9.JPG 未だ嘗て、題を得て、然る後に詩を為るに、他人の如く思量牽合し、程限に及ぶを以って意と為さざりき。
恒に小奚奴を従えて、疲驢に乗り、一の破れし錦嚢を背にし、偶々得る所有らば、即ち書して嚢中に投ず。
暮に及びて帰る。太夫人、婢をして嚢を受けしめ、之を出す。書する所多きを見れば輒ち曰く「是の児、要ず、当に心を嘔出して、始めて已むのみ」と。灯を上げて食を与う。長吉、婢より書する所を取り、墨を研り紙を畳み、之を足成して他の嚢中に投ず。大酔と弔喪の日に非ずんば、卒ね比の如し。過もまた復た省みず。
王、楊の輩、時に復た来たり。探し取り写して去る。長吉、往々独り騎して京洛の間を往還し、至る所或いは時に著す有るも、随って之を棄つ。故に沈子明の家に余す所の四巻のみ。
 長吉の将に死せんとする時、忽昼なるに、一緋衣の人の赤忽昼なるに、一緋衣の人の赤虬に駕するを見る。一の版書を持つ。太古の篆、或いは霹靂の石文の若き者にして、云う「当に長吉を召さんとす」と。長吉、了に読む能わず。たちまち榻より下り、叩頭して言う、「阿禰は老い且つ病めり。賀、去る事能わず」と。緋衣の人、笑いて曰く「帝、白玉楼を成り、立ちどころに君を召し、記を為らしむ。天上は差や楽し。苦しからざるなり」と。長吉、独り泣く。辺りの人尽く之を見る。之を少くして、長吉の気、絶ゆ。常に居る所の窓中、勃々として烟気あり。行車嘒管の声を聞く。太夫人、急に哭くのを止め、之を待つこと五斗の黍を炊くばかりの時の若くして、長吉、遂に死せり。王氏の姉は、能く造作して長吉を謂う者に非ず。実に見しところ此の如し。
 嗚呼、天は蒼々として高きなり。上に果たして天ある邪。帝に果たして苑囿、宮室、観閣の玩ある邪。苟しくも信に然らば、則ち天の広貌、帝の尊厳、亦た宜しく人物、文彩のこの世に愈れる者有るべし。何ぞ独り長吉に眷眷として、其をして寿ならしめざる邪。噫、又たあに世に所謂才にして奇なる者は、独り地上に少なきのみならず、天上にも亦た、多からざる邪。長吉、生まれて二十七年。位は奉礼太常に過ぎず。当時の人の忌むに中り、亦た多くは之を排擯、毀斥す。又、あに才にして奇なる者は、帝独り之を重んじ、人は反って重んぜざる邪。又た、あに人の見るは会ず帝に勝れる邪。
 
(訳)
 京兆の杜牧が、李長吉(李賀の事)の詩集の序文をつくり、長吉の文学が人並み外れてすぐれている事を十分に表し尽くしていて、世間ではこれが伝わっている。
 長吉の姉で、王氏に嫁いだ女性が居るが、この人が長吉の事をとりわけ詳しく語ってくれる。
 長吉は痩せていて、一直線の眉毛で、指の爪が長かった。苦しみながら詩句をひねりだし、迅速にそれを執筆した。もっとも先に昌黎先生こと韓愈の知遇を得た。交友するものの名は、王参元、楊敬之、権璩、崔植などであり、彼らとは毎朝、夜明けと共に遊びに出かけていったものだ。
 題を与えられてから詩を作る場合でも、他の人達の様に、題意に当てはめて思案を重ねたり、形式上の規定にあわせようとする気は全くなかった。
 いつも小柄な下僕を従えて、くたびれたようなロバに乗り、古い破れた錦の嚢(ふくろ)を背負わせ、たまたま詩句が出来るとすぐに書き付けて嚢の中にほうり込む。
日暮れになって帰ると、母親が下女に嚢を受け取らせ、中身を出した。書いてあるものが多いと、母親はそのたびに「この子(李賀)はきっとこういう事を心臓を吐き出してしまうまで止めないんだろうねぇ・・・」と言った。そして灯りをともして食事をさせた。長吉は下女から嚢の中の書き付けを受け取り、墨を磨って紙をたたんで継ぎ足して詩を完成させて、それを他の嚢にほうり込んだ。葬式や弔いの日や、泥酔したとき以外は長吉は毎日をこうして暮らしていて、ちょっとした失敗は省みなかった。
 王参元や楊敬之たちの友人が、ときどきやって来て、詩稿を取り出しては、写して立ち去った。長吉はよく一人馬にのって、洛陽、長安を行ったり来たりしていた。その先々で、また時々で詩を作ったが、すぐに捨ててしまった。だから(杜牧に李賀詩集の序文を書かせた)沈子明の家に残された四巻だけが長吉の残された作品である。
 長吉が死の床についたときの事。真昼にいきなり一人の緋色の衣の人が赤い彲(角のない龍)に乗って現れた。一枚の書き付けを持っていて、太古の篆書か霹靂石文のようであった。その緋色の衣のひとは「長吉をお召にしなっている」と言うのである。長吉は書き付けがどうしても読めない。すぐに寝台から下りて、お辞儀をしてこう言った「おかあさんが、老齢の上に病気なので、面倒を見なきゃなりません、私はまだ、行きたくありません」緋色の衣の人は笑ってこう言う「天帝様が白玉楼なる建物を完成された。そしてすぐにも君を召して、記念の文章を書かせようと言うのだ。天上は少なくともこの世界よりかは楽しい所、苦しくはないぞ」。長吉はそれを聞くと一人泣いた。まわりの人は皆、この一部始終を見ていた。しばらくして長吉の意識は絶えてしまった。居間の窓からぼうぼうと靄が立ち込め、車の動く音や、菅弦楽器の演奏の調子が早まるのが聞こえた。長吉の母は急に人々に泣くのを止めさせた。それから五斗のキビが炊ける位の時間が経ち、長吉の息はついに絶えた。
 王氏に嫁いだ姉は、長吉の為に作り話が出来るような話の上手な人ではない。実際見たことがこのようだったのである。
 ああ・・・天は蒼々として高くにある。その上に果たして天帝なる者が存在するのであろうか? いたとして、彼には庭園、宮室、台閣などの玩弄物があるのだろうか? かりにそうだとしよう。それなら高くそびえる天上世界、尊厳なる天帝、その場所、その部下に、人物や文章においてこの世の人よりもすぐれた者があるべきだろうに、どうして長吉ばかりに付き纏って、彼を地上に長く置いてくれなかった(長生きさせてくれなかった)のであろう? ああ・・・この世にいわゆる、才能があって人並み優れている者は、地上に少ないだけでなく、天上にも少ないのであろうか・・・
 長吉の生涯はたったの二十七年。官職は大常寺の奉礼郎に過ぎなかった。彼は当時人々に疎まれて、多くの人が排斥し誹謗した。またあるいは、才能があって尋常でない者は、天帝のみがひとり、これを重んじて、地上の人々は反ってこれを重んじないのであろうか? でも、人間の見識が天帝のそれに勝っている事があろうか?
 
18518c6d.JPG 李商隠(812~858年)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚(だっさいぎょ)と呼ばれる。懐州河内(現・河南省沁陽市)の人。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体(故事を多用し、音節の調和を重視し、言葉の美麗だけを追求する)の祖となった。ちなみに李商隠のあだ名、獺祭魚は、李商隠が詩作するさいに参考にするため、数々の書物を机の上に並べて置いたのが、川獺(カワウソ)が捕らえた魚を並べるという習性に似ていることから付けられたものであるという。
     杜牧「李賀集序」
 太和五年十月中、半夜時、舍外有疾傳緘書呼者、牧曰「必有異、亟取火来!」及發之、果集賢学士沈公子明書一通、曰「我亡友李賀、元和中、義愛甚厚、日夕相与起居飲食。賀且死、嘗授我平生所著歌詩、離爲四編、凡二百三十三首。数年来東西南北、良爲已失去。今夕醉解、不復得寐、即閲理篋帙、忽得賀詩前所授我者。思理往事、凡与與賀言嬉游、一處所、一物候、一日一夕、一觴一飯、顯顯然無有忘弃者、不覺出涕。賀復無家室子弟、得以給養問。嘗恨想其人詠其言止矣!子厚于我、与我賀集序、尽道其所来由、亦少解我意。」
 牧其夕不果以書道不可、明日就公謝、且曰「世謂賀才絶出于前。」譲居数日、牧深惟公曰「公于詩爲深妙奇博、且復盡知賀之得失短長。今實叙賀不譲、必不能当公意、如何?」復就謝、極道所不敢叙賀。公曰「子固若是、是当慢我。」牧因不敢復辞、勉爲賀叙、終甚慚。
 賀、唐皇諸孫、字長吉。元和中、韓吏部亦頗道其歌詩。雲烟綿聯、不足爲其態也;水之迢迢、不足爲其情也;春不足爲其和也;秋之明潔、不足爲其格也;風檣陣馬、不足爲其勇也;瓦棺篆鼎、不足爲其古也;時花美女、不足爲其色也;荒国内殿、梗莽邱輓、不足爲其怨恨悲愁也;鯨吸所擲、牛鬼蛇神、不足爲其虚荒誕幻也。盖騒之苗裔、理雖不及、辞或過之。騒有感怨刺、言及君臣理乱、時有以激發人意。乃賀所爲、得無有是。
 賀能探尋前事、所以深嘆恨古今未嘗經道者、如金銅仙人辞漢歌、補梁肩吾宮體謡。求取情状、離絶遠去筆墨畦径間、亦殊不能知之。賀生二十七年死矣!世皆曰:使賀且未死、少加以理、奴僕命騒可也。
 賀死后凡十有五年、京兆杜牧爲其叙。

 
 太和五年十月中、半夜の時、舍外より疾傳(しつでん)して緘書(かんしょ)を呼ぶ者有り、牧曰く「必ず異有らん、亟(すみ)やかに火を取りて来たれ!」と之を發(ひら)くに及びて、果たして集賢学士沈公子明の書一通なり、曰く 「我が亡友李賀、元和中、義愛甚だ厚し、日夕相ひ与に起居飲食す。賀且に死せんとするに、嘗て我に平生著はす所の歌詩を授く、離れて四編と爲り、凡そ二百三十三首。数年来、東西南北し、良(ほとん)ど已に失ひ去ると爲れり。今夕醉解めて、復た寐ぬるを得ず、即ち篋帙(きょうちつ)を閲理し、忽ち賀詩の前に我に授けし所の者を得たり。往時を思理するに、凡そ賀との話言嬉游、一處所、一物候、一日一夕、一觴一飯、顯顯然として忘弃する者有ること無し、覺えず涕(なみだ)を出だす。賀復た家室子弟の以給養問を得るもの無し。嘗て其の人を想い其の言を詠ずるところの止まんことを恨む!子我に厚し、我が与に賀集の序を爲り、尽く其の来由する所を道(い)はば、亦た少しく我意を解かん。」と。
 牧、其の夕べ書をもって不可と道ふを果たさず、明日公に就いて謝し、且つ曰く「世のひと賀の才 前に絶出すると謂へり。」と。譲居すること数日、牧深く公を惟ひ曰く 「公の詩におけるや深妙奇博爲り、且つ復た盡く賀之得失短長を知る。今に實賀に叙して譲らざれば、必ず公の意に当たる能はざらん、いかん。」と。
 復た就いて謝し、敢へて賀に叙せざる所以を極めて道ふ。公曰く「子固に是の若くんば、是れ当に我を慢(あなど)るべし。」と。牧因りて敢て復た辞せず、勉めて賀の叙を爲る、終に甚だ慚(は)ず。
 賀は、唐皇の諸孫、字を長吉。元和中、韓吏部亦た頗る其の歌詩を道へり。雲烟の綿聯たるも、其態を爲に足らざる也。水の迢迢たるも、其情を爲すに足らざる也。春のたるも、其和を爲すに足らざる也。秋の明潔たるも、其格を爲すに足らざる也。風檣(ふうしょう)陣馬も、其勇を爲すに足らざる也。瓦棺篆鼎(がかんてんてい)も、其古を爲すに足らざる也。時花美女も、其色を爲すに足らざる也。荒国内殿、梗莽邱輓(きょうもうきゅうばん)も、其の怨恨悲愁を爲すに足らざる也。鯨吸所擲、牛鬼蛇神も、其の虚荒誕幻を爲すに足らざる也。盖し騒の苗裔、理は及ばずと雖も、辞は或ひは之に過ぐ。騒には感怨刺有りて、君臣理乱に言及し、時に以て人意を激發するあり。乃ち賀の爲る所は、是れ有るを得ること無し。
 賀は能く前事を探尋す、古今に未だ嘗て道ふを經ざる者を嘆恨する所以なり。「金銅仙人辞漢歌」、「補梁肩吾宮體謡」の如きは、情状を求取して、離絶遠去し筆墨畦径の間に、亦た殊に之を知る能はず。賀、生まれて二十七年にして死せり矣!世皆な曰く「賀をして且く未だ死せず、少しく加ふるに理を以ってせしめば、奴僕もて騒に命するも可なり。
 賀の死后凡そ十有五年、京兆の杜牧 其叙を爲る。
 
〈訳〉太和5(832)年の十月のとある夜半、屋外であわただしく呼び、封書を差し出すものがあった。私は「何か変事があったのだろう。速やかに明りを!」といって、開くと、果たして集賢学士の沈子明の手紙一通でこうあった。
 「わたしの亡き友人、李賀のことなのですが、元和(806~820年)の頃、彼と私は大変仲がよく、日夜、起居飲食を共にしたものです。李賀が死ぬ前のとあるとき、私に平生作った歌詩集をくれました。四巻に分かれて、併せて223三首です。ここ数年、転勤につぐ転勤で、その間にどうやら紛失したものと思い込んでいましたが、今夜、酔いが醒めて寝付けないまま本箱をひっくり返していて、ふと李賀が前に私にくれた歌詩集を見つけたのです。あのころを思い返すと、およそ李賀と共に語ったこと、遊んだこと、その場所、その季節、一日、一夜、一杯の酒、一椀の飯に至るまで、まざまざと思い起こされ、思わず涙を流した次第です。李賀にはもう、養い慰めてやるべき家人も子弟もいません。ですから、彼を想い、彼の詩を味わうほかには、偲ぶすべもないのです。あなたは私に厚意をお持ちくださる方だ。私のために李賀の詩集の序文を作り、その由来をことごとく書き記してくだされば、また少しは私の気持ちの結びもほどけようというものです。」
 私は、その夜、手紙では出来ませんとは言えなかった。明くる日に、沈氏にあってお断りし、「世間では李賀の才能は故人を凌ぐ、と言っていますから(到底私に序文を書くなど出来ません)」と言っておいた。そのまま数日が経った。私は氏の気持ちを深く考えた上で手紙を書いた。
 「あなたは詩について深い見識をお持ちになり、さらに李賀の長所短所を知り尽くしておいでです。いままた、私如きがお断りもせずに李賀の詩集の序文を作ったところで、とてもお気には適いますまい。いかがでしょうか?」それからまた会ったときに、きっぱりと李賀の序は書けませんと断った。沈子明氏は「君は本気でそんな事を言うのかね。それは私を馬鹿にしているというものだ。」。私はそれ以上辞退出来ないで、李賀のために序文を書きはしたものの、たいそう恥ずかしい出来になった。
ba98b9b9.JPG 李賀は唐の皇族の子孫で字を長吉という。元和年間には吏部侍郎の韓愈氏もまた、その詩歌を大いに称えた。世の人はこう言う「雲の連綿とつらなるさまも彼の詩態を喩えるには足りない。水のはるかなさまもその詩情を喩えるには足りない。春のうらうらとさかんな様も、その和やかさを喩えるには足りない。秋の明るく潔白な空気も、その風格を喩えるには足りない。堂々と帆を立てて風を押し進む軍船や陣中往来の軍馬もその勇ましさを喩えるにはたりない。瓦製の棺や古の篆字を浮き彫りにした鼎でも、その古雅を喩えるにはたりない。四季とりどりの美しい花も美女も、その色を喩えるにはたりない。荒れ果てた国、崩れた宮殿、草茫々の丘や畝もその恨み悲しみを喩えるにはたりない。鯨が海水を吸い、鰲が躍り上がり、牛鬼蛇神が出てきても、その途方も無いそらごとや幻想を喩えるには足りない。と。
 いってみれば、離騒の後継者である。その理論は離騒にはおよばないが修辞は時にはそれを凌駕している。離騒には怒り・刺る感じがあって、君臣治乱に言及し、時として人の心を興奮激発させるものがある。
 たしかに李賀の作品にもそういう点が無いわけではない。李賀はよく、過去の秘事を探求して、古人の誰もが取り上げなかったテーマを取り上げて、それについて嘆き悲しむ作品を残しているのもそのためである。「金銅仙人辭漢歌」や「補梁肩吾宮體謡」などは、隠れた実情をさぐりもとめ、高遠非凡の作品で、筆墨の末端の詮索をしていたのでは、決してこれを理解することができない。
 李賀は生まれて27歳で死んだ。世間ではみな、こういっている「李賀をもう少し生かしておいて、もう少し理の要素を作品に加えることが出来たら、あの離騒さえも、これを召使として扱うことが出来るような大家になっただろう。」と。
 李賀の死後15年、京兆の人、杜牧がその序を作る。
 
eddd0e37.JPG 杜牧(803-852年)、字は牧之。若年の頃は美貌の風流才子として浮名を流したが 性剛直で奇節あり『孫子』の研究者としても知られている。晩唐詩壇の繊細優婉な一般的傾向とは別格の男性的気概の作風は豪邁と艶麗の両面を兼ねそなえ 詠史・時事諷詠に長じ特に懐旧の情をもった絶句に名作が多い。





  ここのところ、テレビの高校野球を見呆けて、ブログがそっちのけになってしまった。
 今朝は朝から雨で2・3日前までの猛暑が嘘のようで、部屋の中にいても肌寒いくらいである。
 
  秋 来        李賀
桐風驚心壮士苦 桐風心を驚かし壮士苦しむ
衰燈絡緯啼寒素 衰灯(すいとう)絡緯(らくい) 寒素(かんそ)に啼く
誰看青簡一編書 誰か看(み)ん 青簡(せいかん)一編の書
不遣花蟲粉空蠹 花虫をして粉(こなごな)に空しく蠹(むしば)ましめざる
思牽今夜腸應直 思いに牽(ひ)かれて今夜 腸(ちょう)応(まさ)に直(ちょく)なるべし
雨冷香魂弔書客 雨は冷やかにして香魂(こうこん) 書客を弔(とむろ)う
秋墳鬼唱鮑家詩 秋墳(しゅうふん)鬼(き)は唱(うた)う 鮑家(ほうか)の詩
恨血千年土中碧 恨血(こんけつ)千年 土中の碧(へき)
 
163e7ffe.JPG〈訳〉  秋になって
 桐の葉を鳴らす風にふと心づく壮士の嘆き
 淡い灯火のもとでは絡緯(こおろぎ)がつづれさせと鳴く
 わが一篇の詩集を読み
 蠹魚(しみ)の食べかすにしないでくれる人は誰か
 はるかに思い続ける今宵は 腸(はらわた)もまっすぐにのびるだろう
 氷雨(ひさめ)の中を 昔の詩人の魂が慰めに来てくれるかもしれぬ
 秋の塚に亡霊が歌う鮑(ほう)参軍の詩(うた)
 千年の恨みを抱くその血は 土の中で碧玉と化していよう
 
060dcb45.JPG「鮑家の詩」= 鮑家は南北朝時代、劉宋の詩人 鮑照(414?~466年)のこと。字は明遠、東海(山東省郯城県)の人。臨川王(りんせんおう)劉義慶(403~444年、「世説新語」の選者として知られる)に見出されて国侍郎、のち海虞令、太学博士、中書舎人などを歴任も終わりに臨海王劉子頊(456~466年)の前軍刑獄参軍事になった(鮑参軍とよばれる)が、子頊が叛乱を起こし、乱中に殺された。当時彼のように家柄の無い者(寒門)は官位昇進を厳しく制約された。才能を自負する彼は終生憤懣を洩らし続け、その憤懣はしばしば体制や社会の批判に向けられ、作品は著しく現実主義的色彩を帯びる。鮑照の作品に「代蒿里行」というのがあり、これは挽歌(葬送の歌)なので、亡霊が歌うにはふさわしい。
 
土中の碧= 春秋時代の周の大夫 萇弘はさまざまの伝説のある人物で、忠誠の士とも、周王に諂った臣ともいわれるが、最後は周王に殺される。ここでは『荘子』雑物篇・外物にある萇弘の血が碧玉に化したという故事に基づいている。
荘子 外物第二十六 外物不可必,故龍逢誅,比干戮,箕子狂,惡來死,桀、紂亡。人主莫不欲其臣之忠,而忠未必信,故伍員流於江,萇弘死於蜀,藏其血三年,化而為碧。人親莫不欲其子之孝,而孝未必愛,故孝己憂而曾參悲。
〈訳〉外物はあてになるものではない。だから竜逢〈夏の桀王の忠臣〉も誅せられ、比干(殷の紂王の賢臣)も殺され、箕子(殷の紂王の叔父)も狂人となり、悪来(紂の佞臣)は死に、桀紂も滅びた。人主はその臣下の忠義を望まないものはない。しかし、忠は必ずしも信じられない。伍員(伍子胥)は江に流され、萇弘は蜀で死に、その血は貯えられていたが、三年経つと碧玉に化した。人の親はわが子の孝を望まないものはない。しかし、孝は必ずしも愛されない。だから孝己(殷の高宗の子、継母にいじめられ憂死したという)は憂え、曾参(至孝であったが、父母に憎まれていた)は悲しんだ。
 
  昨日のブログに続いて、梁鴻の伝の最後の部分
初,鴻友人京兆高恢,少好老子,隱於華陰山中。及鴻東遊思恢,作詩曰:
“鳥嚶嚶兮友之期,念高子兮僕懷思,想念恢兮爰集茲。”
二人遂不復相見。恢亦高抗,終身不仕。

〈訳〉
 さきに梁鴻の友人京兆〈陝西省長安県〉の高恢は、若い頃から『老子』を好み、華陰県(陝西省華陰県)の山中に隠棲した。梁鴻が東に旅立つ時、高恢を思って作った詩がある。
  鳥は嚶嚶(鳴く様子)として、友をこれ期す。(二人の友情を、友を求めて鳴く鳥に譬える)
  高子を念いて、僕は懐しみおもう。
  恢を思い念えど、爰(ここ)に茲(ここ)に集(とど)まる。(残念ながら高恢は一緒に飛び立てないという意)
 二人はとうとう再び会えなかった。高恢も高潔で拗ね者。終身仕えなかった。
 
5acc1801.JPG 逸民とは中国で隠者のことをいい、自己の節義や志を全うするため,名利を捨て官職を離れて野に隠棲する人々で,隠逸,高逸,高士などともいう。伯夷・叔斉,竹林の七賢,陶淵明などが代表者。
 

3b77a414.JPG 賈島(779?~843年)は范陽(河北省涿県)の人で、字は浪仙。何度も科挙に落第したすえ、僧となって無本と号し、長安に出て青龍寺に住んだ。やがて詩才を韓愈に認められて(その動機が「推敲」の故事として有名な伝説となっている)、勧められて還俗し、長江(四川省蓬渓の西)の主簿に任じられ、普州(四川省安岳の北)司倉参軍に転じたが、赴任しないうちに死んだ。そのときは一文の貯えも無く病んだろばと古い琴があるだけであったという。
 
『唐詩紀事』巻四十
島赴舉至京、騎驢賦詩、得僧推月下門之句。欲改推作敲。引手作推敲之勢、未決。不覺衝大尹韓愈。乃具言。愈曰、敲字佳矣。遂竝轡論詩。
 島(とう)、挙(きょ)に赴(おもむ)きて京(けい)に至(いた)り、驢(ろ)に騎(の)りて詩(し)を賦(ふ)し、「僧(そう)は推(お)す月下(げっか)の門(もん)」の句(く)を得(え)たり。
 推(すい)を改(あらた)めて敲(こう)と作(な)さんと欲(ほっ)す。手(て)を引(ひ)きて推敲(すいこう)の勢(いきお)いを作(な)すも、未(いま)だ決(けっ)せず。覚(おぼ)えず大尹(だいいん)韓愈(かんゆ)に衝(あた)る。乃(すなわ)ち具(つぶ)さに言(い)う。愈(ゆ)曰(いわ)く、敲(こう)の字(じ)佳(よ)し、と。遂(つい)に轡(くつわ)を並(なら)べて詩(し)を論(ろん)ず。
 
   推敲          推敲(すいこう)
     無名氏
 騎驢賈島練新詞    騎驢(きろ)し 賈島(かとう) 新詞(しんし)を練り
 偶合韓愈車列騅   偶合(ぐうごう)す 韓愈(かんゆ)の車列(しゃれつ)騅(すい)に
 自問僧推復僧敲    自問(じもん)す 僧は推(お)す 復(また)僧は敲(たた)く
 敲佳並轡共論詩    敲く佳し 轡(くつわ)を並べて 共に詩を論ず
                                                         (四支韻)
b3043028.JPG 〈訳〉
 驢馬に騎上しながら、賈島が新しい詞句を練っていて
 たまたま 韓愈の車列の馬に ぶっつかりそうになった
 賈島はそのとき 自分の作っている詩の字句の一字を
 推すにするか 敲くにするか夢中になって考えていた
 韓愈がその訳を聞き それは敲くとした方がいいと教えてくれた
 二人は意気投合して轡を並べて共に詩を論じ合った
 
かくて、次なる「題李凝幽居」を得たという。
 
題李凝幽居    李凝の幽居に題す
 賈島
閒居少鄰並, 閒居 鄰並(りんぺい)少(まれ)に,
草徑入荒園。 草徑 荒園に 入(い)る。
鳥宿池邊樹, 鳥は宿る 池邊(ち へん)の樹,
僧敲月下門。 僧は敲(たた)く 月下の門。
過橋分野色, 橋を過ぎて 野色(や しょく)を分かち,
移石動雲根。 石を移して 雲根(うんこん)を動かす。
暫去還來此, 暫(しばら)く去りて 還(また) 此(ここ)に來(き)たる,
幽期不負言。 幽期(ゆうき) 言(げん)に負(そむ)かず。
 
〈訳〉   李凝(りぎょう)の侘住居(わびずまい)にしるす
   隣近所もない静かな住居
   草の茂る小道は荒れた庭へと導く
   鳥がねぐらに就く池のふちの木
   僧が叩〈たた〉いている月下の門
   橋を越えたこちらにも原野の趣(おもむき)が分けられて
   山から運んだ庭石は雲の湧く根を移したもの
   しばらくご無沙汰していたが またここにきましたよ
   浮世を離れた約束には 決して嘘(うそ)は言いません
  中国東北地方の最大経済都市大連で大規模な市民抗議デモがあったという。Shinさんは心配のことであろう。今朝のウェブニュースより。
c02d1244.JPG 大連、市民の抗議で工場移転へ 警官隊と衝突も ―― 【大連共同】中国遼寧省大連市は14日、市内の化学工場の移転を求める市民の抗議活動を受け、工場の即時操業停止と早期移転を決定した。中国当局が市民の抗議要求を即日受け入れるのは極めて異例。参加者の一部は移転決定後も市中心部で抗議を継続、警官隊と衝突し拘束者も出たもようだ。/同市は中国東北部最大の経済都市。市民らの抗議が地元政府を公然と批判するまでに発展し、社会の安定のため早期の事態収拾を図る必要に迫られたとみられる。/新華社電によると、抗議活動の参加者は約1万2千人。 (2011/08/15 01:21  【共同通信】)
 
 昨日のブログの『後漢書』逸民伝の続き
有頃,又去適吳。將行,作詩曰:
“逝舊邦兮遐征,將遙集兮東南。心惙怛兮傷悴,志菲菲兮升降。欲乘策兮縱邁,疾吾俗兮作讒。競舉枉兮措直,咸先佞兮唌唌。聊固靡慚兮獨建,冀異州兮尚賢。聊逍搖兮遨嬉,纘仲尼兮周流。儻云睹兮我悅,遂舍車兮即浮。過季札兮延陵,求魯連兮海隅。雖不察兮光貌,幸神靈兮與休。惟季春兮華阜,麥含含兮方秀。哀茂時兮逾邁,愍芳香兮日臭。悼吾心兮不獲,長委結兮焉究!口囂囂兮余訕,嗟恇恇兮誰留?”
遂至吳,依大家皋伯通,居廡下,為人賃舂。每歸,妻為具食,不敢於鴻前仰視,舉案齊眉。伯通察而異之,曰:“彼傭能使其妻敬之如此,非凡人也。”乃方舍之於家。鴻潛閉著書十餘篇。疾且困,告主人曰:“昔延陵季子葬子於嬴博之閒,不歸鄉里,慎勿令我子持喪歸去。”及卒,伯通等為求葬地於吳要離冢傍。咸曰:“要離烈士,而伯鸞清高,可令相近。”葬畢,妻子歸扶風。

〈訳〉
 しばらくしてまたそこを立ち去り、呉(江蘇省)に行った。出発する日に次の詩を作った。
 「旧き邦を逝(さ)りて遐(とお)く征(ゆ)き、
  まさに遥か東南に集(とど)まらんとす。
  心は惙怛(てつたん)として憔悴(しょうすい)し、
  志は菲々(ひひ)として升降す。
  策に乗じて縦(ほしいまま)に邁(ゆ)かんと欲すれど、
  わが俗の讒(そしり)をなすを疾(にく)む
  競いて枉(ま)がれるを挙げて直きを措(お)き(不正の人をもちい正直者を見棄てる)
  みな佞(ねい)を先にし唌々(せんせん)たり
  いささかもとより独り建ちに慙(は)ずるなければ
  異州の賢を尚(たっと)ぶことを冀(こいねが)う。
  いささか逍揺(しょうよう)して遨(あそ)び嬉(たの)しみ、
  仲尼(孔子の字)を継いで周流(流浪)す。
  もしくは我を覩(み)て悦ぶ者のあらんと云(おも)い
  遂に車を舎てて浮(ふね)に即(つ)く。
  季札(春秋時代の呉の賢人)を延陵に過(たず)ね、
  魯連(ろれん、魯仲達)を海遇(かいぐう、海のほとり)に求む。
  光貌を察(み)ずといえども、
  神霊を幸(こいねが)いて休(うつく)しさを与(とも)にせん。
  惟(これ)季春(晩春)の華の阜(おか)、
  麦は含々(がんがん)としてまさに秀(の)びたり。
  茂(さか)りの時の逾(す)ぎ邁(ゆ)くを哀しみ、
  芳しき香りの日に臭くなるを愍(あわれ)む。
  わが心の獲(え)られざるを悼み、
  長(とこし)えに委結(むすぼ)おれて焉(いずく)んぞ究(きわ)まらん。
  口は囂々(ごうごう)として余(われ)を訕(そし)る。
  ああ恇々(きょうきょう)たり誰か留まらん。」
 
31949fbb.JPG 遂に呉に到着、皐伯通(こうはくとう)という名家を頼って、その軒下に置いてもらった。人に雇われ米搗きの賃仕事をする。毎日帰ると妻が膳を整えて待っている。鴻の前に出るのに、目を伏せて、膳を眉の高さに捧げもつ。伯通はそれをみて変わっていると思った。
「あの日雇取りは妻をこれほどまでに躾けておる。ただ者ではない」
 そこで始めて自分の家の中に住まわせた。鴻は部屋に閉じ篭って十数編の書を著した。病気で危篤になった。主人に告げて言う。
「昔、延陵季子(季礼)はわが子を嬴(えい)・博(はく)の間(山東省)に葬って、郷里に持ち帰りませんでした。どうか私の子にも私のなきがらを郷里に持ち帰らせないでいただきたい」
 鴻が亡くなると、伯通らは、鴻のために呉の要離(呉王僚の子慶忌を刺さんとした勇士)の塚の傍に墓地を求めた。みなが言う。
「要離は義烈の士であり、梁伯鸞は孤高の士である。近くにおいたがよい」
 葬儀が終わると、妻子は扶風に帰った。
 
  「國破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨んで鳥にも心を驚かす 峰火三月(さんげつ)に連なり 家書萬金に抵(あた)る 白頭掻いて更に短かし 渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す」
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 本日、66年目の「敗戦の日」。昭和20年8月15日中国山地にある町、三次で敗戦を迎えた。昭和21年春、拙痴无爺は疎開先の農家に預けれられ、母と姉は一足さきに北九州に帰っていった。中学2年になったばかりの春、漢文で杜甫の「春望」を教わった。それから1年、昭和22年の春、北九州に帰った。
 隅田川沿いを徘徊しながら、思い出し、思い出ししつつ、この「春望」を反復暗誦してみる。
本日は旧暦7月16日、5時20分頃、水神大橋西詰でご来光。西の空には十六夜の月が沈もうとしている。
 
五噫歌 漢 梁鴻   五噫の歌  漢 梁鴻(りょうこう)
陟彼北芒兮、噫!  彼の北芒に 陟(のぼ)りて、噫(ああ)!
顧瞻帝京兮、噫!  帝京を 顧瞻して、噫!
宮闕崔巍兮、噫!  宮闕 崔巍として、噫!
民之劬勞兮、噫!  民の 劬勞は、噫!
遼遼未央兮、噫!  遼遼 未だ央(つ)きず、噫!
 
(訳)  五つのためいきの歌  梁鴻
   かの北芒の山にのぼって ああ
   都のかたを見下ろせば ああ
   宮居はたかだかと聳え立ち ああ
   民草の苦しみは ああ
   いつ果てるとも鳴く ああ
 
b6a97948.JPG 『後漢書』逸民伝は、隠遁者梁鴻がたまたま都(洛陽)を通った時この歌を作ったとして全文を載せ、時の肅宗皇帝はこれを聞いて怒り、鴻を探させたが、鴻は姓名を変えて身を晦ましたと言う。
 梁鴻の現存する詩は、本篇のほか「思友詩」「適呉詩」の2篇(ともに『後漢書』逸民伝所載)にすぎないという。
 
後漢書 逸民伝 より
居有頃,妻曰:“常聞夫子欲隱居避患,今何為默默?無乃欲低頭就之乎?”鴻曰:“諾。”乃共入霸陵山中,以耕織為業,詠詩書,彈琴以自娛。仰慕前世高士,而為四皓以來二十四人作頌。
因東出關,過京師,作五噫之歌曰:“陟彼北芒兮,噫!顧覽帝京兮,噫!宮室崔嵬兮,噫!人之劬勞兮,噫!遼遼未央兮,噫!”肅宗聞而非之,求鴻不得。乃易姓運期,名燿,字侯光,與妻子居齊魯之閒。

 こうして(結婚して)暫く経ったとき、妻が言った。
「いつかあなたは侘び住まいして世のごたごたを避けたいとおっしゃいましたね。いまどうしてぐずぐずしているんです? まさか頭を下げて就職するおつもりではないでしょうね?」
鴻は言う、「よし」と。 そこでともども覇陵(陝西省長安県)の山中に入り、田を耕し機を織って暮らした。詩を詠じ書を読み、琴を弾いて楽しむ。遥かに前代の隠者を慕い四皓(秦・漢の乱を商山にさけた四人の老人)以来の二十四人の讃歌を作った。東のかた函谷関を出て、洛陽の都を通ったついでに、五噫の歌を作った。
 かの北芒(山名)に陟(のぼ)り、噫!
 顧みて帝京を覧(み)るに、噫!
 宮室は崔嵬(さいかい)たり、噫!
 人の劬(いたづ)き労(つか)るる、噫!
 遼々(はるかなるさま)としていまだ央(つ)きず、噫!
 章帝はこれを聞いて怪しからぬと思い、鴻を捜したが捉まらぬ。鴻はそこで姓を運期、名を燿、字を侯光と改め、妻子とともに斉魯の間(山東省)に隠れ住んだ。
   歌     漢・李延年
北方有佳人、      北方に  佳人 有り、
絶世而獨立。      絶世にして  獨立す。
一顧傾人城、      一顧(いつこ)すれば  人の城を傾け、
再顧傾人國。      再顧(さいこ)すれば  人の國を傾く。
寧不知傾城與傾國、 寧(いづく)んぞ 傾城(けいせい)と傾國(けいこく)とを 知らざらんや、
佳人難再得。      佳人は  再び得難(えがた)し。
 
〈訳〉北のかたにいる すばらしい女人
   この世にひとりの 絶世の美人
   ひとたび流し目をすれば 人は城を入れ上げ
   再び流し目をすれば 人は国を入れあげる
   城を国を入れあげる愚かさは 知らぬではないが
   佳き人は 二度と得られぬ
 
ed076a56.JPG 李延年(生没年不詳)は漢の武帝の宮廷付楽士。自分の妹を後宮に入れるべく歌ったのがこの歌だという。3・4句の「一顧傾人城、再顧傾人國」は、美人または遊女のの形容としてし「傾城」「傾国」の語を生み出したものらしい。以下の『漢書』外戚伝は、この詩を載せ、武帝の寵愛を受けるに至った経緯を述べる。
 
漢書 外戚伝 より
孝武李夫人、本以倡進。初、夫人兄延年性知音、善歌舞、武帝愛之。每為新聲變曲、聞者莫不感動。延年侍上起舞、歌曰、 “北方有佳人、絕世而獨立、一顧傾人城、再顧傾人國。寧不知傾城與傾國、佳人難再得!”
上嘆息曰 “善!世豈有此人乎?” 平陽主因言延年有女弟、上乃召見之、實妙麗善舞。由是得幸、生一男、是為昌邑哀王。李夫人少而蚤卒、上憐閔焉、圖畫其形於甘泉宮。及衛思后廢後四年、武帝崩、大將軍霍光緣上雅意、以李夫人配食、追上尊號曰孝武皇后。

c5d40db3.JPG〈訳〉武帝の妾、李夫人は、もと歌妓から出世したものである。さきに、夫人の兄、李延年は生まれつき音感がよく、歌舞に巧みなところから、武帝の寵愛が篤かった。新しい歌曲や変奏曲を作るたびに、聞く者みな感動したものである。李延年が帝のお側に侍っている時、立って舞いながら歌った。
 北方に佳人あり、絶世にして独立す〈くらべものがない〉
 一たび顧みれば人の城をかたむけ、再び顧みれば人の国を傾く。
 いずくん知らざらん城を傾むくると国を傾くるとを。佳人は再び得がたければなり〈この美人に溺れれば城も国も傾くことはわかっているが、二人とない美人なので、ふみとどまれない〉
 帝は溜息をついていった。「見事! なれど、この世にさような女があろうか?」
 平陽公主〈武帝の姉、公主は内親王の称〉はそこで、延年に妹がいると申し上げた。帝はそこで召出して見た。実際、美しくて舞いの上手である。これから寵愛を受け、男児一人を生んだ。これが昌邑哀王である。
71477e27.JPG 李夫人は若くして早死にした。帝は憐れに思い、その姿を甘泉宮の壁に描かせた。衛思后が(戻太子とともに巫蠱の事件によって)廃せられて後四年目に、武帝が亡くなると、大将軍霍光(?~BC68年)は、帝の生前の意向に沿って、李夫人を武帝に合葬し、遅ればせながら尊号を奉って、孝武皇后と呼ぶことにした。
 
16694183.JPG   詠史詩  班 固
 三王德彌薄  惟後用肉刑
 太倉令有罪  就遞長安城
 自恨身無子  困急獨煢煢
 小女痛父言  死者不可生
 上書詣闕下  思古歌雞鳴
 憂心摧折裂  晨風揚激聲
 聖漢孝文帝  惻然感至情
 百男何憒憒  不如一緹縈

〈訳〉  詠史(えいし)の詩(うた)   班固
   聖(ひじり)の御代の徳薄れゆき
   後の世では体刑を加えた
   太倉(たいそう)県令が罪を犯し
   長安の町で縛(ばく)につくや
   男の子がいないのを無念に思い
   心細さに困り果てたが
   末の娘が父の言葉に胸を痛めた
   「死んだ者は生き返られぬ」と
   嘆願の書をたずさえて宮廷の門に至り
   古(いにし)えに思いを託して「鶏鳴(けいめい)の歌」をうたう
   沈む心は千々に裂かれ
   「鷹(たか)の歌」を声張り上げて歌う
   大漢の孝文皇帝
   娘の至情に胸打たれた舞う
   百人の男も何のその
   ひとりの小娘緹縈(ていえい)に及ばぬ
 
 「詠史の詩」とは史伝に見える物語や人物を素材として作られた詩であり、これはその最も早い例の1つである。この話は以下の『史記』扁鵲(へんじゃく)・倉公(そうこう)列伝に見える。
 
5faab3fd.JPG史記 扁鵲・倉公列伝 第四十五 より
文帝四年中、人上書言意、以刑罪當傳西之長安。意有五女、隨而泣。意怒、罵曰:“生子不生男、緩急無可使者!”於是少女緹縈傷父之言、乃隨父西。上書曰:“妾父為吏、齊中稱其廉平、今坐法當刑。妾切痛死者不可復生而刑者不可復續、雖欲改過自新、其道莫由、終不可得。妾願入身為官婢、以贖父刑罪、使得改行自新也。”書聞、上悲其意、此歲中亦除肉刑法。
(訳)
 孝文帝の四年に、ある人が上書して、(淳于)意には肉刑(肉体に施す刑罰)に当たる罪があると訴えた。その結果、意は駅伝車で西方の長安に護送されることになった。意には五人の女があり、意に縋(すが)って泣いた。意は怒って、罵って言った。
「子供を生んでも、男を生まなかったので、危急の場合に役立つものがいない」
 すると、末女の緹縈(ていえい)が父の言葉を悲しんで、父に従って西行し、次のように上書した。
ed6bc330.JPG「わたしの父は官吏ではありますが、斉の国の人々はみなその清廉・公平を称(たた)えました。ところが、いま、法に触れて刑を受けることになりました。わたしは、ひそかに、死者は生き返ることができず、また肉刑を受けた者は元どおりの身体になることができず、過失をあらためてみずから新生の道を歩もうとのぞんでも、その道の由なく、世を終わるまで不可能なことをいたましく思います。どうかわたしの身を召し上げて朝廷の婢にあて、それで父の刑罰(つみ)をあがない、父が行いを改めて、新生の道を歩みうるようにしてくださいませ」
 この書が上聞に達すると、帝はその心意を憐れに思い、この年中に、また肉刑の法をも廃弆(はいきょ)した。
   今日から、旧暦の『お盆』である。隅田川では今夕『燈籠流し』がおこなわれる。
752dc5e6.JPG お盆の期間中には、故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物として、「精霊馬」(しょうりょううま)と呼ばれるきゅうりやナスで作る動物を用意することがある。まだ幼かった頃、父が広島で4本のマッチ棒や、折った割り箸などを足に見立てて差し込み、作ってみせてくれていた。従兄弟の大木あまりさんが読売新聞のコラム「四季」に投稿していた。
 

   梁甫吟  無名氏
歩出齊城門  歩みて斉の城門を出ずれば
遥望蕩陰里  遥かに蕩陰(とういん)の里を望む
里中有三墳  里中に三墳有り
累累正相似  累累として正に相い似たり
問是誰家塚  問う是れ誰が家の墓ぞ
田彊古冶氏  田彊(でんきょう) 古冶子(こやし)なり
力能排南山  力は能く南山を排し
文能絶地紀  文は能く地紀を絶つ
一朝被讒言  一朝 讒言を被れば
二桃殺三士  二桃もて三士を殺す
誰能爲此謀  誰か能く此の謀を為す
國相齊晏子  国相 斉の晏子なり
 
7d515680.JPG〈訳〉斉の都の門を出ると
   はるかに蕩陰の村が見える
   村の中には三つの墓
   土もりあがりよく似た形の
   誰の墓かと問うて見れば
   田開彊・古冶子たちの墓
   力は山をも押し倒し
   地軸をも断ち切るほどの男たち
   ある日たちまち讒言により
   二つの桃が三人の男を殺した
   そんな悪だくみをした奴は誰
   総理大臣 斉の晏嬰
69a40009.JPG
bbecdd74.JPG  晏嬰〈?~BC500年〉は斉の霊公・荘公・景公3代に仕えた名宰相とされ、『史記』管晏列伝では司馬遷をして「もし晏子が健在ならば、私は馬丁となって仕えてもよい、それほど慕わしく思う」と言わしめた人物。
この歌の晏嬰評価は、司馬遷のそれとは大きく異なる。
蜀史に拠れば、諸葛亮はこの歌が好きでよく口ずさんでいたという。「晏嬰って奴はずる賢くてこんなことで人を殺す陰険な野郎!」という話なのか、「桃だけで三勇士を排除した晏嬰って頭いい、すごい宰相!」という解釈なのかは不明であるが、諸葛亮はこの詩のどこが気に入っていたのだろう。曹操に故郷を蹂躙され兄と別れ、こんな歌を歌いながら畑を耕しつつ過していた亮はある日劉備に拾われるのである。
 
この詩のことは以下の『晏子春秋』諫下篇にみえる。
《景公養勇士三人無君之義晏子諫》
公孫接、田開疆、古冶子事景公,以勇力搏虎聞。晏子過而趨,三子者不起。
晏子入見公曰:“臣聞明君之蓄勇力之士也,上有君臣之義,下有長率之倫,內可以禁暴,外可以威敵,上利其功,下服其勇,故尊其位,重其祿。今君之蓄勇力之士也,上無君臣之義,下無長率之倫,內不以禁暴,外不可威敵,此危國之器也,不若去之。”
公曰:“三子者,搏之恐不得,刺之恐不中也。”
晏子曰:“此皆力攻勍敵之人也,無長幼之禮。”因請公使人少餽之二桃,曰:“三子何不計功而食桃?”
公孫接仰天而歎曰:“晏子,智人也!夫使公之計吾功者,不受桃,是無勇也,士眾而桃寡,何不計功而食桃矣。接一搏猏而再搏乳虎,若接之功,可以食桃而無與人同矣。”援桃而起。
田開疆曰:“吾仗兵而卻三軍者再,若開疆之功,亦可以食桃,而無與人同矣。”援桃而起。
古冶子曰:“吾嘗從君濟于河,黿銜左驂以入砥柱之流。當是時也,冶少不能游,潛行逆流百步,順流九里,得黿而殺之,左操驂尾,右挈黿頭,鶴躍而出。津人皆曰:‘河伯也!’若冶視之,則大黿之首。若冶之功,亦可以食桃而無與人同矣。二子何不反桃!”抽劍而起。
公孫接、田開疆曰:“吾勇不子若,功不子逮,取桃不讓,是貪也;然而不死,無勇也。”皆反其桃,挈領而死。
古冶子曰:“二子死之,冶獨生之,不仁;恥人以言,而夸其聲,不義;恨乎所行,不死,無勇。雖然,二子同桃而節,冶專其桃而宜。”亦反其桃,挈領而死。
使者復曰:“已死矣。”公殮之以服,葬之以士禮焉。

 
becaae45.JPG《景公勇士三人を養ふ、君臣の義なし、晏子諌む》【第二十四】
  公孫接・田開彊・古冶子らは景公に仕えた。勇力があり、虎を手で討ち取ることで有名であった。
晏子が彼らの前を小走りで通り過ぎても、彼らは立ち上がらなかった。
晏子は公に見えて「臣はこう聞いています。明君が勇力の士を仕えさせるときには、上には君臣の義があり、下には年順のすじちみがある。内においては暴を禁じ、外においては敵を威圧する。上はその功を有し、下はその勇に服すと。ゆえにその位を尊くして、その禄を重くしているのです。
 いま君は勇力の士を仕えさせ、上は君臣の義なく、下は年順のすじみちがありません。内に暴を禁じず、外には敵を威圧していません。これは国を危うくするやからです。これを去らせるべきです」と言った。
 公は「三人を手で捕らえようとしてもできず、これを刺し殺そうとしてもおそらく当たらないだろう」と言った。
晏子は「彼らはみな力で攻め、それによって敵に当たるもので、年順の礼はありません。公に請います。人をやって彼らに二つの桃を送らせてください。そして『三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ』と言わさせてください」と言った。
 公孫接は天を仰いで嘆じて「晏子は智者である。公に我らのてがらを比べさせたのだ。桃を受けなければ、勇のないことになる。今、三人いるが桃は二つである。どうして功を計って桃を食わないことがあろうか。
 接は雄の鹿を討ち、また子持ちの虎を討った。接の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。
 田開彊は「わしは兵を率いて軍を退けること二回であった。開彊の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。
古冶子は「わしはかつて君に従って黄河を渡った。大すっぽんが馬車のそえ馬を加えて中流の砥柱山にもぐっていったとき、冶子は泳ぐことができないので水底を行き、流れに逆らうこと100歩、 流れに従うこと9里にして大すっぽんを殺した。
 左手にそえ馬を操り、右手に大すっぽんの頭をひっさげて踊り出た。渡しもりたちは皆河伯であると言い、これを見たら大すっぽんの首であった。
冶の功はまた桃を食べられるほどで、人にはできないことだ。桃を返されよ」と言い、剣を抜いて立ち上がった。
 公孫接と田開彊は「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
古冶子は「ふたりがここで死んで、冶がひとり生きるのは不仁である。人に恥をかかせるのに言葉をもってして、自分だけが勇士の名声を誇るの不義である。
 然りと雖もふたりの功績は同等であるから、一個の桃を分けて食べたらよく、自分が一個の桃を食べればよかったのだ」と言い、またその桃を返して、頭を打ち付けて死んだ。
使者は復命して「彼らはすでに死にました」と言った。
 公は死者に衣をかぶせて、これを葬るのに士礼をもってした。
 
 N氏、Y氏は水門会のメンバーである。毎年10月に開かれる「総会」に、出席しようかどうしようかと思い悩んでいるらしい。

   悲歌
 悲歌可以當泣  悲歌(ひか)は以て泣くに當(あ)つべく
 遠望可以當歸  遠望(えんぼう)は以て歸るに當つべし
 思念故鄉     故鄉を思念すれば
 鬱鬱纍纍     鬱鬱(うつうつ)纍纍(るいるい)たり
 欲歸家無人   家に歸らんと欲するも人なく
 欲鍍河無船   河を鍍らんと欲するも船なし
 心思不能言   心に思ひて言ふ能(あた)はず
 腸中車輪轉   腸中(ちょうちゅう)車輪轉(てん)ず

(訳)    悲しい歌
     悲しい歌は 涙の代わり
     遠い眺めは 帰郷の代わり
     故郷を 遠く偲べば 
     胸ふさがれて 思いはつのる
     帰っても あの人は家にはいまい
     渡ろうにも 河に舟がないように
     心に思うだけ 言葉にならぬ
     はらわたに車輪(わだち)がきしむ

d08cdc54.JPG(訳)静かな夜更け、寝床の前に月の光がさし込んでいる。
   あまりにも白いので、地上に降った霜かと疑った。
   光をたどって頭を上げると、山に美しい月が出ている。
   そして、自然にうなだれて、故郷のことが思い出されるのである。

53d94c7c.JPG いやはや、拙痴无爺はどうするか。石もて追われた身なれば、遠きにありて思うもので終らせるか。はたまた、冥土ゆきのお別れを告げに重い腰を揚げるか。N氏・Y氏ご両人とご同様、思い悩んでいる昨今である。
◎ N氏からのメールの標題 「私は遺族会の会長なんかじゃない、ただの集金係」 8/10(水) 
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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