瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝のウェブニュースより
小沢氏、広がる健康不安 「大丈夫だ」沈静化に躍起 ―― 6日夜に救急搬送され、そのまま東京都内病院に入院した民主党の小沢一郎元代表(69)。病名は「左尿管結石」という。小沢氏の健康不安は、これまでもたびたび表面化してきたが、刑事裁判の初公判を終えた当夜の体調不良に、政界には驚きが広がった。/ 「検査の結果、左尿管結石と判断しました。経過を観察中です」。小沢氏が入院した日本医科大付属病院(東京都文京区)の福永慶隆院長と本間博医師は7日、記者会見して小沢氏の病状を説明した。/6日の初公判終了から約4時間後の午後8時ごろ、腰に強い痛みを感じて嘔吐(おうと)。その後も激しい腰痛と嘔吐があり、自宅から救急車で搬送された。1週間程度の入院が必要という。/小沢氏には、健康不安がつきまとう。1991年には狭心症で約40日間入院。最近では、民主党代表当時の2008年10月に体調を崩して入院している。/ 刑事裁判は今月14日に2回目の公判が予定されている。本間医師は、延期やドクターストップの可能性について「本人に聞かないといけない。その場で考えたい」と述べるにとどめた。/支持候補も含めて小沢氏は党代表選に3連敗したうえ、刑事裁判で身動きが取れず、求心力に陰りが見える。それだけに、広がる波紋を鎮めるのに躍起だ。/小沢氏は7日朝から、民主党の輿石東幹事長や鳩山由紀夫元首相に電話で「心配かけて悪かった。大丈夫だ」とアピール。見舞いに訪れた側近の樋高剛、松木謙公両衆院議員や小沢グループの谷亮子参院議員らには、点滴を受けながら「痛みがある時は痛いけど、ない時は何ともない」と笑顔を見せた。/小沢グループの議員によると、病院側の記者会見も「メディアが騒いでうるさいから、病状を教えてやれ」と小沢氏が指示して設定したという。別の側近議員は「結石なんて病気じゃない。石さえ出ればすぐに退院できる」と強調した。 (asahi com 2011年10月7日22時27分)
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より(昨日の続き)
太史公曰:知死必勇,非死者難也,處死者難。方藺相如引璧睨柱,及叱秦王左右,勢不過誅,然士或怯懦而不敢發。相如一奮其氣,威信敵國,退而讓頗,名重太山,其處智勇,可謂兼之矣!
〈訳〉
太子公曰く――
死を覚悟すれば、必ず勇気があふれてくる。死それ自体が難しいのではなく、死に処することが難しいのである。藺相如が璧を取り返して柱をにらんだ時、あるいはまた、秦王の左右を叱りつけた時には、勢いのおもむくところ自分が誅殺されるのだと知っていたのだ。しかし、士のある者は怯懦〈きょうだ〉であって、あえて勇気をだそうとしない。相如は一たびその気を奮って、威は敵国に伸び、退いては廉頗に譲り、その名声は太山(泰山)よりも重かったのである。智・勇に処して、この二つを兼備した人物というべきであろう。
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より(昨日の続き)
太史公曰:知死必勇,非死者難也,處死者難。方藺相如引璧睨柱,及叱秦王左右,勢不過誅,然士或怯懦而不敢發。相如一奮其氣,威信敵國,退而讓頗,名重太山,其處智勇,可謂兼之矣!
〈訳〉
太子公曰く――
今朝のウェブニュースより、
日本兵の遺骨に違う遺骨混入 ―― 太平洋戦争で戦死した日本兵として、フィリピンで収集され、現地に保管されている遺骨の中に、フィリピン人とみられる遺骨が混入していたことが分かりました。厚生労働省は遺骨の収集方法を見直すとともに、すでに日本の戦没者墓苑に納められた遺骨にもフィリピン人の遺骨が混入している可能性があるとして、詳しく調べる方針です。/厚生労働省は、フィリピンで収集された日本兵とされる遺骨の中にフィリピン人のものが含まれているのではないかという、報道機関からの指摘を受けて、ことし3月から遺骨のDNA鑑定を進めていました。その結果、現地に保管されている110の遺骨のうち、半分近くの54の遺骨はフィリピン人に多く見られるDNAの型だったことが分かりました。さらに、女性や子どもとみられる骨も混入しているということで、厚生労働省は、収集された遺骨の中に日本兵ではないものが混入している可能性が高いとしています。フィリピンで見つかった日本兵の遺骨は、平成18年度は45人分でしたが、厚生労働省が平成21年度に日本のNPO法人に委託してからは急増し、昨年度は6289人分が収集されていました。一方、平成20年度以降は、遺骨収集の現場に厚生労働省の職員が立ち会うことがなくなったということです。厚生労働省は今後、遺骨収集には厚生労働省の担当者を立ち会わせ、日本に持ち帰る前に遺骨のDNA鑑定を徹底するよう、見直すことにしています。また、すでに日本に持ち帰って、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納められた、およそ4500人分の遺骨についても、フィリピン人のものが混入している可能性があるとして、厚生労働省に移して詳しく調べることにしています。厚生労働省は「これまでの対応に問題があり、反省している。今後、疑惑を持たれることがないよう、事業の見直しを進めたい」と話しています。/太平洋戦争の際、フィリピンで戦死したおよそ52万人の日本兵のうち、今も日本に戻っていない遺骨は37万人分に上ります。フィリピンでの遺骨の収集事業は昭和32年から始まりました。当初の収集方法は、厚生労働省の職員が収集の現場に立ち会ったうえで、フィリピンの人類学者など専門家が判別していました。しかし、戦後60年以上たち、収集が難しくなってきたことから、厚生労働省は平成21年度から、現地に詳しい日本のNPO法人に遺骨収集を委託しました。さらに、その前の年からは、遺骨を判別する際に、発見した地元住民などの証言だけで、日本兵の遺骨と認めていました。数年前からは現地で墓地から遺骨が盗まれる事件が相次いでいますが、厚生労働省は、遺骨の収集事業と関連づける具体的な証言は確認されなかったとしています。また、収集された遺骨は現地で焼かれたうえで日本に戻しているということで、厚生労働省は、日本に戻った遺骨について、外見上不審な点を見つけるのは難しかったと説明しています。/厚生労働省から委託を受け、フィリピンでの遺骨収集を行っていたNPO法人は、ホームページ上で「大枠において我々の取り組みの妥当性が示されたと考えています。事業全般において改善すべき点も指摘されておりその点はしんしに受け止めた上で、前進してまいりたい」というコメントを掲載しました。/フィリピン大統領府のラシエルダ報道官はNHKに対し、「日本政府から調査結果が届きしだい内容を確認したい」と述べました。日本の遺骨収集事業の問題を巡っては、フィリピン政府も独自の調査を行って、結果をまとめる予定で、日本政府の調査の結果も踏まえながら、今後の対応について慎重に判断するものとみられます。一方、先祖の遺骨が墓地から盗まれたと訴えている地元住民からは、今回の調査結果に反発する声が出ています。このうちフィリピン中部、ミンドロ島の住民グループの代表、アニウ・ルバクさんはNHKの取材に対し、厚生労働省が、事業と遺骨の盗難事件を関連付ける具体的な証言は確認されなかったとした点について、「関連性は明らかであり、調査結果は受け入れられない」と話し、強く反発しています。さらにルバクさんは、「正義がもたらされるまで遺骨の収集を再び許すわけにはいかない」と話し、日本側の調査が不十分だとして、フィリピン政府に対し、遺骨収集事業の再開を認めないよう求めていく考えを示しました。(NHK NewsWeb 10月5日 18時36分)
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より (またまた、昨日の続き)
既罷歸國、以相如功大、拜為上卿、位在廉頗之右。廉頗曰:“我為趙將、有攻城野戰之大功、而藺相如徒以口舌為勞、而位居我上、且相如素賤人、吾羞、不忍為之下。”宣言曰:“我見相如、必辱之。”相如聞、不肯與會。相如每朝時、常稱病、不欲與廉頗爭列。已而相如出、望見廉頗、相如引車避匿。於是舍人相與諫曰:“臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也。今君與廉頗同列、廉君宣惡言而君畏匿之、恐懼殊甚、且庸人尚羞之、況於將相乎!臣等不肖、請辭去。”藺相如固止之、曰:“公之視廉將軍孰與秦王?”曰:“不若也。”相如曰:“夫以秦王之威、而相如廷叱之、辱其群臣、相如雖駑、獨畏廉將軍哉?顧吾念之、彊秦之所以不敢加兵於趙者、徒以吾兩人在也。今兩虎共鬬、其勢不俱生。吾所以為此者、以先國家之急而後私讎也。”廉頗聞之、肉袒負荊、因賓客至藺相如門謝罪。曰:“鄙賤之人、不知將軍寬之至此也。”卒相與驩、為刎頸之交。
〈訳〉
すでに会合を終えて帰国すると、趙王は相如の功績の偉大なことを認めて上卿に任じた。相如の位は廉頗の上になったのである。廉頗は言った。
「わしは趙の将軍として、攻城野戦の大功がある。藺相如はただ口先ばかりの働きで、位はわしの上だ。それに、相如はもともと卑賤の出身だ。わしは恥ずかしくて、とても彼の下となるのに忍びない」そして、
「相如に会ったら、きっと侮辱してやる」
と、宣言した。相如はこれを聞いて、できるだけ廉頗と会わないように心掛けた。朝廷に出仕すべき度ごとに、いつも病気と称して欠席し、廉頗と序列をあらそうことを望まなかった。その後、相如が外出して、はるかに廉頗を見かけると、車を引いて避け匿(かく)れた。すると、舎人(けらい)たちが、みな諌めた。
「私たちが、親戚の下を去ってあなたにお仕えしているのは、ただあなたのご高義をお慕いしているからです。いま、あなたは廉君(廉頗)と序列を同じくしておられます。ところが、廉君があなたに対して悪言いたしますと、あなたはおそれて避け匿れ、異常なまでに恐懼しておられます。これは、凡庸の者でも羞じることです。まして、将軍・大臣であればなおさらでしょう。私たちは不肖者で、これ以上お仕え出来ません。どうかおひまをください」
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藺相如は固くとめて言った。
「きみらは、廉将軍と秦王とどちらが恐ろしいと思うか」
「秦王にはかないません」
「そもそも、秦王の威をもってしても、私は朝廷でこれを叱り付け、その群臣を辱めたのだ。私が駑鈍だからいって、どうして廉将軍だけをおそれようか。ふりかえって考えてみるに、強秦があえて兵を趙に加えないのは、ただ、わが両人(藺相如と廉頗)がいるからだ。いま、両虎が闘えば、勢いとしてともにはいきられない。私が廉将軍を避けるのは、国家の急を咲きにして私讎(ししゅう)をあとにするからなのだ」
廉頗はこのことを聞いて、肌脱ぎになって荊の鞭を背負い、賓客にとりなしてもらって藺相如の門にいたり、謝罪していった。
「鄙賎の人間たる私は、将軍がこれほどまでに寛大にしてくださったのをしらなかったのです」
こうして、二人はついに仲直りし、刎頚の交わりを結んだ。
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より (またまた、昨日の続き)
既罷歸國、以相如功大、拜為上卿、位在廉頗之右。廉頗曰:“我為趙將、有攻城野戰之大功、而藺相如徒以口舌為勞、而位居我上、且相如素賤人、吾羞、不忍為之下。”宣言曰:“我見相如、必辱之。”相如聞、不肯與會。相如每朝時、常稱病、不欲與廉頗爭列。已而相如出、望見廉頗、相如引車避匿。於是舍人相與諫曰:“臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也。今君與廉頗同列、廉君宣惡言而君畏匿之、恐懼殊甚、且庸人尚羞之、況於將相乎!臣等不肖、請辭去。”藺相如固止之、曰:“公之視廉將軍孰與秦王?”曰:“不若也。”相如曰:“夫以秦王之威、而相如廷叱之、辱其群臣、相如雖駑、獨畏廉將軍哉?顧吾念之、彊秦之所以不敢加兵於趙者、徒以吾兩人在也。今兩虎共鬬、其勢不俱生。吾所以為此者、以先國家之急而後私讎也。”廉頗聞之、肉袒負荊、因賓客至藺相如門謝罪。曰:“鄙賤之人、不知將軍寬之至此也。”卒相與驩、為刎頸之交。
〈訳〉
すでに会合を終えて帰国すると、趙王は相如の功績の偉大なことを認めて上卿に任じた。相如の位は廉頗の上になったのである。廉頗は言った。
「わしは趙の将軍として、攻城野戦の大功がある。藺相如はただ口先ばかりの働きで、位はわしの上だ。それに、相如はもともと卑賤の出身だ。わしは恥ずかしくて、とても彼の下となるのに忍びない」そして、
「相如に会ったら、きっと侮辱してやる」
と、宣言した。相如はこれを聞いて、できるだけ廉頗と会わないように心掛けた。朝廷に出仕すべき度ごとに、いつも病気と称して欠席し、廉頗と序列をあらそうことを望まなかった。その後、相如が外出して、はるかに廉頗を見かけると、車を引いて避け匿(かく)れた。すると、舎人(けらい)たちが、みな諌めた。
「私たちが、親戚の下を去ってあなたにお仕えしているのは、ただあなたのご高義をお慕いしているからです。いま、あなたは廉君(廉頗)と序列を同じくしておられます。ところが、廉君があなたに対して悪言いたしますと、あなたはおそれて避け匿れ、異常なまでに恐懼しておられます。これは、凡庸の者でも羞じることです。まして、将軍・大臣であればなおさらでしょう。私たちは不肖者で、これ以上お仕え出来ません。どうかおひまをください」
「きみらは、廉将軍と秦王とどちらが恐ろしいと思うか」
「秦王にはかないません」
「そもそも、秦王の威をもってしても、私は朝廷でこれを叱り付け、その群臣を辱めたのだ。私が駑鈍だからいって、どうして廉将軍だけをおそれようか。ふりかえって考えてみるに、強秦があえて兵を趙に加えないのは、ただ、わが両人(藺相如と廉頗)がいるからだ。いま、両虎が闘えば、勢いとしてともにはいきられない。私が廉将軍を避けるのは、国家の急を咲きにして私讎(ししゅう)をあとにするからなのだ」
廉頗はこのことを聞いて、肌脱ぎになって荊の鞭を背負い、賓客にとりなしてもらって藺相如の門にいたり、謝罪していった。
「鄙賎の人間たる私は、将軍がこれほどまでに寛大にしてくださったのをしらなかったのです」
こうして、二人はついに仲直りし、刎頚の交わりを結んだ。
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より (さらに、昨日の続き)
秦王使使者告趙王、欲與王為好會於西河外澠池。趙王畏秦、欲毋行。廉頗、藺相如計曰:“王不行、示趙弱且怯也。”趙王遂行、相如從。廉頗送至境、與王訣曰:“王行、度道里會遇之禮畢、還、不過三十日。三十日不還、則請立太子為王。以絕秦望。”王許之、遂與秦王會澠池。秦王飲酒酣、曰:“寡人竊聞趙王好音、請奏瑟。”趙王鼓瑟。秦御史前書曰“某年月日、秦王與趙王會飲、令趙王鼓瑟”。藺相如前曰:“趙王竊聞秦王善為秦聲、請奏盆缻秦王、以相娛樂。”秦王怒、不許。於是相如前進缻、因跪請秦王。秦王不肯擊缻。相如曰:“五步之內、相如請得以頸血濺大王矣!”左右欲刃相如、相如張目叱之、左右皆靡。於是秦王不懌、為一擊缻。相如顧召趙御史書曰“某年月日、秦王為趙王擊缻”。秦之群臣曰:“請以趙十五城為秦王壽”。藺相如亦曰:“請以秦之咸陽為趙王壽。”秦王竟酒、終不能加勝於趙。趙亦盛設兵以待秦、秦不敢動。
〈訳〉
秦王は使者をおくって趙王に告げた。
「王と親睦するために西河の南の澠池(河南省)で会合したい。」
趙王は秦を恐れて行きたくないと思ったが、廉頗と藺相如が相談して、
「王がお出掛けになりませんと、趙が弱く、かつ、卑怯であることを示すことになります」
と言ったので、趙王はとうとう出かけた。相如がお供をした。廉頗は送って国境にいたり、王と訣別して言った。
「お出掛け下さい。道程を計算してみますと、会遇の礼を終ってご帰還になるまでは、三十日に過ぎません。三十日たってご帰還なさいません時は、太子を王位におつけして、秦の野望を絶たせてください」
王はこれを許しついに秦王と澠池で会合した。秦王は、酒宴がたけなわになるといった。
「寡人はひそかに、趙王が音楽好きだときいている。ひとつ、瑟を弾いてもらいたい」
趙王は瑟を弾いた。秦の記録官が進み出て、
「某年・月・日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」と、書いた。すると秦相如が進み出ていった。
「趙王はひそかに、秦王が秦の音楽に堪能だと聞いております。盆缻(ぼんぶ、瓦の楽器・ほとぎ)を秦王に捧げて歌っていただき、お互いにたのしみたいものです」
秦王は怒って許(き)かなかった。相如はすすみでて缻をすすめ、跪いて秦王に請うた。秦王は缻をうって歌うことを承諾しなかった。相如は言った。
「大王と私の距離は、僅か五歩です。私の頸血を大王に濺(そそ)ぎましょうか(一身を犠牲にして大王を殺すこと)」
秦王の左右の者が相如を刃にかけようとしたが、相如が目を張って叱り付けると、みな退きなびいた。かくて、秦王はしぶしぶ趙王のために一ぺんだけ缻をうって歌った。相如はふりかえって趙の記録官を召し、
「某月・月・日、秦王、趙王のために缻を撃つ」
と、書かせた。秦の群臣が言った。
「趙の十五城邑を献じて、秦王の壽を祝福してもらいたいものです」
藺相如が言った。
「秦の咸陽(秦の国都、陝西省)を献じて、趙王の壽を祝福してもらいたいものです」
こうして、秦王は酒宴を終るまで、ついに趙を屈服させることはできなかった。趙もまた兵備を盛んにして秦に備えたので、秦は行動を差し控えた。
秦王使使者告趙王、欲與王為好會於西河外澠池。趙王畏秦、欲毋行。廉頗、藺相如計曰:“王不行、示趙弱且怯也。”趙王遂行、相如從。廉頗送至境、與王訣曰:“王行、度道里會遇之禮畢、還、不過三十日。三十日不還、則請立太子為王。以絕秦望。”王許之、遂與秦王會澠池。秦王飲酒酣、曰:“寡人竊聞趙王好音、請奏瑟。”趙王鼓瑟。秦御史前書曰“某年月日、秦王與趙王會飲、令趙王鼓瑟”。藺相如前曰:“趙王竊聞秦王善為秦聲、請奏盆缻秦王、以相娛樂。”秦王怒、不許。於是相如前進缻、因跪請秦王。秦王不肯擊缻。相如曰:“五步之內、相如請得以頸血濺大王矣!”左右欲刃相如、相如張目叱之、左右皆靡。於是秦王不懌、為一擊缻。相如顧召趙御史書曰“某年月日、秦王為趙王擊缻”。秦之群臣曰:“請以趙十五城為秦王壽”。藺相如亦曰:“請以秦之咸陽為趙王壽。”秦王竟酒、終不能加勝於趙。趙亦盛設兵以待秦、秦不敢動。
〈訳〉
「王と親睦するために西河の南の澠池(河南省)で会合したい。」
趙王は秦を恐れて行きたくないと思ったが、廉頗と藺相如が相談して、
「王がお出掛けになりませんと、趙が弱く、かつ、卑怯であることを示すことになります」
と言ったので、趙王はとうとう出かけた。相如がお供をした。廉頗は送って国境にいたり、王と訣別して言った。
「お出掛け下さい。道程を計算してみますと、会遇の礼を終ってご帰還になるまでは、三十日に過ぎません。三十日たってご帰還なさいません時は、太子を王位におつけして、秦の野望を絶たせてください」
王はこれを許しついに秦王と澠池で会合した。秦王は、酒宴がたけなわになるといった。
「寡人はひそかに、趙王が音楽好きだときいている。ひとつ、瑟を弾いてもらいたい」
趙王は瑟を弾いた。秦の記録官が進み出て、
「某年・月・日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」と、書いた。すると秦相如が進み出ていった。
「趙王はひそかに、秦王が秦の音楽に堪能だと聞いております。盆缻(ぼんぶ、瓦の楽器・ほとぎ)を秦王に捧げて歌っていただき、お互いにたのしみたいものです」
秦王は怒って許(き)かなかった。相如はすすみでて缻をすすめ、跪いて秦王に請うた。秦王は缻をうって歌うことを承諾しなかった。相如は言った。
「大王と私の距離は、僅か五歩です。私の頸血を大王に濺(そそ)ぎましょうか(一身を犠牲にして大王を殺すこと)」
秦王の左右の者が相如を刃にかけようとしたが、相如が目を張って叱り付けると、みな退きなびいた。かくて、秦王はしぶしぶ趙王のために一ぺんだけ缻をうって歌った。相如はふりかえって趙の記録官を召し、
「某月・月・日、秦王、趙王のために缻を撃つ」
と、書かせた。秦の群臣が言った。
「趙の十五城邑を献じて、秦王の壽を祝福してもらいたいものです」
藺相如が言った。
「秦の咸陽(秦の国都、陝西省)を献じて、趙王の壽を祝福してもらいたいものです」
こうして、秦王は酒宴を終るまで、ついに趙を屈服させることはできなかった。趙もまた兵備を盛んにして秦に備えたので、秦は行動を差し控えた。
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より (昨日の続き)
秦王坐章臺見相如、相如奉璧奏秦王。秦王大喜、傳以示美人及左右、左右皆呼萬歲。相如視秦王無意償趙城、乃前曰:“璧有瑕、請指示王。”王授璧、相如因持璧卻立、倚柱、怒髪上沖冠、謂秦王曰:“大王欲得璧、使人發書至趙王、趙王悉召群臣議、皆曰‘秦貪、負其彊、以空言求璧、償城恐不可得’。議不欲予秦璧。臣以為布衣之交尚不相欺、況大國乎!且以一璧之故逆彊秦之驩、不可。於是趙王乃齋戒五日、使臣奉璧、拜送書於庭。何者?嚴大國之威以修敬也。今臣至、大王見臣列觀、禮節甚倨;得璧、傳之美人、以戲弄臣。臣觀大王無意償趙王城邑、故臣復取璧。大王必欲急臣、臣頭今與璧俱碎於柱矣!”相如持其璧睨柱、欲以擊柱。秦王恐其破璧、乃辭謝固請、召有司案圖、指從此以往十五都予趙。相如度秦王特以詐詳為予趙城、實不可得、乃謂秦王曰:“和氏璧、天下所共傳寶也、趙王恐、不敢不獻。趙王送璧時、齋戒五日、今大王亦宜齋戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧。”秦王度之、終不可彊奪、遂許齋五日、舍相如廣成傳。相如度秦王雖齋、決負約不償城、乃使其從者衣褐、懷其璧、從徑道亡、歸璧于趙。
〈訳〉
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秦王は章台〈秦の王城内の台の名〉に坐って相如を引見した。相如は璧を奉じて秦王に捧呈した。秦王は大いに喜んで、次々に手渡して美人(女官)や左右のものに示した。左右のものはみな「万歳」と叫んだ。相如は秦王が城邑を代償として趙に与える心意のないのを見て取ると、進み出て言った。
「璧に瑕(きず)があります。それを王にお示しいたしましょう」
王は璧を授けた。相如は璧を持ち、退いてすっくと立って柱に倚った。怒りのために頭髪は逆立って冠を衝きあげたいた。そして、秦王に言った。
「大王は璧を得たいとお思いになり、使者を派して書面を趙王に送られました。趙王は群臣をことごとく召して審議しました。みなが、『秦は貪欲でその強大をたのみ、空言を持って璧を求めているのだ。代償の城邑はおそらくは得ることができないだろう』と言って、秦に璧を与えることを望みませんでした。しかし、私は『無位無官の者の交際でも、欺きあったりはしない。まして、大国間の交際ではなおさらのことだ。それに、たった一個の璧のために強い秦の歓心に逆らうことはよろしくない』と考えました。かくて趙王は斎戒(さいかい)なさること五日、私に命じて、璧を奉じて恭しく書面を秦の宮廷に届けさせたのです。何故ならば、大国の威を畏れて、敬しみを修めたからです。ところが、いま、私が到着いたしますと、大王は私を賓客として待遇せずに、臣下ともどもご覧になり、その礼節ははなはだ倨(おご)っておられ、璧を入手なさると、これを美人に手渡して私を翻弄されておられます。私は、大王に代償として城邑を趙王に与える心意がおありにならないと判断しましたので、璧を取り返したのです。もし、大王が私を追い詰めようとなさるなら、私の頭は、いま、璧とともに柱に撃ちつけられて砕けるでしょう」
相如はその璧を持って柱をにらみ、柱に撃ちつけようとした。秦王は相如が璧を砕くことを恐れたので、謝って、役人を召して地図を案じ、指さしてここから先の十五都邑を趙に与えるからと請願した。相如は、秦王がただ偽って趙に城邑を与える振りをしているだけで、実は城邑を得ることはできないと判断して、秦王に言った。
「和氏の璧は、天下がともに伝えて宝としているものであります。趙王は秦を恐れて、それを献上しないわけにはまいりませんでした。趙王が璧を送り出すときには五日間斎戒なさいました。今、大王もまた、五日間斎戒して、九賓の礼(賓客を礼遇する非常に丁重な儀式)を宮廷で行われるべきです。そうなされば、私はあえて璧をたてまつりましょう」
秦王は、どうしても強奪することはできないと考えて、五日間斎戒することを許し、相如を広成伝舎(客舎の名)に宿泊させた。相如は秦王が斎戒してもきっと約定にそむいて城邑を代償とはしないだろうと判断して、従者に命じて、粗末な衣服を着てその璧を懐中にし、間道伝いに亡げて璧を趙に届けさせた。
秦王齋五日后,乃設九賓禮於廷,引趙使者藺相如。相如至,謂秦王曰:“秦自繆公以來二十餘君,未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙,故令人持璧歸,閒至趙矣。且秦彊而趙弱,大王遣一介之使至趙,趙立奉璧來。今以秦之彊而先割十五都予趙,趙豈敢留璧而得罪於大王乎?臣知欺大王之罪當誅,臣請就湯鑊,唯大王與群臣孰計議之。”秦王與群臣相視而嘻。左右或欲引相如去,秦王因曰:“今殺相如,終不能得璧也,而絕秦趙之驩,不如因而厚遇之,使歸趙,趙王豈以一璧之故欺秦邪!”卒廷見相如,畢禮而歸之。相如既歸,趙王以為賢大夫使不辱於諸侯,拜相如為上大夫。秦亦不以城予趙,趙亦終不予秦璧。其后秦伐趙,拔石城。明年,復攻趙,殺二萬人。
〈訳〉
秦王は五日間斎戒したのち、九賓の礼を宮中で行い、趙の使者藺相如を引見した。相如はやってきて秦王にいった。
「秦は繆公以来二十余君ですが、まだかって、約束を堅く守った君主はありません。私は王に欺かれて趙に背く結果になるのを心から恐れましたので、人に命じて、璧を持ってひそかに趙に帰らせました。しかし、秦は強大で趙は弱小です。大王がたった一人の使者を趙にご派遣になれば、趙はたちどころに璧を奉じてまいりましょう。いま、秦の強大をもってして、まず十五都邑を割(さ)いて趙にお与えになれば、趙はどうして、あえて璧を留めて罪を大王に得るようなことをいたしましょうか。私は大王を欺いた罪が誅殺に該当するのを存じております。どうか湯鑊(とうかく、釜うでの刑)にして下さい。ただ、大王におかれましては、群臣とつらつらご審議のほどを」
秦王は群臣と顔を見合わせて驚き怒った。左右の者たちのうちには相如を引き立てて立ち去ろうとするものもあった。すると、秦王は言った。
「いま、相如を殺しても、ついに璧を得ることはできないし、秦・趙の友好を絶ってしまうだろう。むしろ、相如を厚遇して趙に帰らせたほうがよかろう。趙王は、一個の璧をめぐって問題があったからといって、どうして秦をあざむいたりしようか」
そして、相如を賓客として宮廷で引見し、儀礼を終えてから帰国させた。相如がすでに帰国すると、朝王は彼が賢人だったから使者として諸侯に辱められなかったと考えて、相如を上大夫に任じた。秦も城邑を趙に与えず、趙もとうとう秦に璧を与えなかった。
その後、趙を伐って石城(せきじょう、河南省)を抜いた。その翌年、また趙を攻めて二万人を殺した。
秦王坐章臺見相如、相如奉璧奏秦王。秦王大喜、傳以示美人及左右、左右皆呼萬歲。相如視秦王無意償趙城、乃前曰:“璧有瑕、請指示王。”王授璧、相如因持璧卻立、倚柱、怒髪上沖冠、謂秦王曰:“大王欲得璧、使人發書至趙王、趙王悉召群臣議、皆曰‘秦貪、負其彊、以空言求璧、償城恐不可得’。議不欲予秦璧。臣以為布衣之交尚不相欺、況大國乎!且以一璧之故逆彊秦之驩、不可。於是趙王乃齋戒五日、使臣奉璧、拜送書於庭。何者?嚴大國之威以修敬也。今臣至、大王見臣列觀、禮節甚倨;得璧、傳之美人、以戲弄臣。臣觀大王無意償趙王城邑、故臣復取璧。大王必欲急臣、臣頭今與璧俱碎於柱矣!”相如持其璧睨柱、欲以擊柱。秦王恐其破璧、乃辭謝固請、召有司案圖、指從此以往十五都予趙。相如度秦王特以詐詳為予趙城、實不可得、乃謂秦王曰:“和氏璧、天下所共傳寶也、趙王恐、不敢不獻。趙王送璧時、齋戒五日、今大王亦宜齋戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧。”秦王度之、終不可彊奪、遂許齋五日、舍相如廣成傳。相如度秦王雖齋、決負約不償城、乃使其從者衣褐、懷其璧、從徑道亡、歸璧于趙。
〈訳〉
「璧に瑕(きず)があります。それを王にお示しいたしましょう」
王は璧を授けた。相如は璧を持ち、退いてすっくと立って柱に倚った。怒りのために頭髪は逆立って冠を衝きあげたいた。そして、秦王に言った。
「大王は璧を得たいとお思いになり、使者を派して書面を趙王に送られました。趙王は群臣をことごとく召して審議しました。みなが、『秦は貪欲でその強大をたのみ、空言を持って璧を求めているのだ。代償の城邑はおそらくは得ることができないだろう』と言って、秦に璧を与えることを望みませんでした。しかし、私は『無位無官の者の交際でも、欺きあったりはしない。まして、大国間の交際ではなおさらのことだ。それに、たった一個の璧のために強い秦の歓心に逆らうことはよろしくない』と考えました。かくて趙王は斎戒(さいかい)なさること五日、私に命じて、璧を奉じて恭しく書面を秦の宮廷に届けさせたのです。何故ならば、大国の威を畏れて、敬しみを修めたからです。ところが、いま、私が到着いたしますと、大王は私を賓客として待遇せずに、臣下ともどもご覧になり、その礼節ははなはだ倨(おご)っておられ、璧を入手なさると、これを美人に手渡して私を翻弄されておられます。私は、大王に代償として城邑を趙王に与える心意がおありにならないと判断しましたので、璧を取り返したのです。もし、大王が私を追い詰めようとなさるなら、私の頭は、いま、璧とともに柱に撃ちつけられて砕けるでしょう」
相如はその璧を持って柱をにらみ、柱に撃ちつけようとした。秦王は相如が璧を砕くことを恐れたので、謝って、役人を召して地図を案じ、指さしてここから先の十五都邑を趙に与えるからと請願した。相如は、秦王がただ偽って趙に城邑を与える振りをしているだけで、実は城邑を得ることはできないと判断して、秦王に言った。
「和氏の璧は、天下がともに伝えて宝としているものであります。趙王は秦を恐れて、それを献上しないわけにはまいりませんでした。趙王が璧を送り出すときには五日間斎戒なさいました。今、大王もまた、五日間斎戒して、九賓の礼(賓客を礼遇する非常に丁重な儀式)を宮廷で行われるべきです。そうなされば、私はあえて璧をたてまつりましょう」
秦王は、どうしても強奪することはできないと考えて、五日間斎戒することを許し、相如を広成伝舎(客舎の名)に宿泊させた。相如は秦王が斎戒してもきっと約定にそむいて城邑を代償とはしないだろうと判断して、従者に命じて、粗末な衣服を着てその璧を懐中にし、間道伝いに亡げて璧を趙に届けさせた。
秦王齋五日后,乃設九賓禮於廷,引趙使者藺相如。相如至,謂秦王曰:“秦自繆公以來二十餘君,未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙,故令人持璧歸,閒至趙矣。且秦彊而趙弱,大王遣一介之使至趙,趙立奉璧來。今以秦之彊而先割十五都予趙,趙豈敢留璧而得罪於大王乎?臣知欺大王之罪當誅,臣請就湯鑊,唯大王與群臣孰計議之。”秦王與群臣相視而嘻。左右或欲引相如去,秦王因曰:“今殺相如,終不能得璧也,而絕秦趙之驩,不如因而厚遇之,使歸趙,趙王豈以一璧之故欺秦邪!”卒廷見相如,畢禮而歸之。相如既歸,趙王以為賢大夫使不辱於諸侯,拜相如為上大夫。秦亦不以城予趙,趙亦終不予秦璧。其后秦伐趙,拔石城。明年,復攻趙,殺二萬人。
〈訳〉
秦王は五日間斎戒したのち、九賓の礼を宮中で行い、趙の使者藺相如を引見した。相如はやってきて秦王にいった。
「秦は繆公以来二十余君ですが、まだかって、約束を堅く守った君主はありません。私は王に欺かれて趙に背く結果になるのを心から恐れましたので、人に命じて、璧を持ってひそかに趙に帰らせました。しかし、秦は強大で趙は弱小です。大王がたった一人の使者を趙にご派遣になれば、趙はたちどころに璧を奉じてまいりましょう。いま、秦の強大をもってして、まず十五都邑を割(さ)いて趙にお与えになれば、趙はどうして、あえて璧を留めて罪を大王に得るようなことをいたしましょうか。私は大王を欺いた罪が誅殺に該当するのを存じております。どうか湯鑊(とうかく、釜うでの刑)にして下さい。ただ、大王におかれましては、群臣とつらつらご審議のほどを」
秦王は群臣と顔を見合わせて驚き怒った。左右の者たちのうちには相如を引き立てて立ち去ろうとするものもあった。すると、秦王は言った。
「いま、相如を殺しても、ついに璧を得ることはできないし、秦・趙の友好を絶ってしまうだろう。むしろ、相如を厚遇して趙に帰らせたほうがよかろう。趙王は、一個の璧をめぐって問題があったからといって、どうして秦をあざむいたりしようか」
そして、相如を賓客として宮廷で引見し、儀礼を終えてから帰国させた。相如がすでに帰国すると、朝王は彼が賢人だったから使者として諸侯に辱められなかったと考えて、相如を上大夫に任じた。秦も城邑を趙に与えず、趙もとうとう秦に璧を与えなかった。
その後、趙を伐って石城(せきじょう、河南省)を抜いた。その翌年、また趙を攻めて二万人を殺した。
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より
廉頗者、趙之良將也。趙惠文王十六年、廉頗為趙將伐齊、大破之、取陽晉、拜為上卿、以勇氣聞於諸侯。藺相如者、趙人也、為趙宦者令繆賢舍人。
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(訳〉
廉頗(れんぱ)は趙の良将である。趙の恵文王の十六年、廉頗は趙の将軍として斉を伐ち、大いにこれをやぶり、陽晋〈山東省〉を取ったので、上卿に任ぜられた。勇気をもって諸侯に聞こえた。
藺相如(りんしょうじょ)は趙の人である。趙の宦者の令〈長官〉繆賢(ほくけん)の舎人〈けらい〉であった。
趙惠文王時、得楚和氏璧。秦昭王聞之、使人遺趙王書、願以十五城請易璧。趙王與大將軍廉頗諸大臣謀:欲予秦、秦城恐不可得、徒見欺;欲勿予、即患秦兵之來。計未定、求人可使報秦者、未得。宦者令繆賢曰:“臣舍人藺相如可使。”王問:“何以知之?”對曰:“臣嘗有罪、竊計欲亡走燕、臣舍人相如止臣、曰:‘君何以知燕王?’臣語曰:‘臣嘗從大王與燕王會境上、燕王私握臣手、曰“願結友”。以此知之、故欲往。’相如謂臣曰:‘夫趙彊而燕弱、而君幸於趙王、故燕王欲結於君。今君乃亡趙走燕、燕畏趙、其勢必不敢留君、而束君歸趙矣。君不如肉袒伏斧質請罪、則幸得脫矣。’臣從其計、大王亦幸赦臣。臣竊以為其人勇士、有智謀、宜可使。”於是王召見、問藺相如曰:“秦王以十五城請易寡人之璧、可予不?”相如曰:“秦彊而趙弱、不可不許。”王曰:“取吾璧、不予我城、柰何?”相如曰:“秦以城求璧而趙不許、曲在趙。趙予璧而秦不予趙城、曲在秦。均之二策、寧許以負秦曲。”王曰:“誰可使者?”相如曰:“王必無人、臣願奉璧往使。城入趙而璧留秦;城不入、臣請完璧歸趙。”趙王於是遂遣相如奉璧西入秦。
〈訳〉
趙の恵文王のとき、王は「和氏の璧」を手に入れた。すると秦の昭王がこれを聞いて、使者をよこして朝王に書を送り、秦の十五城邑と璧を交換して欲しいと願ってきた。朝王は大将軍廉頗や諸大臣と相談したが、璧を秦に与えれば、秦の城邑はおそらく得られず、ただ欺かれるばかりであり、与えなければ秦軍が来襲する恐れがあり、方針がなかなかきまらなかった。また、秦への回答使をさがしたが、これもなかなかえられなかった。すると宦者の令の繆賢が言った。「私の舎人の藺相如は、回答使としててきにんです」
王は問うた。「どうして、それがわかるのか」
「私は、かつて罪を犯しまして、ひそかに燕に逃げようと計画いたしました。すると、私の舎人の相如が私をとめまして、『あなたはどいうわけで燕王を知っているのですか』と申しますので、かつて大王のお供をして燕王と国境付近であったことがあり、その時に燕王がそっと私の手を握って友人になろうといったのだ、こうしたわけで知り合いになったので、行こうと思うのだが、と告げますと、相如は私に『そもそも、趙は強大で燕は弱小です。しかもあなたは趙王に寵遇されていますので、燕王はあなたと交際を結ぼうと望んだのです。ところが、いま、あなたは趙を亡げて燕にはしるのです。燕は趙をおそれて、勢いとしてあなたを滞在させないことは必定です。そしてあなたを縛って趙に送り返すでしょう。あなたは肌脱ぎになって処刑台に伏し、罪を請われることにこしたことはありません。そうなされば、あるいは幸いに刑罰を免れるかも知れません』と申しました。私がその計に従いますと、大王もまた幸いに私をお赦しくださいました。こうして、私は相如という人物が勇士であり、智謀もあると認めたのであります。回答使としてまず間違いありません」
そこで、王は藺相如を召見して問うた。
「秦王が十五城をもって寡人(わし)の璧と交換したいと請うてきたが、璧を与えるべきだろうか、どうだろうか」
「秦は強大で趙は弱小です。許(き)かないわけにはまいりません」
「こちらの璧を取り上げて、城邑を与えてくれなかったらどうしよう」
「秦が城邑をくれるという条件で璧を求めておりますのに、趙が許かなければ、曲は趙にあります。趙が璧を与えたのに秦が趙に城邑を与えなければ、曲は秦にあります。この二策を比較してみますに、先方の言い分を許いて秦に曲を負わせる方がよろしいと存じます」
「だれか回答使とすべきものがいるだろうか」
「王がどうしても適当な人の心当たりがございませんでしたら、私に壁を奉じて使いさせてください。城邑が趙の手に入りますなら、璧は秦に留めましょう。城邑が入手できないのでしたら、きっと璧を完うして趙にかえってまいりましょう」
趙王はかくて、遂に相如を派遣して璧を奉じて西の方秦に入らせた。
完璧〈かんぺき〉とは瑕のない璧、欠点がなくて優れてよいことを言うらしいが、藺相如は胆力と知恵だけを武器に、強国秦に一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子(めんつ)も保ったのである。正〈まさ〉しく「完璧」(中国語では「完璧帰趙」)な対処といえよう。
廉頗者、趙之良將也。趙惠文王十六年、廉頗為趙將伐齊、大破之、取陽晉、拜為上卿、以勇氣聞於諸侯。藺相如者、趙人也、為趙宦者令繆賢舍人。
廉頗(れんぱ)は趙の良将である。趙の恵文王の十六年、廉頗は趙の将軍として斉を伐ち、大いにこれをやぶり、陽晋〈山東省〉を取ったので、上卿に任ぜられた。勇気をもって諸侯に聞こえた。
藺相如(りんしょうじょ)は趙の人である。趙の宦者の令〈長官〉繆賢(ほくけん)の舎人〈けらい〉であった。
趙惠文王時、得楚和氏璧。秦昭王聞之、使人遺趙王書、願以十五城請易璧。趙王與大將軍廉頗諸大臣謀:欲予秦、秦城恐不可得、徒見欺;欲勿予、即患秦兵之來。計未定、求人可使報秦者、未得。宦者令繆賢曰:“臣舍人藺相如可使。”王問:“何以知之?”對曰:“臣嘗有罪、竊計欲亡走燕、臣舍人相如止臣、曰:‘君何以知燕王?’臣語曰:‘臣嘗從大王與燕王會境上、燕王私握臣手、曰“願結友”。以此知之、故欲往。’相如謂臣曰:‘夫趙彊而燕弱、而君幸於趙王、故燕王欲結於君。今君乃亡趙走燕、燕畏趙、其勢必不敢留君、而束君歸趙矣。君不如肉袒伏斧質請罪、則幸得脫矣。’臣從其計、大王亦幸赦臣。臣竊以為其人勇士、有智謀、宜可使。”於是王召見、問藺相如曰:“秦王以十五城請易寡人之璧、可予不?”相如曰:“秦彊而趙弱、不可不許。”王曰:“取吾璧、不予我城、柰何?”相如曰:“秦以城求璧而趙不許、曲在趙。趙予璧而秦不予趙城、曲在秦。均之二策、寧許以負秦曲。”王曰:“誰可使者?”相如曰:“王必無人、臣願奉璧往使。城入趙而璧留秦;城不入、臣請完璧歸趙。”趙王於是遂遣相如奉璧西入秦。
〈訳〉
趙の恵文王のとき、王は「和氏の璧」を手に入れた。すると秦の昭王がこれを聞いて、使者をよこして朝王に書を送り、秦の十五城邑と璧を交換して欲しいと願ってきた。朝王は大将軍廉頗や諸大臣と相談したが、璧を秦に与えれば、秦の城邑はおそらく得られず、ただ欺かれるばかりであり、与えなければ秦軍が来襲する恐れがあり、方針がなかなかきまらなかった。また、秦への回答使をさがしたが、これもなかなかえられなかった。すると宦者の令の繆賢が言った。「私の舎人の藺相如は、回答使としててきにんです」
王は問うた。「どうして、それがわかるのか」
「私は、かつて罪を犯しまして、ひそかに燕に逃げようと計画いたしました。すると、私の舎人の相如が私をとめまして、『あなたはどいうわけで燕王を知っているのですか』と申しますので、かつて大王のお供をして燕王と国境付近であったことがあり、その時に燕王がそっと私の手を握って友人になろうといったのだ、こうしたわけで知り合いになったので、行こうと思うのだが、と告げますと、相如は私に『そもそも、趙は強大で燕は弱小です。しかもあなたは趙王に寵遇されていますので、燕王はあなたと交際を結ぼうと望んだのです。ところが、いま、あなたは趙を亡げて燕にはしるのです。燕は趙をおそれて、勢いとしてあなたを滞在させないことは必定です。そしてあなたを縛って趙に送り返すでしょう。あなたは肌脱ぎになって処刑台に伏し、罪を請われることにこしたことはありません。そうなされば、あるいは幸いに刑罰を免れるかも知れません』と申しました。私がその計に従いますと、大王もまた幸いに私をお赦しくださいました。こうして、私は相如という人物が勇士であり、智謀もあると認めたのであります。回答使としてまず間違いありません」
そこで、王は藺相如を召見して問うた。
「秦王が十五城をもって寡人(わし)の璧と交換したいと請うてきたが、璧を与えるべきだろうか、どうだろうか」
「秦は強大で趙は弱小です。許(き)かないわけにはまいりません」
「こちらの璧を取り上げて、城邑を与えてくれなかったらどうしよう」
「秦が城邑をくれるという条件で璧を求めておりますのに、趙が許かなければ、曲は趙にあります。趙が璧を与えたのに秦が趙に城邑を与えなければ、曲は秦にあります。この二策を比較してみますに、先方の言い分を許いて秦に曲を負わせる方がよろしいと存じます」
「だれか回答使とすべきものがいるだろうか」
「王がどうしても適当な人の心当たりがございませんでしたら、私に壁を奉じて使いさせてください。城邑が趙の手に入りますなら、璧は秦に留めましょう。城邑が入手できないのでしたら、きっと璧を完うして趙にかえってまいりましょう」
趙王はかくて、遂に相如を派遣して璧を奉じて西の方秦に入らせた。
完璧〈かんぺき〉とは瑕のない璧、欠点がなくて優れてよいことを言うらしいが、藺相如は胆力と知恵だけを武器に、強国秦に一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子(めんつ)も保ったのである。正〈まさ〉しく「完璧」(中国語では「完璧帰趙」)な対処といえよう。
璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器で、多くは軟玉から作られたという。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もあるという。和氏の璧(かしのへき、-たま)は、中国の春秋時代・戦国時代の故事にあらわれた名玉とされ。『韓非子』および『史記』に記される。連城の璧(れんじょう-)とも称する。
韓非子 第十三 和氏篇 より
楚人和氏得玉璞楚山中、奉而獻之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰:“石也。”王以和為誑、而刖其左足。及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而獻之武王、武王使玉人相之、又曰“石也”、王又以和為誑、而刖其右足。武王薨、文王即位、和乃抱其璞而哭於楚山之下、三日三夜、泣盡而繼之以血。王聞之、使人問其故、曰:“天下之刖者多矣、子奚哭之悲也?”和曰:“吾非悲刖也、悲夫寶玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也。”王乃使玉人理其璞而得寶焉、遂命曰:“和氏之璧。”
〈訳〉
楚の和氏(かし、姓は卞《べん》)は璞(あらたま)を楚山(荊山)の中で発見したので、これを大事に持参して楚の厲王(れいおう)に献じた。厲王は玉人に鑑定させたが、玉人はただの石でございますと言ったので、王は和氏をお上をだますものだと怒って彼の左足を切断した。やがて厲王は死んで武王が位に就くと、和氏はまたもや、その璞を大事に持参して武王に献じた。武王は玉人に之を鑑定させるとまたもや、ただの石でございますと言ったので、武王も和氏をお上を欺くものだとおこって右足を切断した。武王が死に、文王が位に就いたとき、和氏はこの璞を抱いて、楚山の麓で大声を上げて哭きつづけること三日三夜、涙は涸れてしまって血を流すほどであった。文王はこのことをきき、人をやってその哭泣するわけをたずねさてこういった。
「世間では足を切られるものが非常に多いが、おまえはなぜそんなにかなしそうに哭いているのか」
和氏は答えた。「私は、足を切られたのを悲しむわけではございません。かような宝玉でありながら、ただの石といわれ、誠実な人間であるのに、君を欺くといわれますからかなしくてなりません」
そこで王は玉人にその璞を磨かせると、宝石を得た。よってこれを「和氏の壁」と名付けた。
和氏の璧は、暗闇で鈍く光り、置いておくと夏は涼しく、冬は暖かくしてくれ、虫除けにもなったという言い伝えがある。そのため、春秋戦国時代では最高の宝石として位置づけられており、上述の「韓非子」以外にも「史記」、「十八史略」などの書物にも登場している。しかし、趙没落後は歴史上には登場せず、行方知れずとなっている。一説では、趙の滅亡後に中原を統一した秦に渡り、始皇帝が和氏の璧を玉璽(伝国璽)にしたとされ、その後漢王朝の歴代皇帝もその玉璽を使用していたとされる。「三国志演義」などでもその説を採っているが、仮に和氏の璧=伝国璽だとしても、五代十国時代の946年に後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に伝国璽は紛失してしまっており、現在では実際に存在する可能性は低いと考えられている。
十八史略
趙恵文王、嘗得楚和氏璧。秦昭王、請以十五城易之。欲不与畏秦強、欲与恐見欺。藺相如願奉璧往。「城不入則臣請、完璧而帰。」既至秦。王無意償城。相如乃欺取璧、怒髪指冠、却立柱下曰、「臣頭与璧倶砕。」遣従者懐璧間行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。
趙の恵文王、嘗て楚の和氏の璧を得たり。秦の昭王、十五城を以て之に易へんと請ふ。与へざらんと欲せば秦の強きを畏れ、与へんと欲せば欺かるるを恐る。藺相如、璧を奉じて往かんことを願ふ。
「城入らずんば則ち臣請ふ、璧を完うして帰らん。」と。既に秦に至る。
王に城を償ふ意無し。相如乃ち欺きて璧を取り、怒髪冠を指し、却き柱下に立ちて曰はく、「臣が頭は璧と倶に砕けん。」
従者をして璧を懐きて間行し先づ帰らしめ、身は命を秦に待つ。秦の昭王、賢として之を帰す。
〈訳〉
趙の恵文王は、かつて稀代の名玉、和氏の璧を手に入れた。秦の昭王は、十五の城と和氏の壁を交換しようと申し出た。秦の強大さが恐ろしくて断れず、また欺かれるのも恐ろしく、承諾するのもどうかと思われた。そのとき、藺相如という者が和氏の璧を持って秦に行きたいと願い出た。
「城が手に入らなかったら、私にこう命じられよ、和氏の璧を完全な状態で持ち帰れ、と。」藺相如は秦に到着した。
秦の昭王には城を与える意思は無かった。そこで、藺相如は欺いて和氏の璧を奪い返した。その瞬間に髪は怒りで逆立ち、冠を突き上げた。彼は後ずさりして柱の下に立ち、こう言った、「私の頭をこの壁にぶつけ、もろとも砕いてやる。」
後に、従者に璧を懐に抱いて抜け道を通り、気づかれないように帰るようにさせて、自身は秦の処分を待った。秦の昭王はこれを賢いとして藺相如を趙に返した。
韓非子 第十三 和氏篇 より
楚人和氏得玉璞楚山中、奉而獻之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰:“石也。”王以和為誑、而刖其左足。及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而獻之武王、武王使玉人相之、又曰“石也”、王又以和為誑、而刖其右足。武王薨、文王即位、和乃抱其璞而哭於楚山之下、三日三夜、泣盡而繼之以血。王聞之、使人問其故、曰:“天下之刖者多矣、子奚哭之悲也?”和曰:“吾非悲刖也、悲夫寶玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也。”王乃使玉人理其璞而得寶焉、遂命曰:“和氏之璧。”
〈訳〉
楚の和氏(かし、姓は卞《べん》)は璞(あらたま)を楚山(荊山)の中で発見したので、これを大事に持参して楚の厲王(れいおう)に献じた。厲王は玉人に鑑定させたが、玉人はただの石でございますと言ったので、王は和氏をお上をだますものだと怒って彼の左足を切断した。やがて厲王は死んで武王が位に就くと、和氏はまたもや、その璞を大事に持参して武王に献じた。武王は玉人に之を鑑定させるとまたもや、ただの石でございますと言ったので、武王も和氏をお上を欺くものだとおこって右足を切断した。武王が死に、文王が位に就いたとき、和氏はこの璞を抱いて、楚山の麓で大声を上げて哭きつづけること三日三夜、涙は涸れてしまって血を流すほどであった。文王はこのことをきき、人をやってその哭泣するわけをたずねさてこういった。
「世間では足を切られるものが非常に多いが、おまえはなぜそんなにかなしそうに哭いているのか」
和氏は答えた。「私は、足を切られたのを悲しむわけではございません。かような宝玉でありながら、ただの石といわれ、誠実な人間であるのに、君を欺くといわれますからかなしくてなりません」
そこで王は玉人にその璞を磨かせると、宝石を得た。よってこれを「和氏の壁」と名付けた。
十八史略
趙恵文王、嘗得楚和氏璧。秦昭王、請以十五城易之。欲不与畏秦強、欲与恐見欺。藺相如願奉璧往。「城不入則臣請、完璧而帰。」既至秦。王無意償城。相如乃欺取璧、怒髪指冠、却立柱下曰、「臣頭与璧倶砕。」遣従者懐璧間行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。
趙の恵文王、嘗て楚の和氏の璧を得たり。秦の昭王、十五城を以て之に易へんと請ふ。与へざらんと欲せば秦の強きを畏れ、与へんと欲せば欺かるるを恐る。藺相如、璧を奉じて往かんことを願ふ。
「城入らずんば則ち臣請ふ、璧を完うして帰らん。」と。既に秦に至る。
王に城を償ふ意無し。相如乃ち欺きて璧を取り、怒髪冠を指し、却き柱下に立ちて曰はく、「臣が頭は璧と倶に砕けん。」
従者をして璧を懐きて間行し先づ帰らしめ、身は命を秦に待つ。秦の昭王、賢として之を帰す。
〈訳〉
趙の恵文王は、かつて稀代の名玉、和氏の璧を手に入れた。秦の昭王は、十五の城と和氏の壁を交換しようと申し出た。秦の強大さが恐ろしくて断れず、また欺かれるのも恐ろしく、承諾するのもどうかと思われた。そのとき、藺相如という者が和氏の璧を持って秦に行きたいと願い出た。
「城が手に入らなかったら、私にこう命じられよ、和氏の璧を完全な状態で持ち帰れ、と。」藺相如は秦に到着した。
秦の昭王には城を与える意思は無かった。そこで、藺相如は欺いて和氏の璧を奪い返した。その瞬間に髪は怒りで逆立ち、冠を突き上げた。彼は後ずさりして柱の下に立ち、こう言った、「私の頭をこの壁にぶつけ、もろとも砕いてやる。」
後に、従者に璧を懐に抱いて抜け道を通り、気づかれないように帰るようにさせて、自身は秦の処分を待った。秦の昭王はこれを賢いとして藺相如を趙に返した。
角川の漢和中辞典から、魚に関する国字を20字ばかり拾い出してみたが、まだまだ漢和辞典に掲載されてない国字もあるし、パソコンでは打てない国字も沢山あると思われる。
鮴(ごり)の名で呼ばれる魚は地方によって異なる。ハゼ科に属するヨシノボリ類、チチブ類、ウキゴリ類など小型のハゼ類や、カジカ科に属するカジカ類、あるいはその両方を合わせて呼ぶ場合などがある。「ゴリ」という語が標準和名に組みこまれているのは、ハゼ科・ウキゴリ属のウキゴリ類だけである。
鰡(ぼら)はほぼ全世界の熱帯・温帯に広く分布する大型魚で、海辺では身近な魚の一つである。鯔(漢字、シ、ぼら)・鮱(国字、おおぼら)の字が当てられることがある。
われわれの身の回りの木、鳥、魚の名にも国字が多い。
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栂(とが・つが)は木目が細かく健在などに用いられることが多く、建材の母体となる木という意。椙(すぎ)は木扁に栄える意を持つ昌をあわせて、すくすく伸びる杉を表わした国字である。
榊(さかき)は神前に捧げる木という意であり、樫(かし)は堅い木の意。
椚(くぬぎ)は、門が家の外と家を区別するので、クヌギの一名「くのき」を区の木と解して木扁に門の字を組み合わせて当て字としたという。椨(たぶのき)についてはその字源がふめいである。
椣(しで)は、花をつけた様子が幣(しで)に似ているところからついた名であるが、その国字が木扁に典をつけたものになるのかは何故か良く判らない。同様に栃の字源も不明である。
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鳥の名では鳰 (にお)。これはカイツブリという水鳥で、水に入る鳥という意。鵆(チドリ)は行き交う鳥の意で、中国では鴴を用いる。普通には千鳥と書く。
鵇(とき)は年を告げる鳥の意。鴇・朱鷺とも書く。19世紀までは東アジアに広く分布しており珍しくない鳥であったが、20世紀前半には激減した。中国国際放送局によれば2010年12月上旬の時点で中国・日本・韓国を合わせた個体数は1,814羽という。鵥(かけす)は人の言葉を判断する鳥という意で、他の鳥の鳴き声や物音を真似るのが特異な鳥。懸巣とも書く。
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漢字の易には、「いきちがう」といういをもつという。鶍(いすか)はスズメ科の小鳥であるが、針葉樹の実を食べやすいように上下の嘴が食い違っているため、易と鳥を組み合わせて作られた国字である。鶫(つぐみ)は漢字の鶇(トウ・つぐみ)に似せて作った国字だという。
栂(とが・つが)は木目が細かく健在などに用いられることが多く、建材の母体となる木という意。椙(すぎ)は木扁に栄える意を持つ昌をあわせて、すくすく伸びる杉を表わした国字である。
榊(さかき)は神前に捧げる木という意であり、樫(かし)は堅い木の意。
椚(くぬぎ)は、門が家の外と家を区別するので、クヌギの一名「くのき」を区の木と解して木扁に門の字を組み合わせて当て字としたという。椨(たぶのき)についてはその字源がふめいである。
椣(しで)は、花をつけた様子が幣(しで)に似ているところからついた名であるが、その国字が木扁に典をつけたものになるのかは何故か良く判らない。同様に栃の字源も不明である。
鳥の名では鳰 (にお)。これはカイツブリという水鳥で、水に入る鳥という意。鵆(チドリ)は行き交う鳥の意で、中国では鴴を用いる。普通には千鳥と書く。
鵇(とき)は年を告げる鳥の意。鴇・朱鷺とも書く。19世紀までは東アジアに広く分布しており珍しくない鳥であったが、20世紀前半には激減した。中国国際放送局によれば2010年12月上旬の時点で中国・日本・韓国を合わせた個体数は1,814羽という。鵥(かけす)は人の言葉を判断する鳥という意で、他の鳥の鳴き声や物音を真似るのが特異な鳥。懸巣とも書く。
永井荷風の小説に『濹東綺譚』があるが、この「濹東」とは隅田川の東岸という意味である。すなわち「濹」は隅田川を表わす字で江戸時代の儒者林述斎((1768~1841年)が作ったものらしいということである。隅田川は元墨田川とも書いたので、墨に川の意を表わすサンズイをつけたものである。
漢字は表意文字だから扁と旁の組み合わせでいくらでも字を作り出すことができる。火と田を組み合わせて乾いた耕地をあらわす畑(はたけ)という字を作ったもの。畠も白く乾いた田ということからできた字である。漢字は中国で作られた字という意味であるが、濹や畑・畠のように日本で作られた漢字をとくに「国字」という。
日本で新しく出来たものを書き表すために作られた国字もある。明治の中頃、日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。この人力車も「俥」と書いて表わし、「くるま」と読んだ。
見ただけで想像のつくものも多い。毛を少なくすると書いて「毟(むし)る」、心を永くもつ意で「怺(こら)える」など。
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国字には日本人の好みや生活が反映されていて、よく使われるツクリに上と下を縦に並べたものがある。ヤマヘンに付けて「峠」、革ヘンに付けて「鞐(こはぜ)」、テヘンに付けて「挊(かせ)ぐ」、木ヘンに付けて「桛(かせ)」、衣ヘンにつけて「裃(かみしも)」などがある。「裃」以外にも着物に関する国字には「裄(ゆき)」「褄(つま)」「襷(たすき)」などがある。裄は着物の背縫いから袖口までのながさのこと、褄は着物のおくみの腰から下の縁の部分を指し、襷は着物の袖の部分を挙げることからつけられたもの。裄と褄は旁の部分の訓読みをあてて作ったものである。芸者のことを「左褄」ということがあるが、これは芸者が歩くときは左手で着物の褄を取ることからきている。
ほかには旁でよく用いられるも国字に「花」がある。米扁に花で「糀(こうじ)」、米や麦を蒸して麹黴を繁殖させる時、黴が米や麦に花のように付くことからできた国字。金扁に花で「錵(にえ)」、日本刀の刃のところに現れる、銀砂をふりかけたように輝いている雲形の模様をいう。木扁に花で「椛(もみじ)」、木の葉が花のように赤くなることからできた国字で、日本人の国民性がよく表れている。
多くの国字は、あまり使われずJISや漢和辞典などからも排除される傾向にある。パソコンの外字エディタを用いて、文字を作成して、これを登録することはできるが、自分のパソコンで呼び出して、文書で読んだり印刷したりすることはできるが、ウェブにのせて相手方に送信したりすることはできないようである。
漢字は表意文字だから扁と旁の組み合わせでいくらでも字を作り出すことができる。火と田を組み合わせて乾いた耕地をあらわす畑(はたけ)という字を作ったもの。畠も白く乾いた田ということからできた字である。漢字は中国で作られた字という意味であるが、濹や畑・畠のように日本で作られた漢字をとくに「国字」という。
日本で新しく出来たものを書き表すために作られた国字もある。明治の中頃、日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。この人力車も「俥」と書いて表わし、「くるま」と読んだ。
見ただけで想像のつくものも多い。毛を少なくすると書いて「毟(むし)る」、心を永くもつ意で「怺(こら)える」など。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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