瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
3月17日のブログで、大木あまりさんの俳句を角川の「俳句」3月号から写し取るのに、「踏青と いうは闘う 一歩かな」という句を「青踏と いうは闘う 一歩かな」としてしまった。どうやら、『闘う』の語に惑わされて平塚らいてう主幹の雑誌『青鞜』を思い出し、それに曳きづられて間違ってしまったらしい(どうやらこの瘋癲爺は青鞜の「鞜」も「踏」と覚えていたらしい。まったくアホな奴じゃ)。
昨日の 清明 の記事で書いたように、踏青は 「中国で、仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩、文字どおり青き草を踏む意である。初春の野に春をさぐる〈探春〉に次ぐ遊びであり、唐代以後、盛んになった。地方によっては、一定の日に行う行事となったが、一般には清明(せいめい)節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李(すもも)の咲く中で酒宴を開き、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する。」という。日本では「踏青」または「青き踏む」として俳句の春の季語となっている。
二月二日 李商隠
二月二日江上行 二月二日 江上(こうじょう)を行く
東風日暖聞吹笙 東風(とうふう) 日(ひ)暖かくして
吹笙(すいしょう)を聞く
花鬚柳眼各無頼 花鬚(かしゅ) 柳眼(りゅうがん)
各々(おのおの)無頼(ぶらい)
紫蝶黄蜂倶有情 紫蝶(しちょう) 黄蜂(こうほう)
倶(とも)に情(じょう)有り
万里憶帰元亮井 万里 帰るを憶(おも)う
元亮(げんりょう)の井(せい)
三年従事亜夫営 三年 事(こと)に従う
亜夫(あふ)の営(えい)
新灘莫悟遊人意 新灘(しんたん)は
遊人(ゆうじん)の意(い)を悟る莫(な)く
更作風簷雨夜声 更に作(な)す 風簷(ふうえん)雨夜(うや)の声
〔訳〕二月二日踏青の日 川のほとりを歩んでゆくと
日は暖かに春の風 笛の音も聞こえてくる
鬚(ひげ)のような花の蕊(しべ)
柳葉の目にも魅力があり
紫蝶も黄色の蜂も ともに愁いを含んでいる
陶淵明のように 故郷に思いを馳せながら
はや三年の日月を 周亜夫のもとで仕えてきた
新灘の早瀬の音は 旅人の心を解せず
夜の軒端の雨風の 音さながらに鳴っている
※ 李商隠(812~ 858年)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。懐州河内(現・河南省沁陽市)の人。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。
青鞜(せいとう)は、明治44(1911)年9月から大正5(1916)年2月まで52冊発行された、女性による月刊誌。主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝(1895~1923年)が中心だった。
明治末の日本では、女性は良妻賢母が道であり、選挙権はなかった。治安警察法は女性の政治活動を禁じていたが、欧米ではフェミニズムが叫ばれ、それが日本にも伝えられていた。
生田長江〔いくたちょうこう、1882~1936年〕が平塚明(はる、当時25歳)に、女性だけの文芸誌の発行を勧め、迷う平塚を、日本女子大学の同窓、保持研子〔やすもちよしこ、1885~1947年、当時26歳〕が後押しした。知友を訪ねて誘い、2人と中野初子(25歳)、木内錠子(ていこ、24歳)、物集和子(もずめかずこ、23歳)が発起人となり、明治44(1911)年9月、『青鞜』を創刊した。一千部が、全国にはけたという。
『青鞜』の名は、生田長江がつけた。"Blue Stocking(ブルーストッキング)"の和訳であるという。Blue Stockingは、19世紀にロンドンで始まった黒でない綠の長靴下、転じて、趣味のいい婦人の意であるという。創業時の社員は、岩野清子(岩野泡鳴の内縁の妻)、茅野雅子、田村とし子、野上八重子、水野仙子ら18人、賛助員は、長谷川時雨、与謝野晶子、森しげ子(森鴎外の妻)、小金井喜美子、岡田八千代、国木田治子ら7人だった。社員は会費を納めた。そして平塚の母が資金を援助したという。
創刊号の表紙は、長沼智恵子が描き、巻頭を与謝野の詩が飾った。そして平塚が、『原始女性は太陽であった』に始まる創刊の辞を載せ、初めて「らいてう」の筆名を使ったという。
ブログ集20号が出来たので、いつもの方に発送するため、花川戸のクロネコ店まで出かけた。東武線の鉄橋のところから、隅田公園に入り、テラスを通って帰宅した。途中、ベンチに座って、携帯に書き込みの練習をした。宝塚在住のS氏にたどたどしく、メールを入れてみた。曰く、「クロネコヤマトメール便をだして、隅田川のテラスでメールを書いています。ブログ集20号は明後日にはそちらに着くでしょう。対岸の桜がきれいです。日高」
帰宅して、暫くすると携帯が鳴り、メールが入った。S氏からの返信に曰く、「いつもお気遣い戴き有難うございます。20号を楽しみにしております。 墨田の桜並木、さぞかしの眺めだと拝察しております。私の勝手ですが、年をとったせいでしょうが、満開の桜を見ながら、その美しさや優しさの中に、私の脳裏に刻まれた戦時中を思い起こしてしまいます。桜の花に例えながら、祖国を守ると言う使命の為に、散って行った先輩方の思いが忍ばれてなりません。本当に老いたと思います。現代の世相と調和しがたい今日この頃です。体調に留意してください。」
いやはや、携帯はすぐにメールを見ることが出来て、便利だかなれない入力に手間がかかる。パソコンのほうがブラインドタッチできるので早く入力できる。パソコンのメールを持っている方にはパソコンのメールを使わせてもらった。曰く、「本日「プログ集20」を発送しました。/どうも製本がうまくいかなくて、閉じテープが少々曲がっているものがありますが、ご勘弁下さい。/明後日には到着すると思います。/4月15日、待乳山本龍院大広間にて『「語座」安全特別公演』というのがあるそうです。私もどんなものかはよく存じませんが、宜しければ行って見ませんか。/
https://skydrive.live.com/?cid=d4b02dc0f18f0c92&id=D4B02DC0F18F0C92%21234
会場は僕ん家(ち)のすぐ近くで、同じ町内です。宜しかったらお知らせ下さい。/まずは、お知らせまで。
昨日の 清明 の記事で書いたように、踏青は 「中国で、仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩、文字どおり青き草を踏む意である。初春の野に春をさぐる〈探春〉に次ぐ遊びであり、唐代以後、盛んになった。地方によっては、一定の日に行う行事となったが、一般には清明(せいめい)節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李(すもも)の咲く中で酒宴を開き、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する。」という。日本では「踏青」または「青き踏む」として俳句の春の季語となっている。
二月二日 李商隠
二月二日江上行 二月二日 江上(こうじょう)を行く
東風日暖聞吹笙 東風(とうふう) 日(ひ)暖かくして
吹笙(すいしょう)を聞く
花鬚柳眼各無頼 花鬚(かしゅ) 柳眼(りゅうがん)
各々(おのおの)無頼(ぶらい)
紫蝶黄蜂倶有情 紫蝶(しちょう) 黄蜂(こうほう)
倶(とも)に情(じょう)有り
万里憶帰元亮井 万里 帰るを憶(おも)う
元亮(げんりょう)の井(せい)
三年従事亜夫営 三年 事(こと)に従う
亜夫(あふ)の営(えい)
新灘莫悟遊人意 新灘(しんたん)は
遊人(ゆうじん)の意(い)を悟る莫(な)く
更作風簷雨夜声 更に作(な)す 風簷(ふうえん)雨夜(うや)の声
〔訳〕二月二日踏青の日 川のほとりを歩んでゆくと
日は暖かに春の風 笛の音も聞こえてくる
鬚(ひげ)のような花の蕊(しべ)
柳葉の目にも魅力があり
紫蝶も黄色の蜂も ともに愁いを含んでいる
陶淵明のように 故郷に思いを馳せながら
はや三年の日月を 周亜夫のもとで仕えてきた
新灘の早瀬の音は 旅人の心を解せず
夜の軒端の雨風の 音さながらに鳴っている
※ 李商隠(812~ 858年)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。懐州河内(現・河南省沁陽市)の人。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。
青鞜(せいとう)は、明治44(1911)年9月から大正5(1916)年2月まで52冊発行された、女性による月刊誌。主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝(1895~1923年)が中心だった。
明治末の日本では、女性は良妻賢母が道であり、選挙権はなかった。治安警察法は女性の政治活動を禁じていたが、欧米ではフェミニズムが叫ばれ、それが日本にも伝えられていた。
生田長江〔いくたちょうこう、1882~1936年〕が平塚明(はる、当時25歳)に、女性だけの文芸誌の発行を勧め、迷う平塚を、日本女子大学の同窓、保持研子〔やすもちよしこ、1885~1947年、当時26歳〕が後押しした。知友を訪ねて誘い、2人と中野初子(25歳)、木内錠子(ていこ、24歳)、物集和子(もずめかずこ、23歳)が発起人となり、明治44(1911)年9月、『青鞜』を創刊した。一千部が、全国にはけたという。
『青鞜』の名は、生田長江がつけた。"Blue Stocking(ブルーストッキング)"の和訳であるという。Blue Stockingは、19世紀にロンドンで始まった黒でない綠の長靴下、転じて、趣味のいい婦人の意であるという。創業時の社員は、岩野清子(岩野泡鳴の内縁の妻)、茅野雅子、田村とし子、野上八重子、水野仙子ら18人、賛助員は、長谷川時雨、与謝野晶子、森しげ子(森鴎外の妻)、小金井喜美子、岡田八千代、国木田治子ら7人だった。社員は会費を納めた。そして平塚の母が資金を援助したという。
創刊号の表紙は、長沼智恵子が描き、巻頭を与謝野の詩が飾った。そして平塚が、『原始女性は太陽であった』に始まる創刊の辞を載せ、初めて「らいてう」の筆名を使ったという。
ブログ集20号が出来たので、いつもの方に発送するため、花川戸のクロネコ店まで出かけた。東武線の鉄橋のところから、隅田公園に入り、テラスを通って帰宅した。途中、ベンチに座って、携帯に書き込みの練習をした。宝塚在住のS氏にたどたどしく、メールを入れてみた。曰く、「クロネコヤマトメール便をだして、隅田川のテラスでメールを書いています。ブログ集20号は明後日にはそちらに着くでしょう。対岸の桜がきれいです。日高」
帰宅して、暫くすると携帯が鳴り、メールが入った。S氏からの返信に曰く、「いつもお気遣い戴き有難うございます。20号を楽しみにしております。 墨田の桜並木、さぞかしの眺めだと拝察しております。私の勝手ですが、年をとったせいでしょうが、満開の桜を見ながら、その美しさや優しさの中に、私の脳裏に刻まれた戦時中を思い起こしてしまいます。桜の花に例えながら、祖国を守ると言う使命の為に、散って行った先輩方の思いが忍ばれてなりません。本当に老いたと思います。現代の世相と調和しがたい今日この頃です。体調に留意してください。」
いやはや、携帯はすぐにメールを見ることが出来て、便利だかなれない入力に手間がかかる。パソコンのほうがブラインドタッチできるので早く入力できる。パソコンのメールを持っている方にはパソコンのメールを使わせてもらった。曰く、「本日「プログ集20」を発送しました。/どうも製本がうまくいかなくて、閉じテープが少々曲がっているものがありますが、ご勘弁下さい。/明後日には到着すると思います。/4月15日、待乳山本龍院大広間にて『「語座」安全特別公演』というのがあるそうです。私もどんなものかはよく存じませんが、宜しければ行って見ませんか。/
https://skydrive.live.com/?cid=d4b02dc0f18f0c92&id=D4B02DC0F18F0C92%21234
会場は僕ん家(ち)のすぐ近くで、同じ町内です。宜しかったらお知らせ下さい。/まずは、お知らせまで。
昨日は、二十四節気の「清明」であった。
中国では、毎年、春暖かく、花が咲いて、万物が蘇った時、伝統的な祭日・清明節を迎えることになる。清明の日は毎年4月の上旬である。この日になると、人々は祖先を祭ったり、墓参りをしたり、郊外へ遠足に行ったりする。一部の地方では、清明節を『鬼節』と言う。清明節の前後にどの家も墓参りをし、祖先を祭る。お墓の雑草を取ったり、新しい土を添えて、蝋燭と線香を立て、紙銭を焼いたり、お礼と黙祷を捧げる。
清明節の起源は漢の時代で、明の時代になるとお墓参りの風俗はピークに達した。紙銭を焼くばかりではなく、多くのおかずを作ってお墓の前に供えて祭ることだった。
清明節の墓参りの風習は今日にも残されているが、形式は簡単になり、家族のほか、人々は集団で、革命烈士の墓地へ花輪や花束と松の枝を捧げて、哀悼の意を表しているようだ。
清明節は大地が春を迎える季節で、人々は祖先を祭るほか、郊外へ遠足に行ったりするが、これは「踏青」と呼ばれている。清明節の前後、女性達は野良で自生する野菜を取って、餃子や、饅頭の餡(あん)にする。新鮮で、美味しいものらしい。一部の女性は野生の小花を取って、髪に挿す習慣もあるという。この他、凧揚げをしたり、ブランコをやったりする慣わしもあるらしい。
清明は春の耕す季節に当たる。これについて多くの諺が言い伝えられている。例えば、「清明前後、種瓜種豆」は清明節の前後には、瓜や豆を栽培するという意味で、また「栽樹莫要過清明、種上棒槌也発青」は清明の前には植樹の一番良い季節だと言う意味だという。
※「踏青(青き踏む)」は俳句で春の季語ともなっている。
踏青と いふは闘う 一歩かな 大木あまり
淸明 唐 杜牧
淸明時節雨紛紛 淸明の時節 雨 紛紛(ふんぷん),
路上行人欲斷魂 路上の行人 魂を斷たんと欲(ほっ)す。
借問酒家何處有 借問(しゃもん)す 酒家 何れの處にか 有る,
牧童遙指杏花村 牧童 遙かに指さす 杏花(きょうか)の村。
〔訳〕清明の時節であるのに小雨がしきりに降っている。
その雨は路地を歩いている私の心を滅入らせる。
何処かに酒店がないものかと〔子供に〕尋ねると、
その牛飼いの少年は遠くに見える杏の花が咲き誇っている村を指差した。
※杜牧(803~852年):晩唐の詩人。字は牧之。京兆萬年(現・陝西省西安)の人。進士になった後、中書舍人となる。杜甫を「老杜」と呼び、杜牧を「小杜」ともいう。李商隠と共に味わい深い詩風で、歴史や風雅を詠ったことで有名である。
中国では、毎年、春暖かく、花が咲いて、万物が蘇った時、伝統的な祭日・清明節を迎えることになる。清明の日は毎年4月の上旬である。この日になると、人々は祖先を祭ったり、墓参りをしたり、郊外へ遠足に行ったりする。一部の地方では、清明節を『鬼節』と言う。清明節の前後にどの家も墓参りをし、祖先を祭る。お墓の雑草を取ったり、新しい土を添えて、蝋燭と線香を立て、紙銭を焼いたり、お礼と黙祷を捧げる。
清明節の起源は漢の時代で、明の時代になるとお墓参りの風俗はピークに達した。紙銭を焼くばかりではなく、多くのおかずを作ってお墓の前に供えて祭ることだった。
清明節の墓参りの風習は今日にも残されているが、形式は簡単になり、家族のほか、人々は集団で、革命烈士の墓地へ花輪や花束と松の枝を捧げて、哀悼の意を表しているようだ。
清明節は大地が春を迎える季節で、人々は祖先を祭るほか、郊外へ遠足に行ったりするが、これは「踏青」と呼ばれている。清明節の前後、女性達は野良で自生する野菜を取って、餃子や、饅頭の餡(あん)にする。新鮮で、美味しいものらしい。一部の女性は野生の小花を取って、髪に挿す習慣もあるという。この他、凧揚げをしたり、ブランコをやったりする慣わしもあるらしい。
清明は春の耕す季節に当たる。これについて多くの諺が言い伝えられている。例えば、「清明前後、種瓜種豆」は清明節の前後には、瓜や豆を栽培するという意味で、また「栽樹莫要過清明、種上棒槌也発青」は清明の前には植樹の一番良い季節だと言う意味だという。
※「踏青(青き踏む)」は俳句で春の季語ともなっている。
踏青と いふは闘う 一歩かな 大木あまり
淸明 唐 杜牧
淸明時節雨紛紛 淸明の時節 雨 紛紛(ふんぷん),
路上行人欲斷魂 路上の行人 魂を斷たんと欲(ほっ)す。
借問酒家何處有 借問(しゃもん)す 酒家 何れの處にか 有る,
牧童遙指杏花村 牧童 遙かに指さす 杏花(きょうか)の村。
〔訳〕清明の時節であるのに小雨がしきりに降っている。
その雨は路地を歩いている私の心を滅入らせる。
何処かに酒店がないものかと〔子供に〕尋ねると、
その牛飼いの少年は遠くに見える杏の花が咲き誇っている村を指差した。
※杜牧(803~852年):晩唐の詩人。字は牧之。京兆萬年(現・陝西省西安)の人。進士になった後、中書舍人となる。杜甫を「老杜」と呼び、杜牧を「小杜」ともいう。李商隠と共に味わい深い詩風で、歴史や風雅を詠ったことで有名である。
4月1日に結婚した恵理ちゃんの旦那のカズ君は一橋大学のラクロス部のOBであるという。
今年の2月に逝去した塾友マイチが病床のうちに作成した年賀状に二人の息子がラクロスに夢中になっている話が書いてあったのを思い出し、ラクロスとはいったいどんな競技であるかを調べてみた。
ラクロスの起源は17世紀に遡る。原型は、北米インディアンが戦闘用の訓練に用いていた格闘球技で、これをカナダに入植してきたフランス系移民が発見し、彼らの手でルールなどが定められ、スポーツ化したものという。「ラクロス」の語源はフランス語で、当時、インディアンが使用していた道具が、僧侶が持つ杖(Crosse)に似ていたことから「La-Crosse」と呼ぶようになったと聞く。19世紀後半にカナダの国技となり、以降、各国へと普及していったらしい。カナダ、アメリカ、オーストラリア、イギリス、日本などを中心に盛んに行なわれ、近年ドイツ、スウェーデン、中国、韓国、アルゼンチンなどにも普及し、現在14カ国が国際連盟に加盟し、世界の競技人口は約60万人にのぼっているそうだ。
アメリカのfrontier spirit(フロンティアスピリット)を考えるに、一攫千金を夢見て西へ向かった人々が競馬や闘鶏などに熱中したのも無理からぬこと。スポーツにおけるチャレンジ精神もこの辺りの行動と深くつながっているらしく、リスクを恐れず果敢に立ち向かうアメリカ人の気質がこの時代から現代まで続いているのだということが判る。塾友であり、現在コアラ体育クラブの御大であるM先生がマイチの二男D君に「アメリカにいって勉強して来なさいよ」と助言していたのももっともなことだと思う。
ラクロスという競技がアメリカ大陸で発展してきたのも、こうした背景があったに違いない。時には人々に突拍子もないと思わせる行動に駆り立つことも頷けるのである。
結婚式場内を褌姿でこの場狭しと駆け巡り、新郎をピラミッドの上に担ぎ上げた一橋大学ラクロス部OBの面々の図を思い浮かべながら、マイチの息子たち――東大ラクロス部の長男Y君と日体大ラクロス部の二男D君をインターネットで探してあてた。
今年の2月に逝去した塾友マイチが病床のうちに作成した年賀状に二人の息子がラクロスに夢中になっている話が書いてあったのを思い出し、ラクロスとはいったいどんな競技であるかを調べてみた。
ラクロスの起源は17世紀に遡る。原型は、北米インディアンが戦闘用の訓練に用いていた格闘球技で、これをカナダに入植してきたフランス系移民が発見し、彼らの手でルールなどが定められ、スポーツ化したものという。「ラクロス」の語源はフランス語で、当時、インディアンが使用していた道具が、僧侶が持つ杖(Crosse)に似ていたことから「La-Crosse」と呼ぶようになったと聞く。19世紀後半にカナダの国技となり、以降、各国へと普及していったらしい。カナダ、アメリカ、オーストラリア、イギリス、日本などを中心に盛んに行なわれ、近年ドイツ、スウェーデン、中国、韓国、アルゼンチンなどにも普及し、現在14カ国が国際連盟に加盟し、世界の競技人口は約60万人にのぼっているそうだ。
アメリカのfrontier spirit(フロンティアスピリット)を考えるに、一攫千金を夢見て西へ向かった人々が競馬や闘鶏などに熱中したのも無理からぬこと。スポーツにおけるチャレンジ精神もこの辺りの行動と深くつながっているらしく、リスクを恐れず果敢に立ち向かうアメリカ人の気質がこの時代から現代まで続いているのだということが判る。塾友であり、現在コアラ体育クラブの御大であるM先生がマイチの二男D君に「アメリカにいって勉強して来なさいよ」と助言していたのももっともなことだと思う。
ラクロスという競技がアメリカ大陸で発展してきたのも、こうした背景があったに違いない。時には人々に突拍子もないと思わせる行動に駆り立つことも頷けるのである。
結婚式場内を褌姿でこの場狭しと駆け巡り、新郎をピラミッドの上に担ぎ上げた一橋大学ラクロス部OBの面々の図を思い浮かべながら、マイチの息子たち――東大ラクロス部の長男Y君と日体大ラクロス部の二男D君をインターネットで探してあてた。
姉の形見の携帯を持つことになったが、何せマニュアルを見ることの嫌いな瘋癲爺はその使い方に慣れることに追われている。それに、4月1日は甥の娘の結婚式とついつい、昨日4月2日は母の命日であったことを忘れていたが、家の婆様が、1日に新婦の母から頂いた博多名物「通りもん」を箱から取り出し、母と姉の遺影の前に供えているのを見て思い出した。
昭和49(1974)年、爺は42歳の厄年であった。今年と同じように冬の長い年で、3月末に東京は銀世界に覆われた。母はオトンボの爺の家に前の年の暮から遊びに来ていたのだが、脳梗塞で倒れ、淺草は聖愛病院で、5人の息子・娘とその家族に見守られながら息を引き取った。今年は38回忌に当たる。浅草寺の五重塔に父と一緒に位牌を納めた。
昨年暮れに亡くなった姉は、母と下界を見下ろしながら、「お母さん、あれが私の孫、お母さんの曾孫になるのよ」と喜んでいてくれることだろう。
姉の追悼文集を作ることにして、ごく身近の人に追悼の文(ふみ)を書いてもらい、すでにゲラが出来上がった。最後の1頁が空白になっているので、姉の孫に当たる新婦の結婚式の写真を入れるべく、新婦にメールしてみた。曰く、「おばあちゃんは恵理ちゃんの結婚式をとても楽しみにしておりました。/二人の写真をおばあちゃんの追悼文集の1ページ(A5版)に入れたいと思います。/私の撮った二人の写真を貼付しておきます。他によいものがありましたら、送信してください。/この写真に天国のおばあちゃんに恵理ちゃん(またはお二人)の短いコメントを添えたいと思いますので、それもよろしくお願いします。/追悼文集の発行はおばあちゃんの誕生日の4月15日としたいので、できるだけ早くお願いします。/忙しい中無理なお願いで誠に申し訳ありません。/日高 節夫」
早速、携帯のメールに恵理ちゃんからの返事がきた。曰く、「「ブログ、夫婦で読みました! 素敵にまとめていただきありがとうございます。パソコンのメールもありがとうございます。せっかくなので、おじさんに参加してただいた鏡開きの写真を使おうと思いますので、誰かにもらいますね。(プロのカメラマンの写真は一ヶ月後にしかもらえないんです)。締め切りも了解です。―END―」
昭和49(1974)年、爺は42歳の厄年であった。今年と同じように冬の長い年で、3月末に東京は銀世界に覆われた。母はオトンボの爺の家に前の年の暮から遊びに来ていたのだが、脳梗塞で倒れ、淺草は聖愛病院で、5人の息子・娘とその家族に見守られながら息を引き取った。今年は38回忌に当たる。浅草寺の五重塔に父と一緒に位牌を納めた。
昨年暮れに亡くなった姉は、母と下界を見下ろしながら、「お母さん、あれが私の孫、お母さんの曾孫になるのよ」と喜んでいてくれることだろう。
姉の追悼文集を作ることにして、ごく身近の人に追悼の文(ふみ)を書いてもらい、すでにゲラが出来上がった。最後の1頁が空白になっているので、姉の孫に当たる新婦の結婚式の写真を入れるべく、新婦にメールしてみた。曰く、「おばあちゃんは恵理ちゃんの結婚式をとても楽しみにしておりました。/二人の写真をおばあちゃんの追悼文集の1ページ(A5版)に入れたいと思います。/私の撮った二人の写真を貼付しておきます。他によいものがありましたら、送信してください。/この写真に天国のおばあちゃんに恵理ちゃん(またはお二人)の短いコメントを添えたいと思いますので、それもよろしくお願いします。/追悼文集の発行はおばあちゃんの誕生日の4月15日としたいので、できるだけ早くお願いします。/忙しい中無理なお願いで誠に申し訳ありません。/日高 節夫」
早速、携帯のメールに恵理ちゃんからの返事がきた。曰く、「「ブログ、夫婦で読みました! 素敵にまとめていただきありがとうございます。パソコンのメールもありがとうございます。せっかくなので、おじさんに参加してただいた鏡開きの写真を使おうと思いますので、誰かにもらいますね。(プロのカメラマンの写真は一ヶ月後にしかもらえないんです)。締め切りも了解です。―END―」
昨日は三田の三井クラブで甥の娘の結婚式。
『一つ年上の女房は、金(かね)のわらじを履いてでも探せ』と言うことらしいが、交際4年、一万キロを乗越えて、スーダンにまででかけ、ナイル川の夕日の中でプローポーズしたという新郎に応えて佳き嬶(かかあ)になって欲しい。
嬉しいことに披露宴の席に新婦からの直筆のメッセージが置かれていた。
「恵理ちゃんのお祖父ちゃん・お祖母ちゃんの代わりができ、その上鏡開きまでさせていただいて、カズくん・恵理ちゃん本当にありがとう。きのうのうちに、チー姉ちゃん(叔母さんだか姉ちゃんと呼んでいるらしい)より僕の使い始めの携帯に写真を送ってたよ。携帯の使い道には慣れていないのだが、何とかパソコンに取り入れることができたので、貼り付けておきます。これからも楽しく健やかに過してください」
品川で篠山に帰る姪と、福岡に帰る甥を送って帰宅したときは午後6時に近かった。二人とも忙しい合間を縫っての結婚式であったらしい。
『一つ年上の女房は、金(かね)のわらじを履いてでも探せ』と言うことらしいが、交際4年、一万キロを乗越えて、スーダンにまででかけ、ナイル川の夕日の中でプローポーズしたという新郎に応えて佳き嬶(かかあ)になって欲しい。
嬉しいことに披露宴の席に新婦からの直筆のメッセージが置かれていた。
「恵理ちゃんのお祖父ちゃん・お祖母ちゃんの代わりができ、その上鏡開きまでさせていただいて、カズくん・恵理ちゃん本当にありがとう。きのうのうちに、チー姉ちゃん(叔母さんだか姉ちゃんと呼んでいるらしい)より僕の使い始めの携帯に写真を送ってたよ。携帯の使い道には慣れていないのだが、何とかパソコンに取り入れることができたので、貼り付けておきます。これからも楽しく健やかに過してください」
品川で篠山に帰る姪と、福岡に帰る甥を送って帰宅したときは午後6時に近かった。二人とも忙しい合間を縫っての結婚式であったらしい。
本日(4/1)の甥の娘の結婚式出席のため、篠山市在住の姪が上京。
姉(甥と姪の母親)の形見だと言うことで、一昨日(3/30)夜、携帯電話を持参してくれた。よく理解できないが、ポイントが貯まっていたからと、新しい携帯電話で、姉が使っていた電話番号をそのまま引き継いだものと言う。持参してくれた携帯の使用法を習ったが、理解できたのかどうか自分でもよく判らない。まあ、こんなもの理屈より慣れというから、持つからには使用して慣れるしかない。携帯を持っている方々に時ならぬ電話を掛け迷惑をお掛けしたと思うが、お許しあれ。
今朝のウェブニュースより
特捜部長有罪―検察の体質も裁かれた
特捜部の威信や自らの地位を守るための犯行であり、刑事司法に悪影響をもたらした――。 /大阪地検特捜部で起きた証拠改ざん事件で、当時の大坪弘道(ひろみち)部長と佐賀元明(もとあき)副部長に対し、大阪地裁は懲役1年6カ月執行猶予3年の判決を言い渡した。その際の裁判所の指摘である。/巨悪を暴くはずの特捜検察の組織ぐるみの犯罪であり、それを身内の最高検が摘発するという例を見ない不祥事だった。/ 判決によると、厚生労働省の村木厚子さんの無罪が確定した郵便不正事件で、部長らは主任検事が証拠を検察に有利なように書き換えたのを知りながら、その事実を隠していた。それが犯人隠避の罪に問われた。/証拠改ざんの疑惑が表面化する発端は、村木さんの初公判だった。問題の証拠が検察の主張と矛盾することを弁護側が指摘したのだ。/その直後に改ざん疑惑は副部長に伝わり、部長にも報告された。しかし証拠に手をつけたことを知りながら、それを解明することなく公判を続けた。/立ち止まれる機会は幾度かあった。だが、捜査と公判にかかわったほかの検事らも目をつぶってしまった。/改ざんがわかった時点で誠実に対応していれば、村木さんの無実はもっと早く証明されたはずだ。/この事件を検証した最高検が、報告書で「引き返す勇気」の大切さを説いたのは、そうした反省からだった。/一方で最高検は、部長が村木さんの摘発を強く求め、捜査に消極的な意見を嫌ったことが改ざん事件の背景にあると指摘してきた。/だが、個人の資質のせいにして済ませられる話ではない。問題は検察の体質そのものにもあったのではないか。/不都合な証拠に目をくれず、あらかじめ描いた構図に沿って捜査を進め、否認しても聴く耳をもたない。村木さんの冤罪(えんざい)を生んだ背景には、そんな捜査手法があった。/判決は量刑を述べる中で「検察組織の病弊ともいうべき特捜部の体質が生んだ犯行」と指摘して、執行猶予をつけた理由にあげた。/検察の体質そのものが裁かれたと受け止めるべきだ。大阪だけの話ではない。/最高検は再発防止策として、内部監査や決裁体制を強化し、取り調べの録音・録画の範囲拡大などを打ち出している。/そうした改革を実質の伴うものにするしか、国民の信頼を取り戻すことはできない。
本日はこれから、甥の娘の結婚式。朝10時までに三田の会場まで行かねばならない。
姉(甥と姪の母親)の形見だと言うことで、一昨日(3/30)夜、携帯電話を持参してくれた。よく理解できないが、ポイントが貯まっていたからと、新しい携帯電話で、姉が使っていた電話番号をそのまま引き継いだものと言う。持参してくれた携帯の使用法を習ったが、理解できたのかどうか自分でもよく判らない。まあ、こんなもの理屈より慣れというから、持つからには使用して慣れるしかない。携帯を持っている方々に時ならぬ電話を掛け迷惑をお掛けしたと思うが、お許しあれ。
今朝のウェブニュースより
特捜部長有罪―検察の体質も裁かれた
特捜部の威信や自らの地位を守るための犯行であり、刑事司法に悪影響をもたらした――。 /大阪地検特捜部で起きた証拠改ざん事件で、当時の大坪弘道(ひろみち)部長と佐賀元明(もとあき)副部長に対し、大阪地裁は懲役1年6カ月執行猶予3年の判決を言い渡した。その際の裁判所の指摘である。/巨悪を暴くはずの特捜検察の組織ぐるみの犯罪であり、それを身内の最高検が摘発するという例を見ない不祥事だった。/ 判決によると、厚生労働省の村木厚子さんの無罪が確定した郵便不正事件で、部長らは主任検事が証拠を検察に有利なように書き換えたのを知りながら、その事実を隠していた。それが犯人隠避の罪に問われた。/証拠改ざんの疑惑が表面化する発端は、村木さんの初公判だった。問題の証拠が検察の主張と矛盾することを弁護側が指摘したのだ。/その直後に改ざん疑惑は副部長に伝わり、部長にも報告された。しかし証拠に手をつけたことを知りながら、それを解明することなく公判を続けた。/立ち止まれる機会は幾度かあった。だが、捜査と公判にかかわったほかの検事らも目をつぶってしまった。/改ざんがわかった時点で誠実に対応していれば、村木さんの無実はもっと早く証明されたはずだ。/この事件を検証した最高検が、報告書で「引き返す勇気」の大切さを説いたのは、そうした反省からだった。/一方で最高検は、部長が村木さんの摘発を強く求め、捜査に消極的な意見を嫌ったことが改ざん事件の背景にあると指摘してきた。/だが、個人の資質のせいにして済ませられる話ではない。問題は検察の体質そのものにもあったのではないか。/不都合な証拠に目をくれず、あらかじめ描いた構図に沿って捜査を進め、否認しても聴く耳をもたない。村木さんの冤罪(えんざい)を生んだ背景には、そんな捜査手法があった。/判決は量刑を述べる中で「検察組織の病弊ともいうべき特捜部の体質が生んだ犯行」と指摘して、執行猶予をつけた理由にあげた。/検察の体質そのものが裁かれたと受け止めるべきだ。大阪だけの話ではない。/最高検は再発防止策として、内部監査や決裁体制を強化し、取り調べの録音・録画の範囲拡大などを打ち出している。/そうした改革を実質の伴うものにするしか、国民の信頼を取り戻すことはできない。
本日はこれから、甥の娘の結婚式。朝10時までに三田の会場まで行かねばならない。
先日、順番待ちの際Barber で読んだ週刊誌の記事をウェブニュースから探してみた。
大相撲 「強行突入」試みる朝青龍を5人の親方必死に止めた ―― 把瑠都の綱獲り、鶴竜の大関昇進が話題となった大阪場所での最大の注目は、昨年の八百長問題による中止で受けた大打撃からの回復を、相撲協会が角界改革を掲げる最年少理事・貴乃花親方に委ねたことだった。/その4日目、貴乃花を激怒させる「大事件」が起きていた。原因を作ったのはあの「悪童横綱」だった。若手親方が振り返る。/「この場所の敢闘賞は玉ノ井親方(元大関・栃東)かもね。あの朝青龍を“送り出し”たんだから(笑い)」/この日は、来日中のバトボルト・モンゴル首相の観戦が予定されていた。ところが、直前になって元横綱・朝青龍(ドルゴルスレン・ダグワドルジ氏)が同行することが判明。関係者は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。/「事前に来場者の名簿は提出されていたが、朝青龍が本名で登録していたためか、協会側が見落としていたようだ」(同前)/昨年11月の九州場所では、9日目に朝青龍が来場。許可なく支度部屋に闖入(ちんにゅう)して、日馬富士ら後輩モンゴル力士を激励した。八百長騒動以降、支度部屋への関係者以外の立ち入りは禁止されており、大問題になった“前科”がある。/しかもこの日は、着物女性の来場を呼びかけるという、大阪場所担当の貴乃花親方の肝煎り企画「和装デー」当日。出迎えに景子夫人も動員した目玉企画は、地元呉服店団体の賛同も得て、華々しく行なわれていた。/折角のイベントを傍若無人の問題児に台無しにされてはたまらない。貴乃花親方は、大慌てで警戒を指示。午後5時過ぎに首相一行が到着すると、周囲を5人の親方衆で取り囲んで徹底監視する態勢で臨んだのだ。/会場の大阪府立体育会館には国技館のような貴賓席がないため、一行は3階の椅子席へ。/席に着いて20分もすると、早速朝青龍が素早い出足を見せた。モンゴルの後輩、横綱・白鵬の激励のため、1人だけ席を離れて階段を下り、東の支度部屋方向へ移動を始めたのだ。/警備担当の親方が無線で連絡を入れると、玉ノ井親方は支度部屋に急行。ズンズン進む朝青龍。入り口で警備を担当する若者頭が、決死の形相で通せんぼすると、朝青龍は一瞬ムッとした表情になる。/手の早い悪童が爆発したらど突き合いになる、そう思われた次の瞬間、玉ノ井親方ら5人の親方衆が駆けつけてきた。それに気づいた朝青龍は苦笑いしながら、ニコリともせずに立ちはだかる玉ノ井親方の表情を見て、自席へ引き揚げた。しかし、来賓同行という立場でなければ、あっさり引き下がったかどうか……、一触即発の土俵下だった。/席に戻った朝青龍は何事もなかったかのように、歓声に応えて愛嬌を振りまき、結びの一番まで観戦。帰り際、報道陣に囲まれると「いやあ、朝青龍コールが起こったな。よかった、よかった」と満面の笑みを浮かべて帰っていった。/「気持ちはわかるが、お客さんは土俵そっちのけで朝青龍を追いかけていた。貴乃花親方は表情こそ変えなかったが、内心は苦々しい思いだっただろう。和装イベントの出迎えの時から、浮かない表情だったからね」(別の若手親方) (週刊ポスト2012年4月6日号)
大相撲 「強行突入」試みる朝青龍を5人の親方必死に止めた ―― 把瑠都の綱獲り、鶴竜の大関昇進が話題となった大阪場所での最大の注目は、昨年の八百長問題による中止で受けた大打撃からの回復を、相撲協会が角界改革を掲げる最年少理事・貴乃花親方に委ねたことだった。/その4日目、貴乃花を激怒させる「大事件」が起きていた。原因を作ったのはあの「悪童横綱」だった。若手親方が振り返る。/「この場所の敢闘賞は玉ノ井親方(元大関・栃東)かもね。あの朝青龍を“送り出し”たんだから(笑い)」/この日は、来日中のバトボルト・モンゴル首相の観戦が予定されていた。ところが、直前になって元横綱・朝青龍(ドルゴルスレン・ダグワドルジ氏)が同行することが判明。関係者は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。/「事前に来場者の名簿は提出されていたが、朝青龍が本名で登録していたためか、協会側が見落としていたようだ」(同前)/昨年11月の九州場所では、9日目に朝青龍が来場。許可なく支度部屋に闖入(ちんにゅう)して、日馬富士ら後輩モンゴル力士を激励した。八百長騒動以降、支度部屋への関係者以外の立ち入りは禁止されており、大問題になった“前科”がある。/しかもこの日は、着物女性の来場を呼びかけるという、大阪場所担当の貴乃花親方の肝煎り企画「和装デー」当日。出迎えに景子夫人も動員した目玉企画は、地元呉服店団体の賛同も得て、華々しく行なわれていた。/折角のイベントを傍若無人の問題児に台無しにされてはたまらない。貴乃花親方は、大慌てで警戒を指示。午後5時過ぎに首相一行が到着すると、周囲を5人の親方衆で取り囲んで徹底監視する態勢で臨んだのだ。/会場の大阪府立体育会館には国技館のような貴賓席がないため、一行は3階の椅子席へ。/席に着いて20分もすると、早速朝青龍が素早い出足を見せた。モンゴルの後輩、横綱・白鵬の激励のため、1人だけ席を離れて階段を下り、東の支度部屋方向へ移動を始めたのだ。/警備担当の親方が無線で連絡を入れると、玉ノ井親方は支度部屋に急行。ズンズン進む朝青龍。入り口で警備を担当する若者頭が、決死の形相で通せんぼすると、朝青龍は一瞬ムッとした表情になる。/手の早い悪童が爆発したらど突き合いになる、そう思われた次の瞬間、玉ノ井親方ら5人の親方衆が駆けつけてきた。それに気づいた朝青龍は苦笑いしながら、ニコリともせずに立ちはだかる玉ノ井親方の表情を見て、自席へ引き揚げた。しかし、来賓同行という立場でなければ、あっさり引き下がったかどうか……、一触即発の土俵下だった。/席に戻った朝青龍は何事もなかったかのように、歓声に応えて愛嬌を振りまき、結びの一番まで観戦。帰り際、報道陣に囲まれると「いやあ、朝青龍コールが起こったな。よかった、よかった」と満面の笑みを浮かべて帰っていった。/「気持ちはわかるが、お客さんは土俵そっちのけで朝青龍を追いかけていた。貴乃花親方は表情こそ変えなかったが、内心は苦々しい思いだっただろう。和装イベントの出迎えの時から、浮かない表情だったからね」(別の若手親方) (週刊ポスト2012年4月6日号)
昨日は朝食後言問橋西詰から隅田公園に入り、早咲きの大寒桜の咲く花川戸を通って吾妻橋西詰に出る。雷門通りを通って仲見世に入り、新仲見世通りから東武浅草駅北口前にあるbarberに行く。
いやはや、いまや隅田川を挟んで墨田区・台東区はすっかりスカイツリーに振り回されている観だ。それでなくてもせせこましい隅田公園にスカイネストやツリー見学用のベンチなんて如何なものか? 雷門のまん前には奇を衒ったとしか思えない異様な建造物が出現した。聞くところに拠るとこれもスカイツリー開業に便乗しての客集め狙いの代物だと言う。淺草の古き佳き伝統が破壊されていくように思えて仕方ない。
先だって福岡在住の甥と電話で話した時、「叔父さんのブログに英語のコメントがついていて、ベタ褒めだったですよ」と言うことだったので、調べてみると、2010年1月11日(月)のブログ「黄金漬けになった王様」についたコメントであった。随分以前のブログに付いたコメントであるが、おそらく外人の方だと思うが、どうやら日本語を英語に訳しながらご覧になっていると見える。マッコト、嬉しい限りではある。
Its Pleasure to understand sechin.blog.shinobi.jp .
The above articles is pretty extraordinary、 and I really enjoyed reading your blog and points that you expressed. I really like to appear back over a typical basis、post a lot more within the topic. Thanks for sharing…keep writing!!! appliance repair Huntington Beach URL 2012/03/18(日)
アメリカ・カリフォルニア州のハンティントビーチにあるカーティス・クレーター・アブライアンスという家電の修理を専門とする会社の方からのコメントらしい。
若かりし頃、もっと英語の勉強をしておれば、連絡の方法もあるのだろうが、何せ英語が不得手ときては、連絡が取れても話す手段(てだて)を知らぬ。誠に情けないことではある。
眠れぬ夜のために、枕元に『東坡志林』を置く。
蘇軾〔1036~1101年)は字を子瞻(しせん)といい、東坡居士と号す。眉山の人。21歳のときに父洵(じゅん)に従って弟轍(てつ)と共に上京し、翌年進士に及第して文名一時にあがったという。中年以降は王安石の新法に反対したため中央を終われて地方の知事を歴任、神宗に代わって哲宗が即位したときに一時中央に呼び戻されて翰林学士から兵部尚書、礼部尚書になったが、59歳のときに再び失脚して海南島に流される。後に赦されて帰還する途中病死、文忠と謚(おくりな)された。
『東坡志林』は宋代の大詩人蘇軾〔1036~1101年、東坡居士と号した〕の撰といわれ、この種のものでは古来もっとも有名である。しかし、その成立事情や内容性質などについては必ずしもはっきりしない点が多い。東坡は詩文・書画といわず往くところ可ならざるはなしの大才、字を書くのが大好きで、紙さえ見ればすぐに筆をとって思いつくままを書いた人であったらしい。東坡の文集には史論や政論などの堂々たる大文章が並べられ壮観を呈しているのであるが、志林は気随気儘に書き散らした作品で、東坡にじかに接するような近親感を覚えさせられる。まさに蘇軾はBloggerの始祖のようなものと言うべきや。
いやはや、いまや隅田川を挟んで墨田区・台東区はすっかりスカイツリーに振り回されている観だ。それでなくてもせせこましい隅田公園にスカイネストやツリー見学用のベンチなんて如何なものか? 雷門のまん前には奇を衒ったとしか思えない異様な建造物が出現した。聞くところに拠るとこれもスカイツリー開業に便乗しての客集め狙いの代物だと言う。淺草の古き佳き伝統が破壊されていくように思えて仕方ない。
先だって福岡在住の甥と電話で話した時、「叔父さんのブログに英語のコメントがついていて、ベタ褒めだったですよ」と言うことだったので、調べてみると、2010年1月11日(月)のブログ「黄金漬けになった王様」についたコメントであった。随分以前のブログに付いたコメントであるが、おそらく外人の方だと思うが、どうやら日本語を英語に訳しながらご覧になっていると見える。マッコト、嬉しい限りではある。
Its Pleasure to understand sechin.blog.shinobi.jp .
The above articles is pretty extraordinary、 and I really enjoyed reading your blog and points that you expressed. I really like to appear back over a typical basis、post a lot more within the topic. Thanks for sharing…keep writing!!! appliance repair Huntington Beach URL 2012/03/18(日)
アメリカ・カリフォルニア州のハンティントビーチにあるカーティス・クレーター・アブライアンスという家電の修理を専門とする会社の方からのコメントらしい。
若かりし頃、もっと英語の勉強をしておれば、連絡の方法もあるのだろうが、何せ英語が不得手ときては、連絡が取れても話す手段(てだて)を知らぬ。誠に情けないことではある。
眠れぬ夜のために、枕元に『東坡志林』を置く。
蘇軾〔1036~1101年)は字を子瞻(しせん)といい、東坡居士と号す。眉山の人。21歳のときに父洵(じゅん)に従って弟轍(てつ)と共に上京し、翌年進士に及第して文名一時にあがったという。中年以降は王安石の新法に反対したため中央を終われて地方の知事を歴任、神宗に代わって哲宗が即位したときに一時中央に呼び戻されて翰林学士から兵部尚書、礼部尚書になったが、59歳のときに再び失脚して海南島に流される。後に赦されて帰還する途中病死、文忠と謚(おくりな)された。
『東坡志林』は宋代の大詩人蘇軾〔1036~1101年、東坡居士と号した〕の撰といわれ、この種のものでは古来もっとも有名である。しかし、その成立事情や内容性質などについては必ずしもはっきりしない点が多い。東坡は詩文・書画といわず往くところ可ならざるはなしの大才、字を書くのが大好きで、紙さえ見ればすぐに筆をとって思いつくままを書いた人であったらしい。東坡の文集には史論や政論などの堂々たる大文章が並べられ壮観を呈しているのであるが、志林は気随気儘に書き散らした作品で、東坡にじかに接するような近親感を覚えさせられる。まさに蘇軾はBloggerの始祖のようなものと言うべきや。
マイチの四十九日忌の志が届いた。カタログ帖になっていて、そのなかから品物を選ぶようになっているのだが、いつまでもマイチを偲ぶことができるようにと、イギリス製のペアマグカップを選んだ。
仏(ぶつ)に関する志には「礼状」を出すものではないと言うことだが、ついつい奥さんにメールしてしまった。曰く、「その後、ご無沙汰していますが、いかがお過しですか。/本日は四十九日忌のお志を戴きいたみいります。/さっそく、ぺアのマグカップ(写真貼付)を申し込みました。/毎日大切に使用し、Y君を偲ぶことが出来ればと、またY君の所縁(ゆえん)の方が見えたときには、これでお茶なり、コーヒーなりを飲みながら、思い出話に花を添えようかとも思います。/お彼岸の中(うち)に満中陰を迎え、祐二君は無事彼岸に達したことだと思います。Y君の永眠の場所は決まりましたか。何かの時にはお参りしたいものと思っています。よろしければお教え下さい。/私事になりますが、私の3月22日のブログでY君に触れてみました。宜しければ、ご覧下さい。下のURLをクリックしてカレンダーの日付をクリックすれば、ご覧になれます。/日高節夫」
本日マイチの奥さんからメールがはいた。曰く、
「日高先生 メールありがとうございました。
携帯にメール頂いておりますが、
携帯からの返信では文字化けしたように思い、PCから返信いたします。
主人を偲んでカップをお選んでいただいたとのお話し、うれしいかぎりです。
いつも『先生の最後は自分が看取る』と口癖だったのに、その本人が先に逝ってしまうなんて、本当に困ってしまいます…
主人のお墓の件ですが、なんと浅草田原町、それも仁丹塔のところの墓地になりました。兄曰く、浅草近辺には墓地の宣伝のチラシが入っていとのことです。
仏壇並みの小ささですが、
『浅草の商売人の家はみんな小さかったんだから、小さいのには慣れているよ。大丈夫。大丈夫。』という兄の言葉に後押しされ、決めました。
お寺の名前は浄土宗S寺です。
田原町駅から雷門に向かって、MDの少し手前に「M」という喫茶店があるんですが、そこを入ったところです。
四十九日の法要からお世話になりましたが、墓石は5月中に出来上がる予定です。
Yさんにとってはこれ以上のところはない! とご縁を感じつつ、家族親族ともにとても喜んでいます。
いや、Yさんが一番喜んでいることと思いますが。
納骨が済みましたら、ご連絡いたします。ついでの際は、ぜひ、会いに行ってやってください。
では、おやすみなさい。 KM 」
仏(ぶつ)に関する志には「礼状」を出すものではないと言うことだが、ついつい奥さんにメールしてしまった。曰く、「その後、ご無沙汰していますが、いかがお過しですか。/本日は四十九日忌のお志を戴きいたみいります。/さっそく、ぺアのマグカップ(写真貼付)を申し込みました。/毎日大切に使用し、Y君を偲ぶことが出来ればと、またY君の所縁(ゆえん)の方が見えたときには、これでお茶なり、コーヒーなりを飲みながら、思い出話に花を添えようかとも思います。/お彼岸の中(うち)に満中陰を迎え、祐二君は無事彼岸に達したことだと思います。Y君の永眠の場所は決まりましたか。何かの時にはお参りしたいものと思っています。よろしければお教え下さい。/私事になりますが、私の3月22日のブログでY君に触れてみました。宜しければ、ご覧下さい。下のURLをクリックしてカレンダーの日付をクリックすれば、ご覧になれます。/日高節夫」
本日マイチの奥さんからメールがはいた。曰く、
「日高先生 メールありがとうございました。
携帯にメール頂いておりますが、
携帯からの返信では文字化けしたように思い、PCから返信いたします。
主人を偲んでカップをお選んでいただいたとのお話し、うれしいかぎりです。
いつも『先生の最後は自分が看取る』と口癖だったのに、その本人が先に逝ってしまうなんて、本当に困ってしまいます…
主人のお墓の件ですが、なんと浅草田原町、それも仁丹塔のところの墓地になりました。兄曰く、浅草近辺には墓地の宣伝のチラシが入っていとのことです。
仏壇並みの小ささですが、
『浅草の商売人の家はみんな小さかったんだから、小さいのには慣れているよ。大丈夫。大丈夫。』という兄の言葉に後押しされ、決めました。
お寺の名前は浄土宗S寺です。
田原町駅から雷門に向かって、MDの少し手前に「M」という喫茶店があるんですが、そこを入ったところです。
四十九日の法要からお世話になりましたが、墓石は5月中に出来上がる予定です。
Yさんにとってはこれ以上のところはない! とご縁を感じつつ、家族親族ともにとても喜んでいます。
いや、Yさんが一番喜んでいることと思いますが。
納骨が済みましたら、ご連絡いたします。ついでの際は、ぜひ、会いに行ってやってください。
では、おやすみなさい。 KM 」
早速、KMさんの パソコンのメールアドレスを爺のパソコンに搭載することにした。
久し振りに足を引きずりながら言問橋~桜橋間を川沿いに歩いてみた。
いやはや、東武の業平橋駅が「とうきょうスカイツリー」駅になるし、大相撲の夏場所(5月場所)ではスカイツリー開業に合わせてその高さ634mにあやかって639円の席を設けると言う。ここのところスカイツリー便乗があまりにも多く、煩わしささえ感じているのだが、言問橋の西詰下になにやら工事をしている。なんでも、ここにスカイネストなんていう建造物ができるらしい。工事の防禦壁にある説明板によると三日月形の鳥かごで中には大小さまざまな鳥が置かれると言う。説明板を読んでいると、耳元で工事現場の警備員の小父さんが「おえらい芸術家さんは何をしでかすのか理解できませんわ」とぼやいていた。言問橋の燈柱の上ではカラスが工事を見下ろしながら「カア、カア」と笑っていた。
いやはや、東武の業平橋駅が「とうきょうスカイツリー」駅になるし、大相撲の夏場所(5月場所)ではスカイツリー開業に合わせてその高さ634mにあやかって639円の席を設けると言う。ここのところスカイツリー便乗があまりにも多く、煩わしささえ感じているのだが、言問橋の西詰下になにやら工事をしている。なんでも、ここにスカイネストなんていう建造物ができるらしい。工事の防禦壁にある説明板によると三日月形の鳥かごで中には大小さまざまな鳥が置かれると言う。説明板を読んでいると、耳元で工事現場の警備員の小父さんが「おえらい芸術家さんは何をしでかすのか理解できませんわ」とぼやいていた。言問橋の燈柱の上ではカラスが工事を見下ろしながら「カア、カア」と笑っていた。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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