瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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70358bc0.jpeg 寒い、寒いでズルを決め込んで、家に篭りっきりで朝の徘徊をやめていたが、足が随分弱ったらしく、500mも歩くと、膝ががくがく、脹脛はずきずきどうしようもない。まあ、毎日少しずつ歩いて徐々に慣らして回復させるより仕方あるまい。桜橋下の水上バス乗り場からテラス沿いに休み休み、吾妻橋下の水上バス乗り場まで歩いて、今度はテラス上の遊歩道を歩いては休み、休んでは歩きして、何とか帰宅した。
 ソメイヨシノはすっかり葉桜となったが、遅咲きの里ざくらが綺麗である。雑草にまじってタンポポが今を盛りと咲いている。言問橋下のスカイネストはすっかりできあがっていて、脇には展示板まで立ててある。
 
東坡志林 巻一 黎檬子
 吾故人黎錞、字希聲、治《春秋》有家法、歐陽文忠公喜之。然為人質木遲緩、劉貢父戲之為「黎檬子」、以謂指其德、不知果木中真有是也。一日聯騎出、聞市人有唱是果鬻之者、大笑、幾落馬。今吾謫海南、所居有此、霜實累累、然二君皆入鬼錄。坐念故友之風味、豈復可見! 劉固不泯於世者、黎亦能文守道不苟隨者也。
5d1e5451.jpeg〔訳〕《黎檬子》私の旧友黎錞〔れいじゅん、生卒年不祥〕は、字は希声(きせい)といい、『家学』を受けて「春秋」に詳しく、欧陽文公のお気に入りであった。しかし質朴(じみ)で動作の鈍い人だったので、劉貢父〔りゅうこうほ、1023~1089年〕はたわむれにかれに『黎檬子(のろま)』という仇名を奉った。これは彼の性質を指してつけたもので、果物の中に黎檬子(レモン)というのがあるとは全然知らなかったのである。ところがある日、馬を連ねて外出した所、商人が大きな声でこの果物を呼びたててうっていたので、大笑いしてすんでに馬から落ちそうになったものである。
 今私が流されて住んでいるこの海南島にもこれがあって、霜ふりの実がゴロゴロしている。二君はいずれもすでに鬼籍に入り、そぞろに旧友の風味を想い起すのだが、もはやふたたび相見ることもできぬ。劉君がこの世から忘れられぬは無論であるが、黎君とても文を能くし道を守って、決して凡々の人ではなかったのである。
 
 東坡志林 巻一 憶王子立
 僕在徐州、王子立、子敏皆館於官舍、而蜀人張師厚來過、二王方年少、吹洞簫飲酒杏花下。明年、餘謫黃州、對月獨飲、嘗有詩云:「去年花落在徐州、對月酣歌美清夜。今日黃州見花發、小院閉門風露下。」蓋憶與二王飲時也。張師厚久已死、今年子立復為古人、哀哉!
 
96198c2d.jpeg〔訳〕《王子立を憶う》私が徐州にいたとき、王子立(おうしりゅう)・子敏(しびん)がいずれも官舎に下宿していた。そこへ蜀の人張師厚(ちょうしこう)が訪ねてきたので、まだ若かった王氏兄弟は洞簫〔どうしょう、尺八のようなもの〕を吹き、杏の花の下で酒を飲んだのだった。その翌年、私は黄州に流され、月に向かって独り飲み、こんな詩をつくった。
  去年 花落ちて徐州にあり
  月に対して酣歌し清夜を美(よみ)す
  今日黄州に花の発(ひら)くを見る
  小院 門を閉す 風露の下
 これらは王兄弟と飲んだ時のことを思い出して作ったのである。
 
※徐州は今の江蘇省銅山県、蘇軾は煕寧10(1077)年、徐州の知事となって来任し、元豊2(1079)年まで在任、翌3年、黄州に流された。
 
62ada4a4.jpeg月夜(げつや)客と杏花(きょうか)の下(もと)に飲む   <蘇東坡(そとうは)>
杏花簾(れん)に飛んで 餘春(よしゅん)を散(さん)ず
明月(めいげつ)戸(こ)に入りて 幽人(ゆうじん)を尋(たず)ぬ
衣(い)を褰(かか)げ月に歩(ほ)して 花影(かえい)を踏(ふ)めば
炯(けい)として流水の 青蘋(せいひん)を涵(ひた)すが如し
花閒(かかん)に酒を置けば 清香(せいこう)發(はつ)し
爭(いか)でか長條(ちょうじょう)を挽(ひ)きて 香雪(こうせつ)を落とさん
山城(さんじょう)酒薄く 飲むに堪(た)えざらん
君に勸(すす)む且(しばら)く吸(す)え 杯中(はいちゅう)の月
洞簫(どうしょう)聲(こえ)は斷(た)ゆ月明の中(うち)
惟(た)だ憂(うれ)う月落ちて 酒杯の空(むな)しからんを
明朝(みょうちょう)地を捲(ま)いて 春風(しゅんぷう)惡(あ)しくば
但(ただ)だ見(み)ん綠葉(りょくよう)の 殘紅(ざんこう)を棲(す)ましむるを
〔訳〕すだれにはらはらとふりかかる杏の花びらに、のこりの春の散らされてゆく今宵――
戸口からさしこむ明月が、世をわびて住まう主の客人(まろうど)となった。
庭に歩み出た私は、思わず衣のすそをかかげて、地上にちらついている花影の中に踏みこんだ。
その影はあまりにくっきりと鮮かで、青い浮草が、
流水のひたひたとよせる波にもてあそばれているさま、さながらであったからである。
   杏の樹の花かげに酒を汲めば、酒から清らかな香りが漂ってくる。
なにも杏の樹の長い枝を手でたわめて、香りたかい雪のような花弁を杯中に落すことはない。
それにしても山あいのまちの酒はうすくてお口にあうまいから、
君にはまあ杯中の月を飲んでいただこう。
   (洞簫を吹いていた兄弟も杯をとった)洞簫の音がぴたっとやんだ。
あとに残るのは、しらじらとさえわたる月光ばかり。
そうだ、いずれ月も落ち酒杯も傾けつくすときがくる。
その時味わわねばならぬ空しさが今から気がかりだ。
明朝、春につきもののいとわしい強風が、砂塵をまきあげて吹きまくるなら、
この杏の樹ももう、散り残った紅の花が、いきおいのよい緑の葉の中に、
遠慮ぎみにすみかを与えられているにすぎないであろう。
 
※この詩は、作者が元豊(げんぽう)2(1079)年の春、徐州にいた時の作で、蘇東坡の官舎に寄寓していた王子立(おうしりつ)・王子敏(おうしびん)の兄弟と、蜀から来た客の張師厚(ちょうしこう)の3人とともに、春の夜、花間で酒盛りをしたことを歌ったものであるという。
 東坡志林 巻一 儋耳夜書
 己卯上元、餘在儋耳、有老書生數人來過、曰:「良月佳夜、先生能一出乎?」予欣然從之。步城西、入僧舍、歷小巷、民夷雜揉、屠酤紛然、歸舍已三鼓矣。舍中掩關熟寢、已再鼾矣。放杖而笑、孰為得失?問先生何笑;蓋自笑也、然亦笑韓退之釣魚無得、更欲遠去。不知釣者、未必得大魚也。
60e41de9.jpeg 〔訳〕《儋耳(たんじ)の夜》己卯の年〔元符二(1098)年〕の上元節の日〔正月十五日〕に私は儋耳〔たんじ、海南省海口市(海南島北西部)、蘇軾はこの流謫地に前後3年いた〕にいた。老書生が数人私のもとにやって来て、
「いい月夜です。先生、ちょっと散歩にいらっしゃいませんか」という。私は喜んでついて行った。
 ぶらぶら城西を歩き、僧舎に入り、狭い横道を通った。漢人と蛮人が雑居し、肉屋やら酒店やらがごたごたに並んでいた。宿に帰ったのはもう三鼓〔十二時〕過ぎていた。宿の人々は水門を締めて、もう高鼾で寝ていた。私は杖をおいて笑った。どっちが得だか損だかと思ったからである。
「先生、何をお笑いですか」と聞かれたが、つまり自分で自分を笑ったのである。しかしまた韓退之の
「魚を釣りにいって連れなければ、もっと遠方まで行くがよい」という意味の詩をを笑ったものでもあった。というのが、いくら遠方まで出かけたところで、必ずしも大きな魚が釣れるとは限らないからである。
 
※韓愈の『贈侯喜』という詩の最後の部分に「君欲釣魚須遠去、大魚豈肯居沮洳〔君魚を釣らんと欲せばすべからく遠く去るべし、大魚豈肯えて沮洳〔そじょ、泥沼〕に居らんや〕」とある。
 
  春夜  宋 蘇軾
春宵一刻値千金、 春宵(しゅんせう)一刻 値(あたひ)千金、
花有淸香月有陰。 花に淸香有り 月に陰(かげ)有り。
歌管樓臺聲細細、 歌管(かくゎん)樓臺(ろうだい)
                   聲(こゑ)細細(さいさい)、
鞦韆院落夜沈沈。 鞦韆(しうせん)院落(ゐんらく)
                   夜(よる)沈沈(ちんちん)。
8e284cee.jpeg〔訳〕春の夜はほんのわずかな時間が
     千金もの値打ちある、
   花には清らかな香りがただよっており、
     月はおぼろにかすみ、
         なんともいえぬ風情である。
   先ほどまで歌を歌ったり、楽器を奏したりして、
     にぎやかだった高殿も、
              今はかすかに聞こえるばかり、
   中庭には、置き捨てられたぶらんこが一つ。
     夜は静かにふけていく。
 
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 昨日15日の日曜日、新婚のkazu・eri夫妻が淺草を訪ねてくれた。午前10時に雷門で待ち合わせと決まった。足のほうはまだ快(よ)くなってはいない。家から、裏道を通って、二天門を潜り五重塔前まで来るとどうにも歩けなくなり、婆様だけを、雷門まで二人を迎えに遣(や)らす。爺は五重塔の前で待つことにして、婆様が本堂を案内する。まだ午前10時過ぎだというのに、境内は人ごみでごった返している。今日は五重塔の参詣日であるから、昨年暮れ亡くなったeriちゃんの祖母様の両親(この爺の両親でもあるが)の位牌にお参りする。塔内を一巡して、影向堂(ようごどう)にお参りする。Kazu君がハーバード大学の大学院に入学するため、これから2年間、アメリカはボストンで生活する二人の無事を祈って、二人の干支(えと)である、戌年の守り本尊阿弥陀如来と酉年の守り本尊不動明王のお守りを買って、持って貰うことにした。昼飯後、隅田公園を川沿いに家までとも思ったのであるが、どうにもこの爺の足と腰が思うようにならないので、松屋前から北めぐりんに乗って、帰宅した。家でアルバムを見たり、eriちゃんのお祖母ちゃん(この爺のアネサマ)の話をしたりした後、二人は爺の家を辞して帰って行った。
 
 二人が帰って、しばらくすると塾友のsekiちゃんから電話があり、訪ねてくれた。彼は来月5月からタイに赴任することになり、しばし日本をあとにするということで、その挨拶に来た。彼の勤務先の会社のタイの工場がこのたびのタイの大洪水のため水没し、その復旧の使命でタイに出向することになったという。4・5年はタイで勤務することになるので「ご挨拶」にということであった。
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9fab691b.jpeg 彼は、塾友たちと釣愛塾(KAJ fishing club――略称TAJ)と称する釣りの同好会を作り、休日には古巣の仁科辺りまで釣りに出かけるらしい。今度みんなで作ったTシャツだといって、そのシャツを着て、爺婆の分だと言って新品二着を持参してくれた。
 
 いやはや、爺の若い頃に比べれば、世界は狭くなったものだ。若者達よ、人生は一度だけ、失敗を怖れず思う存分羽ばたくがいい。さすれば、前途は開けて行くものだ。
 
東坡志林 巻一 記遊松風亭
 餘嘗寓居惠州嘉祐寺、縱步松風亭下、足力疲乏、思欲就林止息。望亭宇尚在木末、意謂是如何得到?良久忽曰:「此間有甚麼歇不得處!」由是如掛鉤之魚、忽得解脫。若人悟此、雖兵陣相接、皷聲如雷霆、進則死敵、退則死法、當甚麼時也不妨熟歇。
c6de2f95.jpeg〔訳〕《松風亭に遊ぶ》かつて恵州〔広東省恵陽県〕の嘉祐寺に寓居していた時のこと、足に任せて松風亭の下まで行ったが、足が疲れたので、林の所で休息し、亭がまだはるか木梢(こずえ)の辺りにあるのを仰ぎ見て、とてもあそこまでは行けそうにないと思った。しかし暫くしてふと又思った。
「ここにだって何も休める場所がないわけではない」
 そう思うと、あたかも釣り糸にかかって魚が、急にするりと逃げ出せたような気持ちであった。もし人がこのことを悟ったならば、たとえ兵陣相接し、鼓声雷のごとく、進めば敵に殺されるし、退けば死刑に処せられるという、切羽づまった場合でも、何時だってゆっくり休息できるはずである。
 
※紹聖元(1094)年、蘇軾は新法に反対したため、十月にこの地に流され、嘉祐寺に住んでいたという。
 
4ff8ce3a.jpeg 李白に「廬山の瀑布を望む」と題する詩が二首ある。一首は五言の長詩であり、一首は七言絶句である。
 廬山は、江西省九江の南にあり、陶淵明がその麓に居をかまえていたことでも知られる。標高はほぼ富士山の半ばに達し、いくつもの峰をつらねるが、中でもよく知られるのは『枕草子』にも見える香炉峰、また最もけわしいのは五老峰であるといわれる。
 
  望廬山瀑布 其一 李白
 西登香爐峰  西のかた香炉峰に登り
 南見瀑布水  南のかた瀑布の水を見る
 挂流三百丈  流れを挂(か)く 三百丈
 噴壑數十里  壑(たに)を噴く 数十里
 歘如飛電來  歘(くつ)として飛電の来るが如く
 隠若白虹起  隠として白虹(はっこう)の起つが若し
 初驚河漢落  初めは驚く 河漢落ちて
 半灑雲天裏  半ば雲天の裏に灑(そそ)ぐかと
 仰觀勢轉雄  仰ぎ観れば 勢い転(うた)た雄なり
 壯哉造化功  壮(さかん)なる哉 造化の功
 海風吹不斷  海風 吹いて断えず
 江月照還空  江月 照らして空を還(めぐ)る
 空中亂潨射  空中 乱れて潨射(そうせき)し
 左右洗靑壁  左右 青壁を洗う
 飛珠散輕霞  飛珠 軽霞を散じ
 流沫沸穹石  流沫 穹石(きゅうせき)に沸く
 而我樂名山  而して我 名山を楽しみ
 對之心益閑  之に対して 心益(ますます)閑かなり
 無論漱瓊液  論ずる無かれ 瓊液を漱ぐを
 還得洗塵顔  還(ま)た得たり 塵顔を洗うことを
 且諧宿所好  且つ諧(かの)う 宿(もとよ)り好む所
 永願辭人間  永く願う 人間(じんかん)を辞するを
 
137b145f.jpeg〔訳〕西のかた 香炉峰に登ると
   南に瀧の落ちるのが見える
   岸壁にかかる高さは三百丈
   谷間のしぶきは数十里にわたる
   稲妻のように落ちるかと思えば
   朦朧として白い虹が立つようだ
   はじめは 銀河が落ちるかと驚き
   もしくは 雲海から注ぐかと息をのむ
 
   仰ぎ見れば 勢いはますます強く
   大自然の壮大な力に圧倒される
   湖うみからの風にも吹きちぎられることはなく
   江上の月の光はなすところなく照っている
   水は乱れて 空中でぶつかり合い
   苔むすあたりの岩肌を洗う
   飛び散る水は 軽やかな霞となって広がり
   流れる飛沫は 岩にあたって舞いあがる
 
   かくて私は 名山に遊び
   山と向かい合って心はますますのどかである
   清らかな水で 口を漱ぐのは当然のこと
   俗塵にまみれた顔を洗うこともできるのだ
   かてて加えて かねてからの私の好みに合っている
   俗世から辞することが永い間の願いであるからだ
 
望廬山瀑布 其二 李白
日照香炉生紫烟  日は香炉を照して紫烟を生じ
遥看瀑布挂長川  遥かに看る瀑布の長川に挂かるを
飛流直下三千尺  飛流 直下 三千尺
疑是銀河落九天  疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるかと
 
〔訳〕日が香炉峰を照らし、山が紫色に煙っている、
   はるか彼方には滝が長い川のようにかかっているのが見える、
   その滝のまっすぐに流れ落ちる長さは三千尺、
   まるで銀河が天から落ちてきたかのようだ
 東坡志林 巻一 記遊盧山
 僕初入廬山、山谷奇秀、平生所未見、殆應接不暇、遂發意不欲作詩。已而見山中僧俗、皆云:「蘇子瞻來矣!」不覺作一絕云:「芒鞵青竹杖、自掛百錢遊。可怪深山裏、人人識故侯。」既自哂前言之謬、又復作兩絕云:「青山若無素、偃蹇不相親。要識廬山面、他年是故人。」又云:「自昔憶清賞、初遊杳靄間。如今不是夢、真箇是廬山。」是日有以陳令舉《廬山記》見寄者、且行且讀、見其中雲徐凝、李白之詩、不覺失笑。旋入開先寺、主僧求詩、因作一絕云:「帝遣銀河一派垂、古來惟有謫仙辭。飛流濺沫知多少、不與徐凝洗惡詩。」往來山南地十餘日、以為勝絕不可勝談、擇其尤者、莫如漱玉亭、三峽橋、故作此二詩。最後與摠老同遊西林、又作一絕云:「橫看成嶺側成峰、到處看山了不同。不識廬山真面目、只緣身在此山中。」僕廬山詩盡於此矣。
 
50b76bb0.jpeg〔訳〕《廬山に遊ぶ》私は初めて廬山に入るや、その山や谷のこれまでかつて見たこともなかった奇秀さ、ほとんど応接に暇なき勝景を見て、ついに発心してもう詩は作るまいと思った。ところが山中の僧侶も俗人も争って「蘇子瞻来る」といって迎えたので、つい絶句を一首作った。

  芒鞵(ぼうあい)青竹の杖
  自ら百銭を挂(か)けて遊ぶ
  怪しむ可し深山の裏(うち)
  人々 故侯(ここう)を識(し)る
 やがて前の宣言の謬(あやま)りを知り、自分でもおかしくなって、またしても絶句を二首作った。
  青山 素(なじみ)無きが若(ごと)く
  偃蹇〔えんけん、高く傲(おご)る〕として 相親しまず
  識(し)らんと要(ほっ)す廬山の面
  他年(むかし)は是れ故人。
 また、
  昔より清賞を憶い
  初めて遊ぶ杳靄〔ようあい、深い靄〕の間
  如今(いま)こそ是れ夢ならず
  真箇(まこと)に是れ廬山
 この日、陳令挙の『廬山記』をくれた人があったので、歩きながら読んだところ、その中に徐凝〔じょぎょう、生没年不詳、中唐・元和(げんな)年間の詩人〕と李白の詩を引いてあったのを見て思わず失笑した。それから開元寺に入ると、主僧が詩を求めたので、絶句を一首作った。
  帝〔天帝〕銀河一派を遣わして垂れしむ
  古来ただ謫仙〔たくせん、李白〕の辞あるのみ
  飛流濺沫(ひりゅうせんまつ) 多少(いくばく)なるを知らざるも
  徐凝のために悪詩を洗わず
 山の南北を往来すること十余日、絶景は一々挙げられないが、中でも特にすぐれたものを択べば、漱玉亭、三峡橋に及ぶものはないと思う。それでそれをよんだ詩を二首作った。最後に総老〔常総、当時廬山東林寺の住持であった名僧〕と一緒に西林寺に遊び、また絶句を一首作った。
  横より看れば嶺(やまなみ)をなし側よりすれば峯を成す
  到る処 山を看しが了(つい)に同じからず
  廬山の真面目を識らざるは
  ただ身の此の山中にあるに縁(よ)る
 私の廬山の詩はこれに尽きている。
 
※「自掛百錢遊〔自ら百銭を挂けて遊ぶ〕」とは、晋の阮修〔生没年不詳、竹林の七賢・阮籍の甥という〕は外に出るときはいつも杖に百銭を釣り下げて、酒店が見えるごとに入って呑んだことに拠る。また「故侯人人識故侯〔人々 故侯を識る〕とは秦の召平〔生没年不詳〕東陵侯であったが、秦が亡びると晁安城の東で瓜を作って暮らしたということに拠る。
※陳令挙〔生没年不詳、舜兪〕は湖州の人で、王安石の新法に反対して廃官となった。蘇軾は杭州にいるときに訪れたことがあり、陳が死んだ時は哀悼の文も作っている。
 
c927dea7.jpeg※徐凝と李白は二人とも廬山の瀑布の詩を作っている。李白の詩は有名な「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天〔飛流直下三千尺、疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと〕」であり、中唐詩人徐凝の詩は「千古長如白練飛、一條界破青山色〔千古長きこと白練(しろぎぬ)の飛ぶが如く、一条界破す青山の色〕というもので、唐の詩人徐凝は、廬山曝布の李白に和して作った詩で蘇軾に笑われたのである。
 
 東坡志林 巻一 遊沙湖
 黃州東南三十里為沙湖、亦曰螺師店、予買田其間。因往相田得疾、聞麻橋人龐安常善醫而聾、遂往求療。安常雖聾、而穎悟絕人、以紙畫字、書不數字、輒深了人意。餘戲之曰:「餘以手為口、君以眼為耳、皆一時異人也。」疾愈、與之同遊清泉寺。寺在蘄水郭門外二里許、有王逸少洗筆泉、水極甘、下臨蘭溪、溪水西流。餘作歌云:「山下蘭芽短浸溪、鬆間沙路淨無泥、蕭蕭暮雨子規啼。誰道人生無再少? 君看流水尚能西、休將白髮唱黃雞。」是日劇飲而歸。
 
40cb9a81.jpeg〔訳〕《沙湖に遊ぶ》黄州の東南三十里に沙湖というところがある。螺師店(らしてん)ともいう。私はその地に田を買い、その田を見に行って病気にかかった。麻橋に龐安常(ほうあんじょう)という人がいて、聾(つんぼ)だか上手な医者だと聞いたので、治療を求めていった。常安は聾だけれども非常に頭がよくて、紙に字を書いて、幾字も書かぬ内にすぐ人の言おうとすることを察するのであった。私はふざけて言った。
「私は手を口とするし、君は目を耳とする。どちらも変わった人間だね」
 病気が治ると、彼と一緒に清泉寺に遊んだ。その寺は蘄水県〔きすいけん、今の湖北省キ(氵+希)水県。黄州の東百里たらずのところにある〕の郭門外二里ほどのところにあり、王逸少〔303~361年、晋の書家王羲之〕の洗筆泉(せんひつせん)がある。水は極めて甘い。下は蘭渓に臨み、その水は西に流れている。私は次のような詩を作った。
  山下 蘭芽短く 渓に浸(ひた)り
  松間の沙路 淨(きよ)くして泥無し
  蕭々(しょうしょう)たる暮雨 子規啼く
  誰か道う 人生再び少(わか)きこと無しと
  君看(み)よ 流水なお能く西す
  白髪を将(もっ)て黄雞を唱うこと休れ
 この日は大いに飲んで帰った。
 
※漢の『楽府詩集』の「長歌行」に「百川東到海、何時復西歸。少壯不努力、老大徒傷悲。〔すべての川の東して海に注げば、再び西に帰ることはなし、若い時代(とき)に励んでおかねば、歳とって悲しみをかこつことになろう〕」とあるに拠り、しかし、この蘭渓の水は西に流れているではないかという意であり、さらになにも白髪頭になったからといって嘆くことは無いといっているのである。
 
 東坡志林 巻三 參寥求醫
 龐安常為醫、不志於利、得善書古畫、喜輒不自勝。九江胡道士、頗得其術、與予用藥、無以酬之、為作行草數紙而已、且告之曰、「此安常故事、不可廢也。」參寥子病、求醫於胡、自度無錢、且不善書畫、求予甚急。予戲之曰、「子粲(三祖僧璨大師)、可(無可)、皎(皎然)、徹(靈徹)之徒、何不下轉語作兩首詩乎?龐、胡二君與吾輩遊、不日索我於枯魚之肆矣。」
 
〔訳〕《參寥子が医者を求める》龐安は常に医療を施すにあたり、その志は利益を得ることには無く、善い書画を手に得たいと望み、(逸品に出会うと)喜んで欲しいとおもう気持ちを抑えられなかった。九江湖の道士は其の術に大変優れていて、私に用いる藥を与えてくれ、その報酬を求めず、(報酬の代わりに)数枚の紙に行草の書を書かせたのみだった。そうしてこう告げた「この龐安にとっては、いつもしてきたことです、やめられません。」參寥子が病気になり、医者を胡に求めたが、どうやっても金錢が無く、また書画も自分ではうまく書けずに、たいへん急いで私に(書いてくれと)求めてきた。私は戲れてこう言った「子粲よ、明晰で、すべてに堪能なお方よ、どうして言葉を操って詩文を作ってあげないのかい?」龐、胡の二人と吾輩は、遊んで意地悪をした。彼は莊子のように「(今水をくれないのなら)魚の乾物屋の店で私をお探しください」とは言わなかった。
 
※參寥子〔さんりょうし、生没年不詳〕:釈道潜(しゃくどうせん)は、北宋後期の著名な詩僧。生没年不詳。おおよそ宋の神宗・哲宗・徽宗の時代に生きていた。本名は曇潜、参寥子は号、俗姓は何。於潜(浙江省臨安の西)の人。蘇軾、秦観らと唱和の詩がある。詩風は清新、風雅で、成就は大変高い。
 
臨平道中  釈道潜 (北宋)
風蒲猟猟弄軽柔  蒲を風(ふ)くこと猟猟として 軽柔を弄(もてあそ)び
欲立蜻蜓不自由  立たんと欲する蜻蜓(せいてい) 自由ならず
五月臨平山下路  五月 臨平山下の路(みち)
藕花無数満汀洲  藕花 無数 汀洲に満つ
 
63c01d15.jpeg〔訳〕 《臨平山の道中にて》
   風に吹かれている蒲は、
       さらさらと軽く柔らかな葉をそよがせている。
   トンボが葉にとまろうとしているが、
       揺れているので思うように行かない。
   真夏、五月の臨平山のふもとの道では、
   ハスの花が数知れず、水際一面に咲いている。
 東坡志林 巻一より 記承天夜遊
 元豐六年十月十二日、夜、解衣欲睡;月色入戶、欣然起行。念無與為樂者、遂至承天寺、尋張懷民。懷民亦未寢、  相與步於中庭。庭下如積水空明、水中藻荇交橫、蓋竹柏影也。何夜無月? 何處無竹柏? 但少閑人如吾兩人耳!
 
〔読み下し文〕 元豊六年十月十二日、夜、衣を解きて睡(ねむ)らんと欲す。月色、戸に入る。欣然として起ちて行く。念(おも)うに、与(とも)に楽しむ者なし。遂に承天寺に至り、張懐民を尋ぬ。懐民も亦(ま)た未(いま)だ寝(い)ねず、相(あ)い与に中庭を歩く。庭下、積水の空明あり、水中の藻荇、交(こも)ごも横たわるが如きは、蓋(けだ)し竹柏の影ならん。何れの夜か月無からん。何れの処か竹柏無からん。但(た)だ閑人の吾が両人の如きもの少なきのみ
 
〔訳〕 《承天寺の夜遊び》元豊六年十月十二日の夜、服を脱いで寝ようとしたが、月影が戸に差し込んできたので、嬉しくなって外を出歩くことにした。しかしとても楽しみを共にする者もあるまいと思い、そのまま承天寺に張懐民をたずねて行った。懐民もまだ寝ていなかったので、一緒に連れ立って庭の中を歩いた。庭の中はまるで透明な水をたたえ、その水の中に藻草がゆらいでいるかと思われたが、実はそれは竹柏(なぎ)の影なのであった。いつの夜だとて月のないことはないし、どこだとて竹柏のないところはない。ただわれら二人のような閑人(ひまじん)がいないだけのことである。

c69a73a9.jpeg※竹柏は梛(なぎ)の中国名。イチヰ科の暖地性の常緑樹。古来竹柏は、神聖な樹木、めでたい樹木として、日本人にも愛好されてきた。緑つややかな葉は守り袋や鏡の裏に入れて災難除けにされたという。 


※元豊六(1083)年、蘇軾は48歳。黄州(湖北省黄岡県)にいた。かれは元豊二年、御史台の獄を出て、同三年、黄州に流され、ここに五年間住んだ。蘇軾には「中秋月〕という名詩がある。
 
  中秋月   蘇軾
暮雲収盡溢清寒  暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢無聲轉玉盤  銀漢 声無く 玉盤を転ず
此生此夜不長好  此の生 此の夜 長くは好からず
明月明年何處看  明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん
 
e55ebe72.jpeg〔訳〕日暮れ時、雲はすっかり無くなり、
                       心地よい涼風が吹いている。
   銀河には音も無く玉の盆のような
                      月があらわれた。
   こんな楽しい人生、楽しい夜、 しかし永遠に続くものでは無い。
   来月は、来年は、 どこでこの中秋の月を見ているだろう。
 
  昨日は、パソコンのご機嫌が悪く、外から来たメールが届かず、メールボックス内のメールを削除したにもかかわらず、
「メールが送信者に送り返されました。/送り返されたのは以下のメールです。
送信者: = ■■■■  件名: = ■■■■   日時:Sun Apr  8 22:03:41 2012
 メールボックス内のメールを削除したのち、送信者に再送を依頼してください。
 不要なメールをメールボックスから削除するには、WebMailを利用します。
WebMailにログインして不要なメールを削除し、ごみ箱を空にしてください。」との表示が出る。
 WebMailにログインするなんて、どのようにしてよいか解らぬ。
 塾友のMN君に電話して尋ねると、一度j-com に見てもらったがいいということ。
 今朝、j-comにFAXを入れ、担当者に電話して留守電にコメントを入れておくも、夕方4時近くになってもなしのつぶて。
 あらあら不思議、横浜のN氏が心配して入れてくれたメールがちゃんと届いているではないか。
 自分の携帯で自分のパソコンに写真入のメールをしてみだら、ちゃんと入るではないか。まったく狐につつまれたよう。 
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9ce99719.jpeg 今日は旧暦3月19日、早朝隅田公園の隅田川沿いに吾妻橋~桜橋の間を歩いてみた。痛い足を引きずりながら、休み休み歩いた歩数は携帯の表示によれば、4800歩ばかり。満開の桜の間に19日の月が美しい。アハハ、月見で一杯、桜で一杯まさしくテッポウじゃ。こいつは朝から縁起がエエわい。テラスにおりて、桜橋まで引き返す。久し振りにご来光を見た。
 
  釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づいて、今日は潅仏会――花まつり――とされる。お釈迦様の誕生日である。
45cbc98f.jpeg 玄奘(げんじょう)の旅行記 大唐西域記 巻六の 劫比羅伐窣堵国(カピラヴァストウこく)の記に、仏陀生誕の聖跡について記してある。曰く、




 「灵神冥衛多蒙痊愈箭泉东北行八九十里至臘伐尼林。有释種浴池。澄清皎镜雜华彌漫。其北二十四五步有无憂华樹。今已枯悴。菩薩诞灵之处。菩薩以吠舍佉月后半八日。当此三月八日。上座部则曰。以吠舍佉月后半十五日。当此三月十五日。次东窣堵波。无憂王所建。二龙浴太子处也。菩薩生已不扶而行于四方各七步。而自言曰。天上天下唯我独尊。今茲而往生分已尽。隨足所蹈出大蓮花。二龙踊出住虛空中而各吐水。一冷一煖以浴太子。浴太子窣堵波东有二清泉。傍建二窣堵波。是二龙從地踊出之处。菩薩生已支属宗亲莫不奔驰求水盥浴。夫人之前二泉涌出。一冷一煖遂以浴洗。其南窣堵波。是天帝释捧接菩薩处。菩薩初出胎也。天帝释以妙天衣跪接菩薩。次有四窣堵波。是四天王抱持菩薩处也。菩薩從右脅生已。四大天王以金色毡衣捧菩薩置金机上。至母前曰。夫人诞斯福子诚可欢庆。諸天尚喜况世人乎。
〔訳〕箭泉〔せんせん、釈迦競技の旧跡〕より北東へ行くこと八、九十里で臘伐尼(ルンビニー)林に至る。釈種が水浴する池がある。水は清く鏡のようにとりどりの花は咲き乱れている。その北二十四、五歩の所に無憂華樹(むゆうげじゅ)があるが、いまはもう涸れてしまっている。菩薩が降誕された処である。菩薩は吠舎佉(ヴァイシャーカ)月〔二月〕の後半の八日に生まれられた。この〔中国の〕三月八日に当たる。上座部では吠舎佉月の後半の十五日であるという。これは〔中国の〕三月十五日に当たる。東隣の窣堵波〔stūpa〕は無憂王〔アショカ王、在位:BC268?~232?年頃〕が建てたものである。二匹の竜が太子ら水浴ざせた処である。菩薩は生まれられるや、手助けなくして四方に行かれること各七歩されて、自ら、「天上天下、唯我のみ独り尊し。今より以後、私の持ち前の生はもはや尽くした〔これが最後身であり、今後は輪廻転生(りんねてんしょう)することはない〕。」と言われた。足の踏むにつれ大きな蓮の花でて、二匹の竜が踊り出てきて虚空に止まり、それぞれ水を吐いた。一はつめたく、一は暖かく、その水で太子を浴(ゆあみ)したてまつったのである。浴太子窣堵波の東に二つの清い泉があり、傍に二つの窣堵波が建ててある。二匹の竜が地中より踊り出た処である。菩薩が生まれられるや親族縁者はみな走り回り水を求めて浴させようとした。〔すると〕夫人の前に二つの泉が湧き出てきた。一は冷たく、一は暖かかった。それで身を洗われたのである。その南の窣堵波は、帝釈天が菩薩を捧げ受けた処である。菩薩が始めて胎内をでられるや、帝釈天は微妙な天衣で菩薩を跪き受けた。その隣に四つの窣堵波がある。四天王が菩薩を抱きまいらせた処である。菩薩が〔麻耶夫人の〕右脇から生まれるや、四天王は金色の氎衣(ちょうい)で菩薩を捧げ、金机の上に安置し、母の前に進み出て、「夫人がこの福徳備われるお子様をお生みになりましたことは、誠に慶賀すべきことであります。諸天人も喜んでいます。ましてこの世の人の喜びはいうまでもありません」と言った。
 
466a40e8.jpeg ※臘伐尼林:ルンビニー(梵語のLumbiniの音写)園のこと。釈迦誕生の地。父浄飯王の迦毘羅(かびら)城と母摩耶夫人の郷里天臂(てんぴ)城との間にあった林苑。現在のネパール南西部、インドとの国境近くのタライ地方にあるルンミンディ村。
 ※無憂花樹:『因果経』に「夫人は彼の園内に一大樹あるを見る。名付けて無憂と言う。花色香鮮、枝葉分布し、極めて茂盛となす。即ち右手を挙げてこれを牽摘せんと欲するに、菩薩は漸漸に右脇より出づ」とある。
 ※釈尊の生年月日については異説が多い。南方伝により最近の南アジア仏教諸国はBC544年仏滅とするが、学問的には承認されない。従来は北方伝中の一説によりBC565年降誕、BC486年仏滅とされてきた。学問的にはBC463年降誕、BC383年仏滅という一つの推測がされている。生誕の日も『西域記』所伝のものの他に、二月八日説、四月七日説、四月八日説などがある。
507aa659.jpeg ※釈迦降誕時の状を『因果経』に「菩薩漸漸右脇より出づ。時に樹下にも亦七宝七茎の蓮花生ず。大なること車輪の如し。菩薩即便(すなわ)地蓮花上に堕ち、扶持する者なくして自ら行くこと七歩、その右手を挙げて師子吼(ししく)す。『我は一切の天人の中において最尊最勝なり。無量の生死、今において尽きんとす。此の生は一切の人天を利益せん』と。この言を説き已(おわ)るや、時に四天王は即ち天繒(てんそう)を以って太子の身を接(う)け宝机上に置く。釈提桓因は手に宝蓋を執り、大梵天王は又、白払を持ち、左右に侍立す。難陀竜王・優波難陀竜王は虚空中より清浄水を吐くに、一は温、一は涼にして太子の身を灌ぐ」とある。
 
プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
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1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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