瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
31以下の数を1つ覚えてもらい、左の5つの箱を見せ、覚えた数が含まれているものを指さしてもらう。
「AとBとDにある」といわれたら、それぞれの箱の左上の1、2、8を足して「11でしょう」と答える。そのネタは次のようになる。
1~31までの数を2の羃乗(2ⁿ)で表わしてみると、例えば11は、
11=2⁰+2¹+2³=1+2+8 となる。これは十進数を二進数に直すことになり、11は二進数で1011となる。そして、2⁰(=1)の項が含まれている数をAの箱に、2¹(=2)の項が含まれている数をBに、2²(=4)の項が含まれている数をCに、2³(=8)の項が含まれている数をDに、2⁴(=16)の項が含まれている数をEに、それぞれ書き込む。すると、各箱の左上すみの数が、A、B、C、D、Eの順に
2⁰=1、2¹=2、2²=4、2³=8、2⁴=16 となっているから、覚えた数が含まれている表の左上隅の数を加えればよいのである。
「簾中記」の目付字と同じようなものが、江戸時代中期の中根彦循(なかねげんじゅん、1701~1761年)著の『勘者御伽双紙』に「桜木の目付の事」として出ている。
左の図は五本の枝が花と葉から出来ているのは『簾中記』と同じで、上の和歌をばらした文字が書き込まれている。この和歌の中からひとつの文字を覚えてもらって、花にその文字が書かれている枝がどれか教えてもらえばその文字をたちどころに当てることが出来るのである。五本の枝を下から順に124816と2の羃数に見立て、指さされた枝を合計する。たとえば「下から1番目と2番目と4番目の枝にある」言われれば、
128=11で、上の和歌の11番目の文字「れ」がこたえになるのである。
このネタ明かしは、和歌の各文字に番号をつけると
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
さ く ら 木 の ふ み や い ず れ と お ぼ ろ げ も
18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
は な に あ り し を か ず え て ぞ う る
となる。そこで、各文字を数と見立てて、例えば「れ」ならば、
「れ」=11=2⁰+2¹+2³ とすると、前の表の問題と全く同じになり、「れ」を1番目、2番目、4番目の花に書き込めばよいわけである。この書き込みを書く文字において行い、1つの枝に書かれていない文字は葉に書き込んだものが左の図なのである。
「みそひさもし」を活用したこの美しさにはまったく驚嘆させられるものがある。
「AとBとDにある」といわれたら、それぞれの箱の左上の1、2、8を足して「11でしょう」と答える。そのネタは次のようになる。
1~31までの数を2の羃乗(2ⁿ)で表わしてみると、例えば11は、
11=2⁰+2¹+2³=1+2+8 となる。これは十進数を二進数に直すことになり、11は二進数で1011となる。そして、2⁰(=1)の項が含まれている数をAの箱に、2¹(=2)の項が含まれている数をBに、2²(=4)の項が含まれている数をCに、2³(=8)の項が含まれている数をDに、2⁴(=16)の項が含まれている数をEに、それぞれ書き込む。すると、各箱の左上すみの数が、A、B、C、D、Eの順に
2⁰=1、2¹=2、2²=4、2³=8、2⁴=16 となっているから、覚えた数が含まれている表の左上隅の数を加えればよいのである。
「簾中記」の目付字と同じようなものが、江戸時代中期の中根彦循(なかねげんじゅん、1701~1761年)著の『勘者御伽双紙』に「桜木の目付の事」として出ている。
左の図は五本の枝が花と葉から出来ているのは『簾中記』と同じで、上の和歌をばらした文字が書き込まれている。この和歌の中からひとつの文字を覚えてもらって、花にその文字が書かれている枝がどれか教えてもらえばその文字をたちどころに当てることが出来るのである。五本の枝を下から順に124816と2の羃数に見立て、指さされた枝を合計する。たとえば「下から1番目と2番目と4番目の枝にある」言われれば、
128=11で、上の和歌の11番目の文字「れ」がこたえになるのである。
このネタ明かしは、和歌の各文字に番号をつけると
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
さ く ら 木 の ふ み や い ず れ と お ぼ ろ げ も
18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
は な に あ り し を か ず え て ぞ う る
となる。そこで、各文字を数と見立てて、例えば「れ」ならば、
「れ」=11=2⁰+2¹+2³ とすると、前の表の問題と全く同じになり、「れ」を1番目、2番目、4番目の花に書き込めばよいわけである。この書き込みを書く文字において行い、1つの枝に書かれていない文字は葉に書き込んだものが左の図なのである。
「みそひさもし」を活用したこの美しさにはまったく驚嘆させられるものがある。
朝食後、隅田川の散策から帰宅して、パソコンを開くと、横浜のIN氏より、メールが入っていた。曰く、「今朝、N.O.さんのテレビを見た:日高 節夫 様/今朝、NHKテレビのASAICHI(あさいち)を見ていたら、君のよくご存知のN.O.さんが、インフルエンザのことで出演していた。肩書がK市衛生研究所長になっていた。/ネットで調べてみたら、今年の3月末に、国立感染症研究所を定年で辞められて、K市の研究所長に移られたと分かった。今年は君が80歳、N.O.先生が65歳、これを仁科の海浜学校の頃の、インターン時代のN.O.先生に年代逆戻しをして見ると、君は40歳代か。君の文集「仁科の海よ」(第24回夏期学校文集『想ひ出』)を読ませてもらってから、そろそろ15年になるなあ。まさに歳月はあっという間に過ぎて行くね。/でも君のお陰で、一昨日は楽しい思いをさせてもらえた。/どうもありがとう。ちょっと岡部先生の近況で一筆。 横浜 IN」
N.O.先生はインターン時代に兼愛塾の臨海学校を指導員として手伝っていただいた。たまたまIN氏の息子さんが国立感染症研究所でご一緒されたということで、この爺とIN氏との間で時たま話題になる人物である。
いやはや、当時兼愛塾の塾生は悪餓鬼揃いで、失礼にもN.O.先生を「やぶ先生」なんて呼んでいた。なかには「いや、まだやぶにもなっていない『たけのこ先生』だ」なんていう悪餓鬼もいた。にもかかわらず、本当に生徒達の面倒をよく見てくださった。
室町時代の数学遊戯で、貴族の間の娯楽として発達した問題は少なくないが、そのなかに目付字がある。いわゆる字探しの当てものである。室町時代の『簾中抄』に曰く、
「いろはの文字くさり、花にあり、葉にあり、とのみ言ひおきて、人の心をなぐさむるかな。また、花はとれ、葉はあだものと思ふべし。一、二、四、八、十六」
木の絵が描かれていて、その木に五本の枝があり、おのおのの枝に花と葉がある。どの枝にも花か葉の上に “い”から“け”までの31文字が書かれている。遊び方は、甲と乙と2人で行なう。甲が乙に「いろはのうち“い”から“け”までの中のどれかひとつを頭の中に覚えておけ」という。つぎに甲が「覚えた文字をこのえの中で、第1番目の枝には花の上に書かれているか、葉の上に書かれているかを言え」「二番目の枝ではどうか?」「3番目の枝では…」と順に聞いてゆく。
乙が「花の上に書かれている」といったら、第1枝は1、第2枝は2、第3枝は4、第4枝は8、第5枝は16という数を甲は覚えておく。乙が「葉の上に書かれている」と言ったら何も覚えておかなくてよい。
花の上に書かれているのが、第1枝(1)、第3枝(4)、第4枝(8)であったら、その対応する数の1、4、8を全て加えて、 1+4+8=13 であるから、いろは…の第13番目の“わ”が答えとなるのである。すなわち、数を2進法で表わせば、 13→1101 で第1位、第3位、第4位が1で他は0となるのである。
目付字には、表を使う方法、絵を組み合わせる方法などいろいろと工夫され、江戸時代には多くの人々が楽しんだという。
N.O.先生はインターン時代に兼愛塾の臨海学校を指導員として手伝っていただいた。たまたまIN氏の息子さんが国立感染症研究所でご一緒されたということで、この爺とIN氏との間で時たま話題になる人物である。
いやはや、当時兼愛塾の塾生は悪餓鬼揃いで、失礼にもN.O.先生を「やぶ先生」なんて呼んでいた。なかには「いや、まだやぶにもなっていない『たけのこ先生』だ」なんていう悪餓鬼もいた。にもかかわらず、本当に生徒達の面倒をよく見てくださった。
室町時代の数学遊戯で、貴族の間の娯楽として発達した問題は少なくないが、そのなかに目付字がある。いわゆる字探しの当てものである。室町時代の『簾中抄』に曰く、
「いろはの文字くさり、花にあり、葉にあり、とのみ言ひおきて、人の心をなぐさむるかな。また、花はとれ、葉はあだものと思ふべし。一、二、四、八、十六」
木の絵が描かれていて、その木に五本の枝があり、おのおのの枝に花と葉がある。どの枝にも花か葉の上に “い”から“け”までの31文字が書かれている。遊び方は、甲と乙と2人で行なう。甲が乙に「いろはのうち“い”から“け”までの中のどれかひとつを頭の中に覚えておけ」という。つぎに甲が「覚えた文字をこのえの中で、第1番目の枝には花の上に書かれているか、葉の上に書かれているかを言え」「二番目の枝ではどうか?」「3番目の枝では…」と順に聞いてゆく。
乙が「花の上に書かれている」といったら、第1枝は1、第2枝は2、第3枝は4、第4枝は8、第5枝は16という数を甲は覚えておく。乙が「葉の上に書かれている」と言ったら何も覚えておかなくてよい。
花の上に書かれているのが、第1枝(1)、第3枝(4)、第4枝(8)であったら、その対応する数の1、4、8を全て加えて、 1+4+8=13 であるから、いろは…の第13番目の“わ”が答えとなるのである。すなわち、数を2進法で表わせば、 13→1101 で第1位、第3位、第4位が1で他は0となるのである。
目付字には、表を使う方法、絵を組み合わせる方法などいろいろと工夫され、江戸時代には多くの人々が楽しんだという。
昨日は藤沢の水門会のMY氏・横浜のIN氏・海老名のYR氏に、大連出身のshinさんを交えた5人で会食した。浅草EKIMISE七階の「天津飯店」で、携帯で水門会の3人のそれぞれの写真を撮って、宝塚市の水門会の共通の友人であるKS氏に送信したところ、その都度返信をしてくれた。
IN氏の写真について 感謝:メールで賢人会の雰囲気に少しでも溶け込ませて戴き、心から感謝しております。八十を越えたとは言え、自覚の無いまま何かしら世の仕組みに腹を立てております。こう考えながらも家内が言う「私の元気な内に、ポックリ逝くのですよ」と言う言葉を納得せざる得ない自分がいる今日この頃です。いつの日かの再会を楽しみにしております。
MY氏の写真について 素晴しい友:ご無沙汰しております。お元気な姿に安心しております。若いファッションが似合うのが羨ましく存じます。青春時代、ここ傘寿迄生きるとは思っていなかったので、戸惑っているのが現状です。ここまで来たら可能な限り生きてみましょう。再会を楽しみにしております。
YS氏の写真について 思い出:貴兄のそのにこやかな雰囲気に心和みます。その元気さですので、当然海外を雄飛されている事でしょうね。このところ「みなと外誌」が出版されなくなったので、貴兄の海外便りを目に出来ず残念に存じております。機会があれば再会したいものです。
12時から2時半過ぎまで「天津飯店」で過し、屋上で写真を撮り、丁度羽子板市が開かれている浅草寺の境内を巡り、仲見世の裏道を通って雷門通りへ出る。浅草観光協会の8階の喫茶室でコーヒーを飲みながら暫し歓談。水門会の3人とshinさんは銀座線で帰宅の途についた。爺はひとりガード下の理髪店が空いていたので、散髪をして帰宅した。時に午後6時であった。
今朝方パソコンを開くと横浜のIN氏からメールが入っていた。曰く、「赤い法被の記念写真を送ります/日高節夫様、MY様、YS様、shin様/ハッピーニューイヤーならぬ、松屋の屋上の法被を着せられて移した写真は、有料でした。寒い屋上で、可愛いお姉ちゃんが、懸命に人寄せをした結果、だれも買わないでは、あんまりかわいそう。せめて、爺が一人でも買ってやろうと、買い求めておきました。添付ファイルでお送りします。上手く届けばいいですが、不都合があればご連絡をお願いします。横浜IN 」
Shinさんから携帯にメールが入った。曰く「シンよりのお礼:日高さま、こんにちは。昨日は、楽しく過ごさせていただきましてまことにありがとうございます。今度またお誘いいただければと思います。Nさんには、写真拝受のお礼を申し上げました。まさに日高さんのおかげで、優しい神奈<三賢人>に巡り合いました。あらためてお礼を申し上げます。寒くなりますが、ぜひお体にお気をつけて。奥様にどうぞよろしくお伝えください。シン@横浜」
藤沢市のMY氏からもメールあり、曰く「昨日はありがとう:日高 節夫 様/昨日は久しぶりにみんな元気な顔で集まり、暫し楽しい時を過ごすことが出来ました。/いつもの事ながら浅草では貴兄にいろいろとお世話になり有難く思っています。/私が撮った写真を送る約束をしていましたが実はパソコンに取り込む時にどこをどうしたか、訳が分からず画像が全部消えてしまい大失敗をしてしまいました。/と言うことで送れませんでした。悪しからず。/野崎君から法被姿の写真が送られてきましたのでこれを記念に保存します。MY」
今日は1日年賀状作り。疲れた。
IN氏の写真について 感謝:メールで賢人会の雰囲気に少しでも溶け込ませて戴き、心から感謝しております。八十を越えたとは言え、自覚の無いまま何かしら世の仕組みに腹を立てております。こう考えながらも家内が言う「私の元気な内に、ポックリ逝くのですよ」と言う言葉を納得せざる得ない自分がいる今日この頃です。いつの日かの再会を楽しみにしております。
MY氏の写真について 素晴しい友:ご無沙汰しております。お元気な姿に安心しております。若いファッションが似合うのが羨ましく存じます。青春時代、ここ傘寿迄生きるとは思っていなかったので、戸惑っているのが現状です。ここまで来たら可能な限り生きてみましょう。再会を楽しみにしております。
YS氏の写真について 思い出:貴兄のそのにこやかな雰囲気に心和みます。その元気さですので、当然海外を雄飛されている事でしょうね。このところ「みなと外誌」が出版されなくなったので、貴兄の海外便りを目に出来ず残念に存じております。機会があれば再会したいものです。
12時から2時半過ぎまで「天津飯店」で過し、屋上で写真を撮り、丁度羽子板市が開かれている浅草寺の境内を巡り、仲見世の裏道を通って雷門通りへ出る。浅草観光協会の8階の喫茶室でコーヒーを飲みながら暫し歓談。水門会の3人とshinさんは銀座線で帰宅の途についた。爺はひとりガード下の理髪店が空いていたので、散髪をして帰宅した。時に午後6時であった。
今朝方パソコンを開くと横浜のIN氏からメールが入っていた。曰く、「赤い法被の記念写真を送ります/日高節夫様、MY様、YS様、shin様/ハッピーニューイヤーならぬ、松屋の屋上の法被を着せられて移した写真は、有料でした。寒い屋上で、可愛いお姉ちゃんが、懸命に人寄せをした結果、だれも買わないでは、あんまりかわいそう。せめて、爺が一人でも買ってやろうと、買い求めておきました。添付ファイルでお送りします。上手く届けばいいですが、不都合があればご連絡をお願いします。横浜IN 」
Shinさんから携帯にメールが入った。曰く「シンよりのお礼:日高さま、こんにちは。昨日は、楽しく過ごさせていただきましてまことにありがとうございます。今度またお誘いいただければと思います。Nさんには、写真拝受のお礼を申し上げました。まさに日高さんのおかげで、優しい神奈<三賢人>に巡り合いました。あらためてお礼を申し上げます。寒くなりますが、ぜひお体にお気をつけて。奥様にどうぞよろしくお伝えください。シン@横浜」
藤沢市のMY氏からもメールあり、曰く「昨日はありがとう:日高 節夫 様/昨日は久しぶりにみんな元気な顔で集まり、暫し楽しい時を過ごすことが出来ました。/いつもの事ながら浅草では貴兄にいろいろとお世話になり有難く思っています。/私が撮った写真を送る約束をしていましたが実はパソコンに取り込む時にどこをどうしたか、訳が分からず画像が全部消えてしまい大失敗をしてしまいました。/と言うことで送れませんでした。悪しからず。/野崎君から法被姿の写真が送られてきましたのでこれを記念に保存します。MY」
今日は1日年賀状作り。疲れた。
2通のair mail が届いた。ENGLAND と AUSTRALIA からのクリスマスカードと手紙であった。
ENGLAND からのものはIA氏のもので、カードの間に家族の写真を載せた手紙が挟んであった。手紙に拠ると長男は今年の4月 Sandhurst(陸軍士官学校)を卒業し、現在は陸軍少尉として活躍中との事。次男は Northumbria 大学でプロダクトデザインを勉強中であるという。長女は今年7月に義務教育を終え、そのままKesteven & Grantham Girls’School に残り、アートやデザインの方向を目指して勉強中との事である。
AUSTRALIAからのものは、婆様の妹の娘で新婚ほやほやのMiho とその連れ合いの Matt からのものであった。
ENGLAND からのものはIA氏のもので、カードの間に家族の写真を載せた手紙が挟んであった。手紙に拠ると長男は今年の4月 Sandhurst(陸軍士官学校)を卒業し、現在は陸軍少尉として活躍中との事。次男は Northumbria 大学でプロダクトデザインを勉強中であるという。長女は今年7月に義務教育を終え、そのままKesteven & Grantham Girls’School に残り、アートやデザインの方向を目指して勉強中との事である。
AUSTRALIAからのものは、婆様の妹の娘で新婚ほやほやのMiho とその連れ合いの Matt からのものであった。
宝塚市在住のKS氏11月末の水門会「母ちゃんに感謝する会」に出席のため夫婦で九州旅行に出かけたらしい。写真同封の封書が届いた。曰く、
「前略/ブログ25号並びに度々のメール連絡を頂感謝しております。/傘寿まで過ごせるとは考えてもおりませんでしたが、生きてみると余りにも腹立たしいことが多く感じられる毎日です。これも加齢の所為と、宥める自分自身に苦笑しております。家内からは「私の元気な内にポックリ逝くのですよ」と日々暗示をかけられていますが、その方向性と時期に関する予知能力が、自らに整備されていないのでウロウロしている次第です。/14日はHS兄が小倉駅まで迎えに来てくれ夕食を馳走になり、25日は、山水園での「母ちゃんに感謝する会」(別紙)のあとは、JT兄宅でカラオケ会で楽しく19名が親交を持つことになりました。26日は、博多のHH兄宅で碁を囲み、27日は唐津行きで疲れ切ってしまいました。かくして4泊5日の夫婦旅が終了しました。帰宅して一両日は緊張しておりましたが、其の後、どっと疲れが出て何も手につかずの状態で、「母ちゃんに感謝する会」の連絡が遅れ恐縮しております。貴兄との久し振りの電話での元気な声に、我に返る気がしております。/思い付いたまま書きましたので、文流については手直し方お願いいたします。写真は全て家内の携帯写真からのものです。/寒さ募ります折から、方々散歩時にはご注意ください。/最後になりましたが御奥様に宜しくお伝えください。/まずはお礼旁々ご連絡まで 草々/ KS / 平成24年12月13日 / 日高節夫兄 / 追伸 19日、皆さんと会われるとのこと、諸兄に宜しくお伝え下されば幸甚です。」
「前略/ブログ25号並びに度々のメール連絡を頂感謝しております。/傘寿まで過ごせるとは考えてもおりませんでしたが、生きてみると余りにも腹立たしいことが多く感じられる毎日です。これも加齢の所為と、宥める自分自身に苦笑しております。家内からは「私の元気な内にポックリ逝くのですよ」と日々暗示をかけられていますが、その方向性と時期に関する予知能力が、自らに整備されていないのでウロウロしている次第です。/14日はHS兄が小倉駅まで迎えに来てくれ夕食を馳走になり、25日は、山水園での「母ちゃんに感謝する会」(別紙)のあとは、JT兄宅でカラオケ会で楽しく19名が親交を持つことになりました。26日は、博多のHH兄宅で碁を囲み、27日は唐津行きで疲れ切ってしまいました。かくして4泊5日の夫婦旅が終了しました。帰宅して一両日は緊張しておりましたが、其の後、どっと疲れが出て何も手につかずの状態で、「母ちゃんに感謝する会」の連絡が遅れ恐縮しております。貴兄との久し振りの電話での元気な声に、我に返る気がしております。/思い付いたまま書きましたので、文流については手直し方お願いいたします。写真は全て家内の携帯写真からのものです。/寒さ募ります折から、方々散歩時にはご注意ください。/最後になりましたが御奥様に宜しくお伝えください。/まずはお礼旁々ご連絡まで 草々/ KS / 平成24年12月13日 / 日高節夫兄 / 追伸 19日、皆さんと会われるとのこと、諸兄に宜しくお伝え下されば幸甚です。」
日本の政局は逆戻り、余り期待できそうにもない。自民もまた、盛者必衰の理を味わうことになるに違いあるまい。歴史は繰り返すのであろう。まあ、どうなろうと静かな余生を送りたい。今朝のウェブニュースより
自公、政権を奪還=320議席超す-民主惨敗、維新第3党に【12月衆院選】―― 当選確実となった候補者の名前に花を付ける自民党の安倍晋三総裁=16日夜、東京・永田町 第46回衆院選は16日投票、即日開票され、比例代表の3議席を除く477議席が確定した。自民党は小選挙区と比例で計293議席を獲得して、民主党を圧倒。共闘する公明党と合わせて323議席に達し、2009年に失った政権の奪還が決まった。民主党は公示前の230議席から激減、1998年の結党以来最低の57議席と惨敗した。「第三極」陣営では日本維新の会が54議席を得て衆院第3党となった。みんなの党も18議席を獲得したが、日本未来の党は公示前の62議席から大幅に後退、10議席を割り込んだ。/衆院選による政権交代は2回連続。自公両党は3分の2の議席を占め、参院で否決された法案を衆院で再可決できる勢力を得た。自民党の安倍晋三総裁は、25日にも召集される見通しの特別国会で第96代首相に選出される。安倍氏は06~07年に首相を務めており、返り咲きは現行憲法下では吉田茂氏以来2人目となる。/安倍氏は17日未明、党本部で記者団に「公明党と連立政権をつくっていく」と述べ、同日から政策協議に入る意向を明らかにした。参院で自公が過半数に達していないことを踏まえ、「法案ごとに理念、政策が一致するところに協力をお願いしたい」と、部分連合で対応する考えを示した。/安倍氏は新政権の人事にも着手。石破茂幹事長を続投させる意向を固めた。/17日午前3時半現在、自民党は小選挙区237、比例56の議席を獲得、全常任委員会で委員長を独占し、委員の過半数を占める絶対安定多数(269議席)を大きく超えた。公明党は小選挙区に擁立した9候補が全勝、比例と合わせて30議席となり、公示前の21議席を上回った。一方、「比較第1党」を目指した民主党は、藤村修官房長官や田中真紀子文部科学相ら現職閣僚7人が落選したほか、菅直人前首相が小選挙区で敗北するなど全国で苦戦。獲得議席は小選挙区27、比例30にとどまった。/第三極では維新が大阪の小選挙区で12勝したほか、比例も堅調で、小選挙区14、比例40を獲得した。内閣不信任決議案や予算を伴う法案の提出が可能となる。みんなの党は小選挙区4、比例14で、公示前の8議席から倍以上に増えた。未来は小選挙区2、比例6の計8議席と苦戦した。/共産党は比例で8議席を得たが、公示前の9議席を下回った。社民党も小選挙区1、比例1の計2議席にとどまり、公示前の5議席から減らした。新党大地と国民新党はそれぞれ1議席を確保。新党日本は議席を失い、新党改革も議席を獲得できなかった。(jijicom. 2012/12/17-04:02)
都知事選:猪瀬氏「日本変える」 記録的得票で圧勝、「反石原」層も取り込み ―― 首都の有権者は、約13年半続いた石原都政の後任に、後継指名を受けていた前副知事の猪瀬直樹氏(66)を選んだ。「反石原」票も取り込んで得票は石原慎太郎氏の最多記録(約308万票)も超える記録的数字に達し、単なる継承にとどまらず、「改革」への期待も背負う立場となる。前例踏襲を嫌う性格そのままに当選後もあえて万歳はせず、「東京は日本の心臓。東京から日本を変える」と、官僚機構や国の規制に立ち向かう姿勢を強調した。/テレビが当選確実を報じた直後の午後8時過ぎ、猪瀬氏は新宿区の事務所で約200人の支持者の拍手に包まれ、青いバラの花束を受け取った。長年、作るのが不可能とされていた青いバラ。花言葉は「夢かなう」だ。/「都民の声は『早く改革をやれ。スピードアップしろ』という叱咤(しった)激励。万歳はしません」。壇上でも厳しい表情を崩さない。「猪瀬カラーをどう出すか?」と報道陣が質問すると「(副知事として)既に出してきたんですけど……」と応じ、初めて笑顔を見せた。/石原都政の継承者として当初から「本命」とみられていたが、陣営は入念な準備を重ねて選挙戦に臨んだ。/石原慎太郎氏の辞職表明から3日後の10月28日、赤坂の高層ビルの一室に友人ら約10人が集まった。名付けて「プロジェクトi(アイ)」。シンクタンク代表の田部康喜(こうき)氏(58)は「マーケティングとインターネットを駆使し、米大統領選のような選挙をやろう」と呼び掛けた。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)やイメージアップ戦略の専門家らも加わり10日あまりで選挙プランがほぼ固まった。/告示8日前まで去就について沈黙を続けたが、この時期はいわば「仕込み」。約27万人のフォロワー(読者)がいるツイッターに公務の内容や自著の紹介などを頻繁に書き込み、ホームページ(HP)には「ニコニコ動画」の協力の下、告示までに30本以上の動画がアップされた。/あえて出馬表明しなくても、知事職務代理として行動することで注目を集める戦略。衆院とのダブル選で注目度は下がったが、テレビに取り上げられた日は、普段約2000件のHPのアクセス数が約1万件に跳ね上がったという。/告示後、陣営が描いた猪瀬氏のイメージは、東日本大震災を踏まえた「『災後』社会の指導者」。街頭演説では帰宅困難者対策など防災面の実績に力点を置き、他候補が攻撃材料にしている新銀行東京などには触れなかった。事前の世論調査で、女性と20〜30代の支持率が比較的低いとの結果が出たため、応援に女性ピアニストらを呼んで親しみやすさも演出した。/緻密なマーケティングに、支持を受けた自民、公明、維新への追い風も重なった。選挙期間中に事務所を訪れた小泉純一郎元首相は「選挙は頭を下げ、腰を低くしないといけないが、そんなのは面倒臭いと思うのが猪瀬さん」と評した。初の選挙でも自分のスタイルを貫き通し「首都の顔」に選ばれた。
◇国など巻き込む政策の課題多く:猪瀬氏が都知事選で掲げた公約は、20年五輪招致や羽田空港の国際線増便など石原都政を継承した政策と、都営地下鉄と東京メトロの経営統合や水道技術の輸出など副知事としてこれまでも進めてきた政策が中心だ。/特徴的なのが、都単独ではなく、国や企業も巻き込んだ課題が多い点。東日本大震災後の電力不足に対応するエネルギー改革では、官民連携ファンドを使った新電力の育成などを掲げ、脱東京電力依存の具体策を示した。/一方、厚生労働省が所管するハローワーク事務の都への移管などは、国との折衝が必要で、実現へのハードルは高い。「東京がモデルを作り、国と戦う」と語る猪瀬氏の実行力が、今後問われる。
◇宇都宮氏、浸透に苦慮:首相官邸前の大規模デモに発展した「脱原発」のようなうねりを、都知事選で起こすことはできなかった。前日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(66)は、新宿区の事務所に集まった支持者を前に「都民は石原都政に満足していなかった。だが、投票に必ずしも結びつかなかった。浸透できなかった」と語った。/キャッチコピーは「人にやさしい東京をつくる」。多重債務者の救済や反貧困運動に取り組んだ実績をアピールし、福島、新潟両県にある原発の廃炉や、福祉の充実を訴えた。/未来、共産、社民の3党から支持を受けたが、選挙戦の主力はインターネットや口コミで集まったボランティア。陣営が把握しただけでも50以上の「勝手連」ができ、都が強化した漫画の表現規制に反対する人たちや、石原前知事の差別的発言に憤っていた性的マイノリティーらにも支援の輪は広がった。/だが「反石原」の受け皿としての盛り上がりは、当選ラインに届くまでには至らなかった。脱原発デモの原動力にもなったネットが公選法の規定で告示後は使えなくなり、陣営は有権者への浸透に苦慮。衆院選で主要政党がこぞって「脱原発」を掲げたことも、他候補との対立軸を見えにくくした。終盤は防災対策などにも演説時間を割いて巻き返しを図ったが、差は縮まらなかった。ただ、陣営には「(政党や業界団体などに依存する)トップダウン型でない、都民が担う選挙ができた」(選対本部長の上原公子(ひろこ)・元国立市長)と一定の満足感も漂う。宇都宮氏は今後の政界挑戦について「未定」としながらも、都政を変える市民運動に携わり続ける意向を示した。
◇関心は総選挙に−−松沢氏:新銀行東京の清算など都政刷新を訴えた前神奈川県知事の松沢成文(しげふみ)氏(54)は午後8時過ぎ、港区の事務所で支援者を前に「最大の原因は私の力不足。アピール力がなかった」と頭を下げた。敗因を「総選挙と同日になり、報道も国民の関心も、総選挙に集中した。政策中心の選挙に持ち込めなかった」と分析し、政党の支持を受けなかったことを「無党派で戦う力の限界があったのかもしれない」と話した。
◇原点に戻れた−−笹川氏:午後9時前に台東区の事務所に現れた笹川尭(たかし)氏(77)はすがすがしい表情で「ありがとうございました」と頭を下げた。報道陣に感想を問われると「政党や大きな団体の支援を受けず、手作りでやり切った」と満足げ。幼少期を過ごした東京での初の選挙戦に「この年になって原点に戻れた」と笑顔も見せた。選挙戦では五輪招致を強く訴え続け、この日も今後について「中国を敵に回して招致は実現しない」と注文をつけた。
<猪瀬氏の主な選挙公約>
◇電力エネルギー改革:東京湾の老朽火力発電所を最新鋭の天然ガス火力に置き換える。島しょ部で地熱・太陽光・風力などの活用を図る
◇地下鉄一元化:東京メトロと都営地下鉄の経営統合を視野に、不便な乗り継ぎを解消。混雑を緩和し、バリアフリー化を進め、運賃を下げる
◇教育再生と子育て支援:周産期医療、リスクの高い小児医療を充実。「言葉の力」再生プロジェクトで子供の思考力を高める
◇「安心都市」実現:高齢者のケア付き住宅を1万戸に。緊急医療ネットワークを充実させる
◇雇用を守る:国の職業紹介機能を都に移管する。高齢者や女性、若者の雇用機会を増やす
◇羽田空港国際化:深夜早朝のアクセス利便性を高め、国際線発着枠を9万回に拡張する
◇五輪招致:20年東京五輪を招致し、この国の閉塞(へいそく)感を突破する
◇「東京都・発」ビジネスをコンテンツ産業や先端的ものづくりを支援。水道事業や技術力のある中小企業の海外進出をバックアップする
◇首都直下型地震への備え:木造密集地域の不燃化、緊急輸送道路沿道の建築物耐震化を加速し、首都高などのインフラ老朽化対策を急ぐ 〔毎日新聞 2012年12月17日 東京朝刊〕
自公、政権を奪還=320議席超す-民主惨敗、維新第3党に【12月衆院選】―― 当選確実となった候補者の名前に花を付ける自民党の安倍晋三総裁=16日夜、東京・永田町 第46回衆院選は16日投票、即日開票され、比例代表の3議席を除く477議席が確定した。自民党は小選挙区と比例で計293議席を獲得して、民主党を圧倒。共闘する公明党と合わせて323議席に達し、2009年に失った政権の奪還が決まった。民主党は公示前の230議席から激減、1998年の結党以来最低の57議席と惨敗した。「第三極」陣営では日本維新の会が54議席を得て衆院第3党となった。みんなの党も18議席を獲得したが、日本未来の党は公示前の62議席から大幅に後退、10議席を割り込んだ。/衆院選による政権交代は2回連続。自公両党は3分の2の議席を占め、参院で否決された法案を衆院で再可決できる勢力を得た。自民党の安倍晋三総裁は、25日にも召集される見通しの特別国会で第96代首相に選出される。安倍氏は06~07年に首相を務めており、返り咲きは現行憲法下では吉田茂氏以来2人目となる。/安倍氏は17日未明、党本部で記者団に「公明党と連立政権をつくっていく」と述べ、同日から政策協議に入る意向を明らかにした。参院で自公が過半数に達していないことを踏まえ、「法案ごとに理念、政策が一致するところに協力をお願いしたい」と、部分連合で対応する考えを示した。/安倍氏は新政権の人事にも着手。石破茂幹事長を続投させる意向を固めた。/17日午前3時半現在、自民党は小選挙区237、比例56の議席を獲得、全常任委員会で委員長を独占し、委員の過半数を占める絶対安定多数(269議席)を大きく超えた。公明党は小選挙区に擁立した9候補が全勝、比例と合わせて30議席となり、公示前の21議席を上回った。一方、「比較第1党」を目指した民主党は、藤村修官房長官や田中真紀子文部科学相ら現職閣僚7人が落選したほか、菅直人前首相が小選挙区で敗北するなど全国で苦戦。獲得議席は小選挙区27、比例30にとどまった。/第三極では維新が大阪の小選挙区で12勝したほか、比例も堅調で、小選挙区14、比例40を獲得した。内閣不信任決議案や予算を伴う法案の提出が可能となる。みんなの党は小選挙区4、比例14で、公示前の8議席から倍以上に増えた。未来は小選挙区2、比例6の計8議席と苦戦した。/共産党は比例で8議席を得たが、公示前の9議席を下回った。社民党も小選挙区1、比例1の計2議席にとどまり、公示前の5議席から減らした。新党大地と国民新党はそれぞれ1議席を確保。新党日本は議席を失い、新党改革も議席を獲得できなかった。(jijicom. 2012/12/17-04:02)
都知事選:猪瀬氏「日本変える」 記録的得票で圧勝、「反石原」層も取り込み ―― 首都の有権者は、約13年半続いた石原都政の後任に、後継指名を受けていた前副知事の猪瀬直樹氏(66)を選んだ。「反石原」票も取り込んで得票は石原慎太郎氏の最多記録(約308万票)も超える記録的数字に達し、単なる継承にとどまらず、「改革」への期待も背負う立場となる。前例踏襲を嫌う性格そのままに当選後もあえて万歳はせず、「東京は日本の心臓。東京から日本を変える」と、官僚機構や国の規制に立ち向かう姿勢を強調した。/テレビが当選確実を報じた直後の午後8時過ぎ、猪瀬氏は新宿区の事務所で約200人の支持者の拍手に包まれ、青いバラの花束を受け取った。長年、作るのが不可能とされていた青いバラ。花言葉は「夢かなう」だ。/「都民の声は『早く改革をやれ。スピードアップしろ』という叱咤(しった)激励。万歳はしません」。壇上でも厳しい表情を崩さない。「猪瀬カラーをどう出すか?」と報道陣が質問すると「(副知事として)既に出してきたんですけど……」と応じ、初めて笑顔を見せた。/石原都政の継承者として当初から「本命」とみられていたが、陣営は入念な準備を重ねて選挙戦に臨んだ。/石原慎太郎氏の辞職表明から3日後の10月28日、赤坂の高層ビルの一室に友人ら約10人が集まった。名付けて「プロジェクトi(アイ)」。シンクタンク代表の田部康喜(こうき)氏(58)は「マーケティングとインターネットを駆使し、米大統領選のような選挙をやろう」と呼び掛けた。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)やイメージアップ戦略の専門家らも加わり10日あまりで選挙プランがほぼ固まった。/告示8日前まで去就について沈黙を続けたが、この時期はいわば「仕込み」。約27万人のフォロワー(読者)がいるツイッターに公務の内容や自著の紹介などを頻繁に書き込み、ホームページ(HP)には「ニコニコ動画」の協力の下、告示までに30本以上の動画がアップされた。/あえて出馬表明しなくても、知事職務代理として行動することで注目を集める戦略。衆院とのダブル選で注目度は下がったが、テレビに取り上げられた日は、普段約2000件のHPのアクセス数が約1万件に跳ね上がったという。/告示後、陣営が描いた猪瀬氏のイメージは、東日本大震災を踏まえた「『災後』社会の指導者」。街頭演説では帰宅困難者対策など防災面の実績に力点を置き、他候補が攻撃材料にしている新銀行東京などには触れなかった。事前の世論調査で、女性と20〜30代の支持率が比較的低いとの結果が出たため、応援に女性ピアニストらを呼んで親しみやすさも演出した。/緻密なマーケティングに、支持を受けた自民、公明、維新への追い風も重なった。選挙期間中に事務所を訪れた小泉純一郎元首相は「選挙は頭を下げ、腰を低くしないといけないが、そんなのは面倒臭いと思うのが猪瀬さん」と評した。初の選挙でも自分のスタイルを貫き通し「首都の顔」に選ばれた。
◇国など巻き込む政策の課題多く:猪瀬氏が都知事選で掲げた公約は、20年五輪招致や羽田空港の国際線増便など石原都政を継承した政策と、都営地下鉄と東京メトロの経営統合や水道技術の輸出など副知事としてこれまでも進めてきた政策が中心だ。/特徴的なのが、都単独ではなく、国や企業も巻き込んだ課題が多い点。東日本大震災後の電力不足に対応するエネルギー改革では、官民連携ファンドを使った新電力の育成などを掲げ、脱東京電力依存の具体策を示した。/一方、厚生労働省が所管するハローワーク事務の都への移管などは、国との折衝が必要で、実現へのハードルは高い。「東京がモデルを作り、国と戦う」と語る猪瀬氏の実行力が、今後問われる。
◇宇都宮氏、浸透に苦慮:首相官邸前の大規模デモに発展した「脱原発」のようなうねりを、都知事選で起こすことはできなかった。前日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(66)は、新宿区の事務所に集まった支持者を前に「都民は石原都政に満足していなかった。だが、投票に必ずしも結びつかなかった。浸透できなかった」と語った。/キャッチコピーは「人にやさしい東京をつくる」。多重債務者の救済や反貧困運動に取り組んだ実績をアピールし、福島、新潟両県にある原発の廃炉や、福祉の充実を訴えた。/未来、共産、社民の3党から支持を受けたが、選挙戦の主力はインターネットや口コミで集まったボランティア。陣営が把握しただけでも50以上の「勝手連」ができ、都が強化した漫画の表現規制に反対する人たちや、石原前知事の差別的発言に憤っていた性的マイノリティーらにも支援の輪は広がった。/だが「反石原」の受け皿としての盛り上がりは、当選ラインに届くまでには至らなかった。脱原発デモの原動力にもなったネットが公選法の規定で告示後は使えなくなり、陣営は有権者への浸透に苦慮。衆院選で主要政党がこぞって「脱原発」を掲げたことも、他候補との対立軸を見えにくくした。終盤は防災対策などにも演説時間を割いて巻き返しを図ったが、差は縮まらなかった。ただ、陣営には「(政党や業界団体などに依存する)トップダウン型でない、都民が担う選挙ができた」(選対本部長の上原公子(ひろこ)・元国立市長)と一定の満足感も漂う。宇都宮氏は今後の政界挑戦について「未定」としながらも、都政を変える市民運動に携わり続ける意向を示した。
◇関心は総選挙に−−松沢氏:新銀行東京の清算など都政刷新を訴えた前神奈川県知事の松沢成文(しげふみ)氏(54)は午後8時過ぎ、港区の事務所で支援者を前に「最大の原因は私の力不足。アピール力がなかった」と頭を下げた。敗因を「総選挙と同日になり、報道も国民の関心も、総選挙に集中した。政策中心の選挙に持ち込めなかった」と分析し、政党の支持を受けなかったことを「無党派で戦う力の限界があったのかもしれない」と話した。
◇原点に戻れた−−笹川氏:午後9時前に台東区の事務所に現れた笹川尭(たかし)氏(77)はすがすがしい表情で「ありがとうございました」と頭を下げた。報道陣に感想を問われると「政党や大きな団体の支援を受けず、手作りでやり切った」と満足げ。幼少期を過ごした東京での初の選挙戦に「この年になって原点に戻れた」と笑顔も見せた。選挙戦では五輪招致を強く訴え続け、この日も今後について「中国を敵に回して招致は実現しない」と注文をつけた。
<猪瀬氏の主な選挙公約>
◇電力エネルギー改革:東京湾の老朽火力発電所を最新鋭の天然ガス火力に置き換える。島しょ部で地熱・太陽光・風力などの活用を図る
◇地下鉄一元化:東京メトロと都営地下鉄の経営統合を視野に、不便な乗り継ぎを解消。混雑を緩和し、バリアフリー化を進め、運賃を下げる
◇教育再生と子育て支援:周産期医療、リスクの高い小児医療を充実。「言葉の力」再生プロジェクトで子供の思考力を高める
◇「安心都市」実現:高齢者のケア付き住宅を1万戸に。緊急医療ネットワークを充実させる
◇雇用を守る:国の職業紹介機能を都に移管する。高齢者や女性、若者の雇用機会を増やす
◇羽田空港国際化:深夜早朝のアクセス利便性を高め、国際線発着枠を9万回に拡張する
◇五輪招致:20年東京五輪を招致し、この国の閉塞(へいそく)感を突破する
◇「東京都・発」ビジネスをコンテンツ産業や先端的ものづくりを支援。水道事業や技術力のある中小企業の海外進出をバックアップする
◇首都直下型地震への備え:木造密集地域の不燃化、緊急輸送道路沿道の建築物耐震化を加速し、首都高などのインフラ老朽化対策を急ぐ 〔毎日新聞 2012年12月17日 東京朝刊〕
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、『花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ』とも、『障る事ありてまからで』なども書けるは、『花を見て』と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、『この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし』などは言ふめる。/万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて持ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。/すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにもみえず、興ずるさまも等閑(なおざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取らぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。/さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。『見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり』とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、『渡り候ふ』と言ふ時に、おのおの肝潰るるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見洩さじとまぼりて、『とあり、かかり』と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、『また渡らんまで』と言ひて下りぬ。ただ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゆしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。/何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。
かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。烏部野・船岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。/されば、棺を鬻く(ひさく)者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。/継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて(もてあそびて)、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。
口語訳:
桜は満開、月は満月だけが見る価値があるべきものなのか。雨の日に月を恋しく思い、簾(すだれ)を垂れて部屋にこもって、春の行方を知らないでいるのも情趣が深い。花が咲く頃の梢であるとか、散って萎れた花びらが舞う庭だとかにも見所がある。歌の詞に『花見に参ったのに、早くも散り過ぎていて』とか、『支障があって、花を見ることができず』などと書くのは、『花を見て』と言うのに劣っているのだろうか。花が散り、月が傾くのを恋しく慕うのは習いであるが、特にあわれの感情を知らない人は、『この枝も、あの枝も散りに散っていて、すでに見所がない』なんて言ってしまうものだ。
あらゆる事は、始めと終わりこそが興味深いものなのだ。男女の情趣というのも、いちずに逢って抱き合うことだけを言っているのだろうか。逢えない事を憂いて、儚い約束を嘆いて、長い夜を独りで明かして、遠い雲の下に相手を思い、荒野の宿に昔の恋を偲んでいる。こういったことも、色恋の情趣と言えるだろう。千里の果てまで満月の明かりが照らしているのを眺めているよりも、夜明け近くになって漸く持っていた月が雲の隙間から見えた時のほうが、とてもその月の青さが心に深く染み渡ってくるものだ。青い月の下に見える深い山の杉の木の影、雨雲の隠れる具合など、この上なく感慨深い。椎柴・白樫の木などの濡れたような葉の上に月の光がきらめくのが身に沁みてきて、情趣を解する友と一緒に見れたならと思い、都のことが恋しくなる。
月や花はすべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができ。それはそれでとても楽しくて味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、何だか等閑に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下ににじり寄って、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って、最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。田舎者は、夏の泉には必ず手足を浸すものだし、雪見では雪に降り立って足跡をつけてしまい、全ての物をそっと静かに見守るということができない。
そのような人たちの祭見物の様子も、とても珍しいものである。『祭の行列がなかなか来ないな。それまでは桟敷にいてもどうしようもない』などと言って、奥の部屋で、酒を飲み物を食べて、囲碁・双六で遊んでいる。桟敷には人を残しておいて、『行列が来たぞ』と聞けば、それぞれが心臓が止まるような勢いで桟敷まで争い走っていく。あわや落ちるんじゃないかという所まで手すりにはりついて、押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守って『あれとか、それとか』と何かが前を通るたびに言い合っている。祭りの行列が渡り過ぎてしまうと『また来るまで』と言って桟敷を下りていく。ただ、物だけを見ようとしているようだ。反対に、都の人は、眠っているかのようでいて、祭を見ていないかのようである。その主人に仕える若い人たちは、常に立ち働いていて主人の後ろに控えているが、彼らは行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見ようとすることはない。
賀茂祭では葵の葉を何となく掛けていて、優雅な感じがしているのだが、夜も明けきらないうちに、車が忍んで寄せてくるのである。その車の持ち主は誰だろうと思って近づいていくと、牛飼や下部などの中には見知った者もいる。祭りは面白くて、きらきらとしていて、さまざまな人たちが行き交っている、見ているだけで退屈することもない。日が暮れる頃には、並んでいた車や所狭しと集まっていた人たちもどこかへと去ってしまい、間もなく車も人もまばらになってくる。車たちの騒がしい行き来がなくなると、簾や畳も取り払われて、目の前は寂しげな様子になってくる。そんな時には世の無常の喩えも思い出されて、あわれな感慨が起こってくる。祭りは最後まで見てこそ、祭りを見たということができるのではないだろうか。
祭りが通る桟敷を行き交う人々には見知った顔も多くあるので、無常を知ることになる。世の中には非常に大勢の人たちがいるが、この人たちがみんな死んでしまった後にさて自分が死ぬ番ですよと決まったとしても、死ぬまでにはそれほど長く待つこともないだろう。大きな器に水を入れて底にキリで穴を開けると、少しずつ水が滴り落ちていくといっても、止まることなく水が漏れていくのであれば水はすぐに尽きてしまうだろう。都に人は多いが、人の死なない日はない。一日に死ぬのは一人や二人ではないだろう。烏部野や船岡、そのような野山に送る死者の多い日はあっても、誰も送らない日はない。
だから、棺というのは作っても作ってもゆっくり置いておく暇すらないのだ。死は若い人であっても、強い人であっても、思いがけない時に訪れる。今日まで死を逃れて生きてきたのは、ありえないほどに不思議なことだ。そうすると、この世の中がのどかだなんて思えない。
双六の石で『継子立て』というサイコロを作り、出た目の数字のコマに置いている石を取っていく遊びがあるが、石を並べた時には、どの石が取られるのかはわからない。サイコロを振ってその数のコマにある石を取っていくと、その他の石は今は取られることを逃れたように見えるが、実際にはサイコロを振り続けてあれこれ出た目を取っていくうちに、どの石も最期には必ず取られる運命であることが分かってくる。これは人の死に似ているのだ。出陣した兵は、死が近いことを知って、家を忘れ、我が身のことも忘れる。世に背いて出家した世捨て人の草庵では、静かに水石をもてあそんで、死をどこかに忘れようとするが、それはとても儚いことだ。静かな山奥にも、死という無常の敵は競って現れるもので、どこに居ようとも、死に臨む事は戦場にいるのと同じなのである。
かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。烏部野・船岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。/されば、棺を鬻く(ひさく)者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。/継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて(もてあそびて)、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。
口語訳:
桜は満開、月は満月だけが見る価値があるべきものなのか。雨の日に月を恋しく思い、簾(すだれ)を垂れて部屋にこもって、春の行方を知らないでいるのも情趣が深い。花が咲く頃の梢であるとか、散って萎れた花びらが舞う庭だとかにも見所がある。歌の詞に『花見に参ったのに、早くも散り過ぎていて』とか、『支障があって、花を見ることができず』などと書くのは、『花を見て』と言うのに劣っているのだろうか。花が散り、月が傾くのを恋しく慕うのは習いであるが、特にあわれの感情を知らない人は、『この枝も、あの枝も散りに散っていて、すでに見所がない』なんて言ってしまうものだ。
あらゆる事は、始めと終わりこそが興味深いものなのだ。男女の情趣というのも、いちずに逢って抱き合うことだけを言っているのだろうか。逢えない事を憂いて、儚い約束を嘆いて、長い夜を独りで明かして、遠い雲の下に相手を思い、荒野の宿に昔の恋を偲んでいる。こういったことも、色恋の情趣と言えるだろう。千里の果てまで満月の明かりが照らしているのを眺めているよりも、夜明け近くになって漸く持っていた月が雲の隙間から見えた時のほうが、とてもその月の青さが心に深く染み渡ってくるものだ。青い月の下に見える深い山の杉の木の影、雨雲の隠れる具合など、この上なく感慨深い。椎柴・白樫の木などの濡れたような葉の上に月の光がきらめくのが身に沁みてきて、情趣を解する友と一緒に見れたならと思い、都のことが恋しくなる。
月や花はすべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができ。それはそれでとても楽しくて味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、何だか等閑に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下ににじり寄って、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って、最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。田舎者は、夏の泉には必ず手足を浸すものだし、雪見では雪に降り立って足跡をつけてしまい、全ての物をそっと静かに見守るということができない。
そのような人たちの祭見物の様子も、とても珍しいものである。『祭の行列がなかなか来ないな。それまでは桟敷にいてもどうしようもない』などと言って、奥の部屋で、酒を飲み物を食べて、囲碁・双六で遊んでいる。桟敷には人を残しておいて、『行列が来たぞ』と聞けば、それぞれが心臓が止まるような勢いで桟敷まで争い走っていく。あわや落ちるんじゃないかという所まで手すりにはりついて、押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守って『あれとか、それとか』と何かが前を通るたびに言い合っている。祭りの行列が渡り過ぎてしまうと『また来るまで』と言って桟敷を下りていく。ただ、物だけを見ようとしているようだ。反対に、都の人は、眠っているかのようでいて、祭を見ていないかのようである。その主人に仕える若い人たちは、常に立ち働いていて主人の後ろに控えているが、彼らは行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見ようとすることはない。
賀茂祭では葵の葉を何となく掛けていて、優雅な感じがしているのだが、夜も明けきらないうちに、車が忍んで寄せてくるのである。その車の持ち主は誰だろうと思って近づいていくと、牛飼や下部などの中には見知った者もいる。祭りは面白くて、きらきらとしていて、さまざまな人たちが行き交っている、見ているだけで退屈することもない。日が暮れる頃には、並んでいた車や所狭しと集まっていた人たちもどこかへと去ってしまい、間もなく車も人もまばらになってくる。車たちの騒がしい行き来がなくなると、簾や畳も取り払われて、目の前は寂しげな様子になってくる。そんな時には世の無常の喩えも思い出されて、あわれな感慨が起こってくる。祭りは最後まで見てこそ、祭りを見たということができるのではないだろうか。
祭りが通る桟敷を行き交う人々には見知った顔も多くあるので、無常を知ることになる。世の中には非常に大勢の人たちがいるが、この人たちがみんな死んでしまった後にさて自分が死ぬ番ですよと決まったとしても、死ぬまでにはそれほど長く待つこともないだろう。大きな器に水を入れて底にキリで穴を開けると、少しずつ水が滴り落ちていくといっても、止まることなく水が漏れていくのであれば水はすぐに尽きてしまうだろう。都に人は多いが、人の死なない日はない。一日に死ぬのは一人や二人ではないだろう。烏部野や船岡、そのような野山に送る死者の多い日はあっても、誰も送らない日はない。
だから、棺というのは作っても作ってもゆっくり置いておく暇すらないのだ。死は若い人であっても、強い人であっても、思いがけない時に訪れる。今日まで死を逃れて生きてきたのは、ありえないほどに不思議なことだ。そうすると、この世の中がのどかだなんて思えない。
双六の石で『継子立て』というサイコロを作り、出た目の数字のコマに置いている石を取っていく遊びがあるが、石を並べた時には、どの石が取られるのかはわからない。サイコロを振ってその数のコマにある石を取っていくと、その他の石は今は取られることを逃れたように見えるが、実際にはサイコロを振り続けてあれこれ出た目を取っていくうちに、どの石も最期には必ず取られる運命であることが分かってくる。これは人の死に似ているのだ。出陣した兵は、死が近いことを知って、家を忘れ、我が身のことも忘れる。世に背いて出家した世捨て人の草庵では、静かに水石をもてあそんで、死をどこかに忘れようとするが、それはとても儚いことだ。静かな山奥にも、死という無常の敵は競って現れるもので、どこに居ようとも、死に臨む事は戦場にいるのと同じなのである。
西洋では継子立てと同じようなやり方が実際に行われていたという。古代ローマでdecimatio〔デシメイティオ、10分の1刑〕と呼ばれる慣習がそれである。これは軍隊においてひとつの隊が規律違反などの罪に問われた時、隊員を円形に並べて10番目、10番目に当たるものを何人か選び出して、その者たちを処罰してあとの者は許すというものである。
継子立てに相当するものを西洋では「Josephus(ヨセフス)の問題」と呼んでいるが、これは370年ごろにHegesippus(ヘゲシッパス)の筆名で書かれた次の物語に由来している。
ユダヤ人はローマに反抗して独立戦争を起こしたときのこと、ユダヤ側の総司令官Josephus(ヨセフス)はGalilee(ガリラヤ)の町Jotapata(ヨタパタ)がローマ人に包囲されて籠城したが、ローマ軍に包囲され46日で陥落した。Josephus(ヨセフス)は同国人40人とともに穴に隠れたが、Josephusと彼の友人は何とかして生き延びたいと思っていた。しかし、他の同志たちは捕虜になるよりも集団自決を図ろうと決意していたので反対することも出来なかった。いざ自決というときになって、Josephusは一計を案じ、全員を円形に並べ、3番目、3番目…に当たるものを選び出して、順に他の同志に殺してもらい、最後の1人は自殺をするという方法を提案した。これが承認されたので得たりとばかり、Josephusと友人は16番目と31番目に位置して、最後まで残ることに成功して、九死に一生をえたという。
この話はJosephusの表わした『ユダヤ戦記』に出てくるので、継子立ての件〔実際は籤引きであったらしい〕以外はほぼ史実通りであるという。西暦67年ユダヤ独立戦争の折、総司令官であったJosephusは、Jotapata(ヨタパタ)の戦いに敗れ、以上のような経過の後、友人とともにローマ軍に投降する。そしてローマ軍の客分の待遇を受けながら、自国ユダヤの滅亡を見ることになるのである。
※Flavius Josephus〔フラウィウス・ヨセフス、37~100年頃):帝政ローマ期の政治家及び著述家。66年に勃発したユダヤ戦争で当初ユダヤ軍の指揮官として戦ったがローマ軍に投降し、Titus〔ティトゥス、39~81年、エルサレム攻略の司令官〕の幕僚としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃。後にこの顛末を記した『ユダヤ戦記』を著した。
このヨセフスの問題で最も有名なのは「トルコ人とキリスト教徒の問題」である。これは非常に古い問題で、1848年にN、Chuquet(シューケー)という人の著したフランスの本にあり、11世紀や10世紀の写本の中にもあるといわれる。
キリスト教徒15人、トルコ人〔異教徒〕15人が同船した船が暴風雨にあって難破し、15人を海に投じなければ沈没は免れない事態になった。そこで船長は全員を円形に並べ、9番目、9番目…に当たるものを順次海に投じることにした。この時、船長は左図のように並べた。白丸がキリスト教徒、黒丸がトルコ人を表わしている。この船長の策略によって、キリスト教徒は全員救われたのである。
この配置を覚えるための覚え歌が、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語などで作られているそうである。
日本語でも「沿道に 咲く花散りぬ 秋彼岸」という、俳句風のものが作られているらしい。これらをローマ字書きして、母音だけを取り出して、a=1、i=2、u=3、e=4、o=5とすれば、出発点から、時計回りの配置が再現されるのである。
Endo ni saku hana chirinu aki higan
白(キリスト教徒)、黒(トルコ人)を eoiauaaiiuaiia=45213112231221 と交互に並べていけばよいのである。
継子立てに相当するものを西洋では「Josephus(ヨセフス)の問題」と呼んでいるが、これは370年ごろにHegesippus(ヘゲシッパス)の筆名で書かれた次の物語に由来している。
ユダヤ人はローマに反抗して独立戦争を起こしたときのこと、ユダヤ側の総司令官Josephus(ヨセフス)はGalilee(ガリラヤ)の町Jotapata(ヨタパタ)がローマ人に包囲されて籠城したが、ローマ軍に包囲され46日で陥落した。Josephus(ヨセフス)は同国人40人とともに穴に隠れたが、Josephusと彼の友人は何とかして生き延びたいと思っていた。しかし、他の同志たちは捕虜になるよりも集団自決を図ろうと決意していたので反対することも出来なかった。いざ自決というときになって、Josephusは一計を案じ、全員を円形に並べ、3番目、3番目…に当たるものを選び出して、順に他の同志に殺してもらい、最後の1人は自殺をするという方法を提案した。これが承認されたので得たりとばかり、Josephusと友人は16番目と31番目に位置して、最後まで残ることに成功して、九死に一生をえたという。
この話はJosephusの表わした『ユダヤ戦記』に出てくるので、継子立ての件〔実際は籤引きであったらしい〕以外はほぼ史実通りであるという。西暦67年ユダヤ独立戦争の折、総司令官であったJosephusは、Jotapata(ヨタパタ)の戦いに敗れ、以上のような経過の後、友人とともにローマ軍に投降する。そしてローマ軍の客分の待遇を受けながら、自国ユダヤの滅亡を見ることになるのである。
※Flavius Josephus〔フラウィウス・ヨセフス、37~100年頃):帝政ローマ期の政治家及び著述家。66年に勃発したユダヤ戦争で当初ユダヤ軍の指揮官として戦ったがローマ軍に投降し、Titus〔ティトゥス、39~81年、エルサレム攻略の司令官〕の幕僚としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃。後にこの顛末を記した『ユダヤ戦記』を著した。
このヨセフスの問題で最も有名なのは「トルコ人とキリスト教徒の問題」である。これは非常に古い問題で、1848年にN、Chuquet(シューケー)という人の著したフランスの本にあり、11世紀や10世紀の写本の中にもあるといわれる。
キリスト教徒15人、トルコ人〔異教徒〕15人が同船した船が暴風雨にあって難破し、15人を海に投じなければ沈没は免れない事態になった。そこで船長は全員を円形に並べ、9番目、9番目…に当たるものを順次海に投じることにした。この時、船長は左図のように並べた。白丸がキリスト教徒、黒丸がトルコ人を表わしている。この船長の策略によって、キリスト教徒は全員救われたのである。
この配置を覚えるための覚え歌が、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語などで作られているそうである。
日本語でも「沿道に 咲く花散りぬ 秋彼岸」という、俳句風のものが作られているらしい。これらをローマ字書きして、母音だけを取り出して、a=1、i=2、u=3、e=4、o=5とすれば、出発点から、時計回りの配置が再現されるのである。
Endo ni saku hana chirinu aki higan
白(キリスト教徒)、黒(トルコ人)を eoiauaaiiuaiia=45213112231221 と交互に並べていけばよいのである。
継子立ての物語は、「塵劫記」によれば、次のようにある。
子供を30人持った母親がいたが、子のうち15人は継子(先妻の子)だった。ある日、母親はこの子らを円形に並ばせて、10番目、10番目にあたるものを除いていって、一番最後に残ったものにこの家を継がせると言った。いざ数えてみると、継子ばかり除かれていって、継子の最後の一人も覗かれることになった。そこで継子の最後の一人が、「これではあまりにも不公平ではありませんか。これ以後は私から数え始めて見て下さい。」と言った。言い分が尤もなので、母親もやむなくその通りにすると、今度は実子ばかり除かれて、最後にその継子が残ったという。
この配列を示したのが図1で、白丸が実子、黒丸が継子を表わしており、甲から時計回りに数え始める。乙が最後に残った継子の位置である。
継子立ては我が国では古くから知られていたらしい。一説には藤原道憲の作ともいわれている。通憲は博学多才の人として知られており、継子立ての作者として似つかわしい人物ではあるが、その根拠がはっきりしない。古い文献で「継子立て」の名が出てくるのは『徒然草』137段「花の盛りに…」の条(くだり)で、人の死を継子立てに譬えている。『徒然草』には継子立ての名前が出てくるだけであるが、鎌倉時代末期に書かれたと見られる『二中礫』には
〈二一三五二二四一一三一二二一〉と塵劫記の配列と同じ配列が示されている。(図1参照)
また、「一説云 一々三二一三二々三二」と記されており、20人の場合の継子立ても古くから知られていたことが判る。
※藤原通憲〔みちのり、〕:1106-1160、平安時代後期の公家、学者。嘉承(かじょう)元年生まれ。藤原実兼(さねかね)の長男。少納言で官途に見切りをつけ出家。鳥羽(とば)上皇、後白河天皇に近侍し、保元(ほうげん)の乱に勝利して政治的手腕をふるった。のち藤原信頼と対立、平治(へいじ)の乱で信頼方に捕らえられ、平治元年12月13日殺された。54歳。博学多才で、編著に「本朝世紀」「法曹類林」など。法名は信西(しんぜい)。本年のNHK大河ドラマ「平清盛」で、阿部サダヲが演じていた。
※二中歴:二中歴(にちゅうれき)は、鎌倉時代初期に成立したとされる事典である。/その内容は、平安時代後期に成立した「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」の内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存するのみとなっており、二中歴がこれらの存在を知る手がかりとなっている。/掌中歴と懐中歴は三善為康〔1049~1139年、平安時代後期の貴族・算道家〕の手による、平安時代後期のものと推定されているが、二中歴の編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている。/尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年~1221年頃の成立であると考えられている。
子供を30人持った母親がいたが、子のうち15人は継子(先妻の子)だった。ある日、母親はこの子らを円形に並ばせて、10番目、10番目にあたるものを除いていって、一番最後に残ったものにこの家を継がせると言った。いざ数えてみると、継子ばかり除かれていって、継子の最後の一人も覗かれることになった。そこで継子の最後の一人が、「これではあまりにも不公平ではありませんか。これ以後は私から数え始めて見て下さい。」と言った。言い分が尤もなので、母親もやむなくその通りにすると、今度は実子ばかり除かれて、最後にその継子が残ったという。
この配列を示したのが図1で、白丸が実子、黒丸が継子を表わしており、甲から時計回りに数え始める。乙が最後に残った継子の位置である。
継子立ては我が国では古くから知られていたらしい。一説には藤原道憲の作ともいわれている。通憲は博学多才の人として知られており、継子立ての作者として似つかわしい人物ではあるが、その根拠がはっきりしない。古い文献で「継子立て」の名が出てくるのは『徒然草』137段「花の盛りに…」の条(くだり)で、人の死を継子立てに譬えている。『徒然草』には継子立ての名前が出てくるだけであるが、鎌倉時代末期に書かれたと見られる『二中礫』には
〈二一三五二二四一一三一二二一〉と塵劫記の配列と同じ配列が示されている。(図1参照)
また、「一説云 一々三二一三二々三二」と記されており、20人の場合の継子立ても古くから知られていたことが判る。
※藤原通憲〔みちのり、〕:1106-1160、平安時代後期の公家、学者。嘉承(かじょう)元年生まれ。藤原実兼(さねかね)の長男。少納言で官途に見切りをつけ出家。鳥羽(とば)上皇、後白河天皇に近侍し、保元(ほうげん)の乱に勝利して政治的手腕をふるった。のち藤原信頼と対立、平治(へいじ)の乱で信頼方に捕らえられ、平治元年12月13日殺された。54歳。博学多才で、編著に「本朝世紀」「法曹類林」など。法名は信西(しんぜい)。本年のNHK大河ドラマ「平清盛」で、阿部サダヲが演じていた。
※二中歴:二中歴(にちゅうれき)は、鎌倉時代初期に成立したとされる事典である。/その内容は、平安時代後期に成立した「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」の内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存するのみとなっており、二中歴がこれらの存在を知る手がかりとなっている。/掌中歴と懐中歴は三善為康〔1049~1139年、平安時代後期の貴族・算道家〕の手による、平安時代後期のものと推定されているが、二中歴の編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている。/尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年~1221年頃の成立であると考えられている。
塾友の忘年会から一夜あけて、naruちゃんの撮ってくれた写真を見ながら、一入感慨に耽ってみた。
Nenpai氏が、今年の9月に仁科を廻ってきた時の写真をアルバムにして爺婆に寄贈してくれた。早速各席に回して思い出を楽しんでもらった。最後に婆様とchabo&kayo女史にchieちゃんが加わって、思い出に浸っていた。chabo女史はこの爺にブログを勧めてくれたお方。kayoちゃんとは夏期学校以来のお友だちで、大学生時代から、何かあるとよく塾舎に相談に来ていいた。現在は佳き母親であり、chabo女史にはお孫さんもいる。
今年の忘年会は「お久し振り」の方が例年より多かったようである。/chakiちゃんは皆さんもよくご存知、とあるリハビリテーション病院の院長先生。K大医学部の後輩でリハビリを専攻した塾友のarita先生を誘ってきてくれた。2人とも兼愛塾の夏期学校では医務を担当してくれた。/kananiちゃんがjunkoちゃんを誘って参加してくれた。Kanamiちゃんは此処のところ、爺のブログのコメント蘭に「つぶやき」を書き込んでくれている。すでに、30回を過ぎるほど投稿してくれている。junkoちゃんは面白い子で、夏期学校で、食事時に当時50代であった座っている塾長の後ろを通り抜けながら、さも大発見をしたように、「あっ、塾長にはつむじがないわ!!」と叫んで笑わせてくれた。/そんなに老けて見えていたわけではないのだが、後輩たちからnenpai呼ばれていたK氏が同期のikuta氏を誘ってつれてきてくれた。彼は指導員として夏期学校を手伝ってくれていたころ、試胆会が苦手で、(やはり同期のY氏と)お化けにて宿舎の裏手で待ち構えている所へ見回りに来た塾長を本物のお化けと見間違えて腰を抜かしたお方である。/昨年2月に亡くなっmaichiの同期の花のニッパチの連中はnabe・chaki・shingo・arakidaの諸氏が参加してくれたが、中でも珍しく紅一点miyukiちゃんが参加してくれた。/今回の参加者の中では一番若かったのはwanさん・misakoちゃん夫妻の(4人の娘達の内の末娘)makiちゃんであった。しばらく見なかったうちに立派な女医さんになって、一瞬誰だか見当もつかなかった。
思い出してみると、今回の忘年会に参加してくれた方々の内、爺婆が仲人をつとめさせて戴いた方々が6組ある。nabeちゃん夫妻は2人の娘さんもち、旦那の方は、来年2月の東京マラソンに、takaya・mitsuhiro氏とともに出場するそうである。毎回wanさん夫妻とともにこの忘年会の世話役を務めてくれている。この会がこのように毎年続いているのも、この2組のカップルのお蔭である。/masao氏・minoちゃんの荒井夫婦もニューオータニで、縁結びの役を承った。いやはや、スピーチで話すことが多くて、皆さんにとんだ迷惑を掛けて顰蹙を買ってしまった。あれもこれも縁の深さのなせること、お許しあれ。今は、一女一男の父親・母親として子育ても一段落ついたことだと思う。その後、爺婆の銀婚式の催しや還暦のお祝いなど何かと世話役を買って出てくれた。/takaya氏はminoちゃんの紹介で、makiちゃんと結ばれ、爺婆で仲人をつとめさせて戴いた。現在は2人の男子の子育てを終え田ところである。来年は東京マラソンの抽籤に当たったということである。/ikuoちゃんは中国は大連へ出向、足の負傷などで欠席していたが、久し振りに出席。奥方のkeikoちゃんも塾友で、yoshikazu氏のお姉さん。一女・一男の子育ても終わる頃である。/久し振りと言うより、初めて忘年会に参加したikuta氏、奥さんのmayoさんとは大学時代に考古学の研究会で知り合ったという。毎年、正月には年始の挨拶に来訪してくれる。/mitsuhiro氏は、永田家4男1女の末っ子。同じ塾友のmichiーと結ばれた。2男の子育ての最中というところか。爺のパソコンの先生でもある。
いやはや、感慨に浸っていると際限(キリ)がない。「仁科の海」を作曲してくれたkuriちゃんのこと、入社試験で「三社祭には会社を休ませて欲しい」と言ったtakao氏のこと、夏期学校で働いてくれたお礼に、ストリップ見学に日劇ミュージックホールに連れていた?女史のこと等々、又の日に改めて書くこともあろうと思うが、皆さんも思い出す面白い事柄があれば、メールして欲しい。 では、どうぞ佳き年をお迎えくだされ。
Nenpai氏が、今年の9月に仁科を廻ってきた時の写真をアルバムにして爺婆に寄贈してくれた。早速各席に回して思い出を楽しんでもらった。最後に婆様とchabo&kayo女史にchieちゃんが加わって、思い出に浸っていた。chabo女史はこの爺にブログを勧めてくれたお方。kayoちゃんとは夏期学校以来のお友だちで、大学生時代から、何かあるとよく塾舎に相談に来ていいた。現在は佳き母親であり、chabo女史にはお孫さんもいる。
今年の忘年会は「お久し振り」の方が例年より多かったようである。/chakiちゃんは皆さんもよくご存知、とあるリハビリテーション病院の院長先生。K大医学部の後輩でリハビリを専攻した塾友のarita先生を誘ってきてくれた。2人とも兼愛塾の夏期学校では医務を担当してくれた。/kananiちゃんがjunkoちゃんを誘って参加してくれた。Kanamiちゃんは此処のところ、爺のブログのコメント蘭に「つぶやき」を書き込んでくれている。すでに、30回を過ぎるほど投稿してくれている。junkoちゃんは面白い子で、夏期学校で、食事時に当時50代であった座っている塾長の後ろを通り抜けながら、さも大発見をしたように、「あっ、塾長にはつむじがないわ!!」と叫んで笑わせてくれた。/そんなに老けて見えていたわけではないのだが、後輩たちからnenpai呼ばれていたK氏が同期のikuta氏を誘ってつれてきてくれた。彼は指導員として夏期学校を手伝ってくれていたころ、試胆会が苦手で、(やはり同期のY氏と)お化けにて宿舎の裏手で待ち構えている所へ見回りに来た塾長を本物のお化けと見間違えて腰を抜かしたお方である。/昨年2月に亡くなっmaichiの同期の花のニッパチの連中はnabe・chaki・shingo・arakidaの諸氏が参加してくれたが、中でも珍しく紅一点miyukiちゃんが参加してくれた。/今回の参加者の中では一番若かったのはwanさん・misakoちゃん夫妻の(4人の娘達の内の末娘)makiちゃんであった。しばらく見なかったうちに立派な女医さんになって、一瞬誰だか見当もつかなかった。
思い出してみると、今回の忘年会に参加してくれた方々の内、爺婆が仲人をつとめさせて戴いた方々が6組ある。nabeちゃん夫妻は2人の娘さんもち、旦那の方は、来年2月の東京マラソンに、takaya・mitsuhiro氏とともに出場するそうである。毎回wanさん夫妻とともにこの忘年会の世話役を務めてくれている。この会がこのように毎年続いているのも、この2組のカップルのお蔭である。/masao氏・minoちゃんの荒井夫婦もニューオータニで、縁結びの役を承った。いやはや、スピーチで話すことが多くて、皆さんにとんだ迷惑を掛けて顰蹙を買ってしまった。あれもこれも縁の深さのなせること、お許しあれ。今は、一女一男の父親・母親として子育ても一段落ついたことだと思う。その後、爺婆の銀婚式の催しや還暦のお祝いなど何かと世話役を買って出てくれた。/takaya氏はminoちゃんの紹介で、makiちゃんと結ばれ、爺婆で仲人をつとめさせて戴いた。現在は2人の男子の子育てを終え田ところである。来年は東京マラソンの抽籤に当たったということである。/ikuoちゃんは中国は大連へ出向、足の負傷などで欠席していたが、久し振りに出席。奥方のkeikoちゃんも塾友で、yoshikazu氏のお姉さん。一女・一男の子育ても終わる頃である。/久し振りと言うより、初めて忘年会に参加したikuta氏、奥さんのmayoさんとは大学時代に考古学の研究会で知り合ったという。毎年、正月には年始の挨拶に来訪してくれる。/mitsuhiro氏は、永田家4男1女の末っ子。同じ塾友のmichiーと結ばれた。2男の子育ての最中というところか。爺のパソコンの先生でもある。
いやはや、感慨に浸っていると際限(キリ)がない。「仁科の海」を作曲してくれたkuriちゃんのこと、入社試験で「三社祭には会社を休ませて欲しい」と言ったtakao氏のこと、夏期学校で働いてくれたお礼に、ストリップ見学に日劇ミュージックホールに連れていた?女史のこと等々、又の日に改めて書くこともあろうと思うが、皆さんも思い出す面白い事柄があれば、メールして欲しい。 では、どうぞ佳き年をお迎えくだされ。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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