論語の子罕篇に「子曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。〔子(し)曰〔いわ)く、知者(ちしゃ)は惑(まど)わず。仁者(じんしゃ)は憂(うれ)えず。勇者(ゆうしゃ)は懼(おそ)れず。〕」とあり、また、憲問篇には「子曰。君子道者三。我無能焉。仁者不憂。知者不惑。勇者不懼。子貢曰。夫子自道也。〔子(し)曰(いわ)く、君子(くんし)の道(みち)なる者(もの)三(さん)あり。我(われ)能(よ)くする無(な)し。仁者(じんしゃ)は憂(うれ)えず、知者(ちしゃ)は惑(まど)わず、勇者(ゆうしゃ)は懼(おそ)れず。子貢(しこう)曰(いわ)く、夫子(ふうし)自(みずか)ら道(い)うなり。〕」とあり、孔子は知・仁・勇を君子の道と教えているのです。
子曰、好学近乎知。力行近乎仁。知恥近乎勇。知斯三者、則知所以脩身。知所以脩身、則知所以治人。知所以治人、則知所以治天下・国家矣。 礼記 中庸第三十一より
子曰く、学を好むは知に近く、力(つとめ)て行うは仁に近く、恥を知るは勇に近し、と。斯の三つの者を知れば、則ち身を脩むる所以(ゆえん)を知る。身を脩むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。人を治むる所以を知れば、則ち天下・国家を治むる所以を知る。
先生は言った。自分から好んで学問するものは、知徳を修めるのに近く、たえず励むものは、仁徳を修めるのに近く、恥と知って奮い立つものは勇徳を修める道に近いのである、と。この3つを知れば、どのように身を修めればよいのかの方法を知るであろう。身を修める方法を知れば、人を治める方法を知るであろう。人を治める方法を知れば、天下・国家を治める方法を知るであろう。
三徳とは、『書経』の洪範で述べられている洪範九疇と称される大法の一つで、人、または君主として守るべき三つの徳目のことです。
一曰正直、二曰剛克、三曰柔克。平康正直、彊弗友剛克、燮友柔克。沈潛剛克、高明柔克。 書経洪範九疇より
一に曰く正直、二に曰く剛克、三に曰く柔克。平らかに康ければ正しく直きをし、彊くして友[したが]わざれば剛く克[おさ]め、燮[やわ]らぎ友わば柔らかに克む。沈み潛めるは剛く克め、高ぶり明らかなれば柔らかに克む。
その第一は正直で、第二は剛克(ごうこく)、第三は柔克(じゅうこく)です。
公平で健全であるのが正直です。義を固く守り、しかも妄りに人を責めないのが剛克です。穏やかに他人と親和するのが柔克です。そして大地の深厚さのように深く謀を備えるにいたるのが剛克であり、広天の高明さのような聖知を備えるに至るのが柔克でございます。
「恕」を分解すると、「心の如し」となります。ここに言う「心」とは、相手の心、人様の心という意味で、人の立場に立って物事を考え行動せよ、ということです。「恕」は、「仁」と同義語のように扱われますが、「仁」を一歩進めて、「ゆるす」という意味を内包しています。「恕」とは、広い心で相手をゆるすことです。「恕」は、私たちの個人生活にも社会生活にも、事業の発展のためにも、大切な心がけであります。
孔子曰:「君子有三恕:有君不能事、有臣而求其使、非恕也;有親不能報、有子而求其孝、非恕也;有兄不能敬、有弟而求其聽令、非恕也。士明於此三恕、則可以端身矣。」 荀子 法行篇より
訳 孔子は、
「君子には三つの恕〔じょ、思いやり〕がある。君主がいて、それに良く仕えることができないで、自分の臣下によく仕えることを求めるのは恕ではない。自分の親に充分報いることができないのに、自分の子供には孝行をを尽くすことを求めるのは恕ではない。兄に対して敬意を以って仕えないのに、自分の弟には命令を聞けと要求するのは恕ではない。士たるものはこの三つの恕を明らかにすれば、身をただすことができる」と言った。
長・思・窮の三つを思うことを三思といいます。幼児には成長してからのことを思って学び、老いては死後のことを思って子孫を教え、富んでいる時は他日の困窮を思って人に施すことです。荀子は法行篇で、三恕に続いて、三思についても述べています。
孔子曰:「君子有三思而不可不思也:少而不學、長無能也;老而不教、死無思也;有而不施、窮無與也。是故君子少思長、則學;老思死、則教;有思窮、則施也。」 荀子 法行篇より
訳 孔子は、
「君子には三つの思(し)がある。これは誰も考えねばならないことである。少年時代に勉学しなければ、大人になって無能力者になる。年老いて人に教えなければ、死んでから慕われることがない。物を持っていて人に施さなければ、自分が困窮した時には誰も助けてくれない。だから君子は、少年時代には大人になった時のことを思って勉学し、年老いては、自分が死んだ時のことを思って人に教え、物を持っている時には、自分が困窮した時のことを思って人に施すのである」と言った。景公出獵,上山見虎,下澤見蛇。歸,召晏子而問之曰:「今日寡人出獵,上山則見虎,下澤則見蛇,殆所謂不祥也?」
晏子對曰:「國有三不祥,是不與焉。夫有賢而不知,一不祥;知而不用,二不祥;用而不任,三不祥也。所謂不祥,乃若此者。今上山見虎,虎之室也;下澤見蛇,蛇之穴也。如虎之室,如蛇之穴,而見之,曷為不祥也!」
晏子春秋-内篇[諫下第二][10]
景公出猟(しゅつりょう)す、山に上りて虎を見、澤に下りて蛇を見る。
帰す、晏子を召して之を問ひて曰く、 「今日、寡人(かじん)出猟す、山に上らば則ち虎を見、澤に下らば則ち蛇を見る、殆(ほとん)ど所謂不祥なりや」と。
晏子対へて曰く、「国に三不詳あり、是れ與(あずか)らず。夫れ賢有りて知らざるは一の不詳なり。知りて用ひざるは二の不詳なり。用ひて任せざるは三の不詳なり。所謂不詳とは、乃ち此の若(ごと)き者なり。
今、山に上りて虎を見しは、虎の室なり。澤に下りて蛇を見しは、蛇の穴なり。虎の室に如(ゆ)き、蛇の穴に如(ゆ)き、而して之を見る、曷為(なんす)れぞ不祥ならん、と。
景公が出猟した。山に登ると虎と出会い、沢に下ると蛇に出会った。帰って晏子を召して問うて云った。
「今日、吾は狩りをしたが、山に行けば虎に出会い、沢に行けば蛇に出会った。これは何か好ましくないことなのではないか」と。
すると晏子が答えて云った。「国には三つの不詳がありますが、そのような出来事とは違います。野に遺賢ありて知らぬこと、これ一の不詳です。賢あるを知りながら用いない、これ二の不詳です。賢を用いながら任せることができない、これ三の不詳です。いわゆる不詳と申しますのは、このような事をいうのです。
今、山に登って虎に出会うは虎の室であり、沢を下って蛇に出会うは蛇の穴に過ぎません。虎や蛇の棲みかに自ら赴いてこれに出会う、それがどうして好ましくないことになりましょう」と。老子偃武第三十一の言葉に「兵者不祥之器(兵は不祥の器なり)」というのがあります。不祥の器とは「不吉な道具」と言う意味です。軍事力は必要であるが、あくまでもそれは「不祥の器」、つまり必要悪で有って無闇にこれを使うことを戒めています。「悪だから即刻廃止」と声高に叫ばず必要悪と認めてその運用に釘を刺す老子の論は、現実を目にした結果なのでしょう。
不祥には 1.不吉であること 2.運の悪いこと と言う意味がありますが、「不祥事」となると「好ましくない事、不行き届きな事」と言う意味にもなります。
人有三不祥:幼而不肯事長,賤而不肯事貴,不肖而不肯事賢,是人之三不祥也。人有三必窮:為上則不能愛下,為下則好非其上,是人之一必窮也;鄉則不若,偝則謾之,是人之二必窮也;知行淺薄,曲直有以相縣矣,然而仁人不能推,知士不能明,是人之三必窮也。人有此三數行者,以為上則必危,為下則必滅。 荀子 悲相篇第五より
人に三不祥有り。幼にして長に事ふるを肯んぜず、賤にして貴に事ふるを肯んぜず、不肖にして賢に事ふるを肯んぜざるは、是れ人の三不祥なり。人に三必窮有り。上と爲りては則ち下を愛すること能はず、下と爲りては則ち好んで其の上を非るは、是れ人の一必窮なり。郷えば則ち若はず、背けば則ち之を謾るは、是れ人のニ必窮なり。智行淺薄にして、曲直有た以に相縣す、然り而して仁人に推すこと能はず、知士を明すること能はざるは、是れ人の三必窮なり。人にして此の數行有るは、以て上と爲りては則ち必ず危く、下と爲りては則ち必ず滅ばん。
人には三つの不届きな行為がある。幼少なのに年長者につかえることを喜ばず、卑賤なのに高貴につかえることを喜ばず、愚かなのに賢者につかえることを喜ばない。これが人として三つの不届きな行為である。また、人には三つの必ず困窮する行為がある。上位におりながら下の者を愛することができず、下位におりながら好んで上のものを非難するのは、人として必窮する第一である。面と向かっては従順でなく、裏に廻ると悪口をいうのは、人の必窮する第二である。知慮行動が浅薄で能力も人とかけ離れて劣るのに、仁人を推奨し、知者を尊ぶことができないのは人の必窮する第三である。
これらの行為のあるものは人の上に立てば必ず危険であり、人の下におれば必ず身を滅ぼすであろう。孟子は、小国である滕国の文公に招聘されることとなります。孟子が滕国の文公から仁政と税法について聞かれて、仁政の具体的なやり方を「古代の税制」を引いて答えました〔孟子 滕文公章句〕上〕。孟子は、井田で農作業をする8家族の百姓は、お互いに助け合う緊密な農業共同体となり、国家の生産力と防衛力の基盤となると考えました。この井田制は農本主義的なユートピアニズムなのでありますが、漢代の「限田制」やその後の「均田制」などに影響を与えました。井田制は、相互扶助的な共同体の建設につながるものであり、全ての百姓が平等な収穫を得るという社会主義思想(原始共産制)としての側面を色濃く持っています。
孟子曰、有布縷之征、粟米之征、力役之征、君子用其一、緩其二、用其二而民有殍、用其三而父子離。 孟子 盡心章句下より
孟子曰く、布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子其の一つを用いて、其の二つを緩(ゆる)くす。其の二つを用いて民殍(ひょう)有り。其の三つを用いて父子離る、と。
孟子は言う。
「税の取り方には、布や糸を出させるもの、穀物を出させるもの、労力を提供させるものの三種がある。よい政治家はその一つを用いたら、他の二つは緩めるものだ。その二つを併せ持ちいたなら、人民には飢えるものが出てくる。その三つを併せもちいたなら、父と子が離散することになるだろう」
※ 布や糸の貢納とは、後世の律令制度の調(ちょう)に当たります。同様に穀物の貢納は租(そ)に当たり、賦役は庸(よう)に当たります。朱子の注釈によれば、以上の課税はそれぞれ夏・秋・冬の季節に行なわれるべきものであるといいます。本章は、それを一辺(いっぺん)に行なえば人民は生活の維持ができずに疲弊するのだと主張しているとされています。
孟子曰、諸侯之寶三、土地・人民・政事、寶珠玉者殃必及身。 孟子 盡心章句下より
孟子曰く、諸侯の寶三つ。土地・人民・政事。珠玉を寶とする者、殃[わざわい]必ず身に及ぶ、と。
孟子はいう。
「諸侯の宝三つある。土地・仁民・政治がそれである。実物の宝玉をたからとする者には、逃れがたい不幸が必ずその身におよぶであろう」
次に述べる三区分は昨日のブログで述べた「萬章章句下」で検討された孔子の三通りの進退と照応しているようです。すなわち本章の一つ目の進退が、萬章章句下の『見行可(見て行なうべし)』の仕えに当たります。以下、本章二つ目の進退は『際可(際あり)』の仕えに、三つ目の進退は『公養(公に養う)』の仕えに当たるのでしょう。
陳子曰、古之君子、何如則仕。孟子曰、所就三、所去三。迎之致敬以有禮、言將行其言也、則就之。禮貌未衰、言弗行也、則去之。其次、雖未行其言也、迎之致敬以有禮、則就之。禮貌衰、則去之。其下、朝不食、夕不食、飢餓不能出門戶。君聞之曰、吾大者不能行其道、又不能從其言也。使飢餓於我土地、吾恥之。周之、亦可受也。免死而已矣。 孟子 告子章句下より
陳子曰く、古の君子、何如がすれば則ち仕う、と。孟子曰く、就く所三つ、去る所三つ。
之を迎うるに敬を致して以て禮有り、言うこと將に其の言を行わんとするときは、則ち之に就く。禮貌未だ衰えざれども、言行われざるときは、則ち之を去る。
其の次は、未だ其の言を行わずと雖も、之を迎うるに敬を致して以て禮有るときは、則ち之に就く。禮貌衰うるときは、則ち之を去る。
其の下は、朝に食らわず、夕に食らわず、飢餓して門戶を出づること能わず、と。君之を聞いて曰く、吾大いなるは其の道を行うこと能わず、又其の言に從うこと能わず。我が土地に飢餓せしめんこと、吾之を恥ず、と。之を周[すく]うときは、亦受く可し。死を免るるのみ、と。
弟子の陳子が
「昔の勝れた人物はどのような場合に仕えたのですか」
孟子は言った。
「仕える場合が三つ、辞職して去る場合が三つある。
①心から敬い、礼儀を尽くして招聘し『ご意見を実行いたしますから』と言って来たならば仕える。しかし、この場合には、主君の礼儀や尊敬の気持ちが始と変わりなくとも、意見が取り上げられなくなったときにはじしょくする。
②その次は『ご意見を実行いたしますから』とまでは言わなくとも、心から敬い、礼儀を尽くして招聘されたらつかえる。この場合は主君の礼儀や尊敬の気持ちが薄らいだなら、辞職して去る。
③最後は、朝も夕も食べ物がなく、飢えて家の外にも出られないほど困窮した時、領主がそれを聞いて『わたしは大にしては彼の道を実行することもできず、小にしてはその意見を取り上げることもできなかったが、さりとてわが領内で飢えさせてはわたしの恥だ』と言って救助の禄をくれる場合で、これは受けてもよい。しかし飢餓を免れる程度に止めなければならぬ」
※ 福沢諭吉はその著「徳育如何」の中で、去就について次のように述べています。
支那と日本の習慣の殊(こと)なるもの多し。就中(なかんずく)、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時代と、ひとしく封建なれども、その士人(しじん)の出処(しゅっしょ)を見るに、支那にては道行われざれば去るとてその去就(きょしゅう)はなはだ容易なり。孔子は十二君に歴事したりといい、孟子が斉(せい)の宣王(せんおう)に用いられずして梁の恵王を干(おか)すも、君に仕(つか)うること容易なるものなり。遽伯玉〔きょはくぎょく、中国春秋時代 衛の賢太夫〕の如き、「邦有道則仕(くにみちあらばつかえ)、邦無道則可巻而懐之(くにみちなくんばまきてこれをふところにすべし)」とて、自国を重んずるの念、はなはだ薄きに似たれども、かつて譏(そしり)を受けたることなきのみならず、かえって聖人の賛誉を得たり。これに反して日本においては士人の去就はなはだ厳(げん)なり。「忠臣二君に仕えず、貞婦両夫に見(まみ)えず」とは、ほとんど下等社会にまで通用の教にして、特別の理由あるに非ざればこの教に背(そむ)くを許さず。日支両国の気風、すなわち両国に行わるる公議輿論の、相異なるものにして、天淵(てんえん)ただならざるを見るべし。福沢諭吉によれば、孔子は12君に仕えたといいます。春秋戦国時代においては諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされました。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場しました。これを諸子百家といいますが、 諸侯はこれらを食客としてもてなし、その意見を取り入れました。だからこれらの諸士もある程度自由に自分の仕える主君を選ぶことができたのでしょう。孟子〔もうじ、書物を指す〕の萬章章句下は、弟子の萬章と孟子〔もうし、人物を指す〕との問答を通じて、孟子が歴史上の聖人賢人の行跡について述べたものです。
孔子之仕於魯也、魯人獵較孔子亦獵較、獵較猶可、而況受其賜乎、
曰、然則孔子之仕也非事道與、
曰、事道也、
曰、事道奚獵較也、
曰、孔子先簿正祭器、不以四方之食供簿正、
曰、奚不去也、
曰、爲之兆也、兆足以行矣而不行、而後去、是以未嘗有所終三年淹也、孔子有見行可之仕、有際可之仕、有公養之仕、於季桓子、見行可之仕也、於衛靈公、際可之仕也、於衛孝公、公養之仕也。 孟子 萬章章句下より
孔子の魯に仕えしときに、魯人獵較(りょうかく)したれば、孔子も亦獵較す。獵較だに猶可なり。而るを況や其の賜を受くるをや、と。
曰く、然るときは則ち孔子の仕うること、道を事とするに非ざるか、と。
曰く、道を事とす。道を事とせば奚(な)んぞ獵較する。
曰く、孔子先ず祭器を簿正して、四方の食を以て簿正に供えず、と。
曰く、奚んぞ去らざる、と。
曰く、之が兆を爲せり。兆以て行うに足れり。而れども行われず。而して後の去る。是を以て未だ嘗て三年を終うるまで淹(とど)まる所有らず。孔子見行可の仕え有り、際可の仕え有り、公養の仕え有り。季桓子に於ては、見行可の仕えなり。衛の靈公に於ては、際可の仕えなり。衛の孝公に於ては、公養の仕えなり、と。
孟子「…孔子が魯に仕えた時は、猟較(かりくらべ)といって狩をして獲物の多少を争い、その獲物を祭りに供するということが行なわれていたが、孔子は妙な風習だとは思いながらも俗に従ってやったのだ。猟較ですら許されるなら、贈り物を受けるぐらいは勿論許されるはずではないか」
萬章「それでは孔子が魯に仕えたのは道を行なうためではなかったのですか。」
孟子「道を行なうためだ」
萬章「道を行なおうとする者がどうして猟較などするのです」
孟子「孔子は是認したのではない。一挙に廃止するのは無理だと見て、先ず乱れていた祭祀の道具の数や供え物の種類を帳簿に照らして正した。しかし無理をして得難い四方の物を供えることはせず、猟較の風習に従って無理なく手に入る物を備えたのである。そうして、そのうちにおのずと猟較の風習が無くなることを期待したのである」
萬章「道が行なわれぬなら、孔子はなぜ魯を去らなかったのですか」
孟子「孔子は先ず道が行なえるかどうか試してみる。最初のうちは行なわれそうに見えても、結局行なわれないとなって、はじめて去るのであった。だから孔子は一国に三年と滞在したことはなかったのである。孔子には三種の仕え方があった。道の行なわれる可能性を見て仕える場合、礼儀を尽くして接待されたので仕える場合、国君の『賢者の貧窮』を救うという主旨から出た養い扶持を受けて仕える場合である。孔子が季桓子(きかんし)に仕えたのは第一の場合であり、衛の霊公に仕えたのは第二の場合であり、衛の孝公に仕えたのは第三の場合である。
※ 萬章が孔子の真意について疑問を発したところに対する孟子の回答で、本章はまとめられています。そこで孟子は孔子が取ったし仕え方を三種類に分類しているのです。魯の季桓子と衛の霊公は孔子の伝記にも出てくるのですが、衛の孝公という君主は記録に存在していません。孔子は衛に足掛け十年以上出たり入ったりし続けたが、その時期の君主は霊公とその孫の輒(ちょう)、すなわち出公(しゅっこう)の二名であります。だから、本章でいう孝公とは出公のことであるというのが定説のようです。
※ 猟較 狩猟をして獲物の獲り比べをする儀式のことです。本来は諸侯がやる行事であって、家臣がやることは越権行為であったといいます。萬章は家臣である孔子が越権行為である猟較に参加したのは道に外れることではないか尋ねたのです。浅草寺雷門の大提灯が新調されるらしい。今朝のウェブニュースより
浅草寺雷門の大提灯、6代目を新調 「松下」の名残す ―― 東京・浅草の浅草寺(せんそうじ)雷門につり下げる大提灯(ちょうちん)。半世紀前からパナソニック(旧松下電器産業)が奉納を続けてきた。11日、6代目が京都市山科区の高橋提灯の工房でできあがった。18日に浅草寺で奉納式がある。/大提灯は高さ3.9メートル、直径3.3メートル、重さ約700キロ。骨組みの丹波産の竹や、福井産コウゾを使った手漉(す)き和紙などの材料集めに1年かかった。文字に立体感を出すため、脚立に乗った職人らが薄墨でぼかしを入れて完成した。/請け負った高橋提灯(京都市下京区)の高橋康二(やすじ)会長(79)は「東京の風景を代表する大提灯を手がける重責を感じた」と話す。/始まりは53年前。寺側が、1865(慶応元)年に火災で焼失したままだった雷門と大提灯の再建を、パナソニック創業者の故松下幸之助氏に依頼した。/ほぼ10年おきに作り替えてきたが、提灯下部の「松下電器」の銘板はずっと同じもの。2008年に社名が変わり「松下」の名は社内から姿を消しつつあるが「創業者以来の縁に配慮」(広報)して、今回もそのまま使った。 〔朝日新聞デジタル2013年11月12日02時04分〕
三省(さんせい)とは毎日三度反省すること。1日に何度も自分の言行をふりかえってみて、過失のないようにすることです。「さんしょう」と読むと意味が違ってきます。
曾子曰。吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。 論語 学而篇より
曾子(そうし)曰(いわ)く、吾(われ)日(ひ)に三(み)たび吾(わ)が身(み)を省(かえり)みる。人(ひと)の為(ため)に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか。朋友(ほうゆう)と交(まじわ)りて信(しん)ならざるか。習(なら)わざるを伝(つた)うるか。
曾先生が仰った。「自分は毎日、幾度も自分の行いを反省している。人の相談にのった場合に、良心的で天はなかっただろうか。友達と交際して、不信実な点はなかっただろうか。またよく身についていない学問を教えてはいないだろうか、と」
※三省(さんしょう):唐の官制で、中書省・門下省・尚書省の称。それぞれの職掌は、①中書省 - 皇帝と相談して下からの上書を吟味してそれを元に、あるいは皇帝の独自の意思を元に、法案の文章を作る。②門下省 - 法案を審査し、内容によっては中書省へ差し戻す。中書・門下が立法機関である。③尚書省 - 門下省の審査を通った法案を行政化する。
sechin@nethome.ne.jp です。
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