瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 操作をどう間違えたのかスタート画面が消えてしまいました。どうやっても復元することが出来ず、何時ものようにMN氏に電話してパソコンを診てもらうことをお願いしました。
 早速今朝ほど駆けて付けてくれましたが、どうやら今まで打ち込んでいたワード記事やメールアドレスはみんな消えてしまっているようです。再度来訪して診て呉れる呉れるとのことですが、復元できるかどうかはわかりません。
 とにかく、ワードに変わる別の機能でブログを更新してみましたが、慣れないので、時間のかかること夥しです。

ウェブニュースより
 藤井四段、新人王戦4強入り逃す 佐々木四段に敗れる ――  将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が7日、東京都渋谷区将棋会館で指された第48期新人王戦(しんぶん赤旗主催)の準々決勝で、佐々木大地四段(22)に敗れ、ベスト4入りを逃した。通算成績は39勝6敗となった。

 新人王戦は26歳以下・六段以下の棋士、奨励会員、女流棋士らによって争われる新人の登竜門。藤井四段はこれまでも上州YAMADAチャレンジ杯、加古川青流戦と、若手棋士が参加する棋戦で準々決勝に進んだが、いずれも敗退した。対局後、藤井四段は「勝ち進めなかったのは残念ですけど、また実力をつけて挑戦したい」と話した。
 8月に棋王戦での敗退が決まり、中学生のうちにタイトルを取る可能性はなくなったが、全棋士参加の朝日杯将棋オープン戦やNHK杯テレビ将棋トーナメントなど、複数の一般棋戦で勝ち残っている。  (朝日新聞DIGITAL 2017年9月7日19時47分
https://www.youtube.com/watch?v=s-Y7nvBuwds

 本居宣長は『玉勝間』のなかで、今の『万葉集』には誤字が沢山ある、近来『万葉集』の研究雨に従事する学者が増え、誤字もかなり改正されてはきたが、まだまだ不十分である、誤字の箇所がはっきりしない間は読み方も完全に決まらない、誤字を誤字のまま強いて忠実に読みだそうとすれば、かえって無理を犯すことになるから注意しなければならない、と述べています。

 本文の誤りは由緒正しい伝本について訂正するのが正道です。たとえ原本は失われてしまっていても、現存する古写本を精密に比較対校すれば、本文の再建は相当のところまで可能となります。
 『万葉集』についても、一字一字が諸本の間でどのような相違を呈しているかをまず調査しなければなりませんでした。大正十三年七月、佐々木信綱・橋本進吉・千田憲・武田祐吉・久松潜一の五氏により、幾多の困難を克服して完成された『校本万葉集』は、以後の万葉研究を推進する画期的な基礎を築いたのです。

 「木(こ)の暮闇(くれやみ)」と解されている万葉語があります。原文の表記は「許能久礼罷」とあります。


    …… 許能久礼() ()(づき)し立てば 夜(ごも)りに 
   鳴く時鳥(ほととぎす) ……  万葉集巻一九 4166


 
 『全註釈』に「罷は訓仮字。闇の意。闇のミは乙類のはずであるのに、罷のミは甲類とみられる。またこのような訓仮字を使うのは本巻には例もないことで、おかしなことである」と言うように、「罷」をヤミと読んで「闇」の意に解することは決定的に困難なのであります。本居宣長は「罷は能の誤にて、コノクレノならん」と推定し、「木の暮の」と解しました。
 古写本に「罷」を「能」と書いているものが伝わっているのかどうかは『校本万葉集』には校異が示されていません。
 『西本願寺本万葉集』(鎌倉時代末写)の複製本には、本文はたしかに「罷」でありますが、上欄に小さく「能ィ」と書いてあります。「能」と書いた一本も存在するという古人の注記が『校本』では見落とされていたことになります。「むげに聞こえぬ所々などは、大かた誤字にぞ有りける」(玉勝間)と言い切った宣長ならではの眼力ではありませんか。


 


 漢字の羅列で歌を表記した『万葉集』は、平安時代に入ると早くも読めない歌集となります。
 『古今集』に次ぐ勅撰集として『後撰集』の編纂を志した村上天皇は、天暦五(951)年、宮中の梨壺に和歌所を置き五人の識者に『万葉集』の解読を行わせます。

 五人は苦心の結果、約四千首の歌の読み方をつけたといいますから、全体の9割近くをとにかく読んで見せたことになります。五人の中でも、特に源順(みなもとのしたごう)は当代屈指の学者であり歌人でもありました。読めない字の多さに困り切って、石山の観音に参詣します。
 帰路、大津の浦で背に荷物を積んだ馬に出会います。馬を引いていた馬子が馬荷を直しながら「までより(両手で)」と言います。その言葉を耳にした順は、かねて読みわずらっていた『万葉集』の「左右」という文字をマデと読むことに気づきます。

   幾代(いくよ)左右にか(巻一・0034)
   千代(ちよ)二手に(巻一・0079)
   舟泊(は)つる左右手(巻七・1189)
   すべなき諸手に(巻一〇・1997)
   部はいずれも助詞のマデです。
などと書かれた「左右」「二手」「左右手」「諸手」などの字が、助詞「まて」の表記であることを発見したのです。


 
 「左右」「二手」「左右手」「諸手」などの「まで」の語は、「かたて(片手)」の反対で両手を意味します。大きな船には両舷に櫓・櫂をつけ、これを「まかぢ」と言いました。

 巻一三(3280)には女性のいじらしい長歌があります。
   吾が背子は 待てど来まさず …… さな葛 後も逢はむと
         慰むる 心を持ちて 
            三袖(みそで)もち 床うち掃ひ ……
                 万葉集巻一三 3280
 一体、自分の衣の袖に「み袖」と敬語をつける言い方は腑に落ちません。「三袖」の「三」は「二」の誤字で「二袖(まそで)」だったのではないと推測します。
 自分の袖に景勝の接頭語を冠して「御袖(みそで)」というようなことはあり得ません。「わが背子は まてど来ませず…… 三袖(みそで)もち 床うち掃ひ」『万葉集』3280の「三袖」は、接頭語の用法に抵触します。

 「ミソデのミは接頭語、意味はない」とか、「ここでは慣用として自分の袖に言っている」とか苦しい説明が試みられてきましたが、「三」を「二」の誤字と考え、「二袖(まそで)」と読むならば疑問は一応氷解されます。「ま袖もち床うち払ひ」という句を使って詠んだ次の歌が参考になります。
   ま袖もち 床うち払ひ 君待つと
        居りし間に つき傾(かたぶ)きぬ
              万葉集巻一一 2667

 『万葉集』の原典さえ伝わっていれ問題は即座に解決するところでしょうが、原点は湮滅し、平安時代中期以降の転写本しか残っていないため、本文の文字面を知ることの不可能な箇所が少なからずあります。これも『万葉集』の解読を妨げている根本的な支障の一つに数えられているそうです。


 


ニュースより

  将棋の最多連勝記録を30年ぶりに更新した中学生棋士の藤井聡太四段が、3日、NHK杯のトーナメント戦で、永世名人の資格を持つトップ棋士の森内俊之九段と対局し、積極的に攻め続けて快勝しました。
 藤井聡太四段(15)は去年10月に史上最年少でプロ棋士になったあと、ことし7月の対局で敗れるまで公式戦で29連勝し、将棋の最多連勝記録を30年ぶりに更新しました。
 藤井四段は、3日、東京・渋谷のNHK放送センターで行われたNHK杯のトーナメント2回戦で、これまでタイトルを通算で12期獲得し永世名人の資格を持つ森内俊之九段(46)との対局に臨みました。
 NHK杯では通常、事前に収録した対局を放送していますが、今回は対局への関心の高さから生放送となりました。
 対局前、藤井四段は「生放送で注目される舞台なので全力を出し切りたいと思います」、森内九段は「長いプロ棋士生活の経験を生かした戦い方をしたいです」とそれぞれ意気込みを語り、午前10時すぎに対局が始まりました。
 対局は持ち時間の短い「早指し」で、藤井四段が積極的に攻める展開となりました。
 そして午前11時20分ごろ、森内九段が94手までで投了して藤井四段がトップ棋士を相手に快勝しました。

 藤井四段はNHK杯で、次は、ことし名人戦に挑んだトップ棋士の稲葉陽八段(29)とベスト8入りをかけて対局します。

 対局のあと、藤井四段は、「永世名人資格者の森内先生と対戦できて本当にうれしかったです。次もトップ棋士の先生が相手なので、精いっぱい全力を尽くしたいです」と話していました。
 森内九段は、「全体的にうまく指されてしまいました。藤井四段は、落ち着いた自然な指し手で、予想しない手もいくつかあり、感心しました」と話していました。  (NHK WEB 9月3日 12時17分)



 将棋、藤井四段が森内九段破る NHK杯、異例の生放送 ―― 将棋界最多の29連勝を達成した最年少プロ、藤井聡太四段(15)は3日、東京都内で指されたNHK杯トーナメント2回戦で永世名人の資格を持つ森内俊之九段(46)を破った。公式戦の通算成績は39勝5敗。
 森内九段はこれまでに名人8期など、タイトルを通算12期獲得したトップ棋士。社会現象にもなった中学生プロが、あらためて実力を示した。
 NHK杯は通常、対局を事前に収録して放送しているが、今回は関心の高さを考慮して異例の生放送となった。
 次回は7日、新人王戦でベスト4入りを懸け、佐々木大地四段(22)と対戦する。  (中日新聞 201793 1215分)
 


大相撲秋場所の番付発表 白鵬は東の横綱に ―― 来月10日に初日を迎える大相撲秋場所の番付が発表され、3場所連続40回目の優勝を目指す横綱・白鵬は東の横綱に座りました。

 白鵬は先場所、魁皇が持っていた1047勝の通算勝ち星の記録を塗り替えて記録を1050勝まで伸ばしました。また、みずからの最多優勝記録を更新する2場所連続39回目の優勝を果たし、横綱在位が10年を越えても実力が群を抜いていることを印象づけました。白鵬は今場所も東の横綱に座り、前人未到の40回目の優勝を目指します。
 また、三役では、先場所、小結で9勝をあげた嘉風が9場所ぶりに西の関脇に返り咲きました。35歳5か月の嘉風は、昭和以降に生まれた力士としては歴代最高齢での関脇です。
 新入幕は、先場所、西の十両5枚目で11勝をあげた高砂部屋の朝乃山、1人です。富山県出身の幕内力士は、平成7年の初場所まで幕内を務めた元関脇・琴ヶ梅以来、22年ぶりです。
 一方、先場所7勝8敗と負け越した大関・豪栄道は6回目の角番、先場所途中で休場した大関・照ノ富士は5回目の角番で秋場所を迎えます。
 大相撲秋場所は来月10日に東京・両国の国技館で初日を迎えます。   (NHK NEWS WEB 828 630分)


ウェブニュースより
 藤井四段連敗も今日10時~森内九段とEテレ生中継 ――  将棋の史上最年少プロ、藤井聡太四段(15)が初の公式戦連敗を喫した。2日、東京・千駄ケ谷の東京将棋会館で行われた第7期加古川青流戦準々決勝で、前期優勝の井出隼平四段(26)に131手の激戦の末に敗れた。8月24日の棋王戦挑戦者決定トーナメントの豊島将之九段(27)戦に続いての黒星。これで通算38勝5敗となった。すべて後手番での敗戦だった。
 対局開始から約3時間後、藤井がガックリとうなだれた。グラスのお茶を一杯飲む。相手の最後の1手を見てから40秒後、覚悟を決めて「負けました」と投了した。

 互いに1時間の持ち時間を使い切り、64手目から1手1分未満で指す「1分将棋」。藤井は先に仕掛けたが攻めきれず、反撃を許した。「中盤うまくかわされた。秒読みの中で対応を間違えた」と唇をかんだ。公式戦初の連敗にも「対局を重ねれば、当然起こること。すべて自分の実力です」。現実を受け止めた。
 今日3日は、第67回NHK杯2回戦で森内俊之九段(46)と対局する。藤井の活躍を受け、NHKでは午前10時からEテレで対局を生放送。第57回決勝以来、約10年ぶりの対応を取った。全国のファンが見守る中、名人8期、竜王2期などを保持した第一人者を相手に、中学生棋士が初連敗からの再スタートを切る。
 ◆藤井の今後予定
 ◇3日 NHK杯トーナメント2回戦=森内俊之九段(午前10時からEテレで生放送)


 ◇7日 新人王戦準々決勝=佐々木大地四段(東京将棋会館)

 ◇14日 順位戦C級2組4回戦佐藤慎一五段(東京将棋会館) 
       [日刊スポーツ 20179351] 


https://www.youtube.com/watch?v=-s-QZk7LyY8


 



 平仮名・片仮名の成立以前、漢字の実を借りて表記された『万葉集』は、現在に至ってもなお読み方の安定していない歌集なのです。読み方が違えば無論歌の姿も変わって来るし、意味もかわってしまうこともあります。
 万葉集を編集しなおしたと言われる「類聚古集」に、 物皆者新吉唯人者舊之應宜(巻一〇・1885) と原文はたったの12字の歌があります。

 万葉学者はこの12字を、首尾一貫した短歌に復元しなければなりません。
 ① 物皆者 新吉 唯人者 舊之 應宜
   物皆は 新(あらた)しき吉(よ)し ただ人は 
       舊(ふ)りぬるのみし 宜しかるべし
 ② 物皆者  新吉  唯  人者舊之  應宜
   物皆は 新(あらた)しき吉し ただしくも 
       人は舊りにし 宜しかるべし
 ③ 物皆者  新吉  唯  人者舊之  應宜
   物皆は 新(あらた)まる吉し ただしくも 
       人は舊りゆく 宜しかるべし

 ①は、従来の読み方です。
 ②は、第3句は「唯」一字だけとし、「ただしくも」という万葉語で読んだ形です。
 ③は、②の区切り方を踏襲しながら、「新」をアラタマル、「之」をユクと動詞化して読んだものです。

原文  玉桙  路徃占  占相  妹逢  我謂
訓読  玉桙(たまほこ)の 道行き占(うら)に 占なへば
       妹(いも)に逢(あ)はむと 我れに告(の)りつる
                 万葉集巻一一 2507
 原文は僅か11字が並んでいるにすぎません。原文の「占相」を「うらなふ」という動詞で読めばこういう歌になります。しかし、「相」の字は占の正(まさ)しいことを意味する文字として、マサとも読むことが可能なのだと言います。「相」がマサならば「占相」はウラマサニと読みうるし、歌自体も
    玉鉾の 道行き占の 占相(うらまさ)に 妹は逢はむと 我に告りつる
というような形に変貌してしまいます。なお、この歌の直前には次の一首が位置しています。
原文  事霊  八十衢  夕占問  占正謂  妹相依
訓読  言霊(ことだま)の 八十の巷に 夕占(ゆふけ)問ふ
        占正(うらまさ)に告(の)る 妹は相寄らむ
                   万葉集巻一一 2506


 


 『万葉集』の山上憶良の「貧窮問答歌」に
原文  ……父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓
      囲居而 憂吟 可麻度柔播 火気布伎多弖受
      許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提……
訓読  ……父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に
      囲み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず
      甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて……
                 山上憶良  万葉集巻五 892
とあり、「火気」を「けぶり」と読むことになっています。

 「火気」と書いた字面が『万葉集』にはこの他にも3例みえます。いずれもケブリ(煙)と訓読されるのが通例になっているようです。

 これらの「火気」はいずれも「けぶり」と訓読されています。

 どうやら、「火気」をケブリと読むことに疑いを挟む余地はなさそうです。
 「火気」の2字をケブリと読み解する通説は、「火気」を熟合した漢語としてとらえる立場に拠るものです。その限りにおいてケブリと読むことに何ら差し障りはありません。しかし、「火気」を熟字として考えない立場をとった場合はどうなるのでしょう。「火」と「気」をそれぞれ訓仮名とみなして、ホケあるいはホノケ(ノは補読)と読むことはできないでしょうか。ホケは現在も方言に湯気・煙などの意で生存している語です。江戸時代では西鶴の「大矢数(おおやかず)」に使われています。
   雲の通い路はなつ鉄砲
   ほけが立ついつもながらの雁の声
   蓋を取ったるあけぼのの秋    (西鶴大矢数より)

 ホケは今のところ「日葡辞書」以前の例がみられませんが、さらに古い例がいずれは見出されることでしょう。

 ホノケの方は古代の神楽歌に使用された明証があります。
   「伊勢志摩の海人 (あま) の刀禰 (とね) らが焚く火気」〈神楽・湯立歌〉
 『万葉集』の「火気」がホノケ・ホケでなかったとはにわかに断言は出来ません。漢字ばかりで表記されている『万葉集』の歌を何とかして和語で読み解こうとすれば、ああも読める、こうも読めるのではないかという疑問が際限もなく湧いてくるのであります。


 


 『万葉集』の歌は、ごく少数の戯笑的作品以外は、本文表記にどんな漢語が使用されていても、必ず和語で読まれていたはずです。
   展轉  戀者死友 灼然  色庭不出  朝容皃之花
                 (万葉集巻一〇 2274)
 「展転」「灼然」などの漢語を音読することは勿論許されません。これらの漢語は万葉語として何と和訓すればよいのでしょう。現在この一首は、
   こいまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく 
          色には出でじ 朝顔の花
という歌であったことが明らかになっています。


 『万葉集』には「灼然」という漢語が全部で13か所使われていると言いますが、すべて形容詞「いちしろし」の表記と認めて差し支えないそうです。
    道の辺の 壱師の花の 灼然(いちしろく) 
         人皆知りぬ わが恋妻は
            柿本人麻呂 万葉集巻一一 2480 

 第三句の「いちしろく」は上から「いちしの花のいちしろく」と同音の連続法を用いて導いた序詞なのです。「灼然」はイチシロシのほか、アキラケシ(『類聚名義抄』)などとも読める文字ですが、この歌の「灼然」が「壱師の花のあきらけく」では上二句の序詞が機能していないことになります。

 この歌の「灼然」を鎌倉時代の写本に「いちしく」と読んでいるものがあるそうです。「いちしろく」という語形は、平安時代のごく初期にはもう「いちしるく」という形ににもなっていたようです。「いちしろし」から転じた「いちしるし」が、中世期に「いちじるし」と濁音化するのです。万葉語の「いちしろし」から現代語の「いちじるしい」まで千数百年の語史は理解を絶するほどいちじるしいものではありません。


 


ウェブニュースより
 和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに ―― 山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日本古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。

 発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。
 和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られないオリジナルで、恋や別離の和歌に使われる「絓糸(しけいと)」の言葉があり、惜別の気持ちを伝える内容。筆運びの巧みさから、都から派遣された国司のような人物が送別の宴席で地元の有力者に贈ったものとみられ、受け取る教養人が地方にいたことも示している。



 ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる。平川さんは「墨書ではなく刻書にしたのは、2人の関係を長く保ちたいという気持ちの表れではないか。ひらがなが成立したとされる『土佐日記』(935年ごろ)に近い時期の一等資料で、仮名の変遷とともに国文学や書道史の上でも価値がある」と話している。
■解読案
 われによりおも
 ひくゝ(または「る」)らむしけい
 とのあはすや(み)
 なはふくる
 はかりそ
※(み)は欠損部分のため推定    (朝日新聞DIGITAL 20178252125分)


 


Facebookに、塾友のMN女史が仁科の写真を投稿していました。
 ここは、20数年前まで、毎年七月下旬から八月上旬にかけて、兼愛塾が2週間の臨海学校を行っていたところです。懐かしがって今でも何人かの塾友が訪ねているようです。
 懐かしいので、みんなで泳いだ大浜海岸と宿舎であった長松寺の写真を転写させていただきました。


 
今年は友人達と一緒に西伊豆仁科へ。
 30年も前に(もっと前からかな)毎年二週間以上も過ごしていた場所を訪れ、みんなで懐かしんで参りました
やっぱり仁科はいいなぁ    Facebookより


 


原文   若草乃  新手枕乎  巻始而  夜哉将間  二八十一不在國
訓読   若草の 新手枕を まきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに
           作者不詳 万葉集巻十一 2542
現代語訳 新妻と手枕を交わしてから、一夜も逢わないで居られようか、憎くもないものを
 この歌の表記が「憎く」という語を「二八十一」と書いているところが興味深いです。作者は明らかに掛け算の「九九」をしていたはずです。「八十一」は「九九」、したがって「二八十一」で「憎く」というのです。
 『万葉集』には、その他に、鹿や猪を表す語「しし」を「十六」、十五夜の「望月」を「三五月」と書いたり、助詞の「し」あるいは助動詞「き」の連体形「し」を「二二」と書いた例もあります。

原文  …… 萬代 如是二二知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 ……
訓読  …… 万代(よろづよ)に 斯(か)く二二(し)知(し)ら三(さむ) 三(み)吉野の 秋津(あきづ)の宮は ……    笠朝臣金村 万葉集巻六 907
現代語訳
   …… 継ぎ継ぎと万代までにこのように統治なされる吉野の秋津の宮は、……
 ここには意識的に数字が列挙されています。
 ミという和語の数詞、サムという漢語の数詞、「二二が四」の掛け算など、あたかも万葉知識人の数知識を展示したような表記であります。

 「一一が一、二二が四」と数えながら、この数え方を「九九」と呼んでいます。「いろはにほへと……」を「いろは」と略称せずに「せすん」と呼んでいるようなもので、いささか奇妙ではありませんか。「一一が一」に始まる数え方がなぜ「九九」なのでしょうか?
 古い形式の「九九」は文字通り「九九=八十一」から数え起こしました。「九九=八十一、八九=七十二、七九=六十三……三九=二十七、二九=十八。八八=六十四、七八=五十六、六八=四十八……二八=十六」と数えてきて、最後が「……二二=四、一一=一」で終わります。さればこそ、「九九」だったのです。十世紀の「口遊(くちづさみ)」という書物に、上の順序を列挙し、「之を九九と謂ふ」と注記した明証があります。十五世紀の『拾芥抄』所載の「九九」の表も順序は同じです。

 「九九」はもともと中国の算法で、古来「九九八十一」に始まる方式が行われていたといいます。万葉人の習い覚えた「九九」も当然この方式でした。中国では元・明の算書に「一一」と下から数える順序を載せているということであるが、日本では十五世紀になってもなお「九九八十一」型であったことは『拾芥抄』所載の「九九表」によって明らかです。江戸時代の算書には既に「九九八十一」から始まる方式は載っていませんから、およそ十五世紀後半以降江戸時代初期あたりまでに新しい「一一が一」型の普及を見たのでしょう。
 狂言に『二九十八』というのがあります。

 ここの「九九」は「九九八十一」型であったのでしょうか、「一一が一」型であったのでしょうか?


 


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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