瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 聖火台の炎が消える? ―― 墨田区と台東区の境である隅田川沿いで、もっとも存在感を放つ建築物であろう金色のオブジェ。
 ビールジョッキをイメージしたグループ本社ビル、そして東京スカイツリーと並んだ台東区の浅草側から望む風景は、東京の有名な撮影スポットのひとつです。


 正式には「フラムドール(金の炎)」という作品で、下の逆台形型の黒いビル・スーパードライホールと併せて「聖火台」を表現しています。

 「新世紀に向けて躍進するアサヒビールの燃える心の炎」を象徴し、1989(平成元)年に創業100周年記念の一環として制作されました。
 輝きを放つうねうねとしたユニークな形状は長さが44メートル、重さ360トンの鋼材が用いられています。
 10月下旬ごろから徐々に足場が組まれて灰色の囲いで覆われ始めると、ツイッター上では、形状の印象から「ついに水で流されるのか?」などとうわさが広がっていました。
 正式には「フラムドール(金の炎)」という作品で、下の逆台形型の黒いビル・スーパードライホールと併せて「聖火台」を表現しています。
 「新世紀に向けて躍進するアサヒビールの燃える心の炎」を象徴し、1989(平成元)年に創業100周年記念の一環として制作されました。
 輝きを放つうねうねとしたユニークな形状は長さが44メートル、重さ360トンの鋼材が用いられています。
 10月下旬ごろから徐々に足場が組まれて灰色の囲いで覆われ始めると、ツイッター上では、形状の印象から「ついに水で流されるのか?」などとうわさが広がっていました。
 そんな前例もあり、今度こそついに解体かと疑惑が再燃。
 真実は……「12月中旬ごろまでの予定で、塗り替え工事をしています」(広報担当者)。
 オブジェ外観の塗り替えは、2005年に続き2回目。その際に塗った自浄機能を持つ塗料の機能強化も同時に行うそうです。
 いったん姿を消した金色のオブジェは、再び輝きを放つ時に備えています。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000114022.html


 


 太宰春台は彼の晩年の随筆である「独語(ひとりごと)」の中で享保頃の江戸の様子を次のように描いています。

 春台は儒者であり知識人ですから、彼の観察の対象もいささか上層階級に限られているかも知れません。ともかく、江戸が京都化してきたということは一つの傾向として、是認されてもよいでしょう。同じ儒者である室鳩巣も、
  「只今江戸の繁盛、日本にては古今に無ㇾ之事に御座候」(享保七〈1722〉年)
と述べています。

 既に西鶴の筆によって日本一の江戸が生き生きと描かれていましたが、江戸も中期・後期にかけて文化都市の面目も備えるようになったのです。
 享保六年、江戸の人口は武家と町人を合わせて約73万5千人、天明七(1787)年の調べでは約128万5千人となっています。これらには出家・神主・遊女などは含まれていません。

 その頃の世界主要都市の人口は、
  ロンドン――約70万未満  パリ――約50万    ウィーン――約25万
  ベルリン――約17万    モスコウ――約25万  ニューヨーク――約6万
となっていて、江戸が世界第一の人口を抱えた大都会になっていたことが知られます。


 


 今までただ関東方言とか東国語(阪東語)と呼ばれていた方言の中から、新しく江戸のコトバが生まれてくるのもこの頃でした。厳密にいいますと江戸府内の確立と江戸府内のコトバの誕生とが表裏一体のものとして考えられなければならないのです。しかし江戸府内は上方や諸国からの人も多いわけでありますから、コトバは当然上方語と関東方言の二つを要素としているわけです。西鶴などによって描かれた上方語も江戸府内の通語の一つでした。ごく簡単に当時の上方語を見ると次のようです。

 上のようなコトバが江戸府内でも聞かれたわけであります。人間や文化だけでなくコトバも上方的なものがえどにていちゃくするのです。チョロマカスのようなコトバも元禄の頃流行語として大阪に発生し――非常に大坂的です。チョロトゴマカスの短縮形で抄――書物や人間とともに江戸に運ばれてきたものなのです。コトバだけでなくそれを話す人間も一緒なのだからこれほど確かなものはありません。諺にしても現在の東京人にだって耳新しいものではあません。実際の話を次に二つほど挙げて参考にしましょう。

 上の図版のa bは江戸落語の祖となった咄本から引用したものですが、aの●印は明らかに上方語です。関東ではとかヨクとか言うのです。この他〈……しゃる・……さかいに・いうた〉などもごく普通にみえます。ただ、bで山家の者がベイを用いているところは注意されます。ほかの話にもやはりベイが見えますが、その他に〈ワグレ(お前)・デカバチナイ(大きい)・ツボッコイ(可愛いゝ)・ウッポレタ(とても惚れた)〉などの関東方言が見られます。こうした方言は現在でも関東地方や東北地方の方言の中に見出すことが出来るのです。概して江戸の中心部より遠い人々に現代から見て方言的なコトバを使わせている点は見逃せません。これは一面元禄の頃には関東方言の一部が府外に排除されて、江戸府内のコトバが独自なものとして創造されてきたことを物語るものでしょう。
 元禄七(1694)年刊の咄本「正直咄大鑑(しょうじきばなしおおかがみ)」に、
   商人の売物にねをつけてまけたるとき、かわぬを江戸ことばにしゃうべんのするといふ。
として、一つの笑話が語られていますが、〈しゃうべん(小便)のする〉を「江戸ことば」と規定していることは注意されます。

 元禄頃にいよいよ江戸府内のコトバ=江戸語が確立したのを知るのです。小便スルということばは東京人ならば現在でも通用する身近な慣用句でしょう。これは生活と切り離すことの出来ない生きたコトバであっからでしょう。
 ちょうど浮世絵師・吉兵衛こと菱川師宣が治兵衛・太郎兵衛・庄兵衛というようなベイベイ絵師を乗り越えて日本絵師モロノブとなったように、ベイやアンダルなどの関東方言の府外排除と江戸語(府内)の成立とは、こうして表裏一体のものであったのです。


ウェブニュースより
 藤井四段「全力でぶつかっていく」深浦九段と対戦 ―― 将棋の第3期叡王戦本戦の組み合わせが1日、決定した。四段戦予選を制した史上最年少プロの藤井聡太四段(15)は、トーナメント1回戦で深浦康市九段(45)と対戦する。
 インターネットテレビ局「Abema(アベマ)TV」の番組企画で激突し、藤井が勝っている。公式戦では初対局となる。今日2日は順位戦C級2組6回戦で脇謙二八段(57)との対局を控えている藤井は、「1つでも多く対局できるよう、全力でぶつかっていきたい」とコメントした。対する深浦は、「注目の棋士が相手。しっかり対策を練りたい」と話した。

 叡王戦は今年5月にタイトル戦に昇格。四段~九段の各段位別予選(枠は四段1、五・六・七段2、八段3、九段5)で勝ち上がった15人が本戦に進出。これに、前期優勝で本戦シードの佐藤天彦を加えた16人で今期はトーナメントを行う。決勝進出の両者による7番勝負でタイトル戦を行う。
 本戦1回戦の組み合わせは、豊島将之八段対高見泰地五段、渡辺明竜王対佐藤秀司七段、藤井猛九段対丸山忠久九段、小林裕士七段対近藤誠也五段、行方尚史八段対澤田真吾六段、深浦康市九段対藤井聡太四段、金井恒太六段対佐藤天彦叡王・名人、北浜健介八段対佐藤康光九段。   [日刊スポーツ 2017年11月1日20時52分]

 藤井四段50勝王手「残り4戦も全力」順位戦6連勝 ―― 公式戦29連勝の新記録を樹立した将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が2日、大阪市の関西将棋会館で指された76期順位戦C級2組6回戦で脇謙二・八段(57)を70手で破り、6戦全勝とし首位をキープした。公式戦通算49勝(6敗)。大台の50勝に王手をかけた。対局後、高校進学を決断した背景を語った。

 進路を決定後、初の対局を白星で飾った藤井は「軽率な一手もあり、苦しい場面もあった」と振り返り、順位戦6連勝に「ここまで全勝でくることができたので残り4戦も全力を尽くしたい」と話した。順位戦C級2組は各自10局を戦い、上位3人が昇級する。
 藤井は愛知県有数の進学校である中高一貫校の名古屋大学教育学部付属中学3年に通うが、高校進学か、将棋1本に専念するか迷っていた。10月25日に日本将棋連盟を通じ、来年4月に高校に進学することを発表した。
 対局後、藤井は「(進路を決めても)対局に臨む上では同じ気持ちです。とくに変わったことはないです」と冷静に話した。高校進学を決めた背景として「これからの3年間で将棋が強くなることはもちろんですが、その上でいろいろなことを吸収していきたいなと思いました」。将棋とは違う世界からも貪欲に吸収したいと姿勢を持ちたいと強調した。
 学業との両立により将棋に当てる時間の制約ができるが「その中で集中してやれば強くなれると思っています」とキッパリ。「かなり悩んだ? 強くなるためには、これからが一番大事な時期だったのである程度、考えました」。中学生棋士は人生の岐路での選択に多くの時間をかけたことを明かした。    [日刊スポーツ 20171122130]
https://www.youtube.com/watch?v=-nB52Ku629E


 


昨夜、MM女史に電話してみました。Facebook のタイムラインに投稿がありました。曰く
 お電話ありがとうございます✨☀
 お声聞けて感激です。嬉しいです遊びに伺います。  10月31日 19:56

ウェブニュースより
 「世界の記憶」に「上野三碑」と「朝鮮通信使」 ―― 後世に残す価値のある歴史的資料を対象にしたユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に、国内候補の古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」(群馬県)が登録された。日韓の団体が共同申請した「朝鮮通信使に関する記録」も登録が決まった。ユネスコが31日未明(日本時間)に発表した。一方、第2次大戦中に多くのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝(ちうね)の資料(杉原リスト)は登録されなかった。
 上野三碑は、飛鳥時代~奈良時代前期、今の高崎市内に建てられた「山上(やまのうえ)碑(ひ)」「多胡碑(たごひ)」「金井沢碑(かないざわひ)」の総称。朝鮮半島からの渡来人との交流から生まれたものとされ、漢字や仏教の広がりなど東アジアの文化交流を示す資料だ。

 朝鮮通信使は朝鮮王朝から日本に派遣された外交使節団。豊臣秀吉の朝鮮出兵で両国の交流は途絶えていたが、江戸幕府が対馬藩を介して交渉し、1607年に朝鮮国王が使節団を再派遣して以降の約200年にわたる交流の記録が対象だ。韓国の釜山文化財団とNPO法人・朝鮮通信使縁地連絡協議会(長崎県対馬市)が共同で申請した。

 落選した杉原リストは、日本ユネスコ国内委員会が初の公募で絞り込んだ2件のうちの1件。同委員会の関係者は「なぜ登録されなかったのか理由も公表されず、再申請するとしてもどう改善すればいいのか現時点では全く分からない」と困惑する。今回の結果は、今後国内選考の基準にも影響しそうだ。
■慰安婦資料は「保留」
 今回の「世界の記憶」には、日中韓などの市民団体が旧日本軍の慰安婦に関する資料を申請。一方、日米の民間団体なども旧日本軍が慰安婦を規律正しく扱ったとする資料を申請していたが、ユネスコはともに「登録保留」とし、話し合いを促す形になった。
 2年前の前回、中国が申請した「南京大虐殺の記録」が登録され、日本政府が反発。ユネスコは今月、多国間で意見が異なる案件はまとまるまで審査を保留する制度を次回から導入することを決議した。菅義偉官房長官は記者会見で「決議を踏まえて、適切な対応がされた」と述べた。
     ◇
〈世界の記憶〉 歴史的な文書、絵画、音楽、映画などを保存、後世に伝える目的で1992年に始まった。世界文化遺産・自然遺産や世界無形文化遺産と違い、国際条約に基づかず、個人や団体でも申請できる。国内委員会は公募を経て2件に絞り込むが、他国の団体などとの共同申請は対象外。「アンネの日記」や「マグナ・カルタ」など登録件数は前回までに計348件。国内では「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」「御堂関白記」「舞鶴への生還」など5件。


 


FacebookにMM女史からのメッセージが届いていました。最近撮ったと思われる写真もあったのでブログに転写します。

 お元気でいらしゃいますか?道子先生は、如何ですか?
 台風が、週末ごとにやって来ます
 これから、寒くなります。ご自愛下さいませ

 Facebookの使い方がよく判らないのでコメントは書きませんでしたが、私はどうやら生きています。女房も最近は手押し車を押しながら外出できるようになりました。相変わらずおさんどんは私がやっています。メッセージどうもありがとう。



元禄の江戸
 江戸も次第に整備され、京阪を中心とする元禄文化の花が咲き誇る頃には、ここもまた一つの性格を持った独立都市としての面影を示してきたのです。

 開幕から約百年を経た元禄の頃でした。江戸時代きっての小説家・井原西鶴の妙筆によって次のように描き出されています。

 いくぶん誇張はあるでしょうが「国土万人が江戸商ひをこころがけ」て諸国より江戸に集まってくる様子は見事なものであったでしょう。町の繁盛も寶の市と表現していて、如何に江戸が活気に満ちたとかであるかが分かります。西鶴の筆はさらに続きます。
 江戸は武士の都として、膨大な武士群を抱え込んだ偉大消費都市でもありました。これを相手にする町人も次第に腹が大きくなり、宵越しの金を持たぬ江戸っ子気質も作り出したのです。破魔弓一つを小判に令で買うとなると銀に直して百二十六匁です。当時、雇われ乳母の一年の給金が銀約八十五匁ですから、女中なら一年に二人も雇える勘定になります。
 三河武士の総領・徳川家康は大のケチン坊であり、その家臣も控えめの人々だったということですから、かなりの変化といっていいでしょう。
 ともかく「銭は水のごとく、白銀は雪のごとし」という表現に、如何に江戸が消費都市として全国的な繁栄を一つに集めてきたか伺い知ることが出来るのです。しかも日本橋を行き来する人の足音が百千万の車の轟をおもわせるほど、庶民たちの活動のはげしい天下の町人の都となってきたのです。

 当時の人口ははっきりとは判りませんが、約35万はあったと思われます。城下町としての江戸の発展、経済都市としての江戸の繁盛――最早江戸は十七世紀半~十八世紀にかけて実質的にも日本の中心地としてその基礎が確立されたのです。西鶴の妙筆はさらにつづきます。


「江戸は大晦日になると雪駄(せった)が一足もなく足袋、片方もないほどの売れ行きを示し、橙(橙)一個二歩(にぶ)でも――京都、大阪の人なら高くて買わないが――買わぬことがないほど大名気分になっている。京大坂に住みなれて心の小さいものにはうかがい知れぬほど江戸はぬきんでてきたのだ」と。


 


 初期の江戸ではどのようなコトバが実際には話されていたのでしょう。人間構成から想像されるように土地としては東国方言と上方語が同居し、街の性格としては、武士と町人のコトバが通語として話されていたことでしょう。もっとも単に一地方のイナカコトバにすぎなかった江戸近辺のコトバ(以下江戸方言と呼びます)が急に文献に書き留められ、書物になって出版されるはずもありません。あいかわらず、上方語が標準語であり、本流でした。しかし、単に傍流に過ぎず、エビスコトバと卑下された東国方言こそやがては日本のコトバになる運命を授けられていたのです。これは広く日本語の歴史において空前絶後の大事件といってもよいのではないのでしょうか。幸いにしてこの初期の江戸方言とほぼ同質的なものが、異国の熱烈なクリスチャン、João Rodrigues(ジョアン・ロドリゲス)によって、次のように考察記録されています。

 古代の東国方言と比較してみると当然のことながら共通した部分も伺えます。日常百科事典ともいうべき『男重宝記』には、上のロドリゲスの観察に加えて
   「関東では、それよということをソンダ、何ぞということをアンダと撥ねて発音する。何とした故にというのを何としましたからとからを用いる」
などと記録しています。江戸の後期になってカラ(東)とサカイニ(西)の口論がありますが、そうした発芽もすでに現実では表れているわけです。

 一方まだ戦国の余風がおさまらぬままに、城下町江戸には、旗本奴や町奴(例の幡随院長兵衛など)の使う(奴詞〈やっこことば〉)なども大分幅を利かせていたようです。


 


 家康が始めて江戸に入ったのは天正18(1590)年でした。そして江戸幕府の開かれる頃には次のように異国人の目を見張らせるような立派な都市が作り上げられたのです。

 結果において家康が江戸に居城を構えたことは成功だったわけです。もっとも日本全体から見れば中心は京都であり、生活水準も文化程度も到底江戸の及ぶところではありません。参考までに当時の諸国産物から、京都(畿内)と江戸の分を抜き出してみます。

 図版の下の図では武蔵はすべてを挙げてありますが、京都(畿内)の産物は初めの部分のみで後七・八ページは続きます。京都は薬や白粉をはじめ酒類から遊び道具まで何一つ整わぬものはない有様です。南蛮渡りの酒や菓子まである文化生活に明け暮れている様子です。
 一方江戸はどうでしょう。海のものか川のものか、せいぜい磯くさい魚介類で満足している状態です。これだけでも初期の江戸は、文化的に経済的に、京・大阪の植民地的存在であったと言ってもよいでしょう。このことは逆に、家康が江戸に入ってから如何に開発に心を用いたかを証するものであります。
 江戸は山を切り崩して埋め立てた土地柄であり、武蔵野台地特有の土質は、人馬の往来は勿論、少し風のある日はもうもうと土埃を空高く舞い上げました。それがまた雨でも降れば泥沼と化し、道路もなくなる有様で、悪路問題も300年の伝統を背負っている訳です。
 『慶長見聞集』に、日本橋の繁華ぶりが目覚ましいものであると記述している反面、江戸近辺神田の原より板橋まで見渡すと、竹木は一本もなく全くの野原だったと描いています。

 土地の整備が終わると人の問題になります。江戸初期の慶長~寛永年間には、紀伊・摂津から多くの人々が江戸に来ています。佃島を開いたのも摂津西成郡佃村の森孫右衛門であり、醤油のヤマサも紀伊から移ったと言います。デパート・三越の祖、三井氏は伊勢松坂の出身で寛永12(1636)年江戸にくだっています。「一丁のうち半分は伊勢屋と申すのれん見え候と也」と『慶長見聞記』は記しています。「江戸に多いは伊勢屋稲荷に犬の糞」俚諺もこのことを示しています。

 同じくデパートの白木屋の操業も古く、その祖は近江長浜の人といいます。堅実型として名の高い近江商人の出てす。その他ポマードで名高い柳屋も、その祖・呂一官(中国人)が家康とともに江戸に入り、饅頭の塩瀬(中国人)も同時でした。

 三河屋とか駿河屋とかの屋号は家康と一緒にやってきた三河・駿河の商人たちだったのでしょう。相模屋・上州屋などにしても出身地方を背に受けてのことと解されています。いうなれば上方商人や上方商人の各地から新耕地江戸へと続々と人々が押し寄せたのです。


 


 太田道灌が今の皇居辺りに城を築いたのは康正三年(長禄元年・1457年)であり、山吹の一枝にまつわる武将と田舎少女とのロマンスは東京の出発語るにふさわしいエピソードです。

 しかし、東京の前身である江戸が歴史に現れるのは、これよりさらに300年も遡った治承4(1180)年9月の『吾妻鏡』の記事、「江戸太郎重長ニ仰付ラルルナリ」です。以後江戸の名が諸文書に見えますが、他にも葛西清重(今の葛飾区)・豊島清光(今の豊島園付近)の名が見えます。地名や人名からいうと、東京は江戸氏を以って約800年以上の古い歴史ということになります。

 エドは入江深く海から入り、川が海に注ぐところで江口・江尻などの江と同じく、入江の江と考えられています。戸は水戸や松戸などの戸と同じく所とか里とか入口のトであると思われます。ただ地形的名称ならば、かなり早くから命名されていたと思われますが、比較的新しいので、その点この説も疑問のあるところです。

 太田道灌は江戸城を築いて、かれこれそこに30年近くも住んでいたのですから城下町もでき、商業も盛んになったと思われます。関八州や上方からも人々がここに集まってきたことが諸書にも見られます。人間生活の営まれるところ必ずコトバがあるのですから、江戸城下町を中心にして、東国方言や関西方言が話されていたことでしょう。平安時代において全く一顧だにされなかった東国のコトバは、こうして14世紀の半ばになると鎌倉武士・東国武士の勢力の強大さとともに京都をその馬蹄の下に踏み潰すことになります。京都の貴族たちは彼らが今まで軽蔑していた東国語を習いおぼえ実力者である武士におもねるように変化していくのです。


 


 古代の東京では実際にどんな言葉が話されていたのでしょうか。一口で言うと東と西では人類学的にも社会組織的にも全く対立しているように言葉の面でも対立していました。いわば東には東のコトバがあったと言ってよいのです。

 現代でも上の図版のように、対立していますが、対立は上代まで遡って考えられます。まるで別系のコトバのようです。平安時代の始めの頃と考えられる『東大寺諷誦文(ふじゅもん)考』に「東国方言」の名が見えることや『万葉集』に「東歌」が載せられていることから東の方言が西(中央)に対立するものして考えられていたことが判ります。
 いわゆる訛りことばとして考えられそうですが、月をツクという言い方が、より古い国語とされているのですから、あるいは東の方が正当かもしれません。
 中央のコトバが正しく純粋のものとすれば、東国のコトバは異様なものと感じるかもしれません。しかし、中央のコトバといっても奈良方言を中核とする一地方語にすぎないのですから、『古事記』や『万葉集』のコトバがすべて正式な雅語とのみ受け取ることは出来ません。『古事記』に出て来るアグラ(足座)も後世ではもともと西のコトバであったことも知らずに東国方言と記しているのが一般だったのです。

 正訛というよりも、より古いか否かが問題になりそうです。東国が真に中央から侮蔑の眼を以って見られるようになったのは、平安時代、労働や自然の美から遠ざかった有閑階級の出現によるものです。彼らから東夷(ひがしのえびす)と卑称されるようになって、東はひとまず歴史の表面からは一時消えるのであります。


 


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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