瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 コトバは人間の知恵を離れては存在しません。とすれば生活表現の一典型を諺(ことわざ)に求めることが出来ます。

 特に書きコトバと縁の薄かった庶民階級は、自分たちの貴重な体験を、ただここの事実の多様性を知るに留めないで、一つの普遍的な学びとしてまとめます。それらが言語形式をとるとき、いわゆるコトワザが発生し、うたわれるのです。
 コトワザの本来の意味は、辞書類にも説明されているように言技(コトワザ)で、一種の言語技術かも知れません。しかし、それはただ表れた形について後から説明を加えただけで本質的なものでありません。単に、話し方の技術ならば、それこそ〈巧言令色鮮仁(コウゲンレイショクスクナシジン)〉――お世辞たっぷりで口上手な人は仁が少ないという訳で、排斥される性質のものです。コトワザの本質は人間の日常生活の知恵が凝(こ)って作り上げられた尊いコトバということです。もちろん、現代から見れば生活体験を経ずに、ただ書物から抜き取った文句もあるでしょう。漢籍や仏典からそのまま切り取って我がものにしたものもあります。文字通り、学問のある人の口から、権威を以って語られるものには、それはそれとして尊い教えが込められていることでしょう。格言などと呼ばれるものの大半はそうしたものなのです。しかし、そこには上⇔下という関係での物言いが強く、時には一方的な強(し)い語りに終わるとが多いのです。コトワザの本質はそうしたところにあるのではありません。
 もしコトワザが言語技術であるならば〈秀句、軽口、語呂合せ〉などと変わりありません。後者は言語遊戯であって一種の遊びです。コトワザが真剣な生活体験から生まれ出たのとは本質的な違いがあります。もっとも、共に言語作品であり、そのまとまった形においては多くの類似点もあります。短く、口調がいいこと、多くの比喩の形式が取られていること――など、すべて同じ服装を纏っています。しかし、外面的な服装に惑わされることがないように、その内容を説くと考えねばなりません。秀句や語呂合わせは、いわばコトバのためのコトバであり、コトワザは生活のためのコトバなのです。
 コトワザが書物にあらわれるのは、遠く古事記の昔からです。「雉の頓使(ひたつかい)」=行ったきりで戻ってこない使い、「地(ところ)得ぬ玉作り」=當てにしたご褒美を得られない、「堅石も酔人を避く」=どんなに堅い石も 酔っぱらいは嫌いなので避ける、「海人なれや、己が物から泣く」=海人は新鮮な海の幸を扱っているので、早く処理しないと、腐ってしまって自分が泣くことになる……などのコトワザが記載されています。

 コトワザは時代が下るにつれて多くなり、中世~近世にかけて次第に書物をにぎわせます。特に近世には、全くコトワザによってテーマのたてられている咄本や小説があります。ハムレットやドン・キホーテを見ればわかる通り、これは洋の東西を問わぬようです。

 市井のおかみさんの口からも得意満面とコトワザが飛び出し、言技(コトワザ)に近い会話が現われてきます。とりわけ江戸っ子は言語遊戯に長けている所為か、内容をゆがめ、意味を曲解しても、形式的なコトバのリズムによって喋りまくります。公のことではなく、私的なことには必要以上に喋り散らす下司下郎の登場ともなるのです。


 


 明治から一足飛びに現代へととんでしまいますが、この爺が上京してきたころは人口もどんどん増えていく頃でしたが、東京の地域は年々郊外へ広がっていました。東京は全く得体のしれないマンモス都市へと化しつつありました。
 コトバもこの例に漏れません。日本国中のコトバのはきだめが東京であったのです。テレビも余り普及していない頃でしたが、東京へ来れば日本国中の方言を聞くことが出来たのです。
 新宿・池袋あたりの居酒屋や小料理店に行けば、メラシ(女・東北方言)が国コトバでサービスしてくれました。当時爺はこの方言集団の真っただ中にいました。下宿屋には各部屋に東北・北陸・近畿・中国・四国・九州から上京した学生が2・3人ずつ下宿していて、否応なしに○○弁を聞かされました。彼らは爺と話すときにはお互いに事務的に東京語というもので話しますが、同郷人同士ではハンカクセエ(青森・いやらしい)とかウディシィ(鹿児島・いやらしい)としゃべり続けます。この爺にはまるで外国語のように響きますが、爺たちは同郷の者たちとチョル言葉(北九州・~している)を連発していました。
 こうした連中が故郷(くに)へ帰れば、自慢げに或いは知らず知らずのうちに東京語を流布させていました。
 東京にも方言があります。今でこそ少なくなりましたが、ヒとシの区別のつかない人が可成りいました。爺が下宿した家の小母さんは爺のことを「シダカ(日高)さん」と呼んだし、潮干狩をシオシガリ、御姫様をオシメサマと言っていました。


 


 アメリカへ行くと世界中の人種にお目にかかれると言い、各国語を耳にすることが出来ると言います。そういう点では東京もアメリカ並みでした。モナミ(仏、mon ami、わが友)という軽食堂では20円のおにぎりを売っていましたし、〈道草〉というトリスバーで一杯120円のジン・フィズ(英、Gin Fizz)を飲ませてくれました。音楽喫茶のラ・セーヌ(仏、Lasaine)ではマンボ・ジャズ・民謡、果ては軍歌まで聞かせてくれるといった具合でした。ザピーナッツとかペギー葉山とかいう合いの子めいた純粋の日本人がキスにサを挟んだ挟みコトバのような〈キサス、キサス、キサス(多分というスペイン語だそうです)〉を歌いまくっていました。国籍不明のコトバが通りから通りへと流れていました。まさにコトバのゲテモノの氾濫です。デンカ(電化)やアンポ(安保)などの略語も多く、コンヒマ族(今晩暇で一緒に遊んでくれる人)などそのうち語源も判らなくなるでしょう。


 ともかく、東京語は長い風雪に耐えて生きてきたものなのです。


 以上、江戸・東京のコトバについて、述べてきましたが、此れを以ってこの項をおしまいにします。次は何について書こうかな?


 今年は塾友忘年会のアルバムはご勘弁して頂くつもりでいました。しかし、N君が撮った写真を見ているうちに、和やかで楽しそうな塾友諸君の姿を記録に納めておきたくなって、無理を承知で制作してみました。

 一昨日の土曜日に、女房が運動がてらにと、手押し車をおして7・8軒ばかりの塾友の家を回って、配布してくれました。また、昨日はS君が自転車で遠くは墨田区方面まで5・6軒ばかりの家を回って配布してくれました。さらに、午後からはKYさんが上野桜木町から荒川区方面まで自転車で4・5軒の家を回ってくれました。関ちゃん、カナミさん折角の日曜日を潰させてごめんなさい。ご苦労様でした。本当に有難う。
 遠方の方々には本日郵便にて発送する予定でいます。
 カナミさんのコメントにもあったように忘年会の当日、会場に手袋と新しいピアスの忘れ物があったようです。カナミさんがお預かりしているようです。お心当たりの方が御座いましたら、お知らせください。


 


ウェブニュースより
 藤井四段が史上最年少で本戦出場 朝日杯将棋オープン戦 ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が15日、東京都渋谷区の将棋会館であった第11回朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)の2次予選に臨み、1回戦で屋敷伸之九段(45)、決勝で松尾歩八段(37)に勝ち、本戦出場を決めた。15歳での本戦出場は史上最年少記録。デビュー以来の通算成績は54勝9敗になった。
 藤井四段は「強敵ばかりの2次予選を勝ち抜けたのはとてもうれしい。本戦も一局一局、全力で臨みたい」と話した。
 1回戦の相手、屋敷九段は名人挑戦権を争うA級順位戦に所属するトップ棋士。藤井四段は昨年12月のプロデビュー以来、初めてA級棋士から公式戦で白星を挙げた。対局後、藤井四段は「公式戦という舞台でA級の先生に勝てたのはとても自信になりました」と話した。
 
 決勝で対戦した松尾八段は「(藤井四段が)強いことは知っていた。イメージ通り、びしびしと急所に来られた」と対局を振り返った。



 朝日杯は持ち時間各40分の早指し戦。1次予選、2次予選、本戦とすべてトーナメントで優勝を争う。初参加の藤井四段は1次予選を4連勝で抜け、2次予選に駒を進めていた。


 1月に始まる本戦トーナメント(16人出場)では羽生善治竜王(47)らタイトル保持者がシード棋士として登場する。藤井四段は1回戦でシード棋士と対戦する予定。    (朝日新聞DIGITAL 201712151647分)
https://www.youtube.com/watch?v=Ljzn0K0uGOg
https://www.youtube.com/watch?v=T4L5El4RpEA


 


 敬譲語や丁寧語についで大きな特色のあるのは漢語の氾濫です。「此節のやうに新聞紙やうなものに迄もむずかしい字が沢山あっては私共には一向読みが下らず……」と投書欄に苦情が出るほど四角張った漢字で埋まったのです。もし、明治維新が、江戸市民で代表されるような真の市民革命だったら、俗語が中核となってもっとスッキリした近代日本語が出来上がっていたかもしれません。ともあれ、教育ある人々は漢語を作り、乱用したのです。たとえば、先の「欧州小説・黄薔薇」の中でも将来官途に就こうという人間が次のように叫んでいます。
   然らば我輩から両人の懇願する次第を陳弁しますが、実は恥をお話し申さんぢやァ事情が明了しませんから其根源より申せば一体我輩等に大学予備門に入りて勉学の効を積み進んで大学科を修め業なるの後は国家有為の事業を起こすか官途に出身して行には自ら政権を執るの地位に(のぼ)り百般の政務を改良して旭日の光を全地球に輝かさんとの目的にて当初は誓ッて此目的を貫かん只管(ひたすら)勉強してをりました……
 それなら、私からお願いするわけをお話ししますが――と易しくやってもよさそうなのに、上のようにいかつい調子で雄弁を振るうのです。上のほか強壮・跋渉・嚢中・空隙・焦慮などかたぐるしい漢語が目立ちます。
 横瀬夜雨編「明治初年の世相」に次のような記事があるのもこうした一面をよく物語っています。


 
 芝居のいわゆる散切物をみますとこうした漢語がセリフの中にたくさんおり込まれています。


 男女平等・専売特許・造化(造化機論)・因循・旧弊・曖昧・文明開化・失敬・権妻(妾のこと)・窮理(物理のこと)・演説などは明治前半の流行語として一世を風靡した漢語です。魚屋の小僧や下女までが因循や失敬を愛用したのです。
 科学・学術語は江戸時代の蘭学者による翻訳語も考えねばなりませんが、〈絶対・形而上学・演繹・心理学〉などいずれも明治なにってからの新造語で、西周・井上哲次郎・福沢諭吉などそうした造語家のうちに数えられます。
 なお、新漢語と関連して読み方の変わったものも注意されます。江戸時代で音声(おんじょう)が明治になってオンセイように。二、三例をあげますと、
   言語(げんぎょ) → ゲンゴ   ()(やく) → リエキ   (そん)(きょう) → ソンケイ
   (なん)() → ダンシ   (けっ)(じょう) →ケッテイ
言うまでもなく後者が現代語になっているわけでして、漢音で統一されてくるのです。
 最後に女性のコトバについて、触れておきましょう。
a、若旦那はどうなさいました あれぎりぢやァあんまり()()からモウ一ペン後生でごさいますヨ(●●●●●●●)……さうたい今の若い芸者衆はふざけている()() (「安愚樂鍋」茶屋女・芸者)
b、御母(おっか)さん何の御用で御座います(●●●●●●)。お茶を召し上がりませんか(●●●●●●●●●)。……お春モウ(わたし)(とて)も長いことはあるまいお前は今梅次郎さんに逢たら其の面貌(おもざし)が分かるであろうか。……(わたくし)も深谷さんの書きました物を持って居りますが……中々並の人とは思はれませんワ(●●●●●●●)(「雪中梅」母と娘の会話)
c、今日はよく(いら)っしゃられ(●●●●●)ましたネ、態々(わざわざ)招待(よびたて)申しでましても未だ普請が(やっ)と出来たばかりですか(●●●)ら殺風景とやらで困ります()。……何も大層お見事なご普請でございますヨ(●●●●●●●)(右同、上流階級の令嬢とその友人)
 aとb、cでは時代に15年の隔たりがありますが、それよりも注意されるのはデスが芸者や茶屋女の口から専ら聞かれたのが時代と共に一般的となりcのように令嬢までもが用いるようになったことです。cの女コトバに殺風景という単語も上流階級のインテリ女性の性格をしめしています。江戸末から明治にかけて、最も著しいのは〈デス〉でありますが、特殊語だったのが一般となり、標準的な東京語に定着するのです。bの母と娘の対話はほぼ当時の東京の中流家庭と考えてもよいでしょうから、これによってもゴザイマスが丁寧な言い方として標準的であり、デスはゴザイマスとダの中間的表現を受け持つという点で一般化していきます。~ワも江戸後期に既に見えるものですが明治に入って女性特有のひびきをつたえるものとして、一般的となるのです。


 一昨日は兼愛塾の忘年会で楽しい一時を過ごしました。爺爺が何かすると皆さんがそれぞれに気を使ってくれるので、大変有難いことなのではあるりますが、一層に歳を感じてしまいます。
 でも、久し振りの人にも会えたし、大変和やかな楽しい宴でした。
 今朝N君より写真を送ってきました。今年はアルバムの作成を諦めていたのですが、送ってきた写真を見ていると、アルバム作りに挑戦してみたくなりました。まあ、面倒でもボケ防止にもなることだし、どれぐらいで出来上がるか判らないですが、制作に乗りかかることにしました。


 


ウェブニュースより
 藤井四段、A級棋士の壁破れず NHK杯8強逃す ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が、10日放送の第67回NHK杯テレビ将棋トーナメントの3回戦で稲葉陽(あきら)八段(29)に敗れ、8強入りを逃した。名人挑戦権を争う「A級順位戦」に所属する一流棋士の壁は破れなかった。



 藤井四段は、タイトル戦の挑戦経験がある千田翔太六段(23)を1回戦で、「永世名人」の資格を持つ森内俊之九段(47)を2回戦で破った。事前に収録された今回の対局では、稲葉八段の巧みな攻めで守勢に立たされ、土俵を割った。通算成績は52勝9敗になった。
 藤井四段がA級の棋士と対戦するのは2回目だが、まだ白星をあげていない。15日には、朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)の2次予選で、A級の屋敷伸之九段(45)と対戦する。今年度中に優勝者が決まるトーナメントで勝ち残っているのは、朝日杯だけとなった。  (朝日新聞DIGITAL 201712101317分)
https://www.youtube.com/watch?v=U5MJZLhMRYs


 初期の東京語が真に国語として学ばれるためには、それ自身の進化も必要であり、リードするだけの資格を持たなければなりません。一口で言えば明治の国語は政治の流れと常に一体であると言っても過言ではありません。明治七(1874)年、板垣退助らは、「民選議院設立建白書」を政府に出し、人民は国の本であり政治は人民の召使でなければならないと主張しました。
 
 この自由民権の思想は急速にインテリ層に広がっていきます。明治維新とその後にうたれた数々の藩閥政治――天皇絶対政治につながるもの――に見える反近代的なものへの憤りは激しいものでした。明治十四年、民主主義革命をめざす全国的政党として〈自由党〉が出来上がります。しかしこの運動も明治二十年〈保安条例〉の一片によって消えてしまいます。

 明治二十二年、大日本帝国帝国憲法がだされ、天皇ハ神聖ニシテオカスベカラズと、絶対天皇制が確立されます。

 翌年、教育ニ関スル勅語が発布され、学問・思想の方向も、天皇とこれを取り巻く人々の手に収められました。東京を中心にすべてが管制の規格品で送り出されました。



 東京語の確立という点からも明治二十年前後は重要な時期であって、この辺りを以って国民・国語という観念も確立されてくるのです。次にその実態を示しておきましょう。
○東京語の見本二つ
a ソコデ不図(ふと)考え付き上野の書籍館へ参り色々と捜索してヤット見付けましたから数日筆耕者を頼んで先づ雪中梅丈を写し取らせました。文章も中々面白い上に談話の模様をありの儘に書いたものですから能く人情を写し出して明治二十三年前の政治社会を眼前に見る様であります。(「雪中梅」明治十九〈1886〉年)

b 生「御病気は如何で御座います(中略) 江「お万さんが御病気だと云ふことを今朝チラリと聞きましが、何う云ふ御様子です 生「面目次第もない訳で……愚妻は義理ある中だとて誠に心配して居りますから何うかお聞済みを願います。 江「実は僕はねへ、お万さんに恋煩いをして居るのです……合口を何にするのです。 生「御前と約束した事を破るやうで済みませんから若しお叱りがあれば割腹する覚悟で御座いました。(欧州小説「黄薔薇」明治二十〈1887〉年)

 aははしがきであって会話ではありませんが、いわゆる言文一致体のよくこなれた文章です。〈書籍館〉のように多少聞き馴れない単語もありますが、汽車を陸蒸気というよりはむしろ適訳でしょう。新しい文物が入って来て新しくコトバができるのですが、これもその一つです。bの江は江沼実といって旧旗本で今は官吏である秀才です。生は矢張り生馬忠右衛門という武士です。共に中流階級の知識人と考えてよいでしょう。円朝の講談ですが、ほとんど現代東京語に近く、異様に響くところはありません。用語を別とすれば表現において問題になるところはなく、~ジャ・~ナンジャという類の上方語も影を潜めています。
 明治八(1875)年すでに「最モ能ク通行スル東京言葉」という言い方があり、明治十三年には「東京ノ言葉ハ広ク通ジマス」と言われています。そして、ほぼ明治二十年前後には上の実例で挙げたような東京語が話されるのです。二葉亭四迷や山田美妙の言文一致体の文章もこうした東京語の確立する頃にこれを土台として試作されたわけです。

 弥次喜多を描くには江戸語が必要だったように新しい東京の知識人を描くには東京語が必要でした。そうした東京語を土台にした文章語は東京語の確立からさらに二十年を経た明治四十年代に確立されます。漱石が、「〈文明を代表する文章を書くために〉今日より東京語を以って本位とする言文一致体を以って可成り簡潔に書き示す事が最も必要の事なり」(明治四十一・八・三)と述べている通りなのであります。明治に入ると教育ある知識人が一つのタイプとして登場し、それが東京の中流階級という一つの層を形成するのです。江戸時代の武士~町人という対立ではなく、教養ある人(○)とそうでない人(△)とが対立します。
   ○あのお方はどちらで食事をいたしますか。
   △あれはどこで飯を食うか。        (明治四年、アストンの記録)
 この二つのタイプが対立していくのです。ある意味では、普通語と敬譲語(丁寧語)の対立が明確になっても来ます。社会組織の反映なのでしょうか? これを次に示しておきます。


 


羽生永世七冠の震える指 魂震わす偉業 茂木健一郎さん ――  将棋の羽生善治竜王(47)が竜王通算7期の条件を満たして「永世竜王」の資格を獲得し、史上初の「永世七冠」を達成した。

 同じ勝負の世界に生きるプレーヤーや将棋界をよく知る著名人らに、その凄さなどについて聞いた。
◆     脳科学者・茂木健一郎さん

 
羽生善治さんが永世七冠を達成されたこと、まことに素晴らしい。
 将棋でも囲碁でも、人工知能が人間を上回るようになった。しかし、本来、条件が違うので比較するのがおかしい。生身の人間が闘う姿にこそ意義がある。
 100m走で人間と自動車を比較するのは意味がない。アスリートが練習を重ね、走り方を工夫し、精神力を鍛えて記録を更新するからこそ感動がある。
 将棋も同じことだ。人工知能は処理速度が速く、記憶容量も大きい。集中力にも限界がなく、何十時間でも膨大な計算を繰り返すことができる。人間は体調も変動するし、生活の苦労や心配もある。それでも将棋という目標に傾注する姿こそが、見る者の心を動かす。
 ログイン前の続き羽生さんがプロになったのは15歳。19歳で初タイトルの竜王獲得。七冠達成が19歳で25歳。以来、25歳47歳になる現在まで、将棋界のトップを走ってきた。今回の竜王獲得でタイトルは通算47歳に99期となった。くしくも、初タイトルと同じ竜王を28年後に獲得し、永世七冠となったのである。99期とかくも長きにわたる、日々の鍛錬と継続する意思。羽生さんの偉業は、人類にとっての誇りである。勝利を確信した時の羽生さんは、駒を置く指が震えることがある。今回の永世七冠達成の報に、私は魂が震えた。(寄稿)
◆七冠の囲碁棋士・井山裕太名人


 
  私が初めて囲碁の名人に挑戦した2008年からまだ10年もたっていないが、振り返って自分自身、ここまでよくタイトル戦を重ねてやってこられたと思う。人間なので波もある。下の世代も力をつけてくる。その中で四半世紀以上にわたりタイトルホルダーであり続ける羽生さんは、プロ棋士の目標となる理想像だ。
 一つの時期に集中的にパフォーマンスを上げることはもちろん大事だが、どちらかというと長く第一線で活躍し続けることのほうがたいへんなことだと思う。羽生さんとは何度か対談する機会をいただいた。あれだけの実績を重ねてこられ、その時々の自分を完成形として満足してもおかしくないのに、常に進歩をめざす姿勢を感じた。それがあってこその永世七冠なのだと思う。
 羽生さんは20代の自分と今の自分のどちらが強いか、対局してみなければわからないとも言っておられた。衰えた部分もあるかもしれないが、年を重ねて成長した部分もあるということなのだろう。
 羽生さんが七冠を同時制覇したのは21年前。私が初めて七冠を独占したのは昨年。21年前20年後の自分がどうなっているのか想像もできないが、羽生さんはやればできることをわれわれ後輩に示してくれた。
◆作家・柚木裕子さん


 
  永世七冠はすごい。柔和な眼差(まなざ)しのなかに、勝負師としての鋭い眼光を確として秘めた羽生さんだからこそ、成し得た偉業であろう。
 そもそも、七つのタイトルをそれぞれ五回、七回、十回と保持するのは、私に言わせれば気の遠くなるような話だ。前人未到どころか、空前絶後ではないか、とすら思えてくる。
 ご承知のように、全国の神童が集う棋士の養成機関、奨励会を経てプロになれるのは、熾烈(しれつ)な競争を勝ち抜いた一握りの天才だけだ。その天才同士がしのぎを削る棋界でタイトルを手にすることが、どれほど至難の業であるか。まして、棋界のタイトル七冠をすべて制覇することがどれほどの快挙であるか。将棋界を舞台にした拙著『盤上の向日葵(ひまわり)』を執筆するうち、その厳しさ、峻烈(しゅんれつ)さを、嫌というほど思い知らされた。
 AIがいくら強くなろうとも、劣勢の局面で形勢を逆転せんとする、手の善悪を超えた「勝負手」は指せない。人間だからこそ、観(み)る者の魂を揺さぶる勝負を盤上に映し出せるのだ。敗れても幾度となく立ち上がり、勝負手を繰り出して歴史に名を刻んだ羽生善治永世七冠の偉業に、人間の素晴らしさを改めて教えていただいた気がする。
 AIが心から、おめでとうございます、そしてありがとうございます、と申し上げたい。 (寄稿)   (朝日新聞DIGITAL 2017年12月6日20時02分)

 将棋・藤井聡太四段、順位戦Ⅽ級2組で無傷の7連勝!一期抜けへあと3勝 ―― 将棋の中学生棋士・藤井聡太四段(15)が127日、順位戦Ⅽ級2組7回戦で高野智史四段(24)に勝利し、同級で無傷の7連勝を飾った。2人とも持ち時間6時間を使いきり、終局が深夜に及ぶ熱戦となったが、勝負どころを逃さなかった藤井四段が白星をもぎ取った。同級初参加の藤井四段が一期抜けを果たすには、10戦全勝が必要な状況だけに、この日も負けられない対局だった。


 
 C級2組は棋士50人が参加。Ⅽ級1組に昇級できるのは3人。勝敗数が並んだ場合には、前年度の成績などをもとにした「順位」が上の棋士から昇級する。藤井四段は50人中45位。1敗グループには、藤井四段より順位が上の棋士が多数いるために、1つでも星を落とせば一期抜けはかなり苦しくなる。
 藤井四段の今期の成績は、この日を終えて通算60局で、52勝8敗(勝率0.867)。年度成績では、50対局、42勝、勝率0.84029連勝(年度またぎ)で、部門四冠を独占している。 (YAHOOニュース 12/7() 23:56配信)


https://www.youtube.com/watch?v=EP0xEfB23Xs


 江戸語と東京語は大局的に変わりありません。江戸語の二つの面はそのまま東京語に引き継がれます。ただ江戸方言とか江戸訛りといわれる下町コトバは急速にその地位が低くなります。火鉢→バチ・知らない→しらネエ・動く→ゴク――のような音訛は卑しい下品なものと烙印を押されてしまいます。明治7年8月17日の東京日日新聞は「下等な人種 江戸っ児」と見出しを挙げて、いわゆるべら坊メ~ネエを話す人々を非難し、「神田を多しとす」と指摘しています。

 「酒を見かけちゃァにげられねえだろう、しかたがねえからつっぺりこんで一杯やッ付けたが……」(「安愚樂鍋」明治四〈1873〉年)のようなコトバを話す人は埒外(らちがい)になるのです。その代わり「ハイ僕なども矢張因循家のちであまり肉食馳せなんだが……当時は三日用ひねバ口合がわるいやうぢゃから当店から毎度取りよせて常食どうやうにいたすテ」(同上書)という人々が表面に出てきます。

 僕~君の言い方は文明開化を象徴する新しい表現でもありました。ナンダとかジャの用語にまだまだ上方語的色彩は強いのですが…… そしてさらに蘭学以来の伝統を背負った洋学(英学)者が、新しさを固辞して怪しげな横文字を乱用するのです。「江湖機関西洋鑑(うきよからくりせいようめがね)」(岡丈記・明治六〈1873〉年)の一例を示しておきましょう。
   至後(あと)から(はげ)洋学生(なやじゆく)大誇(ほらふき


 
   イヤこれは先生マスタル 英語にて先生又はだんなといふ事なり 君等はまだこの地に御留学かネ ナント久しいもんだ。エーかうと調度僕が道寓したのはおよそ三年前になるテ…… ビールを奢ると、イヤそれは大不経済、ストッブストッブ。アイ、ドント、ウイシ 英語にてのみたくないからやめべしといふなり マアマア僕のために奔走して嚢中を空しくすることなかれ、決して御無用御無用

 おそらく上のような文明開化人は多かったことでしょう。英語――まことに怪しげな――を頻発し、〈大不経済〉などという新造語を乱用して新しさを誇る人々…… それは丁度銀座にガス燈がつき、煉瓦建ての洋館が建て並んだ明治初期の東京を飾るにふさわしい風物でもありました。四民平等の合コトバによって、各自が自由勝手に喋りまくるわけです。
 当時の話コトバの末尾に来る「デアル」の意の表現で初期東京で話されていたコトバの分類表を見ると次のようになります。


 


江戸から東京へ
 草深い一寒村から築き上げられた江戸は、幕府の政策よろしきを得て、300年の太平を保ち続けます。しかし、その充分計算された制度にも大きな誤算がありました。いわば自家中毒のように幕府みずから息の根を止めないわけには行かなくなります。鎖国の夢やぶれ、たった四はいの蒸気船で夜も眠られぬ有様でした。


 
 慶応二年十月将軍徳川慶喜が大政幇間をし、明治元年七月「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」との詔勅が出、翌二年、東京〈京都を西京というのに対する〉が首都と定められます。


 
 明治維新の大事業は一応達成されましたが、民衆を封建的なものから解放する民主主義革命ではありませんでした。士農工商の身分差別はなくなりましたが、かわりに華族・士族・平民の三つに分けられました。
 江戸は東京と改められましたが、土地の60%は武家地であり、それらが武士階級の崩壊によってすっかり荒れ果ててしまいました。北町奉行所をはじめ主要な役所のあった丸の内辺も、全く人影を見ない廃屋と化しました。また徳川譜代の大名屋敷のあった八重洲口のあたりもすべて引き上げて空地と化してしまいました。ちなみに、初期東京の人口は激減し、全盛期の江戸と同じになるのは明治23年頃まで待たなければなりませんでした。日本橋には次のような落首が貼られます。
  ○上方のぜい六どもがやってきてトンキョー(東京)などと江戸をなしけり。
  ○上からは明治だなどというけれど、治(オサ)まる明(メイ)と下からはよむ。
 新政府江戸改名への江戸っ子による精一杯の抵抗だったのかも知れません。あるいはまた薩長藩閥政治政府に対する一般庶民の犯行の一つだったのかも知れません。福沢諭吉の「学問のすすめ」(明治五年)が二十万部も売れたことなどは庶民階級の自覚と努力が盛り上がった証拠なのです。


 外国への公文書などは後まで、江戸=Yedoを用いていましたし、江戸湾が東京湾となったのに江戸川は以前そのままで現在に至っています。なお、最後の江戸っ子には尾崎紅葉・幸田露伴・夏目漱石などの慶応三年生まれであり、東京っ子の最初は山田美妙あたりでしょう。


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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