瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより


 藤井七段が開幕4連勝 将棋名人戦・C級1組順位戦 ――高校生棋士、藤井聡太七段(16)が28日、東京都渋谷区の将棋会館で第77期将棋名人戦・C級1組順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の4回戦に臨み、青野照市九段(65)に112手で勝って、開幕4連勝と星を伸ばした。一つ上のB級2組への昇級に向けて、前進した。


 


 青野九段は、名人挑戦権を争うA級順位戦に11期在籍した経験を持ち、現役で2番目に年長のベテラン。中盤で戦機をつかんだ藤井七段が押し切った。「ここからが正念場。気を引き締めて次の対局にも臨みたい」と話した。


https://www.youtube.com/watch?v=gxOXPqD-bBQ


 今期C級1組には39人が参加し、成績上位2人がB級2組に昇級する。藤井七段は昨年初めて順位戦に参加し、ここまで無敗。通算14連勝となった。   (朝日新聞DIGITAL 20188282130分)


 


 


御嶽海は西から東の関脇に 大相撲秋場所の新番付発表 ―― 大相撲秋場所(9月9日初日、東京・国技館)の新番付が27日に発表された。


 


先場所を制し、大関昇進がかかる御嶽海は西から東の関脇に上がった。


 


8場所連続休場中で秋場所の出場を明言している横綱稀勢の里は東の2番手から復活を期す。貴乃花部屋の貴ノ岩は元横綱日馬富士による傷害事件のけがから復帰後初めて、昨年九州場所以来の幕内復帰。千葉県出身の23歳、隆の勝が新入幕を果たした。大関2場所目の栃ノ心は初のカド番。   (朝日新聞DIGITAL 20188270600分)


 


 福岡の甥から依頼の「新ネット俳句4」が出来上がりました。


 


甥からメールが入りました。曰く、


FW: 「新ネット俳句4」受け取りました。


KSさんと、MYさんから「新ネット俳句4」お礼のメールが届きました。


転送しておきます。


*******


拝啓


このたびは、新ネット俳句集4の送付の件で、お世話になりました。


本日受け取りました。


いつも日高様にはご尽力いただいております。


このたびの印刷トラブルの件も、さぞかし大変だっただろうなぁと、感謝いたします。


なかなか直接的にお伝えできないため、ぜひよろしくお伝えくださいませ。


番外編も興味深く、熟読させていただきます。


これからも俳句の楽しみを教えてください。


よろしくお願いいたします。


                                 敬具


平成30年8月27


KS


*****


中村先生


本日、「新ネット俳句4」が届きました。俳句以外にも文章や絵、写真など満載で、読み応えがあります。


印刷製本をしてくださる日高様にも感謝いたします。


ありがとうございます!                MY


 


RT様からも、メールが届きました。曰く、


Tです


 ネット句会句集届きました。ありがとうございました。


 新たな気持ちで読むと、学ぶことがたくさんあります。貴重な読み物にも感謝です。


 このような立派な冊子に見合う句が作れるよう精進したいと思います。


 今後ともよろしくお願いいたします。


 


RT様には、返信メールを出しました。曰く、


わざわざ、メールを下さり、ありがとうございます。


私には俳句は駄目ですが、これからも微力ながら体力の続く限り、お手伝いさせて頂きたいと思っています。


今後とも東樹君ともども宜しくお願い申し上げます。


尚、送ってくださった、添付文書は、私のパソコンでは開けませんでした。残念です。  日高節夫


 


杉田久女とは


生涯


昭和初期に活躍した日本を代表する女性俳句の先駆者。


 1890(明治23)年5月、官吏であった父赤堀廉蔵、母さよの三女として父の赴任先の鹿児島市で生まれた。本名ひさ(久)。父の転勤に伴い、鹿児島から沖縄、さらに台湾へ転居を重ね、1902(明治35)年(一説には03年)、名門の女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)附属高等女学校に入学した。


1909(明治42)年に旧制小倉中学校(現小倉高校)の図画教諭杉田宇内(うない)と結婚し、小倉市(現北九州市小倉北区)に転居した。夫宇内は東京美術学校(現東京芸術大学)卒業の秀才であった。長女昌子、次女光子の二子をもうけ、久女26歳のとき、日明(ひあがり)(現小倉北区日明1丁目)の家を訪ねてきた次兄赤堀月蟾(げっせん)(忠雄)の手ほどきで俳句と出会った。翌1917(大正6)年俳句雑誌ホトトギスの「台所雑詠」に 鯛を料(りょう)るに俎板(まないた)せまき師走かな が初入選するなど頭角を現していった。


 


久女の代表作として名高い 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ は1919(大正8)年の作品である。ホトトギスを運営し当時の俳壇の実力者であった高濱虚子は「男子の模倣を許さぬ特別の位置に立つてゐ()る」と高く評価した。  


1922(大正11)年 足袋つぐやノラともならず教師妻 は、芸術活動と家庭生活との両立に悩み、夫宇内との離婚問題もあったようであるが、娘たちを思い家庭に戻ることを選択した心境を詠んだものとされている。一方で、この頃、当時の北九州の文化サロンとも言われた櫓山荘(ろざんそう)(現北九州市小倉北区中井浜)で、戦後の俳壇をリードすることとなる橋本多佳子と出会い、俳句の手ほどきをすることとなった。


1931(昭和6)年、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社共催の「日本新名勝俳句」に応募し、英彦山(ひこさん)で詠んだ (こだま)して山ほととぎすほしいまゝ が全国103千余句の応募の中からわずか20句に授与される帝国風景院賞を受賞した。


1932(昭和7)年3月、女性による女性のための俳句雑誌「花衣」を創刊し、この間 白妙の菊の枕をぬひあげし  風に落つ楊貴妃桜房のまゝ 無憂華(むゆうげ)の木蔭はいづこ仏生会(ぶっしょうえ) などの代表句を詠んだほか、女性俳句研究なども発表したが、わずか5号(同年9月)で廃刊とした。


「花衣」は廃刊するものの、同年10月にはホトトギス同人に推挙されるなど、1931(昭和6)年から1934(昭和9)年にかけては久女の俳句にとって最良の時期であった。


1936(昭和11)年10月、ホトトギスに「同人のうち日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除」するとの同人変更の社告が掲載された。日野、吉岡は当時盛んだった新興俳句運動の中で、虚子との対立が鮮明だったが、久女の除名ははっきりとした理由がわからず、多くの俳人を驚かせた。久女が自らの句集刊行を切望し、句集刊行に向けた行動にその理由があるのではないかという、その後の研究もある。


蝶追うて春山深く迷ひけり 同人除名後の1937(昭和12)年の作品である。


ホトトギス俳壇から遠ざけられた久女だが、他の俳句結社に移ることはなく、ホトトギスに投句を続けた。また、句集刊行をあきらめたわけではなく、戦局深まる中、空襲時は句稿とともに防空壕に避難し作品を守ったという。しかし、終戦直後の1945(昭和20)年10月、太宰府の県立筑紫保養院に入院、1946(昭和21)年1月21日腎臓病悪化のため55歳で逝去した。物資不足による栄養失調が原因と推測されている。


久女念願の句集は、1952(昭和27)年10月、戦後間もない物資不足のなか、長女昌子の何としても母の句集を出したいとの一途な思いと行動によって、師と慕い続けた虚子の序文も得て角川書店から世に出た。


句集の最末尾に掲載された句は、鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな である。


 


年譜


明治23年(1890


 5月30日、鹿児島市で官吏の父・赤堀廉蔵、母・さよの三女として生まれる。本名ひさ。父の転勤に伴い、沖縄、台湾へ転居。


明治36年(1903


 台北(台湾)にて小学校卒業。女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)附属高等女学校に入学。


明治40年(1907


 女子高等師範学校附属高等女学校卒業。


明治42年(1909


 愛知県出身で東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業し小倉中学校美術教師を務める杉田宇内(25歳)と8月に結婚。小倉に移住。


明治44年(1911


 長女昌子出生。


大正5年(1916


 次女光子出生。


 秋に次兄の赤堀月蟾(渡辺水巴門下)から俳句の手ほどきを受ける。


大正6年(1917


 「ホトトギス」1月号の「台所雑詠」に6句初掲載。5月、高浜虚子に初めて会う。翌年、「ホトトギス」4月号「雑詠」に初入選。


大正10年(1921


 家庭不和に悩み、教会へ通い始める。教会活動を熱心に行い、しばらく俳句から遠ざかる。


昭和2年(1927


 教会活動から離れ、再び俳句への道へ戻る。


昭和6年(1931


 東京日日新聞・大阪毎日新聞共催の「日本新名勝俳句」で「谺して山ほととぎすほしいまゝ」が帝国風景院賞を受賞。


昭和7年(1932


 俳誌「花衣」創刊、主宰(5号で廃刊)。 10月、「ホトトギス」同人となる。


昭和11年(1936


 10月、「ホトトギス」同人を除名される。


昭和14年(1939


 「俳句研究」7月号掲載の「プラタナスと苺」四二句以降発表作途絶える。


昭和21年(1946


 1月21日、太宰府の県立筑紫保養院で腎臓病悪化のため逝去。命日には、ゆかりの圓通寺で久女忌が営まれる。


昭和27年(1952


 長女石昌子の尽力により、高浜虚子序文の『杉田久女句集』(角川書店)が刊行される。


ウェブニュースより


 都心で雷や大雨 停電で京王線など一時運転見合わせ ―― 関東地方を中心に27日午後、大気の状態が不安定になり、局地的に雷や突風を伴った非常に激しい雨となった。落雷によって東京都内の約7700軒で停電が一時発生。京王井の頭線や京王線の全線で約1時間半にわたって運転を見合わせるなど、帰宅時間帯の足に影響が出た。


 


 気象庁によると、27日午後8~9時にかけて、東京都練馬区で1時間に70ミリ以上、世田谷区で60ミリの非常に激しい雨が降った。さいたま市でも1時間に50ミリの雨と27.6メートルの最大瞬間風速を観測した。


 東日本を南下する前線に向かって南から暖かく湿った空気が流れ込んだほか、日中は晴れて気温が上がったため大気の状態が非常に不安定となり、局地的に大雨や落雷が発生しやすくなった。


 東京電力によると、午後8時50分時点で東京都や千葉県、埼玉県など1都3県で計8900軒が落雷のため停電した。


 停電の影響で京王井の頭線と京王線が全線で運転を一時停止し、ほかの路線でも遅れなどが出た。首都高速道路では埼玉新都心線などで道路が冠水し、一時通行止めとなった。    〔日本経済新聞 2018/8/27 21:25 (2018/8/28 1:09更新)


 


 このパソコンが障害を起こす前後のことでしたが、川崎在住のUN女史より、「真実の久女」という本が送られてきました。添え書に曰く、


「日高節夫様 炎暑のみぎりいかがお過ごしのことかとお伺い申し上げます。(中略)私の俳句の友人が上梓しました「杉田久女」の評伝をお贈りいたします。お時間のある時読んでいただければうれしく存じます。うち続く暑さ、どうぞくれぐれもご自愛のほどおいのりもうしあげます。かしこ。UN 平成三十年七月十九日」


 


 ■久女ルネサンスと女性表現


 「見よ、冬すでに去り/雨もやみてもろもろの花地にあらはれ/山鳩の声もきこゆ」と、杉田久女が「花衣」創刊号に『旧約聖書』を引用して理想の境地を述べてから、八十年余がたった。天才俳人の久女が俳句を始めてほぼ百年。まだ男性の文芸といわれていた俳句に命を賭けた生涯と作品が、坂本宮尾の著書『真実の久女』(藤原書店)によって明らかになった。「ホトトギス」同人除名など、師の高濱虚子との確執から、風聞による伝説が一人歩きし、誤解されることも多かった俳人の真実の姿を著者は浮き彫りにした。二〇〇四年に俳人協会評論賞を得た評伝『杉田久女』に新資料を多く加え、大幅に手を入れた力作である。「周囲との軋轢に苦悩しながらも理想を追い、自身が信じる作句活動に打ち込んだ久女の一途な生き方は、次第に多くの人々の共感を呼ぶようになった」と著者はいい、「久女ルネサンスの到来」としている。


 


 坂本の視線は、決して興味本位に走るのではない。久女はただ一冊の句集を生きている間に残したいと考えたのだ。いまではごく自然な情熱が、軋轢の原因となる時代だった。坂本は、当時の家父長制度と、俳句に特有な結社の師と弟子との関係の類似性を指摘する。句集出版の目途がたたなくなったとき、久女は、全句を清書し、折々の感想を付した草稿を遺した。坂本はそれを読み解き、女性俳句全盛のいま現在の俳人たちへの「遺言状ではなかったか」と問いかける。女性俳人草創期の苦しみは、当時の女性表現者すべてに共通する問題だったと思う。


 悲嘆のうちに久女が没して七十年。その間に、一説によると各協会員の八割が女性といわれるまでになった。俳句にかける情熱に変りはないが、結社や師との関係も、実に多様で自由になったのはいうまでもない。


『俳壇』20171月号 「俳壇時評」欄 【酒井佐忠氏】より


 


ウェブニュースより


藤井聡太七段が今年度負けなしの7連勝…竜王戦2期連続の決勝T出場 ―― 将棋の史上最年少棋士・藤井聡太七段(15)が5日、大阪・関西将棋会館での第31期竜王戦5組ランキング戦決勝で、先手の石田直裕五段(29)を96手で下し、2期連続の決勝トーナメント出場権を獲得した。優勝賞金155万円も手にした。




 七段昇段後初対局だった1日の棋王戦予選でも2期連続の本戦出場を決めており、悲願のタイトルへ向けての重要な局面を連続突破。今年度負けなしの7連勝とした。公式戦通算記録は7812敗。


https://www.youtube.com/watch?v=RnMPtrnsdeE


 藤井七段は今年2月、いずれも最年少15歳6か月で五、六段に連続昇段。5月にはこちらも最年少記録15歳9か月で七段になった。八段昇進条件は従来の「〈1〉七段昇段後公式戦190勝」「〈2〉順位戦A級昇級」「〈3〉竜王位1期獲得」に「〈4〉タイトル2期獲得」が新たに加わったが、年内に羽生善治竜王(47)を破って〈3〉をクリアするのが最速ルート。加藤一二三・九段(78)が持つ18歳3か月での最年少八段記録更新を目指し、夢の切符を再び手に入れた。   (2018652141  スポーツ報知)


ウェブニュースより


  暑さ対策徹底し頂点 マラソン井上、接戦制す ―― 【ジャカルタ=渡辺岳史】ジャカルタ・アジア大会第8日は25日、陸上が始まり、男子マラソンで井上大仁(MHPS)が2時間1822秒で優勝した。この種目の日本勢の金メダルは1986年ソウル大会の中山竹通以来8大会ぶり。園田隼(黒崎播磨)は2時間19分4秒で4位だった。今大会の日本選手団の金メダルは30個となった。



  レースはスローペースとなり、中盤すぎから園田が先頭集団を引っ張った。井上はエルハサン・エルアバシ(バーレーン)と抜けだし、ゴール寸前で振り切った。


 


  序盤からスローペースで進み、優勝争いは37キロすぎから井上とエルアバシ(バーレーン)に絞られた。競技場に戻ってトラック勝負へ。最後までもつれる大接戦を体ひとつの差で制した井上は、日本勢8大会ぶりの頂点に立って喜びをかみしめた。「偉大な先輩たちの後を追い、ここまでこられたことが今後のプラスになる」


  高温多湿の環境で行われている今大会は東京五輪に向けた暑熱対策の効果を測る場でもあり、万全の対策を講じた。給水ではスペシャルドリンクとは別に、体に掛けるための水を用意。さらに体温上昇を抑えるために、自らの発案で保冷剤を手に握った。ペットボトルも「ギリギリまで冷やすため」に手に持ち、風通しを良くするためにウエアにも穴を開けた。30キロ以降は給水セットに帽子も付けるなど、あらゆる工夫をして臨んだ。


  実際は東京ほどの暑さを感じなかったが、それでも日が昇った後半は気温は上がり、日差しは強かった。「じわじわ暑さを感じて体にずっしりきた」。ダメージを受けつつも終盤のマッチレースで負けなかったのは、そうした準備を怠らなかった成果もあるだろう。


  前回大会はチームの先輩である松村康平が1秒差で優勝を逃していた。井上も2月の東京マラソンで設楽悠太(ホンダ)に敗れる悔しさを味わい、これまで優勝経験はなかった。「世界と勝負するために、どんな条件下でも対応できるようにしたい」。そう掲げた目標は金メダルという果実を伴って達成された。海外勢を相手にした夏のマラソンでつかんだ自信は、25歳の成長をさらに加速させそうだ。   (日本経済新聞 2018/8/25 21:08


 


ウェブニュースより


藤井七段が里見女流4冠下す=将棋・棋聖戦 ―― 将棋の最年少棋士の藤井聡太七段(16)が24日、大阪市で行われた第90期ヒューリック杯棋聖戦1次予選で里見香奈女流4冠(26)=女流王座、同名人、同王将、倉敷藤花=に82手で勝った。


 


藤井は2016年にプロ棋士養成機関「奨励会」の三段リーグで里見と対局して勝利。藤井のプロ入り後、初の公式戦対局だったが、里見のリベンジはならなかった。


https://www.youtube.com/watch?v=4osa-uJW_IA


里見は島根県出身。2004年に女流棋士となり、13年に史上初の女流5冠を達成した女流トップ棋士。11年に奨励会に入会し、女性初のプロ棋士を目指したが、規定の成績を挙げられず、年齢制限により今年3月に退会となった。


里見は「対戦はすごく楽しみにしていた。中終盤で間違えてしまったことが悔やまれる」と話した。   (時事通信社 2018824 1255分 )


 


電撃50m「最後は心理戦」 池江璃花子、6冠の輝き ―― (24日、アジア競技大会・女子50メートル自由形)


  今大会最後の13レース目は、この種目のアジア記録保持者、劉湘(中国)との一騎打ち。「一番緊張した」という大一番でも、池江は冷静だった。


 レース前半は先行された。「最初いきすぎると、後半差される。隣を見て泳いで、25メートルくらいから、一気に加速するプラン」。言葉通りに終盤に逆転し、0秒07差で競り勝った。


 


 自己ベストタイムが自分より0秒17速い劉湘にいかに勝つか。布石は午前中の予選にあった。


 「最後は心理戦になる。予選からプレッシャーを与えるような泳ぎで」


 指導する三木二郎コーチは予選前、こう指示を出した。21歳のライバルは21日の50メートル背泳ぎで世界記録を出し、勢いに乗っていた。その相手に対して0秒05とわずかな差で上回り、予選を1位で通過。心理的に優位に立った。


 パンパシフィック選手権と合わせ、16日間で計25レース。「体がきつい」と何度も漏らし、限界に近かった。それでも、「金メダルをとると疲れも吹っ飛んだ」。今大会はアンカー勝負で負けて号泣する先輩をなぐさめ、緊張が見られたロンドン五輪銀メダリストの鈴木に「大丈夫ですよ」と声をかけた。個人4種目ではまだ世界トップとの差もあるが、2種目で金メダルをとったリレーでは代表チームの中心になった。


 表彰式を終え、スタンドにいる家族やコーチの顔を見ると、涙がこぼれた。「たくさんの人が応援に来てくれて、そういう人たちの顔を見たら安心して」。18歳の高校生の素顔がのぞいた。   (朝日新聞DIGITAL 20188242230分)


 


ウェブニュースより


 正岡子規の未発表句、見つかる 「子規庵」で9月展示へ ―― 俳人・正岡子規(18671902)が詠んだ句を含む小冊子2冊が、新たに見つかった。東京都台東区の子規庵(あん)保存会が22日、発表した。写実を是としていた子規が、句作でだじゃれに興じるのは珍しく、ユーモラスな一面が垣間見える。


  2冊はいずれも和とじの小冊子。表紙にはそれぞれ子規の自筆で「丁酉遺珠(ていゆういしゅ)」「福引」と書かれている。



 1897(明治30)年の正月、子規は東京・根岸の自宅に年始のあいさつに訪れた高浜虚子や河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)ら弟子を連れ、人力車で上野の貸席に出向いて新年会を催した。福引を引き、景品に合わせてその場で句を詠むという遊びに興じたが、そのときに子規が詠んだ2句のうち、未発表だった1句が「福引」の方に掲載されていた。


 新年や昔より窮す猶(なお)窮す


 同じページに「福引にキウス(急須)を得て発句に窮す」という詞書(ことばがき)が、子規自身の筆で添えられている。子規はこの前年、病状が悪化し、脊椎(せきつい)カリエスの手術を受けている。しかしこの時期は病も小康状態だったようで、久しぶりにはしゃいでいたとみられる。調査にあたった復本一郎・神奈川大学名誉教授(国文学)は、「病床の貧しい生活を即興で詠んだ、滑稽で遊びのある作風。写生の人である子規の、別の側面が見られて興味深い」と話す。


 新発見の2冊には、虚子や碧梧桐を含む11人の弟子たちの句もそれぞれ真筆で残されており、多くが新出と見られる。


 ふんどしと蜜柑(みかん)と袂(たもと)ふくれたる 虚子


 貧(ひん)かつ愚(ぐ)福引引いてさりつ古暦 碧梧桐


 これらは同じく新たに見つかった、子規が友人のジャーナリスト古島一雄に宛てた書簡とともに、東京都台東区根岸2丁目の「子規庵」で9月1~30日に展示される。



朝日新聞DEGETAL 20188221924分)


 


菅井きんさん死去 92歳 必殺シリーズ義母役「ムコ殿!」で人気 ―― 「必殺」シリーズの姑役や黒澤映画などで知られる女優の菅井きん(本名佐藤キミ子)さんが10日午後2時、心不全のため都内で亡くなっていたことが23日、分かった。家族にみとられたという。92歳。東京都出身。通夜・密葬は近親者ですませ、しのぶ会を催す予定はない。

 菅井さんは1926年2月28日生まれ。46年に東京芸術研究所に入所し、47年に初舞台を踏んだ。劇団解散後は59年まで俳優座に所属した。


 50年に東映「風そよぐ葦」で映画デビュー。「生きる」、「天国と地獄」、「赤ひげ」などの黒澤明作品をはじめ、「幕末太陽傳」、「豚と軍艦」、「キューポラのある街」、「人斬り与太・狂犬三兄弟」、「砂の器」など数々の歴史的な名作に出演した。


 テレビでは大ヒット時代劇「必殺」シリーズで、故藤田まことさん演じる主人公・中村主水の義母せん役を快演。主水を「ムコ殿」と呼び、妻のりつ(白木万里)とのコンビでいびる姑役が当たり役となった。大河ドラマ「いのち」「功名が辻」、連続テレビ小説「あぐり」「瞳」、ビートたけし主演の「刑事ヨロシク」など多くのドラマに出演し、お茶の間に愛された。


 2008年、82歳の時に映画「ぼくのおばあちゃん」で初主演。「史上最高齢映画主演女優」としてギネス世界記録にも認定された。同作の舞台あいさつでは「生涯現役で続けていきたい」と力強く宣言したが、10年の大河ドラマ「龍馬伝」の武市智役が最後のドラマ出演となった。


 著書に「わき役 ふけ役 いびり役」(90年)がある。


今年は、明治維新から150年だといいます。私たちは、この150年間を正しく理解しているのでしょうか。今朝の朝日新聞23面「明治維新150年の光と影」をここに留めてもう一度考え直してみようと思います。


 


近代日本の光と影 明治維新150年 ――



 


日本が近代国家への道に踏み出した明治維新から今年で150年になる。身分制を廃止し、西洋文明を積極的に取り入れた日本は、憲法と議会を設け、アジアでいちはやく近代化を成し遂げた。だが、その富国強兵路線は、やがて植民地獲得競争と侵略戦争へと突き進んだ。明治維新が生んだ近代日本の光と影を、隣国からの視線も踏まえて振り返る。日本にはあれ以外の道はなかったのだろうか。


 


 ■福沢に学び改革、期待は失望に 朝鮮からの視線


 ペリー来航で日本が鎖国に幕を下ろしてから2年、朝鮮に一人の人物が生まれた。のちに政治家、啓蒙(けいもう)思想家となる兪吉濬(ユギルチュン)(18561914)。その生涯は、両国の近代の歩みを映し出している。


 伝統的支配階級の出身だった兪は、二十歳を迎えるまでに祖国の激変を目の当たりにした。厳格な鎖国体制を貫いていた朝鮮は、1875年に日本にしかけられた武力衝突(江華島事件)がきっかけで開国する。


 朝鮮は、近代制度を学ばせようと日本へ視察団を送る。兪は文明開化の思想的指導者であった福沢諭吉の慶応義塾に学び、福沢宅に身を寄せた。


 兪の視線の先にあったのは富国強兵であった。朝鮮近代史が専門の月脚(つきあし)達彦東大教授(55)は「清から干渉されず、欧米とも対等になる方法を考えていた」と話す。


 兪は米国にも留学。その後著した「西遊見聞」で、「自由と通義(普遍の道理)の権利は、天下のすべての人民が同じく有し、享受する」と記した。福沢の「西洋事情」や「学問のすすめ」の影響がある。


 だがその頃、朝鮮は大きく揺れ動いていた。


 清との関係を維持するか、日本との関係を強化するかで政権内が対立。福沢との親交もあった開化派の金玉均(キムオッキュン)らは、84年にクーデターを起こすが失敗する。


 金らの動きに期待していた福沢は深く失望。こんどは「亜細亜東方の悪友を謝絶する」と朝鮮に批判的な「脱亜論」を発表した。


 両国関係は暗転する。日清戦争に勝利した日本は、朝鮮における清の影響力を排除し、自らの影響力を強めていく。


 この頃、陸奥宗光外相に会った兪は「日本の力を借りて改革することに恥ずかしさを覚える」と述べた。


 さらに日本は日露戦争に勝利すると、朝鮮から国名を改めた大韓帝国の外交権を奪い、保護国とした。10年には植民地にした。


 併合の年、兪は日本政府から爵位を授与されるが、受け取っていない。4年後にソウルで死去した。


 モデルとして期待を寄せた明治日本に植民地にされる、という運命を朝鮮はたどった。日韓関係を研究するソウル大の李泰鎮(イテジン)名誉教授(74)は問う。「戦後の日本は昭和への反省は口にする。しかし、そのまなざしを明治に向けたことがどれだけあったでしょうか」


 


 ■西洋の犬か、東洋を守る武人か 中国からの視線


 明治維新は中国の人々にも大きな衝撃を与えた。


 当時の中国は、清朝の専制体制だった。しかし、英国とのアヘン戦争に敗れるなど、中国は列強の侵略により疲弊の極みにあった。


 日本は維新を経て日清戦争に勝ち、富国強兵の道を歩んでいた。清では日本にならって立憲君主制を樹立しようとする制度改革の動きが起きた。だが、保守派につぶされる。その短さから「百日維新」ともいう。


 その後に登場したのが、清朝打倒を目指す革命諸団体をまとめた孫文(18661925)だった。「民族・民権・民主」の三民主義を掲げた孫文も、明治維新をモデルと考えた。


 当時の日本には、孫文と交流し、彼の運動に共鳴する人が少なくなかった。その一人、犬養毅(のちの首相)あての書簡で、孫文は次のように書いた。


 「日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はつながって東亜の復興を達成する」


 しかし、現実の日本は、その期待から離れていく。


 第1次大戦で欧州列強が東アジアから退いたのに乗じ、大隈重信内閣は1915年、満州や山東省などでの権益確保を求めた21カ条の要求を中国に突きつけ、これを認めさせた。


 第1次大戦後のパリ講和会議では、日本がドイツから奪った山東省の権益が承認された。北京の学生数千人が19年5月4日、天安門広場から抗日デモ行進を行い、この動きは、全国に波及する愛国運動となった。五・四運動である。


 24年11月、孫文は神戸に立ち寄った。日本での最後の講演で、思いのたけを込めた。


 「日本民族は既に欧米の覇道の文化を取り入れると共に、アジアの王道文化の本質をも持っている。日本が西洋覇道の鷹犬(ようけん)(狩りに用いられる犬)となるか、東洋王道の干城(かんじょう)(守護する武人)となるか、それは日本国民の考慮と選択にかかるものである」


 その後の日本は、孫文の言う覇道を進んだ。


 北京大学法学院の賀衛方教授(58)は「明治維新は日本のそれまでの国の姿を崩し、新たに、天皇中心の特別な国であるとする皇国意識が強調された。覇権拡張は、その国家観の結果だったのではないか」とみる。


 


 ■「脱亜」の野蛮性を批判


 アジアを脱して欧米列強と肩を並べることを目指した明治日本。その時流に逆らった反骨の人物がいた。江戸城を無血開城に導いた旧幕臣、勝海舟がその人だ。


 ――日本はアジアの東辺にあるが、国民の精神はアジアを脱して西洋の文明に移っている。不幸な国が近隣にある。一つを支那といい、一つを朝鮮という。


 福沢諭吉の「脱亜論」にこういう趣旨の一節がある。福沢だけではない。当時の知識人、政治家のほとんどは日本を「文明」の側におき、隣国の朝鮮、清を遅れた「野蛮国」とさげすんだ。


 しかし、勝は違った。新政府でも参議兼海軍卿(海軍大臣)などの要職に就いた勝だが、独自の姿勢を貫いた。1887(明治20)年、首相の伊藤博文に意見書を送って勝はこう述べる(要旨)。


 ――日本の制度、文物はことごとく支那から伝来した。仇敵(きゅうてき)のようにみるのでなく、信義をもって交際されたい。


 94年7月、日本軍が朝鮮の王宮を攻撃して日清戦争が始まった。朝鮮から宗主国・清の勢力を排除するのが日本の狙いだった。開戦直前、勝は語る。


 「朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だヨ。昔は、日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。……数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だつたのサ」


 勝は古くからの隣国との信義を重んじ、欧米のアジア進出にも連携して対処しようと考えていた。


 日清戦争で日本軍は抗日の朝鮮農民(東学農民軍)に銃口を向け、3万人以上が犠牲になったとされる。この戦争を福沢は「文野(文明と野蛮)明暗の戦……世界の文明の為(た)めに戦ふ」と正当化した。朝鮮を清から独立させ文明化するための「義戦」だと。


 一方、勝は「大義なき戦」と断じ、「自分ばかり正しい、強いと言ふのは、日本のみだ。世界はさう言はぬ」と批判した。


 「明治の海舟とアジア」などを著した歴史学者、松浦玲さん(86)は言う。


 「福沢は文明と野蛮を対立的にとらえたのに対し、勝は文明自体がもつ野蛮性、暴力性に目を向けた。そこが大きく違っていた」


 1890年代、栃木県の足尾銅山から出た鉱毒が農地を汚染し、社会問題化した。この事件について、勝は97年にこう述べる。


 「旧幕は野蛮で今日は文明ださうだ。……山を掘ることは旧幕時代からやつて居た事だが、旧幕時代は手のさきでチヨイチヨイやって居たんだ。……毒は流れやしまい。……今日は文明ださうだ。文明の大仕掛(おおじかけ)で山を掘りながら、その他の(鉱毒を防ぐ)仕掛はこれに伴はぬ……元が間違つてるんだ」


 98年、鉱毒問題と闘う田中正造が勝のもとを訪れる。勝75歳、田中56歳。このとき勝は「百年後、あなたが極楽か地獄かにお越しになった節は、必ずや総理大臣を申しつけましょう」との趣旨の「証文」を戯れに書き、田中に与える。


 勝と田中は、アジアの隣国や鉱毒被害者の側、「野蛮」の側に身をおいて明治の「文明」を批判した。日本がアジアへの勢力拡大と近代化を急ぐなか、二人は「もう一つの近代」を見据えていた。


 勝は田中と会った半年後に没し、田中は晩年の1912(大正元)年、次の言葉を日記に書きつける。


 「真の文明ハ山を荒(あら)さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」


 「文明国日本」はその後も対外戦争を繰り返し、45(昭和20)年8月、焦土となって敗戦の日を迎えた。


 


 ■<解説>時代の渦、抗した声にも焦点を


 「一身にして二生を経る」とは、この特集に幾度も出てきた明治の思想家、福沢諭吉の言葉である。


 幕末、下層武士に生まれた福沢は、新しい明治の世に、慶応義塾を率いて、多くの人材を世に出し、言論人としても活躍した。まさに二つの人生を生きた。


 近代日本も、敗戦を機に「二生を経る」コースを歩んだように見える。無謀な戦争に突入した帝国日本は崩壊し、国民主権の民主主義国家として再出発した。


 実は、このふたつの近代日本が存在することが、明治維新150年の評価を難しくしている。


 明治維新によりアジア初の近代国家を造ったことは、国民の大きな誇りになってよい経験だろう。しかし、単純にそれをたたえるには、その後の植民地支配や侵略戦争の過去が重い。


 どこで日本は針路を誤ったのだろうか。それとも、明治の出発点から問題をはらんでいたのか。


 軍事的拡張路線に反対したのは、ここで紹介した勝海舟や田中正造だけではない。大正デモクラシーの思想家吉野作造は、朝鮮の独立運動や中国の民族主義に強い共感を示した。経済ジャーナリストで戦後は首相となった石橋湛山は、植民地は不要だとする小日本主義を唱えていた。


 彼らの声は結局、高まるナショナリズムにかき消されたが、時代の巨大な渦の中で、そういう声があったことが重要だ。


 歴史とは、様々な可能性の束である。起きたことだけが、必然の道だったのではない。過去に立ち返って、人々の判断と具体的な行動を吟味する。近代日本の歩みを振り返るためにはその作業が欠かせない。   (朝日新聞DIGITAL 20188220500分)


 藤沢市在住のMY氏からメールが入りました。曰く、


 パソコンにメールします


日高兄


パソコンが修復したようで良かったです。


ケイタイにもらったメールに従い貴兄のパソコンにメールします。


貴兄にはパソコンについて良き先生がいて良かったですね。


 昨日から又蒸し暑くなってきました。身体に気を付けましょう。 MY


 


ウェブニュースより


ネットで大阪桐蔭&金足農の両軍称える声「本当に強かった」「秋田の誇りです」 ―― ◇第100回全国高校野球選手権大会 決勝 大阪桐蔭13—2金足農(2018年8月21日 甲子園)



 第100回全国高校野球選手権大会第16日は21日、甲子園球場で決勝が行われ、大阪桐蔭(北大阪)が15安打の猛打で金足農(秋田)を13—2で下し、史上初2度目の春夏連覇を達成した。




 大阪桐蔭は初回、これまで5戦すべて完投し45749球を1人で投げ抜いてきた吉田を攻め、暴投と石川の2点適時打で3点を先制。3回に1点を返されたが、4回に宮崎の3ランで加点すると、5回には根尾の2ランなど7安打を集め、一挙6得点。5回終了時点で12—1と大きくリードを広げ、剛腕・吉田を今夏初めてマウンドから引きずり下ろした。結局、先発野手全員安打の15安打13得点で大勝した。




 秋田大会から一切交代なしで戦ってきた金足農を支える大黒柱・吉田は5回13212失点で降板。6回からは吉田に代わって打川が今夏初めて登板するなど、最後まで全力を尽くして食らいついたが王者・大阪桐蔭の底力に屈した。


 試合後、ネットでは「大阪桐蔭も金足農業もお疲れ様でした!」「大阪桐蔭おめでとう!本当に強かった」「主将の中川くんの涙に泣けた。最強軍団率いる重圧ってすごかったんだろうなあ」「藤原くん、根尾くん、柿木くんら本当に超高校級の実力でした」と大阪桐蔭の偉業を称える声や「吉田くん、感動をありがとう」「秋田出身者として嬉しい夏でした。秋田の誇りです」「最後まで諦めない姿勢素晴らしかった」などと金足農を称える声も集まった。  (821日(火)1718分 スポーツニッポン)


 


 昨夕、NM氏が来訪して、プリンターを診てくれました。約2時間ほどでどうやら作動するようになりました。お陰で新しくプリンターを買い求める必要はなくなったようです。本当に助かりました。


 今回のパソコン障害から、プリンターのトラブルを解決できたのは、NM氏のお陰です。N君本当にありがとう。


 というわけで、福岡の甥が依頼の俳句の冊子の印刷もどうやら終わりました。明日から、製本に入ります。


 


ウェブニュースより


 サマータイム、欧米見直し議論 「健康によくない」「省エネ効果乏しい」 日本、導入検討 ―― 2020年東京五輪・パラリンピックの「暑さ対策」を理由として政府・与党が検討を始めたサマータイム(夏時間)。既に実施している「本家」の欧米では見直しの動きが広がっている。「健康によくない」「省エネの効果が乏しい」などの指摘が出ているためだ。欧州連合(EU)では16日まで域内市民に対する「パブリックコメント」があり、1カ月余で460万人以上が賛否を寄せた。




 EU域内全28カ国では3月の最終日曜に時計を1時間進め、10月の最終日曜に戻す。今回の議論のきっかけは今年1月、北欧フィンランドで夏時間に反対する署名が7万人分集まり、EUに廃止を求めたことだ。


 2月の欧州議会では、「夜間の照明の電力の節約分より、夕方に使う冷房の電力の方が多い」「夏時間へ切り替える時に睡眠不足になり、交通事故が増える」などデメリットを主張する意見が出た。議会は「制度を徹底的に検証し、必要なら見直しを提案」するよう、欧州委員会に求める決議を採択した。


 欧州委員会は夏時間への賛否とその理由を「投票」できるサイトを7月に開設。16日までの結果を踏まえて見直すべきか判断する。


 17年に欧州議会調査局が作った報告書によると、世界で60カ国以上が夏時間を採用している。EU加盟国の大半は、2度の世界大戦時や、石油危機があった70年代に導入。フランスは英独と並んで、第1次大戦中の1916年に採用した。


 だが2015年の世論調査では、フランス国民の58%が夏時間に反対した。66%が「エネルギーの節約にはならない」、73%が「子どもに悪影響だ」と答えた。


 米国では3~11月に夏時間を実施しているが、ハワイ州と、アリゾナ州(一部を除く)では実施されていない。見直しに向けた議論は、米国でも起きている。米メディアによると、フロリダ州では3月、夏時間を通年化することで時計を動かすことをやめる法案が上院で可決された。だが実施に必要な米連邦議会の承認が得られていないという。


 カリフォルニア州でも夏時間を通年化するか聞く住民投票が11月に予定されている。   (朝日新聞DIGITAL 20188190500分)


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