ウェブニュースより
藤井聡太七段にタイトルホルダーの壁 菅井竜也王位が圧勝 残り時間も大差 タイトル挑戦は来年度以降に持ち越し/棋王戦 挑決T2回戦 ―― 将棋の最年少棋士・藤井聡太七段(16)が9月3日、棋王戦の挑戦者決定トーナメント2回戦で菅井竜也王位(26)に敗れ、公式戦の連勝は「9」でストップ、今年度4敗目(18勝)を喫した。また、この敗戦で藤井七段が今年度中にタイトルを獲得する可能性がなくなった。
今年度も勝率8割以上を残している藤井七段だが、この日は現役タイトルホルダーと早指し戦以外では初対決。序盤から持ち時間をあまり消費せずどんどん指す菅井王位に圧倒されると、各4時間の持ち時間でも藤井七段がすべて使い切ったのに対し、菅井王位は残り1時間50分と、完璧にねじ伏せられた形となった。2人の対局は昨年8月以来2度目で、この時も菅井王位が勝っていた。
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対局終了後、菅井王位は「終盤は苦しいかなという展開が続いていました。こっちも仕方のない展開だったので、もう少し序盤で工夫が必要だったかなと思います」と淡々と語ると、対藤井戦について「あんまりいっぱい研究しても、そういう感じには進行していかないので、自分の力が発揮できたと思います」と振り返った。また藤井七段は「仕掛けてからはまずまずの展開が続いたかなと思ったのですが…。一気に悪くなってしまった手が悔やまれます。総合的に見て、力不足だったのかなと思います。(タイトルを)目指すには、もっと力をつけていかなければと感じています」と語った。 (9月3日(月)18時24分 AbemaTIMES)
梟啼く(2) 杉田久女
やれやれと思うまもなく長途の困難な旅に苦しめられた弟はどっと寝付いて終ったのである。日本人といっても数える程しかなくやっと県庁所在地というのみで上級の官吏では家族を連れているのは私共一家のみという有様だったので、私共は県庁の内の家に這入り病弟は母が付添って市の外れの淋しい病院へ入れられた。そこはもと廟か何かのあとで、領台当時野戦病院にしてあったのを当り前の病院に使っているので軍医上り許りであったし外には医師も病院もなかった。煉瓦で厚く積まれた病院の壁は、砲弾の痕もあり、くずれたところもあり、病室と言っても、只の土間に粗末な土人の竹の寝台をどの間も平等に、おかれてある許り、廊下もなくよその病人の寝ている幾つもの室を通って一番奥の室が弟の特別室であった。隣室には中年増の淪落の女らしいのが青い顔をして一人寝ていた。弟の室の裏手の庭は草が丈高くはえて入口には扉も何もなく、くずれかけた様な高い煉瓦塀には蔓草が這いまわり隣りの土人の家の大樹が陰鬱な影を落していた。院長などは非常に一生懸命尽して下さった。弟の身動きする度ギーギーなる竹の寝台を母はいたましがった。弟は台南で食べた西洋料理を思い出してしきりにほしがった。馴れぬ七月中ばの熱帯国の事故、只々氷をほしがった。枕元の金盥には重湯(おもゆ)とソップを水にひやしてあったが水は何度取り替えてもじきなまぬる湯の様になる。信光は母のすすめる重湯を嫌って
みずう、みずう
と冷たいもの許りほしがった。この離れ島へ遠く死にに連れて来た様に思われる病人の為め出来る丈の事をしてやり度いと思っても金の山を積んでもここでは仕方がなかった。父は台南へむけ電報で氷を何十斤か何でも非常に沢山注文した。知事さんのコックに頼んで西洋料理を作らせた。其時許りは弟も非常に悦んだらしいけど、「信のぶやお上り?」と聞いた母に、只うんと二三度うなずいた丈けで、力ない目にじっと洋食の皿をみつめたまま、
あとで。と目をつぶってしまった。小さな体はいたいたしく痩せおとろえて、薬ももう呑んでも呑まなくてもよい様な頼みすくない容体に刻一刻おちていった。母は夜も一目も寝ず帯もとかず看護した。信のぶは体を方々いたがった。母がま夜中に、このあわれな神経のたかぶった病児の寝付かぬのを静かになでつつ
信や、くるしいかい?
と聞くと
うん。苦痛をはげしく訴えず只静かにうなずく。
じき直りますよ。直ったらあの嘉義(ここ)へ来る途中の田の中にいた白鷺を取って上げますからね。と慰めると
うん。とまた。その頃はもう衰弱がはげしくて、口をきくのも大儀げであったがしっかり返事していたそうである。子供心にも直り度かったと見えて死ぬ迄薬丈けは厭やといわずよく呑んだ。体温器も病気馴れた子でひとりでわきの下に挟んでいた。夕方になると、土人の家の樹に啼く梟の声は脅かす様な陰鬱の叫びを、此廃居に等(ひと)しいガラン堂の病院にひびかせ、その声は筒抜けに向うの城壁にこだまを返して異境に病む人々の悲しみをそそった。
病苦で夢中というよりも死ぬ迄精神のたしかであった弟は、この夕方の梟の声を大層淋しがった。見も知らぬ土地に来てすぐ侘しい病室に臥した弟は只父母をたより、姉をたより、私をたより、二人の兄達を思いつつ身も魂も日一日と、死の神の手におさめられようとして、何の抵抗もし得ず、尚お骨肉の愛惜にすがり、慈母の腕に抱かれる事を、唯一の慰めとしているのであった。不慮の災いからして遂に夭折すべき運命にとらわれてしまった不幸な弟、いたわしいこの小さな魂の所有者が我儘も病苦もさして訴えず、ギーギー鳴る竹の寝台に横たわっているのを見て、母はにじみ出る涙をかくしつつ弟を慰め、一日を十年の様な心持で愛撫しいとおしみつつ最後の日に近づいてゆくのであった。父は昼は病院から出勤し、夜は又病院で寝る為め私と姉とは淋しい県庁の中の家に召使とたった三人毎夜寝ていた。昼はムクの木の下に姉と行って木の実をひろい、淋しい時には姉と病院の方を眺めて歌をうたっていた。私の歯はその頃丁度ぬけ替る時で、グラグラに動いている歯が何本もあった。一生けんめい揺すっていた歯がガクリとわけなく抜けた或朝だった。病院から姉と私に早く来いとむかいが来た。
https://www.youtube.com/watch?v=36mNtY-0t7U
二三日前に、弟の厭やがり父母もどうせ死ぬものならといやがっていた、歯の根の膿みを持ったところを院長が切開したところが、いつ迄も出血が止らず、信(のぶ)は力ない声で、
いやあ、いやあ、切るのいやあ。
と泣いていたがとうとう死ぬ迄水の様な血が止らなかった。前日私の行った時はそれでも、私を喜んで大きく眼をあけていた。弟の病気が重いとは知りつつも死を予期しなかった私達は胸をドキドキさせてかけつけた。やっと間にあった。院長も外の軍医も皆枕元に立っていた。「それ二人とも水をおあげ」と母が出した末期の水を、夢中で信(のぶ)の唇にしめしてやった。何とも書きつくせぬ沈黙の中に、骨肉の四人の者は、次第にうわずりゆく弟の上瞼と、ハッハッハッと、幽かに外へのみつく息を見守っていた。母は静かに瞼をなでおろしてやった……
のぶさん‼ 苦しくない様に、寝られるお棺にして上げるわ。
私は、叫んだ。今迄の沈黙はせきを切って落とした様に破られて、すすり泣きの声が起った。
その時八つだった私の胸に之程大きく深く刻まれた悲しみはなかった。声いっぱい私は泣いた。
淋しいふくろが土人の家の樹で啼いていた。其の日の夕方しめやかに遺骸の柩を守って私共は県庁の官舎へ帰って来た。其当時の嘉義にはまだ本願寺の布教僧が只一人いるのみであった。十日間の病苦におもやせてはいたが信のかおにはどこか稚らしい可愛い俤が残って、大人の死の様に怖い、いやな隈はすこしもなく、蝋燭を灯して湯灌(ゆかん)し経帷子(きょうかたびら)をきせると死んだ子の様にはなく、またしてもこの小さい魂の飛び去った遺骸を悼たんだのであった。棺は私達の希望した寝棺は出来ないで、座る様に出来ていた。
お葬式は県庁の広庭であった。信光の憐れな死は嘉義の日本人の多大な同情を誘って、関係のない人々迄、日本人という日本人は殆どすべて会葬してくれた為め、大きな椋のこかげの庭はそれらの人々でうずもれた。かの病院長も来て下さった。郊外の火葬場――城門を出て半丁程も行った侘びしい草原の隅の小山でした――へは父と、極く親しい父の部下の人々が十人許りついて行ってくれた。
火をつける時の胸の中はなかった。ここ迄来てあの子をなくすとは……
と、火葬場から帰って来た父は男泣きに泣いた。母も泣いた、姉も私もないた……
信はとうとうあの異境で死んでしまった。
五寸四角位な白木の箱におさめられた遺骨は白の寒冷紗につつまれて、仏壇もない、白木の棚の上に安置された。信のおもちゃや洋服は皆棺に入れて一処にやいてしまった。
せめて氷があったら心のこりはないのに……
と父母を嘆かしめた。その氷は信光の死後漸く台南からトロで届いた。信の基隆で買ったあの汽車のおもちゃもサーベルも、あとから来た荷物の中から出て、また新らしく皆に追懐の涙を流させた。
父は思出のたねとなるからとて、信のつねに着ていた、弁慶縞のキモノも水平服も帽もすべて眼につくものは皆焼き捨ててそこいらには信の遺物は何もない様にしてしまった。鍾愛おかなかった末子の死は、一家をどれ程悲嘆せしめたかわからなかった。
姉と私とは毎日草花をとって来ては信の前へさし、バナナや、竜眼(りゅうがん)肉やスーヤー(果物)や、お菓子でも何でも皆信へおそなえした。
父も母も多く無言で、母は外出などすこしもせず看護(みと)りつかれて、半病人の様なあおい顔をしつつわずかに私達の世話をしていた。
土人の子の十五六のを召使っていたけれども友達はなし父母は悲しみに浸ってい、弟はなし、私と姉とは、竜眼の樹かげであそぶにも、学校へ行くにも門先へ出るにも姉妹キッと手をつないで一緒であった。県庁の中の村に私達四五人の日本人の子供の為めに整えられた教場へ五脚ばかしの机をならべて、そこへならいにゆくのにも二人は、土人の子の寮外に送り迎えされていた。全くまだ物騒であった。或夜などは城外迄土匪が来て銃声をきいた事もあった。夕方など私達が門の前で遊んでいると父は自分で出て来て、
静も久も家へもうおはいり。かぜをひくといけないと、心配しては連れもどって下さった。厳格一方の父も気が弱った。廟をすこし修繕して畳丈け敷いたガランとした、窓只一つのくらぼったい家は子供心にも堪えられぬ淋しさをかんぜしめた。
城壁のかげの草原には草の穂が赤く垂れ、屋根のひくい土人の家の傍には背高く黍が色づき、文旦や仏手柑や竜眼肉が町にでるころは、ここに始めての淋しい秋が来た。毎夜、城外の土人村からは、チャルメラがきこえ夜芝居――人形芝居――のドラや太鼓などが露っぽい空気を透してあわれっぽくきこえて来た。
遠く離れている二人の兄に細々と弟の死を報じた手紙の返事が来たのは漸く初秋のころであったろう。
次兄は大空にかかっている六つの光りの強い星が一時に落ちた夢をみたそうであるし、鹿児島にいた長兄は、つねのままのゴバン縞のキモノで遊びに来たとゆめ見て非常に心痛しているところに電報が行き、いとま乞いに来たのだろうとあとで知った由。二人の兄共殊に愛していた末弟のあまりにももろい死に様に一方ならず力落とししたのであった。
それから丸一年を嘉義に過し其後台北に来、東都に帰った後も尚お暫らく弟の遺骨はあの白布の包みのまま棚の上に安置して、弟の子供の時の写真と共々、いつも一家のものの愛惜の種となっていたが、桜木町に居を定めて後、一年の夏、父母にまもられて、父の故国松本城の中腹にあつく先祖の碑の傍らに葬られた。
弟が死んでからもう二十二年になるが、あの様な地で憐れな死に様をした弟の事は今も私の念頭を去らず、死に別れた六つの時の面影が幽かながらなつかしく思い出されるのである。 (「ホトトギス」大正七年十一月)
sechin@nethome.ne.jp です。
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