ウェブニュースより
自身は昇級、藤井聡太七段は逃し…「師匠としては複雑」 ―― 第77期将棋名人戦・C級1組順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)最終11回戦が5日、東京と大阪の将棋会館で一斉に指され、高校生棋士の藤井聡太(そうた)七段(16)と師匠の杉本昌隆八段(50)がともに勝ったが、藤井七段は一つ上のB級2組への昇級を順位の差で逃した。杉本八段は自力で昇級を決めた。藤井七段の順位戦での連続昇級は実現せず、名人への道の途中で足踏みとなった。
今期C級1組には39人が参加。それぞれ10局指し、上位2人が昇級できる。最終戦を前に、藤井七段や杉本八段ら5人に昇級の可能性があった。ただ、順位戦のルールでは勝ち星が同じ場合、今期の順位が上の棋士が優先されるため、杉本八段は勝てば昇級が決まるが、C級1組に昇ったばかりの藤井七段は順位が低いため、自分が勝つとともに、上位の競争相手3人のうちの2人が負けないと昇級できない状況だった。
この日、藤井七段は大阪市福島区の関西将棋会館で都成竜馬(となり・りゅうま)五段(29)に、杉本八段は東京都渋谷区の将棋会館で千葉幸生(さきお)七段(40)にそれぞれ勝った。
https://www.youtube.com/watch?v=yXqNa6hQ-gE
https://www.youtube.com/watch?v=WE5ud_mG8fU
昇級争いで二番手だった杉本八段に続き、トップを走っていた近藤誠也五段(22)も増田康宏六段(21)に勝ち、昇級者2人は近藤五段と杉本八段に決定。近藤五段はB級2組へ昇級したことで5日付で六段に昇段した。藤井七段は同じ勝ち星ながら順位の差で涙をのんだ。
順位戦の同じクラスで師弟がそろって昇級すれば、1986年度の第45期B級2組順位戦で師匠の大内延介(のぶゆき)九段(故人)と弟子の塚田泰明(つかだ・やすあき)九段(54)がそろってB級1組に昇級して以来、32年ぶりだった。
終局後、藤井七段は「前回(の10回戦の近藤誠也五段戦で)敗れてしまったので(昇級できなかったのは)仕方が無かったかなと思います。また来期も一局一局積み重ねていければ」と淡々と話した。昇級を決めた杉本八段は「藤井七段と一緒に昇級するのが夢だった。自分だけ上がってしまって申し訳ない。今回は藤井七段と昇級争いをするのが目標で、昇級は幸運だった。順位戦は実力のある人が上がるべきだと思う。自分にその資格があるのか、という葛藤を抱えながらの対局だった。今期の対局は失ったものを取り返すための対局。昇級を諦めかけた時期もあったが、諦めなければそれなりの結果が出せるということが証明できて良かった。棋士としては最高の気持ちだが、師匠としては非常に複雑な思いがある。ただ、藤井七段は必ず近いうちに昇級してくるので、もう一度ともに戦える日を待っている」と語った。 (朝日新聞DIGITAL 2019年3月6日02時12分)
ウェブニュースより
[東京マラソン2019]五輪見据え 2万人警備…きょう東京マラソン ―― 約3万8000人が参加する「東京マラソン2019」(読売新聞社など共催)が3日、開催される。警視庁は車両突入テロに備え、主要交差点で車両約200台による「防護壁」を築き、沿道の路地も封鎖。上空はドローン部隊で警戒し、来年の東京五輪・パラリンピックを見据え、民間警備員を合わせて総勢約2万人態勢で警備にあたる。
危機対応バイクも導入
車いすマラソンは午前9時5分、マラソンは同10分にスタートする。沿道に約130万人の観客が集まる見込みだが、警視庁が最も警戒しているのが、車両突入テロだ。今年元日には、東京・原宿の竹下通りで暴走車に8人がはねられる事件が起きており、「現実的な脅威」(警視庁幹部)とされる。
東京マラソンでは、機動隊バスなど計約200台で防護壁を築くほか、スタート地点の都庁前(新宿区)や浅草(台東区)、銀座(中央区)、東京駅前周辺(千代田区)には、イスラエル製の鉄柵(高さ70センチ、重さ22キロ)を組み合わせた「車両突入防止用バリア」を設置。コースに通じる路地も鉄柵や車止めで封鎖する。上空は、訓練を受けた「ドローン部隊」が警戒にあたる。
スタートとゴール地点付近30か所には、「さすまた」の上部に看板を取りつけた案内標識を東京マラソン財団が設置。有事の際には看板を外して、制圧に使うことができる。テロリストを銃撃する「緊急時対応部隊」(ERT)も前年より増強する。
ランナーと並走しながらテロリストを警戒する「ランニングポリス」に加え、今回は新たに、自動体外式除細動器(AED)とカメラ付きの「危機対応バイク」を導入。テロや事故の際には現場に急行し、避難誘導や負傷者の手当てを行う。
東京マラソンのコースは、来年8月に行われる東京五輪と一部が重複しており、警視庁の重久真毅警備1課長は「東京五輪に向けた試金石になる。安全な五輪開催につなげたい」と話した。 (読売新聞 2019/03/03 05:00)
中大の堀尾、MGC切符に驚き 東京マラソン5位 ―― スタート前から冷たい雨が降る悪条件。寒さに耐えかねて棄権した大迫やオーバーペースもたたって30キロから急激に失速した実力者の姿に、その過酷さが表れていた。一方、飛ばしすぎの先頭集団に付き合わなかった後続の日本勢は、中盤まで淡々とレースを進める。初マラソンの堀尾はその中に紛れていた。
前方から落ちてきた走者を次々に拾って順位を上げたのは30キロあたりから。25キロで給水に失敗し、隣の藤川に声を掛けて分けてもらったドリンクも力水となった。「ダメならダメでいい。ある程度余裕もあって、どんどん行こうと思った」
失うものはない大学生の存在感は徐々に増し、37キロ付近で佐藤をとらえて日本人トップに躍り出る。さすがに終盤は体が動かなくなったが、追っ手も状況は同じ。堂々の5位でのフィニッシュに、学生では初めてのMGC(Marathon Grand Championship、2019年9月15日に開催される予定のマラソン大会)出場権獲得もついてきて「これは現実かな」と驚きを隠せなかった。
兵庫・須磨学園高から中大に進学し、今年の箱根駅伝2区では区間5位。他の部員より5キロ長く距離走を行うなどしてマラソンの土台をつくってきたという。指導する藤原正和監督はその適性を見抜き「トラックよりマラソンで通用する。アキレスけんも長いので持っている能力は非常に高い」と太鼓判を押す。
183センチと長身で黒縁の眼鏡が印象的な22歳は大学卒業後、服部勇馬が所属するトヨタ自動車に進む。「東京五輪に挑む権利をもらった。全力で目指したい」。将来が楽しみな選手がまた一人現れた。
(日本経済新聞 2019/3/3 20:07)
②バビロンの空中庭園
超古代文明の話をする時に必ず出てくるのがこのバビロンの空中庭園です。
大昔に哲学者フィロンの制定した世界の七不思議の一つでもあり、話を聞いた感じでは確かに当時としては相当な技術を用いて作られた事が分かります。
ちなみに空中庭園と言うネーミングが非常に秀逸で、何も前知識が無い状態で聞くと宙に浮かんだ煌びやかな庭園をイメージするかと思いますが、実際は高層建築物の上層に設置されたためにこう呼ばれます。
現在のイラクあたりにバビロンの空中庭園の名残を見る事が出来ます。作られたのはおよそ紀元前600年前後、当時のバビロンの王様でもあるネブカドネザル2世が建立しました。
意図としてはメディアと言う遠方よりバビロンに嫁いだ王妃アミュティスのために作らせたと言う事ですが、この王妃当時大変なホームシックにかかったと言う伝承が残っています。
バビロンは基本的に砂漠地帯ですから、緑がそこかしこにあるわけではなく、逆に当時のメディアは青々した都市だったと言う記録も残っています。
少しでもホームシックを紛らわせるためにネブカドネザル2世が考えたのが砂漠地帯に荘厳な庭園を造る事でした。
こうしてバビロンの空中庭園は造られ有名になったのです。
驚くべきはその庭園のスケールです。
宮殿の外側に高さ25メートルにも及ぶ階層を5段上に積み重ねたと言う事ですから、砂漠を歩いている人から見たら確かに庭園が空中にあるかのように見えたはずです。
現在とは違いこれほどの規模の庭園にはそれなりの灌漑装置が必要になると思いますが、一体どのような技術で水を上層までまんべんなく運んだのでしょうか。
ここに関しては現在でも研究が進んでいます。
そして明確な答えは出ていない状態で幾つか有力な説はありますが、あくまで説ですね。
一番唱えられているのが、らせん状に水をくみ上げるために専用の装置を作り、更に緩やかな傾斜でもってらせん状に水を運ぶ水路を作ったと言う説です。
物理的には恐らく可能だと思います。
ユーフラテス川等から水さえ引いてしまえば上層の庭園まで水を運ぶことは出来ると思いますが、これが現実にあった方法だとすると当時のバビロンの技術は超古代文明と言っても差し支えないと思います。
もう一つの説は、ロバなどの動物による運動エネルギーで水を上層まで運んだ説です。
中世の水車の様なイメージで、何頭かの動物に大きな歯車を回させ、その時生じるエネルギーで水を上層まで運んだと言う説ですね。
上記と同じくこの説も十分可能だと思いますが、当時のバビロンにはどう言う動物が存在していたのでしょうか。
それこそロバ?馬?ラクダ?
この辺も更に研究が進まないと何とも言えませんがどちらにしろ高度に発達した建築技術が紀元前には存在していたと言う事です。
栄華の終焉と消えた空中庭園
記録に残っているのは紀元前538年にペルシア軍の侵攻により破壊されたとありますが、もったいないですね。
フィロンの七不思議で現在も残っているのはギザのピラミッドだけですが、この時破壊されなければもっと空中庭園の名残は残っていたかもしれません。
一応当時の書物に登場するのは「プリニウスの博物誌」と言う有名な歴史書のほか、何人もの人が記録に残しています。
古い建築物ですから多少の尾びれは付いていたとしても荘厳な空中庭園があったのはほぼ確定でしょう。
当時のバビロンは現在から見たら超古代文明と言えるような技術がもっと沢山あったのかもしれません。
ウェブニュースより
米朝首脳会談 非核化の進め方で合意に至らず ―― アメリカのトランプ大統領と北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長の2回目の首脳会談は、非核化の進め方をめぐる両者の隔たりが浮き彫りになり、合意に至りませんでした。トランプ大統領は北朝鮮が制裁の完全な解除を求める一方、非核化の措置は一部にとどまったことが原因だと主張しました。
トランプ大統領とキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長による2回目の首脳会談は、27日に続いて28日もベトナムの首都ハノイのホテルで行われました。
両首脳は1対1で会談したあと、側近を加えた拡大会合を開きましたが、その後、予定されていた昼食会や合意文書の署名をとりやめて、そのまま会場をあとにしました。
トランプ大統領はこのあと記者会見し「非常に建設的な2日間だったが席を立たなければならない時もある。今回がそれだった」と述べ、会談は有意義だったとする一方、合意には至らなかったことを明らかにしました。
その理由についてトランプ大統領は「北朝鮮は制裁の完全な解除を求めたが、われわれはそれには応じられなかった」として、アメリカとして非核化が実現するまで解除しないとしている制裁の全面解除を北朝鮮が求めたからだと説明しました。
またトランプ大統領は「制裁は多くの国と協力してやっていることを忘れてはいけない」と述べ、制裁について妥協すれば各国からの信頼や協力体制を損ないかねないという認識も示しました。
そのうえで最大の焦点となっている非核化の措置については、キム委員長がニョンビョン(寧辺)の核施設などを廃棄する意思を示す一方、そのほかのウラン濃縮施設を含むほかの核施設の廃棄の要求には応じず、折り合えなかったとしています。
ただトランプ大統領は「キム・ジョンウン委員長との関係は良好だ」として決裂ではないと強調し、引き続き交渉を進めていく考えを示しました。
両首脳は今回、トップ交渉で去年6月の首脳会談以降、こう着状態に陥っていた非核化の協議の前進をはかりましたが、両者の溝は深く非核化の措置と見返りをめぐる大きな隔たりがかえって浮き彫りになる結果となりました。
北朝鮮 反応なし
ベトナムの首都ハノイで行われた2回目の米朝首脳会談の結果について、北朝鮮は、これまでのところ反応を示していません。
北朝鮮国営の朝鮮中央テレビは28日午後5時からの放送でも、27日行われたキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長とトランプ大統領の会談初日の様子を伝えるにとどまっています。
韓国「活発な対話継続に期待」
韓国大統領府の報道官は28日午後、会見を開き、「トランプ大統領とキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長が完全な合意に至らなかった点は残念に思う」と述べました。
一方で、成果もあったと強調し、「両首脳が互いの理解を深めたことを評価する。特にトランプ大統領が明らかにした、持続的な対話の意志と楽観的な見解は、次の会談に向けて明るい展望をもたらした」と述べました。
そのうえで、「今回の結果をもとに、今後も活発な対話が持続することを期待する。韓国政府は双方が緊密な協力と対話の流れを維持していくよう、あらゆる努力を尽くす」と述べ米朝の仲介役として積極的な役割を果たす考えを改めて示しました。
中国「対話と協議で問題解決を堅持していく必要」
米朝首脳会談で非核化などで合意に至らなかったことについて中国外務省の陸慷報道官は28日の記者会見で「朝鮮半島の問題解決は簡単に成功することはない」としたうえで、「双方は誠意を示して互いに歩み寄り、対話と協議を通じた問題解決を堅持していく必要がある」と強調しました。
そのうえで、「双方は対話を続けて互いの懸念に配慮し、アメリカと北朝鮮だけでなく、世界が望む前向きな成果を達成することを望む」と述べ、アメリカと北朝鮮が対話を継続し、問題解決に取り組むことに期待を示しました。
また今後の中国の役割について陸報道官は「中国は引き続き和解を促し、朝鮮半島の非核化と平和体制の構築を同時に進めていくことや、双方が互いに歩み寄ることを提起していく」と述べて、双方の対話を促すため、積極的な役割を果たしていく考えを示しました。
ロシア「交渉途絶えていないことを前向きにとらえている」
米朝首脳会談の結果についてロシア大統領府のペスコフ報道官は28日、「明確な合意には至らなかったようだが、交渉のプロセスが途絶えていないことを前向きにとらえている」と評価しました。
そしてこのような難しい問題は一気に解決できるものではないとしたうえで「双方が柔軟性や譲歩を示し、少しずつ合意にたどりつく必要がある」と述べ、アメリカと北朝鮮の双方が歩み寄る必要があるという考えを示しました。 (NHK NEWS WEB 2019年2月28日 21時54分)
クフ王のピラミッド
ピラミッドの大きさは、完成時の高さは146m(現在は138m)、底辺は230m、勾配は51.5度で、誤差が非常に少なく正確です。ピラミッド建築の中でも最も優れており、いちばん大きなものです。2.5tの石灰岩を270万~280万個も積み上げて作られており、当時の石積みの技術の高さもうかがい知ることができます。
14世紀にイングランドのリンカン大聖堂が建てられるまでは、世界でいちばん大きな建造物でした。
クフ王のピラミッドは、紀元前2560年ごろに約20年の歳月を費やして作られました。クフ王は、エジプト古王朝時代の第4王朝のファラオで、彼の墳墓がこのピラミッドになります。しかしクフ王のミイラ自体は、ここから発見されていません。
クフ王のピラミッドは、1839年にイギリス軍人のハワード・ヴァイスによって発見されました。彼は、ピラミッド内部にあり、王の間にかかる重量を軽減するために造られたとする「重量軽減の間」にクフ王の名前を見つけ、ここがクフ王のピラミッドであると結論づけたのです。
クフ王の船(通称「太陽の船」)
1954年および1987年にギザの大ピラミッドの付近で発見された2隻の船です。クフ王の船は紀元前2500年頃、古代エジプト・古王国時代第4王朝のファラオであったクフのために造られたとされています。
クフ王第一の船は全長42.32m、全幅5.66mもの大きさで、古代の、最も古く、大きく、保存状態の良い船の1つです。主に杉板で作られていました。
クフ王第一の船は649の断片に分解された状態で、ギーザの台地に掘られた石坑に封をされていたため、船は発見されるまで全く乱されていませんでした。現在では、エジプト考古庁によって28年の歳月を掛けて発掘・復原が行われ、ピラミッド脇の博物館に展示されています。
1987年には第一の船が発見された竪坑の西隣から早稲田大学エジプト学研究所が電磁波レーダーを用いた地中探査を行い木材反応を確認、翌1988年アメリカ隊が石坑内部を小型機器で視認、もう1隻の別の船体が発見されました。こちらは「クフ王第二の船」と呼ばれ、発掘・保存・復元はエジプト考古庁と早稲田大学エジプト学研究所が共同で行うこととなり、2011年6月23日より約5年間の予定で発掘が進められています。2012年2月20日より埋設現場から木製部材の採取を開始しており、600以上の木片を回収し木造船を復元する予定です。
1987年10月にはアメリカ隊がファイバースコープを石蓋に開けた穴から挿入することにより船内の様子を撮影することに成功、6年後の1993年1月にはアメリカ隊が開けた穴に早稲田隊がマジックハンドを挿入し、木片を採取することに成功しています。さらに第一の船には無かったマストなどが見つかっています。
クフ王の船は何のために造られていたかはわかっていません。太陽の神ラーの元、復活する王を運ぶ儀式の船に似ていたため「太陽の船」と呼ばれています。しかし、実際は水で使用されたと見られる跡がありました。現在の研究では、クフ王が死んだ際、メンフィスからギーザまで王の防腐処置を施した死体を運ぶために使用されたか、クフ王自身が巡礼地を訪問するのに「巡礼の旅船」として使用されたのではないかとされています。また、クフ王が来世で使用するために埋められたのではないかという説もあります。
カフラー王のピラミッド
カフラー王はエジプト古王国の第4王朝ファラオで、クフ王の息子です。クフ王の後を継いだのがジェドエフラー王ですが、その統治は短く、後を異母兄弟であるカフラーが継ぎました。その墳墓として、このピラミッドが建てられたのです。
このピラミッドの高さは143m(現在は136m)、底辺は215m、勾配は53度。クフ王のピラミッドに次いで2番目の大きさになります。見た目にはクフ王のものより高く見えますが、これは、高い台地に建てられているためです。
頂上部にのみ、化粧石が残っています。ピラミッド全面を覆っていたはずの化粧板は、カイロ市街の造営に使用するためにすべてはぎ取られてしまいました。
ピラミッド内部はクフ王のものよりシンプルで、石棺が置かれた玄室のみです。ミイラは発見されませんでした。
スフィンクスとカフラー王のピラミッド
ギザの大スフィンクスは、第2ピラミッドを建造したカフラー王が作ったとされていました。スフィンクスの顔もカフラー王の顔で、ピラミッドを守っている存在とされてきたのです。
ネメスという頭巾をかぶったファラオ(王)の顔を持ち、体はライオンの形をしています。王者のシンボルでもある顎髭をたくわえ、神聖なものとされてきました。
スフィンクスは長い間砂漠の砂に埋もれていました。全貌が明らかになったのは100年前にも満たない近年になってからです。ナポレオンがエジプト遠征でギザを訪れたときも、砂に埋もれていました。その顔は恐らく元々違う顔をしていたと考えられています。
エジプトにある他のスフィンクスは、体はライオンですが顔(頭)は山羊の形をしています。恐らくギザの大スフィンクスもそうだったと考えられます。後に、カフラー王の顔に掘り変えられたと考えていいでしょう。大きさは高さ20m、長さは73mです。
スフィンクスは違う場所で作られたものを運んできたのではなく、元々そこにあった岩山を削って作られました。ピラミッドを作るために石を切り出した岩山を利用して作られたとするのが定説となっています。
カフラー王の第2ピラミッドの参道が、スフィンクスを避けるように作られているのですが、これは石を切り出したあとの岩山を崩す事が出来なかったため、やむをえずに参道を横にそらしたと言われています。
岩山をそのままにしていくのは景観上あまりよくないということでスフィンクスを作ったのです。そう考えられてきました。しかし、調査が進むにつれて明らかになってきたことがあります。岩山の残骸からスフィンクスを作ったのではなく、最初から岩山をスフィンクスとして作り上げる計画だったのではないかという説です。
違う方向からの研究では、カフラー王がピラミッドの守護神として作ったとされているスフィンクスですが、ピラミッドが作られるより以前に、すでにスフィンクスは作られていたという研究結果が出ています。現在ではこの説が定説となっていますが、本当のことはまだ誰にもわかりません。
現在、スフィンクスはピラミッドが作られるより以前にすでにそこに存在していたとする説が強くなってきていますが、スフィンクスは何故そこに作られたのでしょうか。
スフィンクスの元々の名前は「シェプスアンク」といいます。これがなまってスフィンクスになりました。「シェプス」は姿という意味を持ち、「アンク」は復活や再生の神様という意味です。スフィンクスは太陽神を表わしていたのです。
その後ピラミッドや神殿が作られ、それらを守る守護神となっていくのです。最初から守護神だったわけではないようです。
スフィンクスは風雨にさらされて浸食が進み、これまでにも何度か修復されてきました。ファラオの象徴である髭は砂の中から発見され、現在は大英博物館に保管されています。
鼻が崩れてなくなっているのは、ナポレオンらが試射の的にしたためだと言われてきましたが、それ以前から鼻はなくなっていたようです。異教徒達によって崩されたとする説の方が強くなっています。
鼻がなくなってからも、気が遠くなるほど長い時代をスフィンクスは見つめ続けてきたのです。
ウェブニュースより
辺野古移設、解けぬ対立 22年度返還一段と困難に ―― 米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設を巡る沖縄県民投票は反対票が7割を超えた。2018年9月の知事選で移設反対を掲げた玉城デニー知事が当選したのに続き、辺野古移設に論点を絞っても反対の民意が示された。政府は移設工事を進める構えだが県との対立が解消する見込みはなく、日米両政府が合意した最短で22年度の返還目標の達成は一段と厳しくなった。
玉城氏が県民投票に踏み切ったのは、工事を止める手段が限られつつあるためだ。昨年8月に死去した翁長雄志前知事の県政下で市民団体による署名集めが始まり、玉城氏も9月の知事選で県民投票の必要性を訴えた。辺野古に争点を絞ることで移設反対の民意を明確にする狙いだった。
反対派が反対票の最低ラインに設定したのは投票資格者総数の4分の1に相当する約28万9千票だった。これを大きく上回り、知事選で玉城氏が辺野古移設の反対を訴えて獲得した約39万7千票も超えた。玉城氏はさらに政府に強硬的な手段で対抗しやすくなる。
1996年の米軍基地の整理縮小を巡る県民投票は賛成が89%を占め、投票資格者総数の5割を超えた。当時の大田昌秀知事は投開票の2日後に橋本龍太郎首相と会談。橋本氏は米軍基地の整理・統合・縮小に全力で取り組むことなどを約束した。
反対派は勢いづく。立憲民主党の福山哲郎幹事長は「県民の民意を全く無視する基地建設の強行は許しがたい。直ちに辺野古での工事を中断すべきだ」とのコメントを発表した。
辺野古の移設工事を巡っては、政府が18年12月に土砂投入を始めた。まだ知事の許可が必要な工程が残っており、県側の対応が工事の進捗を左右する。
政府は県民投票に法的な拘束力がないため、移設工事を継続する構えだ。防衛省幹部は「投票結果は移設工事に影響しない。一日も早く辺野古に移設する作業を進めるだけだ」と語った。
大きな火だねになりそうなのが軟弱地盤の存在だ。政府は今後、設計変更を県に申請するが、県は認めない構え。大量のくいを打ち込む必要があり大幅に費用が増えるとの試算を県がまとめ、政府をけん制している。
県は新たな法廷闘争も視野に入れる。県による18年8月の埋め立て承認撤回は石井啓一国土交通相が効力を停止した。これを不服として近く、裁判所に提訴する方針だ。
日米両政府は13年4月、名護市辺野古への移設を前提に早ければ22年度に普天間基地を返還すると合意した。長引く政府と県の対立で「目標達成は難しいところにきている」(岩屋毅防衛相)のが実情だ。
沖縄では4月に玉城氏の衆院議員失職に伴う衆院沖縄3区補欠選挙が予定される。7月には参院選も控える。ともに自民、公明両党が推す候補と、玉城氏ら移設反対派が支援する候補が争う構図になる公算が大きい。県民投票の結果が影響を及ぼす可能性がある。 (日本経済新聞 2019/2/24 23:30)
ドナルド・キーンさん死去 96歳 日本文学研究者、翻訳で国際化に貢献 —― 日本文学の国際化に貢献した文化勲章受章者で米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが24日、心不全のため東京都内の病院で死去したことが分かった。96歳。通夜・葬儀の日程は未定。お別れの会を後日開く。喪主は養子のキーン誠己(せいき)さん。
1922年、米ニューヨークで貿易商の家庭に生まれた。コロンビア大の学生だった18歳の時、英訳された「源氏物語」を偶然手に取り、みやびな世界に魅了された。太平洋戦争中には、米海軍語学将校として日本兵捕虜の尋問・通訳に従事。彼らが残した日記を解読するうちに、日本への関心をより深めていった。
三島由紀夫ら多くの文学者と交流
戦後、大学に戻り、本格的に日本文学研究に打ち込み、53年には京都大大学院へ留学。後の文相で教育社会学者の永井道雄と親交を結ぶ中、中央公論社の嶋中鵬二社長を紹介されたのを機に、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫ら多くの文学者と交流。古典から近現代文学まで幅広い日本文学作品に精通し、太宰治や三島、安部公房らの作品を積極的に翻訳、紹介した。谷崎、川端、三島らの名前が候補に挙がったノーベル文学賞の事前選考にも、大学の同僚だった日本文学研究者エドワード・G・サイデンステッカー(2007年死去)とともに関わった。
2012年に日本国籍取得し話題に
11年3月の東日本大震災の津波被害と原発事故を憂えて、「大好きな日本に永住し、日本人になる」と表明。生涯独身で、後に養子に迎える新潟県出身の文楽三味線奏者、上原誠己さんと06年秋に知り合ったことが日本国籍取得(12年)の最大の契機になったという。13年には、研究業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」(同県柏崎市)がオープンした。
日記文学を論じた「百代の過客」で読売文学賞と日本文学大賞(85年)、力作評伝「明治天皇」で毎日出版文化賞(02年)を受賞するなど多数の論考を著した。
近年でも評伝「正岡子規」(12年)、同「石川啄木」(16年)を刊行するなど晩年まで創作意欲は旺盛だったが、18年3月の米ニューヨーク訪問後に体調を崩しがちになり、都内の病院で入退院を繰り返していた。公には、同年5月に埼玉県草加市で上演された「幻」の古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の記念座談会で元気そうな姿を見せたのが最後となった。 (02/24 09:37 毎日新聞)
ドナルド・キーンさん死去、養子のキーン誠己さんが談話「穏やかに永遠の眠りに」 ―― 24日朝死去した国際的な日本文学研究者、ドナルド・キーンさんの養子で喪主のキーン誠己さんは同日、報道機関に向けて「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。自ら選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」との談話を発表した。
キーンさんの遺体はこの日午前、東京・上野の病院から世田谷の葬儀会館へ移り安置された。生前愛したベルディのオペラが流れるなか、安らかに眠っていた。
葬儀は親族のみで執り行い、後日、南青山の青山葬儀所でお別れの会を開く予定。 〔毎日新聞2019年2月24日 15時28分(最終更新 2月24日 17時16分)〕
①ギザの大ピラミッド
三大ピラミッドは、エジプト、ギザの砂漠にある、3基のピラミッドの総称です。英語ではGiza pyramid complex(ギザのピラミッド群)と呼ばれます。隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっています。
造営時期は現在より約4500年前の、紀元前2500年頃とされ、いずれもエジプト第4王朝期に建設されています。古代エジプト王国のファラオの墓陵であり、被葬者はクフ王、カフラー王、メンカウラー王とされます。また、それぞれのピラミッドには王妃たちのピラミッドや衛星ピラミッド、参道やマスタバ墓群などが付属しており、いわゆるピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)を形成しています。カフラー王のピラミッドの参道入り口にそびえたつギザの大スフィンクスも、このピラミッド複合体の一部に含まれています。こうしたギザに広がるピラミッド付属の墓地遺跡を総称してギザの墓地遺跡(ギザ・ネクロポリス)と呼び、メンフィスとその墓地遺跡の一部として世界遺産に登録されています。
メンカウラー王のピラミッド
メンカウラー王のピラミッドは三大ピラミッドの中ではいちばん小さく、高さは65.5m(現在は62m)、底辺は105m、勾配は51度と、他の2基の半分ほどの大きさしかありません。
この理由としては、当時の財政事情が悪化していたために建設費を削ったという説が一般的に唱えられています。
1837年から1838年にかけてのイギリス軍人ハワード・ヴァイスの調査によって、ここがメンカウラー王のピラミッドと判明しました。玄室では遺体の一部が見つかりましたが、残念なことに輸送中に船が沈んでしまい、失われてしまいました。
その後、1905年から1927年のハーバード大教授ジョン・ライスナーらの調査では、幾つかの彫像が発見されました。その技術は非常に高度なもので、加工が難しいといわれるアラバスター(美しい白い鉱石の変種)を使用したものでした。
世界の七不思議とは、諸説あり、数多くの学者などがそれぞれに選定していますが、一般的にはフィロンが書いた「世界の七つの景観」の中で選ばれた、下記の7つの巨大建造物のことを指し、最近選定された「新世界の七不思議」と区別して「古代世界の七不思議」とも呼ばれます。
一般的に挙げられる七不思議は以下の7つです。
①ギザの大ピラミッド
②バビロンの空中庭園
③エフェソスのアルテミス神殿
④オリンピアのゼウス像
⑤ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
⑥ロドス島の巨像
⑦アレクサンドリアの大灯台
この内「アレクサンドリアの大灯台」は、実際にはフィロンの選んだ7つには含まれていない。これは、フィロンが自分の国の不思議は入れないことに決めていたためで、フィロンが選んだのは「バビロンの城壁」でした。バビロンの空中庭園とバビロンの城壁が誤って同一視された結果、「アレクサンドリアの大灯台」が導入されたとされています。
これらのほとんどは地震や破壊などで消滅してしまい、「ギザの大ピラミッド」のみが現存する唯一の建物になっています。また、「マウソロス霊廟」や「エフェソスのアルテミス神殿」のように遺構や遺跡がわずかに残っている例もあれば、「バビロンの空中庭園」や「ロドス島の巨像」のように完全に破壊されて痕跡も残っていない例もあります。
この他、シドンのアンティパトロス(紀元前2世紀後半の古代ギリシャの 詩人)、ローマの大プリニウス(ピラミッドやスフィンクス、アレクサンドリアの大灯台、エフェソスのアルテミス神殿、エジプト・クレタ島・リムノス島などの迷宮、キュジコスの神殿や競技場、テーベ、パクス神殿や競技場・劇場・水道橋などのローマの建築物)など、さまざまな学者・歴史家・詩人が七不思議を選定しています。
現存しないものが多いので、「当時の土木技術のレベルを超越している」「物理的に可能とは思えない」と思えるような絵だけのものもありますが、古代のロマンを夢見ることができるので、色々と調べてみることにします。
ある特定の地域において不思議な現象として取り上げられる7種の事柄です。一般に地名が冠せられて「何々の七不思議」と称されます。広く知れ渡っているものに越後(えちご)(新潟県)の七不思議があります。『北越奇談』によると、「燃ゆる土、燃ゆる水、白兎(はくと)、海鳴り、胴(ほら)鳴り、火井(かせい)、無縫塔」があげられています。このうち燃ゆる土、燃ゆる水、火井は、それぞれ石炭、石油、天然ガスのことであり、海鳴り、胴鳴りとは天気の変わり目に遠くから聞こえてくる海潮音、怪奇な轟音(ごうおん)のことである。白兎は冬季に真白な体毛をもつ越後の兎(うさぎ)のことで、無縫塔とは奇岩の呼称である。これらはいずれも自然現象に関することであるが、科学的な説明の十分ではない当時において、これを怪異な現象とみなし七不思議と名づけて喧伝(けんでん)したものなのでしょう。
信濃(しなの)(長野県)の諏訪(すわ)の七不思議も古くから伝えられているものです。『信濃奇勝録』によれば、「湖水神幸(こすいみわたり)、元旦蛙猟(がんたんのかえるがり)、五穀筒粥(ごこくつつがゆ)、高野鹿(こうやしか)の耳割(みみわれ)、御作田(みさくだ)、葛井清池(くずいのせいち)、宝殿点滴(ほうでんてんてき)」があります。これらは諏訪神社の祭祀(さいし)行事と深く関連するものです。人々の素朴な信仰心が、このような特異な神事に対して七不思議と称し崇(あが)めたのであろう。同様のことは仏教に関してもいえます。
幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」に天王寺の七不思議ということばが出てきますが、これは同寺の三水(さんすい)・四石(しせき)の七不思議についてのことです。三水とは「荒陵池水、亀井(かめい)、閼伽井(あかい)」をいい、四石とは「転法輪石、影向石(ようごうせき)、礼拝石、引導石」のことです。天王寺は聖徳太子の創建と伝えられているので、あるいは太子の奇跡にかかわったものでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=2UQPxDOwexw
というのは、貴人・高僧にかかわる七不思議はほかにもあります。越後に親鸞(しんらん)の七不思議というのがあり、秋田には弘法大師(こうぼうだいし)の七不思議があります。後者は由利(ゆり)郡鳥海(ちょうかい)町百宅(ももやけ)に伝えられるもので、百宅の七不思議とよんでいます。それには「大師の名づけた地名、虱(しらみ)のない猫、虫のつかない稲穂、先のとがらない田螺(つぶ)、水のない川、鳴かない一番鶏(どり)、寝泊まりした洞窟(どうくつ)」があります。これらはすべて弘法大師に関係したものであり、こうした七不思議ができる背景には弘法伝説の伝承があることはいうまでもないことです。人々の信仰心に支えられた神仏の奇特を説く七不思議が一方に存在したのです。
江戸にも民間説話を題材にした七不思議があります。有名な本所(ほんじょ)の七不思議、麻布(あざぶ)の七不思議がそれです。本所の七不思議には、「真夜中にどこからともなく聞こえてくる馬鹿囃子(ばかばやし)、追いかけるとどんどん向こうに行ってしまうという深夜の道の送り提灯(ちょうちん)、一ひらの落葉もないという松浦家の落葉なき椎(しい)の木、太鼓の音がするという火の見櫓(やぐら)の津軽家の太鼓、両国橋近くに生える片葉の芦(あし)、消えたことのない二八のそば屋の消えずの行灯(あんどん)、釣った魚を持ち帰ろうとすると置いてけと声がかかるおいてけ堀」があります。怪談仕立てに構成されてはいるが、妖怪(ようかい)変化の話であり、先行する伝説や世間話を再構成したものです。麻布の七不思議も同じような性質のものであり、そこには「善福寺の逆さ銀杏(いちょう)、六本木、かなめ石、釜(かま)なし横丁、狸穴(まみあな)の古洞、一本松、広尾ヶ原の送り囃子」があげられています。
七の数は聖なる数を示すことばであって、七不思議とは本来、自然界、神仏界における霊的な現象をさす意味があったように思われます。それが時代の流れのなかで信仰心が希薄になるにつれて、怪異な現象、不可解な事柄をもさすようになってきたと考えられます。
sechin@nethome.ne.jp です。
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