昨日五月五日は「端午の節句」でした。端午の節句の由来について調べてみました。
中国の戦国時代というから、今から約2300年前の話です。
楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃~前278頃)という政治家がいました。
詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。
楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり、へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。
これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。
これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。
このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。
ところで、歴史の上ではどちらかと言えば些細なこの事件が、このように盛大な祭に発展していったのでしょうか? それは、次のような理由だと言われています。
急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったそうです。
その為、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して健康増進を祈願します。
人々の生きるための切実な思いによるものが、端午の節句が生まれた理由なのでしょう。
日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。
しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。
当時の日本では季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。
この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。
厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようです。
五月五日の端午の節句に「鯉の吹流し」を立て、「武者人形(五月人形)」を 飾って男の子の前途を祝うようになったのは、徳川時代からです。
五月五日の節句は、五と五を重ねる事から「重五」、菖蒲を用いる事から「菖蒲の節句」などと呼ばれています。「五」と「午」が相通ずることから、初節句を「端午」「端五」(端ははじめの意)と書きました。
菖蒲は薬草で、邪気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
武家時代となると「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」と音 が通ずるために、さかんとなりました。
平安朝のころから、子供らはショウブで飾った紙のかぶとをつけ、石合戦な どの遊びをしていたそうです。元禄時代(一六八八~一七○四年)になって紙や木でつくった 菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えました。
室町時代から武家では五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立ててましたが、江戸時代になって町人階級も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて対抗して楽しんでいました。コイはもともと威勢のいい魚で、昔から「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられています。
古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。
しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。
やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。
また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。
このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。
はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。
さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。
5月3日は「憲法記念日」
日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、その半年後の1947年5月3日に施行されました。憲法が施行された記念として、5月3日を「憲法記念日」に、また、公布日である11月3日を「文化の日」として制定しました。
なぜ「文化の日」と命名されたのかというと、日本国憲法が平和と文化を重視しているからです。
日本国憲法には3つの柱があります。覚えていますか?
日本国憲法は、以下の3つの項目を基本原則として定めています。
国民主権:国民が政治のあり方を決める力を持っていること
基本的人権の尊重:人間が生まれながらにして持っている、人間らしく生きる権利を永久に保証する
平和主義:世界の平和を永久に守るため、外国と争い起きても戦争をしないで平和的に解決する
そして、国民の三大義務として、子どもを養育する者に対して子どもに普通教育を受けさせる「教育の義務(26条2項)」「勤労の義務(27条1項)」「納税の義務(30条)」を定めています。
――平和主義に関係する憲法第9条については、改正論がたびたび取り上げられています。5月3日の「憲法記念日」には、家族と、または友人と、憲法について話し合ってみるのもいいかもしれません。
ウェブニュースより
きょう憲法記念日 今の国会での憲法改正議論 見通し立たず ―― 3日は憲法記念日です。自民党は、今の国会で国民投票法の改正案を成立させ、憲法改正案の議論を始めたい考えですが、立憲民主党など野党側は、夏の参議院選挙を控え、対決姿勢を強めることも予想され、見通しは立っていません。
衆議院憲法審査会は今月9日に、国民投票の実施に伴うテレビ広告の規制をめぐって民放連=日本民間放送連盟から意見を聞くことにしています。
与党側は、その後、直ちに、継続審議となっている国民投票の利便性を高めるための国民投票法改正案の成立に向けて、審議と採決を行いたい考えです。
これに対し、立憲民主党などは、さらに有識者からも意見を聞くなど、テレビ広告の規制をめぐる議論に時間をかけるべきだとしていて、与野党の間で協議が行われる見通しです。
そして自民党は、憲法審査会に「自衛隊の明記」など4項目の党の憲法改正案を提示し、各党と議論を始めたい考えですが、連立を組む公明党は慎重な立場です。
また立憲民主党など野党側は、夏の参議院選挙を控え、対決姿勢を強めることも予想され、今の国会で憲法改正論議が進むかどうか、見通しは立っていません。 (NHK NEWS WEB 2019年5月3日 4時27分)
大和高田市在住の水門会の成富満生氏よりメールが入りました。曰く、
いかがお過ごしですか
伊夫伎 直道様; 山本 幹男様; 日高 節夫様
お三方
明日が平成時代が終わります。お互いに昭和・平成・令和時代と生きることになりました。何時迄満喫できるでしょう。
さて、4月に4日間下向したのですが、栄町商店街で、小野に会いました。田中の店での囲碁に向かう途中の珍事でした。
家内の家作の整理で時間もなく、情報の仕入れなしで今回はご容赦ください。友人たちは、欠けることなくそこそこに生を送っておるそうです(田中夫人言)。
5月にも整理の終局で再下向します。硯友会(11日)には参加しますので
複数名のnewsはお届け出来るでしょう。
多分最後の参加としましょう。 (2019/4/29 成富満生)
大相撲夏場所
新番付が30日に発表され、新大関貴景勝は、豪栄道、高安に続く東の2番手についた。平成で新大関に昇進したのは26人目で、令和最初の本場所を新大関として迎える。東小結の碧山は、関脇だった2015年初場所以来、26場所ぶりの三役復帰となった。西小結御嶽海は三役在位が14場所連続で、昭和以降2位タイの記録。新入幕は志摩ノ海、炎鵬の2人。
貴景勝は30日、東京都台東の千賀ノ浦部屋で記者会見し、「身が引き締まる思い。先輩方の受け継ぐような、新しい時代を代表する力士になりたいと述べた。
昇進からの1カ月は「新鮮な気持ちだった」という。春巡業や表敬訪問などで看板力士になったことをじっかんしたからだ。
夏場所に向け、「良いスタートを切りたいし、今まで通り挑戦者の気持ちで臨みたい。15日間、全部勝てるように力を出し切りたい」と気概を示した。
平成から令和にかわる「カウントダウン」に多くの群衆が集まりました。天下に名だたる東京・渋谷です。マスコミも大々的に取り上げ,昨夜から今朝もバカ騒ぎの映像のオンパレードです。
バカ騒ぎの跡はきまって,ごみの山です。あいにくの雨で,壊れてしまったビニール傘が道路上に無数散乱し,見る影もないありさまです。注意する者もいないのでしょう。 群集心理とでも云うのか、みんなが捨てれば怖くない,華やかな若者の街が一変してゴミの街になります。
大阪でもカウントダウンの後、例によって道頓堀へダイビングする若者を警戒して大勢の警察官が配備されていましたが、やっぱり制止できませんでした。道頓堀の橋から群衆の声に呼応して、見事に次々と飛び込んだといいます。
恒例だからとみんなが容認して、むしろ煽ってのダイブだったのでしょう。川を行く遊覧船に激突した若者もいたようだが、怪我の情報はわかっていません。
渋谷のバカ騒ぎも大阪の道頓堀ダイブもマスコミは、してやったりと映像を得意げに報道しています。改元という節目だから、笑って大目にみてやればいい、何も大袈裟に非難しなくてもいいではないかと云う人もあるでしょう。
まあ、やりたいようにやればいい、マスコミもそれをネタに面白おかしく報道して一緒に喜び,それを見て喜ぶ国民もいるんだから。
でもねえ、こんなバカ騒ぎには虫唾が走ります。
ビザンツ様式を代表するキリスト教の大聖堂建築です。イスタンブルにあり現在はイスラーム教モスクとされています。
一般に、聖ソフィア聖堂といいます。ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルであった、現在のトルコの首都イスタンブルにある大聖堂を持つ建築物です。532年のニカの乱で焼け落ちたが、ユスティニアヌス帝はわずか39日後に復旧に着手します。神の栄光と己の栄華を永久に伝えるため、もとの教会よりはるかに壮大な規模としたのです。5年半の歳月をかけて537年12月に完成した時、ユスティニアヌスは「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだといいます。ソロモンとは旧約聖書に出てくる壮大な神殿を築いたイスラエル王国の王のことです。
ビザンツ様式の特徴
建物はビザンツ様式の典型である巨大な円蓋(直径33m、高さ55m)を中央にもち、それを沢山のアーチと柱で支える。沢山の窓から内部に光が射し、宗教的な効果を高めました。
ビザンツ帝国滅亡に際し、オスマン帝国のメフメト2世は、コンスタンティノープルをオスマン帝国の首都イスタンブルとして改造した際、この聖堂もイスラームのモスクに転用されアヤ=ソフィア=モスクと言われるようになりました。その4隅に立つ塔(ミナレット)は、ことの時あたらに設けられたミナレットです。現在は、モスクの形態のまま、博物館として内部が公開されています。
建物内部を見回すと、同時に目につくのが、正面上部の半ドームに描かれた聖母子像、すなわちイエス・キリストと聖母マリアの像です。イスラム教のモスクに描かれたキリスト教のモチーフ。この不思議な取り合わせは、いったい何を意味しているのでしょうか。
その謎の手がかりは、15世紀のモスクへの改修時にありました。
見事な建築物であるアヤソフィアの破壊を望まなかったメフメット2世でしたが、偶像崇拝を禁じるイスラム教国家の君主である彼は、アヤソフィア内部の壁面に描かれたイエスやキリスト教の聖人たちの像をそのままにしておくことはできませんでした。アフメット2世はキリスト教の絵画やモザイク画を漆喰で覆い隠し、人々の目に触れることがないように命じたのです。
しかし、20世紀に入って博物館となったアヤソフィアで修復作業が進められると、漆喰の下から黄金に輝くビザンティン時代のモザイク画が次々と発見され、これによって、アヤソフィアがかつてキリスト教聖堂だった事実が改めて強く浮かび上がってきたのでした。
ウェブニュースより
東京・台東区浅草の雷門の前で刃物を持った男が暴れ、現行犯逮捕されました。
捜査関係者によりますと、29日午後5時ごろ、浅草の雷門前の交番に「金を出せ」と刃物のようなものを持った男が暴れました。男はその後、交番を出たところで警察官らに取り押さえられました。警視庁は男を現行犯逮捕し、詳しい状況を調べています。 (2019年4月29日 18時59分 テレ朝news)
2008年1月7日、中国の「チャイナフォトプレス」は江蘇省南京市で現在発掘調査が行われている大報恩寺塔跡地で、地下宮殿の入り口となる塔基(塔の基盤)が発見されたとのニュースを報じました。
明の太宗・永楽帝(在位1402年〜1424年)がその母のために建てた大報恩寺塔は、瑠璃瓦と白磁磚(レンガ)、瑠璃磚で造られた美しい塔で、別名「陶塔」「瑠璃宝塔」とも呼ばれたと史書にあります。高さは約78mあり、当時の南京で最高の建築物でした。その美しさと珍しさから、イタリアのピサの斜塔と並んで中世には「世界七不思議」の1つに数えられています。
1856年に戦火により消失した大報恩寺塔の跡地は現在の中華門外に位置し、その上に民家が建ち並んでいました。大報恩寺塔復元プロジェクトのため、南京市博物館考古学チームは現地にて1年以上にわたる発掘調査を実施しました。このたび、ついに塔基を発見しました。史書によれば、その地下には宝物を収蔵した秘密の宮殿があるとのこと。
「中国新聞網」の報道によると、明(1368~1644年)代に葛寅亮(ガー・インリャン)が編撰した「金陵梵刹志」に記載されている「金陵大報恩寺の瑠璃塔の地下宮」が、600年の時を経てまもなく発掘されるかもしれないといいます。またシャカ(ゴータマ・シッダルータ)の毛髪や、シャカの遺体を火葬した際にできたといわれる珠状の物(仏舎利)などの他、明代の航海家・鄭和(ジョン・ホー)が持ち帰った財宝なども付近に埋蔵されている可能性があるといわれ、その真偽が今明らかにされようとしています。
「金陵大報恩寺の瑠璃塔」は、明代、清(1644~1912年)代に南京が最も栄えた当時のシンボル的な建築物で、万里の長城と並んで中国を代表しているといわれるだけでなく、エジプトのピラミッドなどと並んで世界7大奇観の1つと称されています。
史料によると、明の永楽大帝は瑠璃塔を建造した際に、財宝類を塔内だけでなく、地下宮にも大量に安置したとされている。しかも歴史上この近辺には、各地に奉納されていた仏舎利を集めて再配布したとされるアショーカ王の塔の遺跡があり、この地下宮を探し当てれば仏舎利やシャカの毛髪などの発掘の可能性もあるといわれています。
1年以上前から発掘に参加している職員は「地下宮の存在を示す可能性が高い『青石板』をすでに発見しており、近いうちに地下宮の発掘ができるだろう」と期待を示している。
ウェブニュースより
仲邑菫初段 37歳女流棋士からプロ初勝利 緊張なし! 攻めて攻めて攻めまくった ―― 囲碁の非公式戦「若竹杯」で種村小百合二段を破り、はにかむ仲邑菫初段=大阪市の日本棋院関西総本部 兄弟子の村松大樹六段(右)と対局。足が届かないため、台を置き、つま先を立てて碁盤を見つめる 。
囲碁の史上最年少プロ棋士、仲邑菫(なかむら・すみれ)初段(10)が28日、大阪・日本棋院関西総本部で、同本部所属の40歳以下棋士によるトーナメント戦「第2回若竹杯」に出場。1回戦で27歳上の種村小百合二段(37)を破り、非公式戦ながらプロ入り後の初勝利を決めた。2回戦では同門の村松大樹六段(30)に敗れたが、うれしい白星をつかんだ。
椅子に座った足が地面に届かないため、台を用意して対局した仲邑初段が、碁盤より小さな体で、大きな大きな1勝を刻んだ。
1回戦対局後は「うまく打てた。勝ててうれしい」とはにかんだが、プロ入り後の勝利がよほどうれしかったのだろう。対局場があるビルの廊下では、スキップしていた。
27歳年上のベテラン女流棋士が脱帽した。持ち時間1時間30分の切れ負けで行われたトーナメント初戦の相手は、03年にプロ入りした種村二段。互角の勝負を繰り広げると、不用意な一手を見逃さなかった。
対局に立ち会った後藤俊午常務理事(九段、52)は「一気に攻勢に出た。攻めて攻めて攻めまくった」と振り返る。167手で種村二段が投了し、中押し勝ち。種村二段は「読みもしっかりしていて、スキがなかった。強かった」と実力を認めた。
22日の公式戦初戦では、100人の報道陣が殺到。緊張して、うまく打てなかったと首をかしげた。2戦目となるこの日は非公式戦にもかかわらず、40人が仲邑初段の一手に注目。カメラのシャッター音にも動じず「緊張しなかった。対策?別に…」と強心臓ぶりを見せつけた。
準々決勝では、父・仲邑信也九段(46)門下の村松大樹(ひろき)六段(30)と対戦した。一時は優勢だったが、村松六段が兄弟子の意地を見せた。菫初段は「ちょっとくやしい…」と小さい体をくねらせた。
くしくも同門対決となったが、信也九段は「(ハラハラして)とても見ていられない」と愛娘の対局を見届けなかった。父不在にも関わらず、あと2日で終わる平成の最後に1勝をつかんだ10歳の天才少女。令和での飛躍へ確かな一手を打った。 (デイリースポーツ 2019.04.29.)
イタリアの名所の一つで、世界遺産にも登録されているピサの斜塔は、建物全体が約4度の角度で傾いて立つという世界でもまれに見る建造物です。建設途中から徐々に傾きはじめ、1372年の完成から現在までに少なくとも4度の大きな地震を経験してきたにもかかわらず、600年以上も倒れずに立ち続けてきたピサの斜塔の強さの秘密が、最新の土木工学による研究から明らかにされています。
この研究はローマ第三大学のカミロ・ヌッティ教授の主導のもと、16人の科学者による研究チームが進めてきたものです。メンバーにはブリストル大学土木工学科のジョージ・ミロナキス教授が招かれています。
ピサの斜塔は建設開始から完成までおよそ200年という長い時間がかかった建物で、その建設段階は大きく3つの工期に分かれています。建設開始直後はまっすぐ鉛直に建てられていた塔ですが、第1工期が終わった頃から徐々に傾きが見られるようになりました。その後、傾きの修正を試みながらの建設が進められてきましたが、ついに傾きが戻らないまま1372年の完成を迎えました。この時、塔の高さは約58メートルに達しました。
完成後も数度の傾き修正が試みられましたが、工法に問題があったことでさらに傾きがひどくなった経緯もあり、塔の傾きは最大で約5.5度に達していました。その後、1990年代から2001年にかけて実施された工事によって傾きは修正され、約3.99度に傾きが戻された状態で現在も立ち続けています。
ピサの斜塔が傾いてきた理由は、塔が立っている地盤の土質が不均質であることとされています。塔の直径は基底部分で約15メートルと小さなものですが、この範囲の中で土壌の性質が均一ではなく柔らかい部分が存在するために、塔の重みで地盤が沈下して建物が傾いているというわけです。
このような軟弱な地盤に立っているにもかかわらず、ピサの斜塔は一定の角度から傾きを増す様子が見られないどころか、この地域を襲った過去4度の大きな地震にも倒れずに生き延びてきました。その理由を解明すべく研究チームが地震学や地質工学、建物の構造情報などの要素をもとにした調査を行ったところ、秘密は地盤の特性と建物の構造的特徴の組み合わせが絶妙のバランスで成り立っている事実にあるという結論に達しました。
これは、「Dynamic Soil-Structure Interaction(DSSI:土壌と構造の動的相互作用)」と呼ばれるもので、建物が建っている土壌の柔らかさと、その上に乗っている建物の高さと丈夫さ(堅牢度)によって建物の振動特性が影響を受ける現象です。地震で建物が壊れる時は、地面の揺れに対して建物が共振を起こすことでエネルギーが増大し、耐えきれなくなった構造が破壊されるのですが、不安定で軟らかい地盤の上に一定の高さと丈夫さを持つ構造物が乗っている時には、この共振が相殺される現象が起こります。ピサの斜塔は、このバランスが偶然にも絶妙なところで成り立っていることで、大きな地震に襲われても建物が崩壊または倒壊せずに済んできたというわけです。
このように、ピサの斜塔は通常の建物よりも絶妙なバランスの上に成り立っていることがわかっています。ミロナキス氏はこの結果について「皮肉なことに、塔を傾けて崩壊の瀬戸際にまで追いやったその地盤が、塔が倒れないようにするためにも役立っています」と述べています。
ガリレオが重い鉄の玉も軽い鉄の玉も同じ時間で落ちることを証明したという、あまりにも有名な斜塔があるピサ(Pisa)は、イタリアのトスカーナ州にあります。フィレンツェから電車で1時間。どこにでもあるような穏やかな丘陵に広がる小麦畑を抜ければピサに到着します。この街は斜塔ばかりがクローズアップされますが、ローマ時代の浴場跡があるなど歴史的な建造物が多く、特にドゥオーモ(Duomo 大聖堂)はロマネスク様式の最高傑作といわれています。
斜塔はこのドゥオーモの付属鐘楼として1173年に着工されましたが(当然ながら当時は垂直)、現在は北側の高さが55.22m、南側が54.52mとその差が70cmあり、傾斜角度は約3.97度で傾いています。
長期にわたって倒壊を防ぐ工事が行われ、これ以上傾く心配はなくなりました。現在ドゥオーモと斜塔のある広場は世界遺産に認定されており、芝生の緑と大理石の建築群は大変美しい風景です。
ところで、ガリレオが斜塔で行ったという「落体の法則」実験ですが、これは後生の創作らしいのです。
この実験は、ガリレオが76歳のときに住み込みで付き添った助手のビビアーニが書いた「ガリレオ伝」に書かれているものですが、ビビアーニがガリレオ伝を書いたのはずっと後のことだからです。ガリレオの偉大さを伝えたくて、少々手を加えすぎたのかもしれません。
これとは別に、ガリレオはドゥオーモの天井につり下げられたブロンズのランプが振れる様子を見て「振り子の等時性」を発見したとも言われています。
ある日、ピサの大聖堂に入ったガリレオは、天井から吊した大きなランプに何気なく目がとまります。ランプは、大きく揺れたり小さく揺れたりしますが、ランプが行って戻ってくるまでの距離に関係なく、1回の運動にかかる時間は変わりません。この時代に時計はないので、ガリレオは手首の脈を取り、時間を計ってみたそうです。ランプの揺れが小さくなっても大きくなっても脈の数はほぼ同じでした。つまり振り子が揺れて往復する時間は、振り子が揺れる幅で違うのではなく、おもりの重さでもありません。振り子の長さによるものなのだということを確信しました。
こうしてガリレオによって「振り子の等時性」は発見された――というような内容ですが、実はこの逸話も創作らしいのです。ガリレオが何らかの観察によって、振り子の等時性に気づいていたのは間違いないでしょうが、どうもランプができるよりも前に法則は発見されていたらしいのです。やはりこの話もビビアーニの伝記に基づいています。
イギリス南部ソールズベリー平野のほぼ中央にある巨石記念物です。世界各地にあるストーン・サークルのうちもっとも著名な遺跡で、20世紀に入ってからの数次にわたる調査の結果、年代や構築状況が解明されてきました。1986年に巨石記念物であるエーブベリー、関連する遺跡群とともに世界遺産の文化遺産として登録されています(世界文化遺産)。
ストーンヘンジは、中心から、トリリトン、サーセン円、Z穴、Y穴、オーブレー穴、周溝が同心円状に配列され、北東部にはヒル・ストーンが建ち、そこに至る通路がつくられている。これらの構成は一時期につくられたのではなく、~期に段階的に建造、使用されたことが判明し、その実年代は紀元前2800~前1100年ごろと推定されています。
Ⅰ期には主として外周部がつくられました。Ⅱ期にはブルー・ストーンとよばれる石が搬入され、サーセン円とトリリトンの中間に二重の環状に建てられました。Ⅲ期はさらにa~c期に細分されていますが、ストーンヘンジ最大の構築物であるトリリトンとサーセン円がつくられました。サーセン石のうち最大のものは50トンを超えます。またこの時期にはブルー・ストーンの建て替えを行っています。
G・S・ホーキンズはこれらの石の配列をさまざまな角度から考察し、「ストーン・サークル=天文台」説を提唱しましたが、ストーンヘンジの中心と、ヒル・ストーンを結ぶ線が夏至の日の出の方向を示す以外は一般には認められていません。また墓壙(ぼこう)を伴うことから埋葬との関連も考えられます。
中国本部の北側に築かれた防御用の城壁です。この城壁は1987年に世界遺産の文化遺産として登録されています(世界文化遺産)。その延長は地図の上からは約2700キロメートルであるが、重複している部分を加えるとその倍以上になります(2009年の発表では、現存する明代の長城の総延長は8851.8キロメートル)。
春秋時代の斉(せい)が領土防衛のため国境に築いたのが長城の起源で、戦国時代の諸国もこれに倣いました。秦(しん)の始皇帝は中国統一(前221年)後、匈奴(きょうど)の侵入を防ぐため、甘粛(かんしゅく/カンスー)省南部から北へ、黄河(こうが/ホワンホー)大屈曲部の北を巡って東に延び、東北地区の遼河(りょうが/リヤオホー)下流に至る長城を築きましたが、なかば以上、戦国時代の燕(えん)、趙(ちょう)などの長城を利用したものでした。この長城の東部の遺址(いし)が東北地区で発見されています。
前漢の武帝(在位前141~前87年)のころ、河西(かせい/ホーシー)回廊を匈奴から守るため、長城を蘭州(らんしゅう/ランチョウ)北方から西に、敦煌(とんこう/トゥンホワン)の西の玉門関まで延長しました。南北朝時代には北方民族の活動で長城の位置は南下し、6世紀中ごろ、北斉(ほくせい)は大同の北西から居庸関(きょようかん)を経て山海関に至る長城を築き、隋(ずい)は突厥(とっけつ)、契丹(きったん)に備えてオルドス南辺に長城を築きました。長城が現在の規模になったのは明(みん)代で、モンゴルの侵入を防ぐためでした。ほぼ北斉以来の線に沿ったもので、15世紀の前半には河北(かほく/ホワペイ)、山西(さんせい/シャンシー)の北部の長城が強化され、内長城もつくられてこの付近の長城は二重となり、後半にはオルドス南部から蘭州を経て嘉峪関(かよくかん)までの長城が修築され、16世紀中ごろには大同北西から山海関までが堅固に改修されました。
長城の構造は、古くは版築で、楊柳(ようりゅう)(ヤナギ)やアシなどを束ねて土と交互に重ね、突き固めてある。日干しれんがも一部に用いられていたが、山西方面より東方は明代以後、焼いたれんがで被覆されるようになりました。首都北京(ペキン)防衛のためもありますが、モンゴルの侵攻がこの方面で激しかったことを示しています。現在観光の対象となっている八達嶺(はったつれい/パーターリン)付近の長城は、高さ8.5メートル、厚さは底部6.5メートル、頂部5.7メートル。頂部上には高さ1.7メートルの連続した凸字状の垣である女牆(じょしょう)を築き、銃眼が開きます。また120メートル間隔で台(とんだい)(一種の見張り所)が設けられ、軍の駐留と監視に役だてました。
長城が交通路と交差する要地には堅固な城壁で囲んだ関城が設けられていました。山海関、古北口、張家口、雁門関(がんもんかん)、殺虎口(さっここう)、嘉峪関などがそれです。清(しん)代に入ると長城は軍事的意味を失い、中国本部とモンゴルとの間の政治的境界にすぎなくなりました。なお歴史的事実のうえからみると、外敵防御という長城構築の目的はほとんど達成されておらず、単に威圧感を与えた程度といってよかったといえます。
アレクサンドリアの町は紀元前332年、最も有名なギリシャの王であるアレキサンダー大王によって建設され、ほどなくして地中海地域の文化と商業の中心になりました。
言い伝えによると、アレクサンドリアで石を積んだ荷車を引いていたロバが、地面にできた穴に誤って落ちたということです。これが本当なら、このロバは歴史上最も素晴らしい場所の1つを発見するという栄誉に恵まれたことになります。というのも、その穴こそ古代の世界において他に類を見ないカタコンベ(地下墓地)であるコム・エル・シュカファだからです。
考古学者によると、コム・エル・シュカファのカタコンベはグレコ・ローマン時代の最大規模の墓地に似ているということです。古代の都市でも特に興味深いアレクサンドリアで発見されたコム・エル・シュカファの埋葬トンネルに数世紀もの間隠されていたのが、さまざまな古代芸術と文化が織り交ぜられたものであるというのも不思議ではありません。
「コム・エル・シュカファ」という名前は古代ギリシャ語で「かけらの山」を意味し、この地域ではかつて、砕けた陶器が山積みにされていました。
これらのカタコンベがエジプトでこれまでに発見された中で最も大きな古代ローマの墓地を形成し、古代エジプトの宗教に捧げられた最後の主要な建造物となりました。設計者は、古代エジプト王とギリシャの様式が融合したアレクサンドリアらしさを活かし、グレコ・ローマン方式を採用しました。このカタコンベは基盤岩を35mの深さまでくり抜き、墓と部屋から成る3階構造になっています。
このカタコンベ(「地下トンネル」という意味)は、アレクサンドリアの東に位置するカルムーズ地域にあります。この地域はコム・エル・シュカファ、すなわち「かけらの山」と呼ばれていました。
この墓地は西暦1世紀に造られ、4世紀まで使用されていました。
アレクサンドリアのカタコンベは、その設計がローマのキリスト教カタコンベに非常に似ていることからそう呼ばれるようになりました。
アレクサンドリアのカタコンベは私的な墓が後に公共の墓地となった可能性が高く、基盤岩をくり抜いた3階構造の中には階段、円形の広間、トリクリニウム(宴会場)、玄関、控えの間、そして3つの収納部がある墓室があり、それぞれの収納部に石棺が置かれています。
カタコンベには岩をくり抜いたくぼみも多数存在し、このくぼみには棺が納められています。
ウェブニュースより
藤井七段が竜王戦で勝利 決勝T進出まであと1勝 ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太七段(16)が24日、第32期竜王戦(読売新聞社主催)の4組ランキング戦で高見泰地叡王(えいおう、25)に勝ち、決勝に進んだ。挑戦権を争う決勝トーナメント進出まで、あと1勝となった。
東京都渋谷区の将棋会館での対局。振り駒で先手になった藤井七段は、得意とする「角換わり」でタイトル保持者を破った。「中盤で形勢を損ね、苦しい展開が続いた。決勝でいい将棋が指せるようにしたい」と話した。4組の決勝進出に伴い、3組への昇級も決めた。竜王戦昇級は3期連続となる。
https://www.youtube.com/watch?v=m5IN8qk2Ydo
タイトル挑戦権に向けた戦いでは、王座戦の挑戦者決定トーナメントの1回戦で、佐々木大地五段(23)との対戦が決まっている。 (朝日新聞DIGITAL 2019年4月24日23時12分)
ローマ帝国の時代、80年のティトウス帝の時に完成した円形闘技場です。剣闘士奴隷の試合などの見世物が演じられました。ローマ文化を代表する建造物です。
古代ローマのコロッセウムは、暴君として倒された皇帝ネロが、ローマの大火の後に建てた宮殿の巨大な銅像(コロッスス)があったところに、75年にウェスパシアヌス帝が建造を開始し、その子のティトウス帝のときの80年に完成しました。当時はウェスパシアヌスとティトウスの氏族名からフラウィウス円形闘技場と呼ばれましたが、ネロの巨大な銅像をコロッススといっていたことから、中世以降はコロッセウムというようになった。
従って、コロッセウムは固有の名称であったが、現在は、そこから生まれたコロシアムという語が円形競技場(ラテン語ではアンフィテアトル)を示すようになっています。なお、ローマ時代にはローマ以外の都市にも円形闘技場が造られており、その数は全部で250にも上るといいます。現在も地中海各地に古代遺跡として残されています。
※コロッセウムの完成年 コロッセウムは、ウェスパシアヌス帝の時に着工、およそ5年を要し、ウェスパシアヌス帝存命中の79年に最初の(仮の?)奉献式が行われましたが、翌80年に同帝の息子ティトウス帝によって一部未完成のままで本格的な奉献式が挙行されました。
コロッセウムは、帝政前期のローマ市に新たに出現した巨大建造物でした。共和政時代にはローマの中心部のフォルムは公共広場として民会や裁判とともに剣闘士試合などの市民に向けての娯楽の興業が行われていましたが、内乱の1世紀を収束したアウグストゥスの頃から、フォルムに神殿や公共浴場などの建造物がつくられたため、広場としての機能が失われた(同時にそれはローマの民主政の形骸化に繋がった)ため、帝政時代になると広場に変わる市民が一堂に集まり、政治的に一体になるとともに娯楽を楽しむ場としてコロッセウムが建造されることとなりました。
コロッセウムでは、民衆が皇帝に対して要求した「パンと見せ物」のうち、見世物にあたる娯楽がまず提供されました。それには、剣闘士奴隷の競技、動物と動物または動物と剣闘士奴隷、あるいは模擬海戦などが繰り広げられました。キリスト教徒に対する迫害が強くなると、信者をライオンの犠牲にするなどの処刑も、「見世物」として興行されました。
この巨大な建築物は、古来、ローマの象徴とされており、“コロッセウムが立つ限り、ローマも立つであろう。コロッセウムが倒れるとき、ローマも倒れるであろう。ローマが倒れるとき、世界も倒れるであろう。”とうたわれてきました。その観客席に五万の観衆をのんだ、この闘技場で、いったいなにがおこなわれていたのでしょうか。紀元80年、コロッセウムの落成式がおこなわれたとき、時のローマ皇帝ティトウスは百日間にわたって各種の競技をおこなったといいます。剣闘士奴隷どうしのちなまぐさい競技もあったし、たった一日のあいだに人間と猛獣の格闘のなかで、あらゆる種類の5千頭もの猛獣が殺されるということもありました。この闘技場を水でみたして人工の湖をつくり、三千人もの剣闘士を動員する模擬海戦もおこなわれたといいます。ローマ帝国の各地からやってきた大観衆を前にして、このような人間と猛獣の数知れない死によって血ぬられたコロッセウムは、その後、404年の剣闘士試合の中止、523年の猛獣演技の廃止にいたるまで、毎年のように残酷な死のゲームを、熱狂した観客に提供し続ける場となったのです。
「コロッセウムが立つ限り、ローマも立つであろう」と言われたコロッセウム(コロッセオ)が、崩落の危機にあるといいます。2012年1月14日付朝日新聞によれば、コロッセオは大気汚染で汚れ、石組みの崩落が起きるなど、痛みがひどくなっており、真下を走る地下鉄の振動の影響も指摘され、早急な修復作業が必要とされてきたといいます。ところが、財政危機によってベルルスコーニ前政権が文化予算を減らす中、高級靴ブランドのトッズが約24億円の修復費用を全額を負担すると表明したといいます。
契約ではトッズがコロッセオの画像を15年間、商業利用できる内容が含まれています。それに対して、消費者団体などがかみついたといいます。また遺跡修復専門家も経費節減で壊れやすい部分が普通の建築業者に任される恐れがあると異議を申し立てたそうです。それに対して市当局は、官民挙げての文化財保護の新し試みとして、トッズ社との契約を続けると言っています。ローマ市長によると2012年3月には修復工事に入る予定であるといいます。はたしてコロッセオは、いやローマは立ち続けることができるのでしょうか。
sechin@nethome.ne.jp です。
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