諏訪大社で言い伝えられている七不思議のことです。単に「諏訪の七不思議」とも言われます。一般に七不思議と言うと怪談話がイメージされる場合があるが、あくまで不思議な現象や事柄を扱った内容で怪談とは区別されます。
基本的には諏訪大社の行事・神事に関わる不思議な現象を指しますが(特に諏訪大社の神事は数が多いことと、奇異なことで有名です。)、蛙狩神事のように行事自体を指す物もあります。そして信憑性の低い物もあれば、御神渡(おみわたり)のように現代において科学的に説明ができる物まで様々な物が存在します。一般に諏訪大社の七不思議と言うと以下の7つを指します。
●御神渡
●元朝の蛙狩り
●五穀の筒粥
●高野の耳裂け鹿
●葛井の清池
●御作田の早稲
●宝殿の天滴
しかし、実際には上社と下社で重複を含め別々に七不思議が存在し、計11個が存在します。
上社 (かみしゃ)
〇元朝の蛙狩り
蛙狩神事において、御手洗川の氷を割ると必ず2、3匹のカエルが現れます。蛙狩神事そのものを指すこともあります。
〇高野の耳裂鹿
御頭祭では神前に75頭の鹿の頭を供えましたが、毎年必ず1頭は耳の裂けた鹿がいたといいます。
〇葛井の清池
茅野市・葛井神社の池に、上社で1年使用された道具や供物を大晦日の夜に沈めると、元旦に遠州(静岡県)の佐奈岐池に浮くといいます。また、この池には池の主として片目の大魚がいるとされています。
〇宝殿の天滴
どんなに晴天が続いても上社宝殿の屋根の穴からは1日3粒の水滴が落ちてくるといわれます。日照りの際には、この水滴を青竹に入れて雨乞いすると必ず雨が降ったと言われています。
〇御神渡(おみわたり)
長野県諏訪(すわ)湖に伝わる伝承です。冬季、湖面が全面氷結したあと、寒気のため収縮すると、割れ目を生じます。そこに下の水が上ってきて結氷するが、朝になって気温が上昇すると氷が膨張し、両側からこの割れ目を圧縮して、その部分の氷を持ち上げます。この盛り上がった一大亀裂(きれつ)に沿って、諏訪大社の祭神が上社から下社に渡って行かれたと考え、御神渡りとよばれたのです。またその亀裂の形から吉凶を占うようなことも行われました。諏訪湖の御神渡りの起日の記録はおよそ500年にわたって保存されており、気候変動の資料として世界的にも有名です。
〇御作田の早稲
藤島社の御作田は6月30日に田植えをしても7月下旬には収穫できたと言います。6月30日の田植え神事そのものを指すこともあります。下社とは厳密には違います。
●穂屋野の三光
御射山祭の当日は、必ず太陽・月・星の光が同時に見えると言います。
下社 (しもしゃ)
●根入杉
秋宮境内の大杉。丑三つ時になると、枝を垂らして鼾を掻いて寝たという。
●湯口の清濁
八坂刀売命が下社に移る時、化粧用の湯を含ませた綿を置いた場所から温泉が湧き出したという伝承。現在の下諏訪温泉。この湯に邪悪人が入ると湯口が濁ると伝えられている。
〇五穀の筒粥
春宮境内筒粥殿で行われる行事。1月14日から15日にかけ、炊いた小豆粥で1年の吉兆を占う。
●浮島
たびたび氾濫した砥川にあって、決して土が流れて無くならなかった島のこと。
〇御神渡
上社を参照。
〇御作田の早稲
御作田社における上社と同様の伝承。
〇穂屋野の三光
上社を参照
東海寺は、寛永十五年(1638)に江戸幕府三代将軍徳川家光がたてたお寺で、沢庵和尚が最初の住職となりました。このお坊さんは将軍や多くの大名から尊敬されるほど立派な人だったことから、お寺もあつく保護されていました。そんな東海寺には、次のような七不思議が伝わっています。
一.片身のスズキ
東海寺には大きな池がありました。ある日、沢庵和尚がお寺に帰ると、台所ではお坊さんたちがまな板にのった大きなスズキに包丁を入れているところでした。和尚が片身のスズキに「喝!」と叫んで池に投げ込むと、スズキはたちまち元気に泳いで池の奥深くへと身をひそめ、いつしか池の主になり東海寺を守ったということです。
二.鳴かないカエル
お寺の大池にはカエルがたくさんいましたが、一度も鳴いたことがないそうです。これはあるとき、沢庵和尚があまりにもうるさいカエルに喝を入れたためと伝えられています。
三.片なりのイチョウ
東海寺のイチョウは、なぜか片方にばかり実がなったそうです。
四.潮見の石
東海寺に古くからある大きな石の水鉢は、潮が満ちるときには水がいっぱいになり、潮がひくときには少なくなってしまうそうです。これは、「潮見の水鉢」と呼ばれました。
五.血のでる松
山門のそばには一本の大きな松がありました。将軍がお参りするときにはじゃまになるので「じゃまの松」と呼ばれており、とうとう切られることになりました。のこぎりを引き出すと、切り口から赤い血がにじみだし、木こりの手はしびれてしまいました。そこで、お寺ではこの松を特別な木として大切に残すことにしましたが、切り口はずっと赤いままでした。
六.火消しのビャクシン
裏庭には、唐(中国)から持ち帰って植えられたというビャクシンの木がありました。ある真夜中のこと、沢庵和尚が「唐の金山寺が火事だ、起きろ!」と寺のお坊さんたちを呼び起こし、そのビャクシンの木に水をかけさせました。お坊さんたちは大変驚きましたが、しばらくして金山寺から「おかげで火が消えました」とお礼の品物が贈られたということです。
七.千畳づりの蚊帳
金山寺からのお礼は、桐の箱におさめられた蚊帳(蚊などを防ぐため、四隅をつって寝床をおおう道具)でした。「千畳づり」という大きさは見当もつきませんが、当時としては日本一だったことでしょう。
初代将軍・徳川家康が入城して以来、幕末までの200年以上に渡り、歴代将軍が居城としてきた江戸城です。現在の皇居の部分は当時の江戸城内郭の一部にすぎず、当時は内郭だけでも約30万坪以上の広大な敷地を誇りました。将軍家をはじめ、大奥と中奥の役人たち数千人が暮らしていたとされる広大な江戸城もまた、怪奇とは無縁ではありませんでした。
江戸城七不思議 その一 (丑三つ時に蹄の音が鳴り響くと……)
江戸城の西に広がる吹上御苑の馬場で、丑三つ時(深夜2時頃)に馬の蹄の音が鳴り響くことがあった。また、その翌日になると不思議と落馬の事故が起こった。人びとは「妖怪の仕業」と噂したという。
江戸城七不思議 その二 御濠に棲む「どんどん河童」
子どもに手習いを教えている神田の浪人が夏の夜に江戸城の濠端を歩いていたときのこと。ずぶ濡れの子どもが濠へ向かって歩いてきた。浪人が傘に入らぬかと声をかけた途端、子どもは恐ろしい形相を見せ、濠へひきずり込もうとした。浪人は刀で斬りつけ、難を逃れたという。河童の仕業とされ、当時溜池の堰から流れ落ちる滝を「どんどん」と呼んだことから、「どんどん河童」と呼んで恐がった。
江戸城七不思議 その三 御鈴廊下近くの「夜泣き石」
5代将軍綱吉の頃。若く美しい奥女中と、将軍の身の回りの世話係の小姓が、場内御鈴廊下(おすずろうか)の外の石に腰を下ろして密会していることが知れ渡った。奥女中は外出許可でもない限り日頃から自由に大奥外に出ることはできない。小姓もまた、大奥に立ち入ることはできない。やがて密会が表沙汰になり、ふたりは現場である石のそばで手討ちにされた。その後、ふたりの命日には当時地に染まった石から鬼火のように青白い光が立ち上り、女のすすり泣きが聞こえるようになったという。
江戸城七不思議 その四 天守なき天守台から死体が!
文政期(1818~30年)のこと。御末と呼ばれる役職(大奥の下級女中)のあらしという名の娘が行方不明になった。神隠しにあったのでは、と案じつつ探し回ったが見つからない。それから3日後。大奥近くの天守台の下を巡回していた天守番がしわがれ声を聞いた。「あらしはここに、ここに」と。すると、天守台からどさり、と落ちてきたのは血まみれになったあらしの無惨な死骸。全身をまるで爪のようなものでかきむしられた惨い姿だった。
江戸城七不思議 その伍 伏見櫓から白骨が出現
江戸城の櫓で現存するのは富士見櫓と桜田二重櫓だが、大正12年の関東大震災のとき、伏見櫓の土手が崩れた。その際、16体の白骨が出てきた。人柱、事故死などの諸説があるが、真相は今もって不明だ。
江戸城七不思議 その六 将軍が見た「宇治の間」の霊
嘉永6年(1853)、12代将軍家慶(いえよし)は大奥の宇治の間近くの廊下を進んでいたところ、敷居に両手をついた黒紋付姿の老女を見た。家慶は誰かと供の奥女中にたずねたが、他のものにはその姿は見えずに皆は恐怖に震えあがった。そのときは将軍に対して誰もいないとは言えず、適当に返答したが、またその数日後も宇治の間近くで家慶は歩を緩め「今日は泣いていた」と言ったという。大奥ではその亡霊は150年前の、5代将軍綱吉の正室・信子に仕えた御年寄だと伝えられていた。一説には、信子がその御年寄に手伝わせて綱吉を宇治の間で殺害。その数日後に自害したとも言い伝えられている。
江戸城七不思議 その七 身投げに誘(いざな)う呪われた井戸
大奥のイヂは身投げをする奥女中が絶えないことから、文政期(1818~30)頃、暮れ六つ(午後6時頃)には井戸に蓋をして錠をかけることになった。ある日、上臈(じょうろう)年寄の飛鳥井(あすかい)に仕えていた部屋方の女中の姿が見えないことから探し回ったところ、深夜になって屋外で叫ぶ声が聞こえた。中奥に務める男の役人らが確認したところ、錠をかけたはずの井戸の中で発見、救出された。女いわく、小袖を着た女が井戸の後ろに物言いたげに立っているので近づいたところ、落ちたという。その井戸は12名が飛び込み自殺をしたもので、その後、埋められた。
ウェブニュースより
藤井七段が谷川九段に完勝、情けかけられ涙から9年 ―― 史上最年少プロ棋士、藤井聡太七段(17)が1日、大阪市の関西将棋会館で指された第69期王将戦2次予選決勝で、永世名人の資格を持つ谷川浩司九段(57)を57手で破り、初めて挑戦者決定リーグ戦に進出した。
今月下旬以降に始まるリーグ戦は7人の棋士が参加する総当たり。高校生プロが最年少での初のタイトル獲得へ、前進した。
◇ ◇ ◇
あこがれの棋士との初めての真剣勝負。対等の立場で盤を挟めたことがうれしかった。藤井がレジェンド・谷川を相手に積極的に踏み込み、落ち着いた指し回しで完勝した。
https://www.youtube.com/watch?v=CRRGAo89W8s
対局後、「激しい展開だった」と振り返った藤井は「初めて谷川先生と対局することができてよかった。子どものころ、谷川先生の鋭い『光速の寄せ』にあこがれていました」。谷川の終盤の強さは「光速流」と呼ばれ、藤井の強さの1つに終盤力がある。
語り草になっているエピソードがある。藤井が小学2年のとき、名古屋市内で行われた将棋イベントで谷川に駒を2枚減らしてもらうハンディ付き(2枚落ち)で指導対局を受けた。対局の終了時間が迫り、形勢不利になった藤井少年は、谷川から「引き分けにしようか」と提案された瞬間、将棋盤に覆いかぶさって泣きだした。
あれから9年。谷川と同じ中学2年でプロ入りした「天才中学生」は、デビュー29連勝など数々の記録を作り、この日の舞台に登場した。ただ、プロになり、負けも、連敗も経験した。谷川は「藤井さんは非常に落ち着いて指されていた。それより私の内容が悪すぎた」と反省しながらも、あの日の少年が成長した姿を見た。
藤井が初めて進出を決めた挑戦者決定リーグ戦は、今月下旬以降にスタートする予定。棋士7人の総当たりで、優勝者が渡辺明王将(35)への挑戦者となる。藤井は豊島将之2冠(29)、広瀬章人竜王(32)らトップ棋士とタイトル初挑戦を懸けて戦う。タイトル戦で、年内に挑戦者になる可能性があるのは王将戦のみとなっている。この日、王将戦で敗退していれば、年度内のタイトル獲得は消滅していた。
「(王将戦リーグ入りで)トップ棋士の方と多く対戦できるのは楽しみで、思い切りぶつかっていきたい」。タイトル戦出場の最年少記録を持つのが屋敷伸之九段(47)で、挑戦は17歳10カ月、獲得は18歳6カ月。リーグ戦を勝ち抜けば、屋敷が持つ最年少タイトル挑戦記録を大幅に更新する。高校生プロが史上最年少のタイトル挑戦を目指す。
◆王将戦挑戦者決定リーグ シードの4棋士、2次予選を突破した3棋士、計7棋士の総当たり。確定している顔触れは、久保利明前王将(44)、豊島将之名人(29)、元竜王の糸谷哲郎八段(30)、広瀬章人竜王(32)。他の2次予選決勝カードは、三浦弘行九段(45)対佐藤天彦九段(31)、羽生善治九段(48)対郷田真隆九段(48)。藤井以外は全員が、現役タイトル保持者か、獲得経験者。渡辺明王将(棋王・棋聖=35)との王将戦7番勝負は来年1月開幕予定。 [日刊スポーツ 2019年9月1日19時1分]
日本、混合団体で3連覇=決勝でフランス下す-世界柔道 ―― 柔道の世界選手権最終日は1日、来年の東京五輪のテスト大会を兼ね、日本武道館で五輪新種目となる男女混合の団体戦が行われ、日本は決勝でフランスを4-2で下して3連覇を果たした。初戦の準々決勝は韓国、準決勝ではブラジルにいずれも4-0で勝った。日本は男女各7階級の個人戦と合わせ、今大会で金メダル5個を獲得。
決勝は3-2で迎えた6人目で、浜田尚里(自衛隊)が女子78キロ級決勝で敗れたマドレーヌ・マロンガを抑え込んで一本を奪った。浜田は3試合全てで一本勝ちし、優勝に貢献した。
チームは男女各3人の計6人で構成され、男子は73キロ、90キロ、90キロ超、女子は57キロ、70キロ、70キロ超の体重区分で争った。どちらかが4勝して勝敗が決した時点で終了。3-3で並んだ場合は、無作為に選ばれた区分の選手同士による代表戦が行われた。
混合団体は、世界選手権では2017年から実施されている。 (JIJI COM 2019年09月01日22時39分)
U18侍が3連勝!打線爆発16点!4連覇中の宿敵・米国に大勝 ―― 第29回WBSC U18ワールドカップ 日本16―7米国 (2019年9月1日 韓国・機張)
「第29回WBSC U18(18歳以下)ワールドカップ」が1日、韓国・機張(キジャン)で1次ラウンド・B組の試合が行われ、日本は大会4連覇中の米国と激突。16―7で下し、初の世界一に向けて、3連勝を飾った。次戦は9月2日に1次ラウンド第4戦として、台湾と対戦する。
初回表に1点先制された日本は、裏の攻撃で1番・森(桐蔭学園)の右翼線三塁打と4番・石川(東邦)の右翼線二塁打ですぐさま追いつくと、3回に無死二、三塁で2番・武岡(八戸学院光星)の二塁内野安打で勝ち越し。満塁で4番・石川が左前2点適時打、6番・熊田(東邦)も中前2点打を放ち加点した。
さらに4回には熊田の2打席連続となる2点適時打、押し出し、9番・坂下(智弁学園)の2点適時打で5点を挙げ2桁得点となった。
中盤以降、米国の反撃を受けたが、7回に8番・横山(作新学院)がソロ本塁打、8回に押し出し死球、坂下の2点打、森の適時打で加点した。
日本の先発は技巧派左腕の林(近江)。初回に先頭打者で来年のMLBドラフト1位候補にも上がるクローアームストロングに二塁打を浴び、重盗で三進、犠飛で先制点を許したが、2回は無失点に抑えた。
2番手は前日の南アフリカ戦で2本塁打を含む3安打8打点と打棒で活躍した西(創志学園)が3回から登板。気迫あふれる投球でクローアームストロングや主砲ソダーストロムを三振に封じた。味方から5点の援護を受けた4回には5、6、7番を相手に圧巻の3者連続三振。5回に2失点したが、3イニングを2失点でつなげた。
6回から登板した3番手の前(津田学園)が4失点したが、4番手・飯塚(習志野)、5番手・宮城(興南)がリードを守り抜いた。
米国は10点差を諦めない猛攻を見せたが及ばず、大会通算連勝は18でストップした。 [Sponichi Annex 2019年9月1日 21:37 ]
元塾生であった渡辺裕氏から、懐かしいメールが入りました。曰く、
日高先生
初めてメールをさせていただきます、覚えていらっしゃらないとは存じますが、かつて兼愛塾に通っておりました渡辺裕(ワタナベユタカ)と申します。大変ご無沙汰しております。
当時の記憶が少し曖昧なのですが、私が塾に通っておりましたのは、1970年から1972年頃で小学4年〜6年生だったと思います。「モミアゲ」の記憶が強いので、多分授業中に騒いでご迷惑をお掛けしていたのではないかと存じます。
勉強の事はさておき、70年(4年生)、71年(5年生)と2年続けて仁科へ臨海合宿に行き、4年時はあまり泳げなかったけれど、5年時には遠泳まで参加できるようになったこと、氷砂糖の味、砂浜に戻った時に感じた立てないほど体の重さ…などがずっとずっと心の中に残っておりました。もうかれこれ50年も前の話になります。
実は、つい最近になって、ずっと想い出の中にだけあった「兼愛塾、仁科」をネットで検索してみたところ、なんと先生のブログを発見いたしました。
その中で当時宿泊していたお寺は『長松寺』であり、大浜海岸で泳いでいたこともわかりました。
私の記憶では71年には合宿の途中、雲見へ遠足へ行ったこと、高い防波堤から底まで見える海へ飛び込んだこと、全員が飛び込むまで立ち泳ぎで待っていたことなども思い出としてあり、地図で確認しているうちに居ても立っても居られず、この8月にさっそく西伊豆へ出掛けた次第です。
実際の『長松寺』に立つと皆でフォークダンスをした境内、境内からバディを組んで海へ出掛けたこと、お風呂は…そうそう外の建物だったと思い出され、とても感傷的になってしまいました。
遠い記憶に実際に触れられたことがとても嬉しくなり、ブログにも「メールも頼むね」とありましたので、甘えさせていただき、日高先生からいただいた素晴らしい経験のお礼を、50年後になって今更ではございますが、感謝の気持ちをお伝えしたくメールを書かせていただきました。
2019年になるまでお礼ができなかったことお許しくださいませ。
そして私の人生においてとても大切な思い出をいただきましたこと、本当にありがとうございました。
不躾ではございますが、8月22日に参りました長松寺と雲見港の写真も添付させていただきます。
それでは突然のメール失礼いたしました。
今後もブログを拝見させていただきます、ぜひご自愛ください。
渡辺 裕(ワタナベ ユタカ)
台東区在住です。
早速、返信メールを送りました。曰く、
懐かしいメールありがとうございます。
余りにも懐かしいので、貴方の了解も得ずに、早速ブログに掲載させていただきました。どうかお許しください。
私も87歳、最近は物忘れも多くなり、惚けが進んでいるのではないかと思います。でも、昔のことは不思議と覚えていて、貴方のお名前も朧気ながら覚えています。ただお顔はしっかりとは思い出せません。折があったら写真など送ってくだされば嬉しいです。さらに、同期の方々の消息などお知らせくだされば喜びも倍増です。
取り敢えず、御礼まで
日高節夫
世の中は何事も不思議である。「おい、ちょっと煙草屋の娘はあの目つきが不思議じゃないか」というのは別に眼が三つあるという意味ではない。「春狐子、どうですか。あそこの懐石は不思議に食わせますぜ」というのも褒めかたを捻って言っているのである。誰かがもし、「いや不思議と勝つね、日本は不思議だよ、どうも」と言ったとしても、「こいつが失敬なことを言う、陛下に威光、軍師に忠勇、勝つのは当たり前だ、なにも不思議なことはない」とムキになるのは非常に野暮なのだ。号外を見てぴしゃぴしゃと額を叩いて「不思議だ不思議だ」と言ったとしても、勝ったことを本当に不思議がっているわけではないのだ。
こういった道理を理解した上で、この七不思議を読んでほしい。
最初に聞くのは、「しし寺のももんじい」だ。これは大弓場の爺さんである。人に会えば表情を崩して、一種特有な声を出して「えひひひ」と愛想笑いをする。その顔を見ても泣かない赤ん坊を「あいつは不思議だよ」と主人は可愛がるのだ。
次が「勧工場の逆戻り」だ。東京の区いたるところに、いずれもひとつかふたつの商店がある。どこも入口と出口が異なるが、牛込のその店だけは出入口が同じなのだ。「だから不思議さ」と聞いてみれば、さしておもしろいことでもない。
それから「藪蕎麦の青天井」だ。下谷団子坂の出店である。夏は屋根の上に柱を建てて、席を用意して客を招く。時々夕立に蕎麦を攫われる、とおまけを言わなければまったく不思議な話にはならないのだが。
「奥行きなしの牛肉店」
いろは(※という名前の牛肉店)のことである。単に外から見れば大きく立派な建物なのだが、奥行きは少しもなく中は三角形でこぢんまりとしている。思うに幾何学的の不思議なのだろう。
「島金の辻行燈」
家は小路へ引っ込んでいて、通りの角に「蒲焼」と書いた行燈ばかりがある。気の早い奴がむやみに飛び込むと仕立て屋である不思議だ。
(※島金(志満金)は小路の奥まった場所にあり、その手前には洋服屋があった。気の早い人はその洋服屋にうっかり入ったのだと思われる)
「菓子屋の塩餡娘」
餅菓子店にツンと澄ましている婦人がいる。キジの声でけんもほろろの無愛嬌者である。そのくせ甘いから不思議だとさ。
(※菓子屋は1~3丁目だけでも9店がありました。どの菓子屋かは不明です。)
さて最後が、「絵草紙屋の四十島田」だ。女主人でなかなかのくせ者である。「小僧や、紅葉さんのお家へ行って……」などと面識もない有名人の名前を聞こえよがしに言って驚かす奴だ。気が知れないから不思議なのだ。
世の中何事も不思議なり、「おい、ちよいと煙草屋の娘はアノ眼色が不思議ぢやあないか。」と謂ふは別に眼が三ツあるといふ意味にあらず、「春狐子、何うでごす、彼處の會席は不思議に食せやすぜ。」と謂ふも譽め樣を捻るのなり。人ありて、もし「イヤ不思議と勝つね、日本は不思議だよ、何うも。」と語らむか、「此奴が失敬なことをいふ、陛下の稜威、軍士の忠勇、勝つなアお前あたりまへだ、何も不思議なことあねえ。」とムキになるのは大きに野暮、號外を見てぴしや/\と額を叩き、「不思議だ不思議だ」といつたとて勝つたが不思議であてにはならぬといふにはあらず、こゝの道理を噛分けてさ、この七不思議を讀み給へや。
東西、最初お聞に達しまするは、「しゝ寺のもゝんぢい。」
これ大弓場の爺樣なり。人に逢へば顏相をくづし、一種特有の聲を發して、「えひゝゝ。」と愛想笑をなす、其顏を見ては泣出さぬ嬰兒を――、「あいつあ不思議だよ。」とお花主は可愛がる。
次が、「勸工場の逆戻。」
東京の區到る處にいづれも一二の勸工場あり、皆入口と出口を異にす、獨り牛込の勸工場は出口と入口と同一なり、「だから不思議さ。」と聞いて見れば詰らぬこと。
それから、「藪蕎麥の青天井。」
下谷團子坂の出店なり。夏は屋根の上に柱を建て、席を敷きて客を招ず。時々夕立に蕎麥を攫はる、とおまけを謂はねば不思議にならず。
「奧行なしの牛肉店。」
(いろは)のことなり、唯見れば大廈嵬然として聳ゆれども奧行は少しもなく、座敷は殘らず三角形をなす、蓋し幾何學的の不思議ならむ。
「島金の辻行燈。」
家は小路へ引込んで、通りの角に「蒲燒」と書いた行燈ばかりあり。氣の疾い奴がむやみと飛込むと仕立屋なりしぞ不思議なる。
「菓子屋の鹽餡娘。」
餅菓子店の店にツンと濟ましてる婦人なり。生娘の袖誰が曳いてか雉子の聲で、ケンもほろゝの無愛嬌者、其癖甘いから不思議だとさ。
さてどんじりが、「繪草紙屋の四十島田。」
女主人にてなかなかの曲者なり、「小僧や、紅葉さんの御家へ參つて……」などと一面識もない大家の名を聞こえよがしにひやかしおどかす奴、氣が知れないから不思議なり。
明治二十八年三月
泉鏡花は(明治6~昭和14年)本名は泉鏡太郎といい、尾崎紅葉の門下生です。川端康成、石川淳、三島由紀夫らに影響を与えた小説家です。
泉鏡花は石川県金沢市の出身で1889年(明治22年)上京します。
赤城神社に近い南榎町22にある泉鏡花の居跡のひとつで、泉鏡花はここに明治32年から4年間住んで、この地で「高野聖」などを発表しました。
現在この辺りは住宅街です。
明治36年にJR飯田橋駅や牛込御門が近い、神楽坂2丁目22番地に転居しています。この神楽坂の泉鏡花旧居跡には案内もなく、近くを探してみても特定できません。
さて、31才の泉鏡花は神楽坂の芸妓桃太郎さんとここの借家に住みます。
しかしこれには泉鏡花の師である「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉から相当怒られ、やむなく、桃太郎(本名伊藤すず)さんは鏡花と別れますが、 紅葉が没してから正式に妻となっています。偽装離婚だったんですね!
なお、桃太郎さんは、あの「婦系図(おんなけいず)」のお蔦、『湯島詣』の蝶吉のモデルなんです。
さらに、千代田区六番町5番地にも「泉鏡花旧居跡」があり、1910年(明治43年)から亡くなる1939年の間この地に愛妻すずさんと暮らしていました。
この泉鏡花の数ある作品の中に『神樂坂七不思議』という小品があります。彼の22歳の頃の作品で、これぞと言うほどの特徴もなくあっという間に読み終わってしまうのですが、鏡花の人生に興味を持つとこの神楽坂という街が意味を持ってくるのです。
次回のブログは泉鏡花の『神楽坂七不思議』を紹介しましょう。
足立は、その昔湿地帯で、そこそこに葦が生い茂っていましたので、葦が立ち並ぶ地、つまり、葦立ちがなまって、アダチになったのだろうとされています。
いつのころかは、はっきりわかりませんが、今の堀切から牛田あたりにかけて、大きな堀がありました。
その堀は、葦の密生する中に青々とした豊かな水をたたえていました。
緑なす葦の葉陰と、豊かな水とは、魚類の絶好の棲みかで、この堀ではたくさんの魚がとれました。
この魚がたくさんとれるという噂は、人の口から口へとしだいに広まって、この堀にも多くの釣り人が集まり、釣り糸を垂れるようになりました。
ところが、そのうちにこの堀に不思議なことがおこるようになりました。それは、魚がたくさん釣れたので、竿を納め喜んで家へ帰ろうと、葦の中の道を歩きだしますと、どこからともなく気味の悪い声が聞こえてくるのです。
「おいてけ! おいてけ!」と、まるで地の底から湧いてくるような低い声なのです。そこで、声の気味悪るさに驚いて、釣った魚をもとの堀にもどせばよいのですが、“せっかく時間をかけて釣ったものだ。誰が置いていくものか。”と、その声には耳を傾けずに、我が家への道をサッサと歩きだしますと、どうでしょう生い茂った葦の道は迷路となつてしまうのです。
そして、同じ所を徃ったり来たりして、葦の茂みから脱け出すことができなくなってしまうのです。万一家に帰ることができたとしても、バケツに入れた魚が、夜中にパシャ、パシャと音をたてていなくなってしまうのです。
朝起きてバケツの周囲を見てみますと、床や土間に、魚の歩いたと思われる胸ビレや尾ビレの跡がはっきりと残っていて、バケツの中には、一匹の魚もいなくなっているのです。
こうしたことから、誰言うともなく、この堀のことを“置いてけ掘”というようになったということです。
今では、この堀の跡形もありませんが、堀切の近くの“置いてけ掘”。共に“掘”の字がついていて、何か深い因縁を秘めているような気がします。
置いてけ掘 の話は、本所の七不思議の中にもあります。また、越谷の見田方にもあります。
川魚は、千住の名産で、特に、スズメ焼き(小ブナを竹串にさして焼いたもの)は、有名でした。
戦前まで、橋戸から河原にかけて、川魚問屋がありました。
足立は、川や池沼の多い湿地帯で、川魚が豊富でした。この川魚を目あてにして鳥類も多く集まり、代々の将軍様の良い“鷹狩り場”になっていました。
千住2丁目63に、金蔵寺があります。ここのご本尊は、えんま様です。よく、嘘をつくと、えんま様に舌を抜かれる。といいますが、えんま様は昔から心のこわい神様として印象づけられています。
その顔形からもうなずけることですが、地獄に住み、18人の将官と8万もの獄卒を従えており、死後地獄へ落ちる人間の、生前の善悪を審判懲罰して、不善を防止する大王だとされています。ですから、えんま大王ともいいます。
もと、金蔵寺は、千住宿の飯盛女のお寺とされていました。つまり、身寄りもなく、病に倒れてやり場のなくなった飯盛女を埋葬する“投げ込み寺”の役割をしていたようです。今でも、南無阿弥陀仏と刻まれた供養塔が残っています。
この飯盛女達が、“苦しいこの世界から足を洗えますように”とか、“早く悪い病気が治りますように”と、身の上いっさいのことをお願いしたのが、このえんま様です。
そして、その願いごとがかなえられると、きまって“おそば”をお礼にお供えしたので、いつしか、“そばえんま”の名がつきました。
そのことにつきましては、次のような心温まる話が伝わっています。金蔵寺は、千住宿の東側にある裏街道に面していました。お寺の裏側は、見渡すかぎりの田畑で、牛田、関屋へと続いた静かな所でした。
ところが、いくらも離れていない日光街道沿いには、旅籠(ハタゴ) や旅客相手のお店などが建ち並んで、かなりの賑わいをみせていました。
特に夕方のご飯どきには、食べ物商売の店が繁盛していました。食べ物商売といえば、その中に一軒のそば屋がありました。この店のそばは手打ちで、タレが特別おいしく、多くのお客を集めていました。
ダシのよくきいた、おいしそうなタレの香りは、風向きによっては、それほど遠くはない金蔵寺のあたりにまでとどきました。
ある日のこと、このおそばのタレのおいしそうな香りをかいだおえんま様は、一度でよいからこのよい香りのするものを食べてみたいと思いました。
そこで、えんま様は、生地のままでは恐れられるので、美しい女の人に化けおいしそうな香りを頼りにそば屋を捜しあてました。
さっそく、店に入り念願のおそばを買い求め食べてみました。たった一度でいいからと思ったおえんま様は、翌晩になると昨夜食べたおそばの味が忘れられず、子供のようにまた買いに行きました。
とうとうそうしたことが何日も続いてしまいました。そば屋では、毎晩のように店へ来るあの美しい娘は、“どこの人だろう”と好奇心をもちだしました。
ある晩のことです。「今晩は、おそばをください。」と、いつものように娘がそばを買いにきましたので、店の主人がそっと後をつけてみました。
それとは知らない娘は、急ぎ足で数軒先の路地に入り裏街道に出ました。その裏街道を距離にして数十歩の所で足を止めました。それは、金蔵寺の門前でした。
門前に立った娘は、前後左右を見回したかと思うと、えんま堂の中に吸い込まれるように消えていきました。
それ以後、金蔵寺のえんま様は、おそばが大好物だということになり、祈願してご利益をいただいた人は、そのお礼としておそばを供えるようになったということです。
こうしたならわしは、昭和15年ごろまで続き、えんま様の斎日(サイジツ) の16日になると、近所のそば屋からかなりのおそばが届けられました。
おかげでお寺は、いっときそば屋の観をていしていたということです。現在もなおカゼに効験があるということで、香華の絶えることがありません。
練馬には、“そば食い地蔵”という伝説があり、話の内容が似ています。
※斎日(サイジツ) ものいみの日、精進の日
sechin@nethome.ne.jp です。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |