瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 夢渓筆談 巻11より 范仲淹の飢饉対策
 皇祐二年,吳中大饑,殍殣枕路,是時範文正領浙西,發粟及募民存餉,為術甚備,吳人喜競渡,好為佛事。希文乃縱民競渡,太守日出宴於湖上,自春至夏,居民空巷出遊。又召諸佛寺主首,諭之曰:“饑歳工價至賤,可以大興土木之役。”於是諸寺工作鼎興。又新敖倉吏舍,日役千夫。監司奏劾杭州不恤荒政,嬉遊不節,及公私興造,傷耗民力,文正乃自條敘所以宴遊及興造,皆欲以發有餘之財,以惠貧者。貿易飲食、工技服力之人,仰食於公私者,日無慮數萬人。荒政之施,莫此為大。是歳,兩浙唯杭州晏然,民不流徙,皆文正之惠也。歳饑發司農之粟,募民興利,近歳遂著為令。既已恤饑,因之以成就民利,此先王之美澤也。
〔訳〕皇祐二年〔1050年、宋、仁宗の年号〕呉地方は大飢饉に襲われ、道には餓死体がごろごろ転がっていた。このとき范文正〔989~1052年、仲淹〕は〔杭州の知事で〕淅江西部を治めており、穀物の放出および難民に仕事や食物を与えて救済するに当たって、非常に周到な処置をした。
 呉地方の人は競渡(ボートレース)好き、仏事好きでもある。そこで、希文〔范仲淹の字〕は呉地方の人に思う存分競渡をさせ、知事みずから日毎西湖に船を浮かべて宴を開き、春から夏まで、市民は町を空っぽにして遊びで歩いた。また諸仏事の住職を集めて「飢饉の年には工賃がとても安いから、大いに土木工事をするがよかろう」と命じた。そこで寺々ではさかんに工事を始めた。また穀倉・官舎の新築をして、日に千人の人夫を使った。
 監察官は、杭州の知事は飢饉対策を講ぜず、遊びに耽っており、しかも公私の建築工事を起して民力を消耗していると弾劾した。すると文正は次のように理路整然と応えた。
 宴遊と建築工事をしたのは、すべて余分な財を動かして貧者にも恵もうとしたからである。商売人、飲食業者、職人、力仕事に携わる者などで、公私の宴遊・工事によって食を得た者は、日に無慮数万人にのぼる。これ以上の飢饉対策はあるまい、と。
 この年両淅〔宋代には淅江は紹興のある東淅と杭州のある西淅とに分けられていた〕で、杭州だけが落ち着いていて、逃散(ちょうさん)する民もなかったのは、みな文正のお陰である。
 飢饉の年に官庫の穀物を放出し、民を集めて利益になる事業を興すということは,近頃ではついに法令として成文化してしまった。飢饉から救った上に、それによって民の利をはかるということは、殷の湯王や夏の禹王のような昔の聖天子の善政にも比すべきことである。
f082e59b.JPG※范仲淹(はんちゅうえん):字は希文、文正は諡。この飢饉の時文正は62歳であった。宋の仁宗の時の代表的名臣で、その語「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂〔天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ〕」は有名である。
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