瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  漢書 李廣・蘇建傳 より (3)
 武以元始六年春至京師。詔武奉一太牢謁武帝園廟、拜為典屬國、秩中二千石、賜錢二百萬、公田二頃、宅一區。常惠、徐聖、趙終根皆拜為中郎、賜帛各二百匹。其餘六人老歸家、賜錢人十萬、復終身。常惠後至右將軍、封列侯、自有傳。武留匈奴凡十九歲、始以彊壯出、及還、須髮盡白。武來歸明年、上官桀子安與桑弘羊及燕王、蓋王謀反。武子男元與安有謀、坐死。
〔訳〕蘇武は始原六〔BC81〕年の春に都に帰った。帝のお声がかりで、蘇武は牛羊豚を供えて、今は亡き武帝の廟にお参りした。典属国〔異属取締役〕禄高二千石に任命され、銭二百万、公田二頃〔けい、一頃は1.8ha〕、宅地一区画を頂戴した。常恵・徐聖(じょせい)・趙終根は皆、中郎〔宿衛の官、六百石〕に任ぜられ、それぞれ絹二百匹を賜わった。残る六人は年老いているので家に帰ったが、各自銭十万を賜わり、終身賦役を免ぜられた。常恵は後に右将軍にまで出世し、列侯に封ぜられた。常恵については本書に別に伝記がある。蘇武は匈奴に留まることおよそ十九年。当初、出発した時は血気壮んな年輩〔四十歳〕であったが、帰るおりには、髭も髪も真っ白になっていた。蘇武が帰還した翌年、上官桀の息子の上官安が、桑弘羊(そうくよう)および燕王〔武帝の子〕・蓋主〔燕王の姉、蓋王に嫁す〕とともに反逆を謀った〔霍光伝〕。武の息子の蘇元は、上官安と密謀があったというかどで、連坐して死刑になった。
 
 初桀、安與大將軍霍光爭權、數疏光過失予燕王、令上書告之。又言蘇武使匈奴二十年不降、還乃為典屬國、大將軍長史無功勞、為搜粟都尉、光顓權自恣。及燕王等反誅、窮治黨與、武素與桀、弘羊有舊、數為燕王所訟、子又在謀中、廷尉奏請逮捕武。霍光寢其奏、免武官。數年、昭帝崩、武以故二千石與計謀立宣帝、賜爵關內侯、食邑三百戶。久之、衛將軍張安世薦武明習故事、奉使不辱命、先帝以為遺言。宣帝即時召武待詔宦者署、數進見、復為右曹典屬國。以武著節老臣、令朝朔望、號稱祭酒、甚優寵之。
〔訳〕もともと、上官桀と安とは、大将軍霍光と権力を争っており、たびたび霍光の過失を箇条書きにして、燕王に渡し、燕王から上奏告発させたものである。また次のようにも言った。
「蘇武は匈奴に使いして二十年も降参しませなんだに、帰ってみれば、何と典属国にしかなれず、大将軍の長史〔副官、楊敞〈?~BC74年〉を指す〕は何の功労もなしに、捜粟都尉〔軍官で米の徴発にに任ずる〕に出世しました。大将軍霍光が専断放恣、かばかりにございます」
 燕王らが反いて死罪になるに及んで、一味の者が厳しく詮議された。蘇武は上官桀・桑弘羊と古いなじみで、何度も燕王の上訴の中に引き合いに出された上、息子も一味に加担したため、廷尉〔司法大官〕は上奏して、蘇武の逮捕を願い出た。しかし霍光はその上奏文を握りつぶし、蘇武を免職するに止めた。数年して昭帝は崩御した〔BC74年〕。蘇武はもと二千石だったというので宣帝擁立の計画に与り、その功で関内侯〔諸侯の下位、実封なく畿内に住む〕の爵を賜わり、三百戸分の租税を食録とする身分になった。大分たってから、衛将軍〔前後左右将軍同列〕の張安世〔?~BC62年〕が、蘇武を推薦した。故事に明るく、使者となって君命を辱めず、先帝のご遺言の中にも触れられておられる、という理由である。宣帝は即時、蘇武を召し出され、宦官の役所の待詔〔不時のご下問に応ずる役〕に任じた。たびたび引見せられ、ふたたび右曹〔加官、尚書の仕事の下請け〕典属国となった。蘇武が苦節を貫いた老臣であるというので、朔日(ついたち)と望日(じゅうごにち)には参内させ、特に祭酒〔礼儀・祭祠を司る〕の称号を賜わり、大いに優遇された。
 
 武所得賞賜、盡以施予昆弟故人、家不餘財。皇后父平恩侯、帝舅平昌侯、樂昌侯、車騎將軍韓增、丞相魏相、御史大夫丙吉皆敬重武。武年老、子前坐事死、上閔之、問左右:「武在匈奴久、豈有子乎?」武因平恩侯自白:「前發匈奴時、胡婦適產一子通國、有聲問來、願因使者致金帛贖之。」上許焉。後通國隨使者至、上以為郎。又以武弟子為右曹。武年八十餘、神爵二年病卒。甘露三年、單于始入朝。上思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣、法其形貌、署其官爵姓名。唯霍光不名、曰大司馬大將軍博陸侯姓霍氏、次曰衛將軍富平侯張安世、次曰車騎將軍龍镪侯韓增、次曰後將軍營平侯趙充國、次曰丞相高平侯魏相、次曰丞相博陽侯丙吉、次曰御史大夫建平侯杜延年、次曰宗正陽城侯劉德、次曰少府梁丘賀、次曰太子太傅蕭望之、次曰典屬國蘇武。皆有功德、知名當世、是以表而揚之、明著中興輔佐、列於方叔、召虎、仲山甫焉。凡十一人、皆有傳。自丞相黃霸、廷尉于定國、大司農朱邑、京兆尹張敞、右扶風尹翁歸及儒者夏侯勝等、皆以善終、著名宣帝之世、然不得列於名臣之圖、以此知其選矣。
〔訳〕蘇武は頂戴した褒美の品、ことごとく従弟・友人に施し、家には財産を残さなかった。皇后の父平恩侯許伯平、cdbd264e.jpeg帝の母方の叔父平昌侯王無故(むこ)・楽昌侯王武、車騎将軍の韓増(かんぞう)、御史大夫〔官吏の検察を司る〕の丙吉(へいきつ)、みな武を尊敬した。蘇武は年老い、息子は先に事件に連坐して死んだ。帝は哀れに思し召し、左右の者に問うた。
「蘇武は匈奴に長らく逗留しておったが、ひょっとして子がありはせぬか?」
 蘇武は平恩侯を通じて申し上げた。
「さきに匈奴を出立するおり、胡(えびす)の妻がちょうど一子を産みました。名は通国。便りが参ったこともございます。願わくば、使者にことづけ、金と絹とを届けて、身柄を買い受けとうぞんじますが」
 帝はそれを許した。後、通国は使者に連れられてやってきた。帝は郎に任命した。その上、蘇武の弟の子を曹武に任じた。蘇武は年八十余りで、神爵二〔BC60〕に病死した。
 甘露三〔BC51〕年、単于が始めて入朝した。帝は股肱の臣の徳を思い、その人々を麒麟閣〔武帝が麒麟を捕らえた記念に建てた〕に描かせた。本人の顔型に似せて、官爵姓名を題してある。霍光だけは尊んで名を書かずに「大司馬大将軍霍氏」と題した。次は「衛将軍富平侯〔山東省陽信県の大名〕張安世」、次は「車騎将軍竜額侯韓増」、次は「後将軍営平候趙充国」、次は「丞相高平侯〔山東省鄒県の領主〕魏相」、次は「丞相博陽侯〔山東省奉安県の領主〕丙吉」、次は「御史大夫建平侯〔河南省永城県の領主〕杜延年(どえんねん)」、次は「宗正〔帝の親族を司る〕陽城侯〔河南省汝南県の領主〕劉徳」、次は「少府〔天子の給養を司る〕梁丘賀(りょうきゅうが)」、次は「太子太傅〔たいふ、皇太子の守り役〕蕭望之(しょうぼうし)」、次は「典属国蘇武」と題する。いずれも功績徳望があり、当正知名の人である。故にこれを表彰し、古の方叔・召虎・仲山甫(ほ)〔ともに周の中興の英主、宣王を補佐した〕にならぶ、漢室中興の補佐たることを、ここに明らかにしたのである〔宣帝は漢中興の英主とされる〕。すべて十一人。それぞれ本書に伝記がある。丞相黄覇(こうは)をはじめ、廷尉于定国(うていこく)、大司農〔農林大臣〕朱邑(しゅゆう)、京兆尹〔京都所司代〕張敞(ちょうしょう)、右扶風〔京都西部の所司代〕尹翁帰(いんおうき)、および儒者の夏侯勝らは、みな終わりを全うした人で、宣帝の世に著名であったが、名臣の肖像画に列なることはできなかった。これでもって右に掲げられた人々がいかに厳しくえりぬかれた者であるかが知れるであろう。
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