気温も上がり、朝の冷え込みも大して気にならなくなりましたので、久し振りに早朝4時に起きて何時ものコースを一周してきました。
人通りも少なく、冷たい空気が身を引き締めてくれます。まだ暗いうちのライトに照らされたソメイヨシノの下を歩くのも気分爽快です。
吾妻橋を渡るころ、やっと明るくなり、墨堤の千本桜がはっきり見渡されるようになり、足取りを軽くしてくれるようです。
墨堤の桜の由来については墨田区向島5-1の「隅田公園」内にある『墨堤植桜の碑』に詳しく書かれています。この石碑は、榎本武揚(1836~1908年)の篆額、濱邨大澥(はまむらたいかい)の撰文、宮亀年の彫刻だそうで、全文が漢字で書かれていますが、墨田区の掲示板によれば以下のような意味だと言います。
墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が100本の桜を、享保11年(1726)には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢(きくう)、朝川黙翁(もくおう)、中山ト鄰(ぼくりん)が150本、天保2年(1831)に阪田三七郎が200余株の桜を植えました。弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治20年(1887)に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年(1896)に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。 平成2年(1990)3月 墨田区
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