瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 夏目漱石は小説「坊っちゃん」「吾輩は猫である」などを書いた大文豪として知られていますが、俳人でもあります。


 生涯で2,527句を作り、『漱石俳句集』(191711月、岩波書店)『漱石詩集 印譜附』(19196月、岩波書店)といった、俳句集も出版しています。


 漱石は明治時代を代表する俳人、正岡子規と親友でした。


 彼らは帝国大学の学友です。知り合ったのは大学に入る前の大学予備門でのことです。


 子規が書いた『七草集』(しちそうしゅう)という漢詩文集を漱石が読んで批評し、漱石が書いた紀行文集『木屑録』(ぼくせつろく)を子規が読んで批評する、という形で交流を深め、仲良くなっていきました。


 漱石という雅号が初めて使われたのも、『木屑録』からでした。これは正岡子規から譲り受けた物で、漱石の本名は、夏目金之助と言います。


「ふつう、英書を読むものは漢書が読めず、漢書が読めるものは英書が読めないものだが、両方できるきみは、千万中のひとりといっていい」


と正岡子規は、夏目漱石の才能を絶賛しました。


 1893年に帝国大学英文科を卒業した漱石は、2年後、英語教師として松山の中学校に赴任します。この際の下宿先・愚陀仏庵に、1895827日、正岡子規が居候したことをきっかけに、俳句作りを始めるようになりました。この時、漱石は28歳です。


 漱石は、本当は本が読みたかったようなのですが、子規が仲間を大勢集めて句会を開いていたため、うるさくて勉強に集中できず、仕方なくその輪に加わったようです。


永き日や欠伸うつして別れ行く


 漱石は翌年、松山を去った子規に、このような別れの句を送っています。


 どこかユーモラスな響きを伴った句ですね。


 漱石は、滑稽でなユーモア性に溢れた俳句を残しています。


本名は頓とわからず草の花


 こちらは、一読して思わず噴き出してしまいそうになりました。


 草や花の名前を調べて覚えることが、俳句作りの基礎訓練ですが、そういった常識をすっ飛ばしています。


 正岡子規に聞かせたら、月並み句として叱られそうな句ですね。


脱いで丸めて捨てて行くなり更衣(ころもがえ)


 こちらもスピード感のある滑稽な句です。


 江戸っ子だったという漱石の性格を反映しています。


 ただ、漱石は滑稽な句だけでなく、風雅の趣のある句も残しています。


秋の江に打ち込む杭の響きかな


 これなどはなかなか味わい深い句だと思います。


 漱石は、松山で子規と別れてからも句作を続けました。作品が溜まるとそれらをまとめて東京で新聞記者をやっていた子規に送り、子規がその中から良い作品を選んで、新聞の俳壇に掲載したことから、俳句界で名が知られる存在になっていきました。


 その後も二人の親交は続き、1902年イギリスに留学中だった漱石は、高浜虚子から正岡子規の死の知らせを聞き、次のような句を残しています。


招かざる薄(すすき)に帰り来る人ぞ


 夏目漱石と言えば、1905年、38歳の時に『吾輩は猫である』で小説家デビューしたので有名です。俳人・高浜虚子が神経衰弱に陥っていた彼の気晴らしなればと、俳句雑誌ホトトギスに掲載する文章を書かないかと勧めたのが切っ掛けで、執筆されました。


 『吾輩は猫である』は大好評となり、当時、3,4000部程度の発行部数だったホトトギスは増刷を繰り返し、8,000部にも達したそうです。この作品のおかげで、ホトトギスの売れ行きも好調になったのですね。


 『吾輩は猫である』は、彼が実際に飼っていた猫を、主役の猫のモデルにしています。漱石はこの猫にかなりの思い入れがあったようで、


行く年や猫うずくまる膝の上


 というほのぼのした句を残しています。


 


個人データ


出自・家族構成


 明治維新のまっただ中、186729日(慶応315)に江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)で生まれました。53女の末子です。


 この年には、正岡子規も生まれており、二人は同級生です。この翌年に年号が明治に変ります。


 父、夏目小兵衛直克は牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、家はかなり裕福でした。しかし、明治維新によって名主が没落しつつあったためか、すぐに里子に出されます。その後、連れ戻されるも、一歳の頃に養子に出され、養父母の離婚が原因で生家に戻るなど、家庭環境はかなりゴタゴタしていました。



 29歳の時、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いして、婚約を決めます。二人が結婚したのは、その約半年後の18966月です。


 


 漱石には五千円札の肖像になった女性作家・樋口一葉との縁談もあったという説がありますが、定かではありません。夏目漱石と樋口一葉の父親が同僚だったからです。



 漱石は持病の神経衰弱に苦しみ、妻の鏡子にたびたび暴言を吐くなど、辛くあたった時もあったそうです。ただ、夫婦仲は悪くなく、鏡子は漱石の精神病を理解し、支えになってくれました。


子供


 18995月、33歳の時に、長女・筆子が生まれます。


 その際、漱石は


安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり


 という句を詠んでいます。筆子の名の由来は、妻の字が下手だったので、娘は字が上手な子に育って欲しい、ということから、だったそうです。


 漱石は2男5女の子宝に恵まれましたが、子供たちはかんしゃく持ちの父親を怖がってあまり懐かなかったようです。



性格


 芥川龍之介は「夏目さんは私の知っている限りの誰よりも江戸っ子でした」と語っています。人情に厚く、人の世話をしたり、弟子を集めるのが好きだったようです。漱石は、芥川龍之介の小説『鼻』を「「あなたのものは大変大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯ていなくって自然そのままの可笑味がおっとり出ている所に上品な趣味があります」と手紙で褒めています。芥川龍之介はこれを大変喜んだそうです。


 


 また、非常にまじめで潔癖症であり、かんしゃく持ちであったと言われています。イギリス留学中にノイローゼを発症し、被害妄想に悩まされるなど、躁鬱的な傾向があったようです。


名前・俳号


 本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)と言います。


 漱石は、正岡子規から譲り受けた雅号(ペンネーム)です。


 『漱石』の名は、数ある子規の俳号の一つでした。負け惜しみが強い変人という意味の故事「漱石枕流」に由来します。


 漱石の俳号は、愚陀佛(ぐだぶつあん)と言います。漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先、『愚陀仏庵』がその由来です。彼はここで俳句の世界に入っています。


日本俳句研究会 「俳人列伝」より


 


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