瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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3158e85b.jpeg Pythagoras(ピタゴラス)の先生に当たるThalēs〔タレス、BC624~546年頃)は、古代ギリシアの哲学者。ソクラテス以前の哲学者の全てがそうであるように、タレス自身が直接書いた著作・記録は残っておらず、古代の著作・記録でタレスに言及したものから、その思想を推察することしかできない。古代ギリシアに現れた記録に残る最古の(自然)哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖である。また、ギリシャ七賢人の一人とされる。
 ミレトスに生まれた彼はその少年時代、青年時代を商人として過した。彼がまだ商店の小僧をしているときの或る日、彼がロバの背に塩を積んで市場に売りに行く途中、川を渡る時にロバがつまずいて転び、塩は川に溶けて流れてしまった。翌日も同様に塩を積んで市場へ向かったが、川を渡る時にロバはまたつまずいた。ロバは川でつまずくと荷が軽くなる事を覚え、わざとつまずいたのだった。一計を案じたThalēs(タレス)はその翌日、ロバの背に海綿を積んで市場へ向かった。今度もロバはつまずいたが、海綿は水を吸って重くなった。それ以後、ロバがつまずく事はなくなったという。
 また、彼は青年時代に貧乏のゆえに哲学は何の役にも立たぬものであると非難されたThalēs(タレス)は、次のオリーブの収穫が豊作であろうことを天文学から知り、まだ冬の間にミレトス(小アジアの西)、キオス(ミレトス沖の島)の全てのオリーブの圧搾機械を借り占めておいた。すると、収穫の時期が来たときに多くの人が彼に機械を貸し出すことを要求したので、莫大な利益を得ることになった。こうしてThalēs(タレス)は、彼が欲するなら金持ちになることは可能であるが、そのようなことは彼の関心にないことを示したという。
 彼はある時、商用でエジプトに渡り、そこにしばらく滞在したが、そこでエジプトの神官からエジプトで得られた数学と天文学に関する多くの知識を学び、まもなく神官を追い越し、その知識を用いて、ピラミッドの影の長さからピラミッドそのものの高さを見出し、時のアマシス王を驚かせたという話がある。
 エジプト滞在中に数学と天文学に対して非常な興味をおぼえたThalēs(タレス)は、ギリシアへ帰ってからもその研究を続け、ついに世界で最初の大数学者といわれる人になった。
 Thalēs(タレス)は一生を独身で過したらしい。母親が彼にむりやり妻を娶らせようとしたとき、「まだその時ではない」と彼は答えていた。その後、盛りを過ぎてから母親が彼に迫ると「もうその時ではない」と答えたという。
 彼はまた、BC585年5月28日の日蝕を予言して、天文学者としての名声を博したという。Lydia(リディア)は現在のトルコ(アナトリア半島)にあった国、Media(メディア)は現在のイランあたりにあった国であるが、リディアとメディアが戦闘中だったBC585年5月28日、日食が起きたため、両軍とも「これはいつまでも戦争を続けていることが神の怒りにふれたにちがいない」と恐れをなして、Halys〔ハリュス〕川〔現在のトルコ最大の川Kızılırmak(クズルルマク)川〕を国境として休戦したという。
 Platon〔プラトン、BC427~347年、古代ギリシアの哲学者で、ソクラテスの弟子でアリストテレスの師〕が伝える有名な逸話に、夜空を見上げ天文の観察に夢中になるあまり、溝(あるいは穴)に落ちてしまったは、傍にいた女性(若い女性とも老婆とも言われる)に、「学者というものは遠い星の事は判っても自分の足元の事は判らないのか」と笑われたというのがある。
彼の活動したイオニアは小アジア、エーゲ海沿岸に位置し、Hómêros〔ホメロス、BC8世紀末の吟遊詩人であったとされる〕の活動した土地でもある。イオニアは地理的に東方と西方文化の十字路に位置しており、エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入していたと考えられ、そうした文化的素地がThalēs(タレス)、Anaximandros〔アナクシマンドロス、BC610?~546年)古代ギリシアの哲学者〕、Anaximenes〔アナクシメネス、BC585~525年)は、古代ギリシアの自然哲学者〕らのミレトス学派が発生する母胎となったと考えられている。
 彼が「最初の哲学者」とよばれる由縁は、それまでは神話的説明がなされていたこの世界の起源について、合理的説明をはじめて試みた人だという点にある。すなわち彼はarkhē(アルケー、万物の根源)を水と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。そして大地は水の上に浮かんでいるとした。世界は水からなり、そして水に帰るという説を唱えたのだった。
 体育競技を観戦していて、炎熱と渇き、また老齢による衰弱によって死亡したとされる。
 最後にThalēs(タレス)の名言を記しておく。
・最も困難なことは自分自身を知ることであり、最も容易なことは他人に忠告することである。
・万物は、神々に満ちている。
・言葉が多いのは、才気の徴にはならない。
・最悪の猛獣は、圧制者であり、最悪の家畜とは、阿諛者である。
・希望は、貧しい人間のパンである。
 
f9cbe2db.jpeg※ギリシャ七賢人とは、紀元前620年から紀元前550年に賢いと呼ばれた古代ギリシアの人物たちである。Plutarchus〔プルタルコスAD46乃至48?~127年頃、帝政ローマのギリシア人著述家。著作に『対比列伝』(英雄伝)などがある。英語名のPlutarch(プルターク)でも知られる〕は本来は五人だったが、二人の僭主が徳も持っていないにもかかわらず権力によってその名を奪い取ったと主張している。また、最初に誰がなぜ賢いと呼んだのかは不明である。プラトンが挙げたのは
・アテナイの立法者ソロン  ・ミレトスの哲学者タレス  ・スパルタの民選長官キロン  ・プリエネの僭主ビアス  ・リンドスの僭主クレオブロス  ・ミュティレネの僭主ピッタコス  ・ケナイの農夫ミュソン
しかし、ミュソンを挙げているのはプラトンだけで大抵はその代わりにコリントスのペリアンドロスが挙げられている。この七人目は古代の書物においてまちまちであり、必ずしも統一されていない。
 七賢人の有名な逸話としては彼らの間で生じた知恵比べがある。海中に沈んでいて、偶然発見された鍛冶の神ヘファイストスの作った黄金の鼎をめぐってKos(コス)とMiletus(ミレトス)との間で戦争が起こった。多くの死者が出たため、彼らはDelphoi(デルフォイ)で受けた「過去、現在、未来を知ろしめす者」に鼎がたどり着くまでは両国の戦争は終わらないという神託に基づいて賢者として有名だったタレスに鼎を贈ったが、彼は自分にはふさわしくないと他の賢者に譲った。結局鼎は七賢人の間でたらいまわしにされてタレスのもとへ帰ってきた。そこで彼はアポロンに奉納し、神託を伝えるPythia〔ピュティア、巫女〕がこの鼎に腰を下ろして神託を語ることになったという。
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