瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 明け方に雨の音で目が覚める。午前3時20分。またもや徘徊に出られず。
 昨日は戯れに、宝塚のKS氏に、徘徊で撮った木槿の写真に「木槿(むくげ) 今日の徘徊で遊歩道に咲いていた木槿です。/長恨歌の作者の白居易は、この木槿を『槿花一日、自ずから栄を為す。何ぞ須(もち)いん、世を恋(した)い、常に死を憂うるを…』と。/昨日も知人の訃報がありました。明日はわが身と自覺しているつもりでも、煩悩を捨てきれない昨今です。 瘋癲のセッチンより」と添え書きして、携帯でメールしてみた。返事に曰く、「外食中の一報に接し、愚妻がメールを開き読みながら『お父さん、お父さん。漢文、漢文…チンプンカンプン!』と私に携帯を慌てて渡してくれましたが、私は字が明確に見えず、外食を終え帰ってきて拡大鏡で見せて戴きました。/白居易については詳しくは存じませんが、貴兄の感想についてはよく理解出来ます。/私は家内と『社会に貢献することなく、このまま生きることは虚しい』とお互いに嘆いています。/特に現在の政治を見るとき、それに荷担した一票の価値の無さに、強烈な怒りを感ずる今日この頃です。/むくげの写真の美しさに慰められております。千里山では紫・白・赤のむくげが有りましたが、朝咲き夕方には萎むものですから、家内だけが楽しんでおりました。今思うと、私自身は自然と調和しない情けない生きざまでした。/体調に気を付けて下さい。」
 
東京夢華録 巻七 清明節
 清明節、尋常京師以冬至後一百五日為大寒食。前一日謂之「炊熟」。用麵造棗䭅飛燕、柳條串之、插於門楣、謂之「子推燕」。子女及笄者、多以是日上頭。寒食第三節即清明日矣。凡新墳皆用此日拜掃、都城人出郊。禁中前半月發宮人車馬朝陵、宗室南班近親亦分遣詣諸陵墳享祀、從人皆紫衫、白絹三角子、青行纏、皆係官給。節日亦禁中出車馬、詣奉先寺、道者院祀諸宮人墳、莫非金裝紺幰、錦額珠簾、繡扇雙遮、紗籠前導。士庶闐塞諸門、紙馬鋪皆於當街用紙袞疊成樓閣之狀。四野如市、往往就芳樹之下、或園囿之間、羅列杯盤、互相勸酬。都城之歌兒舞女、遍滿園亭、抵暮而歸。各攜棗䭅、炊餅、黃胖、掉刀、名花異果、山亭戲具、鴨卵雞雛、謂之「門外土儀」。轎子即以楊柳雜花裝簇頂上、四垂遮映。自此三日、皆出城上墳、但一百五日最盛。節日坊市賣稠餳、麥餻、乳酪、乳餅之類。緩入都門、斜陽御柳;醉歸院落、明月梨花。諸軍禁衛、各成隊伍、跨馬作樂四出、謂之「摔腳」。其旗旌鮮明、軍容雄壯、人馬精銳、又別為一景也。
3c6ed160.jpeg〔訳〕《清明節》清明節。都では普通冬至から百五日目を「大寒食」とした。寒食の前日は「炊熟(すいじゅく)」と呼ばれる。粉で棗A〔一種の団子〕飛燕をつくり、柳の枝に串刺しにして門に挿し、これを「子推燕(しすいえん)」といった。十五歳になった少女たちは、多くこの日に笄(こうがい)を頭につけて成人式をおこなった。寒食の第三日が清明節である。新仏(しんほとけ)の墓には、みなこの日に墓参りに行き、都の者は郊外にくり出した。皇室は半月前に宮人の車馬を御陵にさしむけられ、皇室の近親も諸陵に分遣されて祭祀が行われた。従者はみな紫の衫(ひとえ)に白絹の三角子(ひざあて)、青の行纏(きゃはん)をつけるが、これはすべて官給品である。また寒色節の日になると、皇室は奉先寺道者院に車馬を出され、宮人たちの墓参りも行なわれた。車はみな金色に装い紺色の幔幕(まんまく)を張り、錦の額と珠簾(たますだれ)をつけ、二組の綉扇〔しゅうせん、綉=刺繍〕と、薄絹の提灯を持ったものが前導をした。
 士庶(ひとびと)は郊外に向かう都の各門にぎっしりひしめきあい、紙馬を売る店は、通りに紙馬を楼閣のように積み上げていた。郊外はどこも市のような賑わいで、それぞれ花木の下、あるいは庭園の中に、皿・杯を並べ、互いに酒をくみかわし、都の歌童(うたわらべ)や踊子たちも庭園・四阿(あずまや)に満ちて歌い踊り、日が暮れてやっと帰るのであった。めいめい棗A(だんご)・炊餅〔むしもち、=蒸餅〕・黄胖〔にんぎょう、黄土をこねて作った泥人形)・掉刀(なぎなた)、花や果物と、山亭(あずまや)での遊び道具、アヒルの卵と鶏の雛をたずさえて行く。これを「門外土儀」という。轎子(こし)には楊柳やさまざまの花を屋根いっぱいに飾り付け四方に垂らして日をさえぎった。これより三日間はみな都を出て墓参りをしたが、やはり百五日がいちばん盛んだった。この節句のあいだ、城内の市では稠餳(みすあめ)・麦餻(むぎがし)・乳酪(にゅうらく)・乳餅(こうじどうふ)のたぐいを売った。ゆったりと都の門を潜れば、斜陽は御柳にさし、酔うて帰るわが庭には、明月が梨の花に光りを投げるのだった。なお、この日、禁衛軍の諸部隊が、隊列を整え馬に乗って軍楽を奏しながら都の四方に出た。これを「摔脚(しゅっきゃく)」という。その旗指物は美々しく、軍容は雄壮、人馬ともえりすぐりの精鋭で、また格別な見もののひとつとなっていた。
 
※清明節:北宋代には清明節は、三日間行なわれる寒食節の第三日で、もっとも盛大な年中行事の一つであった。寒食節は当時の民間行事で、冬至後一〇五日目を中心とした三日間〔旧暦の三月初めころ〕火断ちをした。その第一日目〔冬至後一〇四日目〕を大寒食〔私寒食とも〕、第二日を官寒食、第三日を小寒食と呼び、また大寒食の前日〔冬至後一〇三日目〕は火断ちに備えて寒食節三日間の食物を煮炊きしたので炊熟と呼んだ。本文で冬至から百五日目を大寒食としているのは誤りか?あるいは、寒食の中心という気持ちで大の字を用いたものか?
※子推:春秋時代、晋の文公の忠臣 介子推 のこと。寒食の由来について中国の伝説は以下のように言う。後に文公が子推を冷遇したので、彼は山中に隠棲する。そこで文公は山林に火をかけ彼を山中から出そうとするが、彼は木に抱きついて焼死してしまう。これを憐れんだ国人はこの日を命日として毎年火を禁じ子推を祀るようになった。しかし、寒食は、中国で古くから行なわれていた改火の行事〔新しい火の陽気をもって春の陽気を招く儀式〕における新火と旧火のつけかえの間の行事が、介子推焚死の伝説と結びついたといわれている。この節句は亡魂を和め豊作を予祝する儀礼でもあり、春耕のため降雨を招く意味も持っていたようである。柳は桃とともに中国では古くから春の生命のシンボルであり、邪を払う力のあるものと考えられていた。
※道者院:鄭門外五里の所にあり、宋代に建てられ、毎年十月一日、大法会を開き紙銭を焚いて軍陣亡没の孤魂を祀ったが、金の末に兵火に焼かれたという。
※紙馬:祭祀に用いる紙に描かれた彩色の神像。祭りが済むと焼く。
※門外土儀:都では、春、湖の畔の黄土を取ってこれで泥人形をつくり、これを土宜〔土儀〕と言ったという。
※稠餳(ちょうとう):麦芽から作った糖汁のこと。南北朝の古くからあった清明の日の食品である。
※乳酪:乳製品。酪はヨーグルト〔湿酪〕とかチーズ〔乾酪〕など酸味のある乳製品。
※乳餅(にゅうへい):乳腐すなわち現在中国で醤豆腐(ジャントウフ)とよばれる豆腐の麹漬のこと。
※御柳:檉柳(かわやなぎ)ともよばれ、日本での呼び名〔和名〕はムロノキ。
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