瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  昨日、西宮のYK氏から絵葉書〔高橋由一(鮭)〕が届いた。曰く、
2e022316.jpeg 9/25(火)、今日は鮭の絵で有名な高橋由一・展を観に京都国立近代美術館に行って来ました。鮭の絵は3種類あり、この会葉書の絵が重要文化財となっています。/久し振りの京都でしたが美術館の往復だけでした。天気は快晴で汗ばむ位でした。/最近はすっかり秋らしくなり朝夕は寒い位の時があります。/どうぞ貴兄もご自愛の上、風など引かぬ様気を付けてください。/まずは美術館行ごほうこくまで 草々
 早速ネット上で、高橋由一展について調べてみた。
d5d42c13.jpeg 丁髷(ちょんまげ)姿の自画像: この作品の裏面に「これは高橋由一の四十才ころの肖像なり」と記したのは息子源吉の妻たかである。40歳頃に描かれたとすれば、満年齢ならば慶応3年(1867)、数え年ならばその前年ということになる。丁髷(ちょんまげ)を結っていたのがいつ頃までなのかははっきりしていないが、みずから「由一」と名乗るのが明治維新(1868年)頃と考えられているから、最後の武士姿を記録に留めるとともに、画家高橋由一の誕生を告げる記念碑的な制作ではなかったかと想像される。
0db70a24.jpeg ※高橋 由一〔たかはしゆいち、文政11(1828)~明治27(1894))は江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。「天絵楼(後に天絵社、天絵学舎)」という画塾を開いて約4年にわたり、毎月展覧会を催したり、「臥遊席珍」という日本初の美術雑誌を創刊したり、美術館の建設運動をしたり、まさに開拓者であった。
b0757ad6.jpeg 花魁:吉原の稲本楼には代々小稲(こいな)という売れっ子の花魁がいた。明治5年(1872)4月28日の『東京日日新聞』に、由一が小稲の肖像を描いたとする記事があり、本図がそれにあたると考えられている。由一はあくまでも即物的な人物描写、衣装や簪(かんざし)に対するリアルな質感表現に徹している。そのことが怖いまでの迫真性につながったが、小稲本人は私はこんな顔じゃありませんと泣いて怒ったという。
8a2ace0c.jpeg 山形市街図:明治10年(1877)に建設された山形県庁舎が画面の中央、まっすぐにのびる道の先にみえる。右手には警察本署、師範学校、左手に山形警察署、勧業博物館、製糸所など「擬洋風建築」の建物が建ち並ぶ。この近代的景観は山形県令の三島通庸(みちつね)によって数年間のうちに作り出されたものである。この作品は山形の写真師菊池新学が撮影した同構図の写真を利用して描かれたのだが、道行く人々は由一が独自に描き込んだものである。出来たての都市を写した記念写真というにふさわしい作品である。
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98362969.jpeg 鮭:ただ吊された鮭を描いただけの絵がなぜ重要文化財に指定され、教科書に掲載され、試験問題になるのか。理由はいくつかある。第一に、西洋の油絵技術を本格的に学び描き普及につとめた高橋由一の画業を代表する傑作であるという歴史的な価値付けはゆるがない。その上で、改めて作品をよく見てみると、まず実作品の意外な大きさに驚かされる。普段小さな図版でしか見ていないからだ。実物大かそれ以上にも感じる大きさとともに、その質感表現は、「写真みたいな」というよりも「触ってみたくなる」迫真性がある。さらに重要なことは、このような特徴をもつ作品はヨーロッパを探してもないということだ。物真似ではないところに生まれた極めてユニークな芸術的価値が近年とみに見直されている。/由一があえて吊された新巻鮭をモチーフに選んだ理由については、たとえば新年の贈答品として縁起のいい画題と考えたからかもしれないし、あるいは縦長の画面が日本家屋の柱に掛けるにふさわしいと考えたからかもしれない。いずれにしても、由一の得意とする写実的描写がもっともよくあらわれていることが評判にもなったことは事実で、気をよくした由一はしばしば同様の作品を描いたと考えられている。明治8年(1875)の京都博覧会に《鮭》という作品を出品しているし、画塾主催の月例展にも《塩鮭の図》《鮭の図》と題して数点出品している。現在、由一作とされる鮭の図は数点しられているが、それらがどれに相当するものかは判っていない。山形美術館寄託の《鮭》については由一が明治20年(1887)の東北旅行のおりに滞在した山形県楯岡の旅館に伝わったものである。
04baf6cc.jpeg 第十一代山田荘左衛門顕善像(新発見作品):長野県中野市の旧家山田家の資料のなかから発見された新出の肖像画作品。像主11代山田荘左衛門顕善は地元の公職を歴任した名士で、明治14年(1881)に引退すると東京に出ることも多くなったという。本図とともに発見された日記ほかの資料から、明治16年(1883) 4月12日に上京して由一に肖像画制作を依頼し、2ヶ月ほどで作品が出来上がり代金40円20銭を支払ったことなどもわかった。注文制作の具体的な制作過程を教えてくれる貴重な資料である。
c64e61f2.jpeg 三代目海老名権左エ門夫妻像(新発見作品):山形県村山市の旧家に伝わる男女の肖像画。この展覧会の準備段階で新たに由一作と確認された初公開作品。『高橋由一史料』には明治20年(1887)10月に「海老名老夫妻」を描いたと記されている。還暦を迎えていた由一が山形を訪れ、三代目海老名権左エ門(69歳)とその妻ふさ(58歳)の夫婦の肖像を描いたものであるとわかる。また、修理の必要性から調査したところ紙を麻布で裏打ちするという珍しい支持体に描かれていることもわかった。
 
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つぶやき その18
日高先生

こんばんは。「つぶやき その18」です。

「大切なこと」:
「健康」「時間」「お金」この三つがそろったら主人とすかさず
車に飛び乗り、大好きな海へ行くことにしています。
「健康」には気力・体力も含まれます。
「時間」と「お金」が用意できてもヘトヘトに疲れていては
行けませんから。とても大切な三つの要素です。
水色の空、陽光に照らされキラキラと輝く青い海を眺めていると
心が湖面のようになり、これより美しいものが他にあるだろうか、
未来永劫、青く美しく平和な星であってほしいという気持ちに
なります。
短気なくせに遠い遠い未来に想いを馳せたりします。
私達は三つの条件を同時に満たすことを目標(楽しみ)に日々生活しています。
何もせずただ漠然と「なんかいいことないかな~」「楽しいことないかな~」
と待っているだけでは何も起こりませし、空から降ってきたりしません。
ごくごく当たり前のことですが「楽しみ」は自分で見つける・自分で作るという
心がけが大切だと思います。

いつも読んで下さりありがとうございます(*^_^*) Kより
K 2012/09/28(Fri) 編集
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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