瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝は、桜橋~水神大橋の間を1周。
東白鬚公園の花壇ではアヤメが真っ盛り。
アヤメは山野の草地に生える(特に湿地を好むことはない)という。葉は直立し高さ40~60cm程度。5月ごろに径8cmほどの紫色の花を1~3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、本種の和名のもとになっているという。奈良時代には中国から渡来した女たち=漢女(あやめ)が朝廷に大勢仕えていたことから、彼女たちが端午の節供に用いた草を「あやめ」と呼ぶようになったと言う説もある。
水神大橋を渡って、白鬚橋に向って南下する。柳の大樹が朝日に照らされて靡いている。
ヤナギの語源は、「矢篦木」すなわち、弓の矢を作るのに用いる木、さらには成長が著しいところから「いやなが【彌長】」の略転とも、枝が柔らかく撓むところから「やはなえき【柔萎木】」を意味するなど諸説がある。柳は、古来、美人を形容する言葉に用いられることが多い。柳のように細くてしなやかな腰つきを「柳腰」、柳の葉のように細くて美しい眉は「柳眉」、長く美しい頭髪は「柳髪」、しなやかな姿を「柳態」いずれも柳の容姿がしなやかであることから例えられたのであるが、繊細で垂れ下がる枝が微風でそよぐところ、またなよなよしく立つ姿は、いかにも女性的な美しさを見せるようである。
劉禹錫〈772~842年〉は中国、中唐期の詩人。中山(河北省)の人という。字(あざな)は夢得(ぼうとく)。柳宗元・白居易と親しく詩を応酬し、「劉柳」「劉白」と称された。民間で歌われていた「竹枝詞」などを文学作品に高めたことで知られる。
煬帝の行宮は今も汴水のふちに
数本楊柳は春の思いに耐えかねている
日暮れとともに風が起こり 柳絮は雪のよう
築地の中に舞い込むけれど 昔の人の姿はない
テラスに降りると、テラスに沿う土手には一面にクローバーの白い花が敷き詰められている。
クローバーはシロツメグサともいい、漢字表記は、「白詰草」。詰め草の名称は弘化3 (1846) 年にオランダから献上されたガラス製品の包装に緩衝材として詰められていたことに由来するという。日本においては明治時代以降、家畜の飼料用として導入されたものが野生化した帰化植物。根粒菌の作用により窒素を固定することから、地味を豊かにする植物として緑化資材にも用いられている。
孔 融(こう ゆう、153~208年)と言う人は、中国後漢末期の人で、字は文擧。孔子20世の孫に当たるという。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。二人の子があったというがその名は不詳。時の権力者曹操は日頃から直言居士な孔融を嫌悪していた。南方への遠征を目前の建安13(208)年、孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で逮捕され、孔融は妻子ともども処刑された。齢56。このために孔融の子孫は途絶えた。曹操が聖人孔子の子孫を殺害したことは、後々まで曹操が非難される理由の一つとなった。
4. 孔文擧には二人の子供があり、大きいほうは六歳で、小さいほうは五歳であった(後漢書「孔融伝」では、兄と妹になっている)。ある時父の孔文擧が昼間に寝ていると、小さいほうが父の枕元にあった酒を盗んで飲んだ。大きいほうがこれを見て言った。「何故お辞儀をしてからのまないのだ?」
すると小さいのが答えた。「盗人がお辞儀などするものか」
5.孔融(孔文擧)が捕えられ、朝廷の内外とも恐れおののいた。そのとき孔融の子の大きいほうは九歳、小さいほうは八歳であった。琢釘(釘刺し)の遊びを続けていて、すこしも慌てる様子がなかった。
孔融は逮捕の令を受けてきた使者にに向っていった。
「罪は自分の身だけに止めて欲しいものだ。この二人の子は助けてもらえるものだろうか」
すると、その子は静かに歩み寄って言った。
「鳥の巣がひっくり返されているのに、卵だけが潰されずに残ることがあるでしょうか」
やがて二人の子を捕えるための使者が遣ってきた。
東白鬚公園の花壇ではアヤメが真っ盛り。
アヤメは山野の草地に生える(特に湿地を好むことはない)という。葉は直立し高さ40~60cm程度。5月ごろに径8cmほどの紫色の花を1~3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、本種の和名のもとになっているという。奈良時代には中国から渡来した女たち=漢女(あやめ)が朝廷に大勢仕えていたことから、彼女たちが端午の節供に用いた草を「あやめ」と呼ぶようになったと言う説もある。
水神大橋を渡って、白鬚橋に向って南下する。柳の大樹が朝日に照らされて靡いている。
ヤナギの語源は、「矢篦木」すなわち、弓の矢を作るのに用いる木、さらには成長が著しいところから「いやなが【彌長】」の略転とも、枝が柔らかく撓むところから「やはなえき【柔萎木】」を意味するなど諸説がある。柳は、古来、美人を形容する言葉に用いられることが多い。柳のように細くてしなやかな腰つきを「柳腰」、柳の葉のように細くて美しい眉は「柳眉」、長く美しい頭髪は「柳髪」、しなやかな姿を「柳態」いずれも柳の容姿がしなやかであることから例えられたのであるが、繊細で垂れ下がる枝が微風でそよぐところ、またなよなよしく立つ姿は、いかにも女性的な美しさを見せるようである。
劉禹錫〈772~842年〉は中国、中唐期の詩人。中山(河北省)の人という。字(あざな)は夢得(ぼうとく)。柳宗元・白居易と親しく詩を応酬し、「劉柳」「劉白」と称された。民間で歌われていた「竹枝詞」などを文学作品に高めたことで知られる。
煬帝の行宮は今も汴水のふちに
数本楊柳は春の思いに耐えかねている
日暮れとともに風が起こり 柳絮は雪のよう
築地の中に舞い込むけれど 昔の人の姿はない
テラスに降りると、テラスに沿う土手には一面にクローバーの白い花が敷き詰められている。
クローバーはシロツメグサともいい、漢字表記は、「白詰草」。詰め草の名称は弘化3 (1846) 年にオランダから献上されたガラス製品の包装に緩衝材として詰められていたことに由来するという。日本においては明治時代以降、家畜の飼料用として導入されたものが野生化した帰化植物。根粒菌の作用により窒素を固定することから、地味を豊かにする植物として緑化資材にも用いられている。
孔 融(こう ゆう、153~208年)と言う人は、中国後漢末期の人で、字は文擧。孔子20世の孫に当たるという。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。二人の子があったというがその名は不詳。時の権力者曹操は日頃から直言居士な孔融を嫌悪していた。南方への遠征を目前の建安13(208)年、孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で逮捕され、孔融は妻子ともども処刑された。齢56。このために孔融の子孫は途絶えた。曹操が聖人孔子の子孫を殺害したことは、後々まで曹操が非難される理由の一つとなった。
4. 孔文擧には二人の子供があり、大きいほうは六歳で、小さいほうは五歳であった(後漢書「孔融伝」では、兄と妹になっている)。ある時父の孔文擧が昼間に寝ていると、小さいほうが父の枕元にあった酒を盗んで飲んだ。大きいほうがこれを見て言った。「何故お辞儀をしてからのまないのだ?」
すると小さいのが答えた。「盗人がお辞儀などするものか」
5.孔融(孔文擧)が捕えられ、朝廷の内外とも恐れおののいた。そのとき孔融の子の大きいほうは九歳、小さいほうは八歳であった。琢釘(釘刺し)の遊びを続けていて、すこしも慌てる様子がなかった。
孔融は逮捕の令を受けてきた使者にに向っていった。
「罪は自分の身だけに止めて欲しいものだ。この二人の子は助けてもらえるものだろうか」
すると、その子は静かに歩み寄って言った。
「鳥の巣がひっくり返されているのに、卵だけが潰されずに残ることがあるでしょうか」
やがて二人の子を捕えるための使者が遣ってきた。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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