瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
漢字の中でも読みにくいものが当て字である。これは音にも訓にもない読みを当てているのだから、まともに考えているとなかなか思いつかない。しかし、当て字にもそれなりの法則のようなものがあって、漢語に同じ意味のやまとことばを読みとして当てたもの等がある。
七夕(たなばた)・老舗(しにせ)・火傷(やけど)・紅葉(もみじ)・一昨日(おととい)・丈夫(ますらお)・生業(なりわい)・黒子(ほくろ)・梅雨(つゆ)・黄昏(たそがれ)・黄泉(よみ)・陽炎(かげろう)・曾孫(ひまご)・狼煙(のろし)などは、シチセキ・ロウホ・カショウ・コウヨウ・イッサクジツ・ジョウブ・セイギョウ・コクシ・バイウ・コウコン・コウセン・ヨウエン・ソウソン・ロウエンのように音読みもできる。生活に密着した気象を表す漢語には、やまとことばを当てたものが多い。東風(こち)・南風(はえ)・時雨(しぐれ)・東雲(しののめ)・疾風(はやて)などがある。
名詞以外の副詞や形容動詞にも昔の文人はぴたりと合ったやまとことばを当てて読んでいた。例えば只管は「シカン」と読み、ただそのことだけに心を用いる意で、禅宗ではただ只管(ひたすら)に座禅をすることを『只管打坐』というが、やまとことばではこの只管を「ひたすら」と読むことにしたのである。
物事をいい加減にするという意味のことばに「等閑(等間)」がある。これは「トウカン」と読み、「等閑視する」「等閑に付す」のように使われるが、やまとことばではこの等閑に「なおざり」という読みをあたえている。
「閑話休題」を「ここからは余談ですが」「ところで」「話は変わって」という意味で使用する人が多くみられる。実際の使い方は、本筋から脇道に入る為に使用する言葉ではなく、脇道から本筋に話題を戻す為に用いる接続詞的な言葉である。「閑話」は「無駄な話」、「休題」とは「それまでの話題を中止すること」である。だから、この閑話休題には「それはさておき」という読みあたえるのである。なお、閑話、または休題をどちらも「さて」と読ませる場合もある。
「加之」は漢文調で読むと返り点を考えて「之(これ)に加(くわ)うるに」で、そればかりでなくの意であるが、「しかのみならず」の読みを与えているのである。また、遮莫は「遮(さえぎ)るもの莫(な)し」で、どうであろうとままよという意であるが、これも「さもあらばあれ」と読む。
当て字の熟語と同じ字を書く漢語があるが、指しているものが全然違う場合もある。「東雲」は漢語では文字通り「東の雲」の音であるが、これに「しののめ」というやまとことばの読みを当てると「明け方」の意味になる。また、「時鳥」をジチョウと読み、時節に応じてなく鳥をさすが、我が国ではこれに「ほととぎす」の読みを与える。「ほととぎす」は他に、杜鵑、霍公雀、子規、杜宇、不如帰、沓手鳥、蜀魂とも書く。時の付く熟語に「時雨」というのがある。「しぐれ」と読めば、晩秋から初冬にかけて降るとおり雨のことになるが、漢語ではこれを「ジウ」と読んで、ちょうどよいときに降る雨の意に使う。
中国から伝わった漢語ではなく、やまとことばにそれらしい漢字を当てて造った熟語もある。例えば「徒花(あだばな)」は、咲いても実を結ばない花のことで、「あだ」というやまとことばに、「いたずらに」「むだに」といういみのある「徒」を当てたものである。「徒」を「アダ」と読むものには他に、「徒事」、「徒桜」、「徒名」、「徒情け」、「徒波」がある。音読みにも訓読みにもそんな読み方はないが、ながめているとそれらしい漢字がしてくるものである。皆さんはいくつよめるかな? 飛白、煙管、白湯、白粉、山葵、土筆、秋刀魚、祝詞 等など。
そのものの持っている性質等から字の当てられたものもある。たとえば、無花果(いちじく)は勿論花は咲くのだが、外から見ると花が見当たらないまま果実ができることから、この字が当てられたもの。ユリ科の多年生植物で、いつも青々としていることから付けられた万年青(おもと)、紅い花が長く咲き続けることから名前の付いた百日紅(サルスベリ)。これは「ヒャクジツコウ」とも読むが、幹の皮が滑らかなので猿でさえも滑るとついたが、「さるなめり」ともいう。馬酔木(あしび)は花は可愛らしいが茎や葉には毒があり、牛や馬が食べると体が麻痺することから、馬が酔う木と書いて「馬酔木(あしび)」と読む。「あせび」ともいう。向日葵(ひまわり)は太陽を追って花が廻ると考えられいたことから付けられたが、実際にはほとんど動かないと言う。しかも、アオイ科ではなくキク科の植物で、いわば誤った情報から当てられた字である。
最近はカタカナで表すことが多いが、アヒルは「家鴨」と書く。アヒルというのはマガモを飼いならしたもので、要するに「家畜化した鴨」なのである。
人間に関する言葉にも面白い由来をもつものがある。「だて」というのは「立て」で、人目に立つようにする、といううのが元の意味であるが、それに「伊達」の字を当てるようになったのは、伊達家の家臣が華美だったからだと言う。「伊達男」は洒落者、侠客の代名詞となるものだから、まっこと男冥利にというべきか。もっとも、「伊達の薄者」というように単に見栄っ張りの意に用いられることもある。
当て字の代表格とも言われるものに、「流石(さすが)」がある。「さすが」は今では「やはり」「いかにも」の意に使われることが多いが、もとは「そうはいうものの」「それでもやはり」という意味を持っていた。そのためらう気持ちを、小石が淀みながら急流を流れる様子にたとえたというのが一つの説である。
中国晋の孫楚〔そんそ、生年不詳 - 293年〕が、本来なら「石に枕し流れに漱ぐ(俗世間を離れ、人里離れたところで自由に暮らす)」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言い誤ってしまったとき、友人の王済にからかわれた。すると負けん気の強い孫楚は、「流れに枕するのは俗事を聞いて汚れた耳をすすぐためであり、石に漱ぐのは歯を磨くためだ」とこじつけたという故事に基づく。この孫楚の言い逃れが余りにうまかったので、人々が「さすが!」感心したことから、流石を「さすが」と読むようになったというのである。又このことから、負け惜しみの強いこと、ひどいこじ付けを「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」というようになったという。ちなみに、「夏目漱石」という雅号は、この故事に由来する。
※孫子荊年少時欲隱、語王武子「當枕石漱流」、誤曰「漱石枕流」。王曰:「流可枕、石可漱乎?」孫曰:「所以枕流、欲洗其耳;所以漱石、欲礪其齒。」 世説新語 排調篇より
〔訳〕孫子荊は若い頃、隠遁の志があった。王武子に「石に枕し、流れに漱ぐ」といおうと思いながら、誤って「石に漱ぎ、流れに枕す」といってしまった。/王武子は言った。「流れを枕にしたり、石に漱いだりできるだろうか」/「流れを枕するのは、耳を洗うためだ。石に漱ぐのははをみがくためだ」
「三和土」は字面かせもても音を考えても、なぜこれが「たたき」と読むのか判らない。これは実は土間に塗るつちの作り方を表したもので、石灰・赤土・砂利の三つを和(あ)えた土に苦汁(にがり)を混ぜたものだから「三和土」と書く。それを「タタキ」というのは、水で練って土間に塗り、たたき固めるからである。
標縄、注連縄、七五三縄は3つとも「シメナワ」と読む。「標」は土地を占有するという印のことで、大和言葉を当ててシメとよむ。シメナワは神前、または神事を行なう場に不浄なものが出入りするのを禁ずるための印であり、これはことばの意味をあらわした字が用いられている。又、シメナワは水を注いで清め、つらねてはるもの。「注連縄」はそこから来た書き方。七五三縄は縄に垂らす藁の茎が七筋、五筋、三筋になっていることから来ている。
海という字は音読みで「カイ」、訓読みで「うみ」と読むが、それ以外にア、イ、ウ、エ、オすべての読みができるという珍しい漢字である。海女(アマ)、海豚(イルカ)、海胆(ウニ)、海老(エビ)、海髪(オゴノリ)という具合であるが、すべて当て字であるから海1字をアイウエオと詠むわけではない。つまり、海に関係あるものの名を書くとき、その音をもつ漢字を当てるのではなくて「海の○○」という書き方をしているのである。だから、海の豚=イルカと成るわけである。海の字を使った当て字は多く、海馬(とど)、海嘯(つなみ)、海鼠(なまこ)、海苔(のり)、海松(みる)などいろいろある。海の馬がトドなら河の馬は?之はイメージも音も合っていてカバ。フグは海の魚であるはあるが、なぜか河豚と書く。海と河が出た所で、山はどうだろうか? こちらは、山葵(わさび)、山羊(やぎ)、案山子(かかし)くらいであまり当て字には使われていない。
数字の付いた熟語にも本来の音からはとても想像のつかない読みをするものもある。四阿は「あずまや」と読む。日本庭園の小さな丘の上や池のほとりなどに設けられる休憩用の壁のない小屋のこと。「阿」には庇(ひさし)という意味があって四方に屋根を葺き下ろした建物であることからこう書くが、東屋、阿舎と書くこともある。網戸や殺虫剤のなかった頃は、夏が近くなるとどこからともなく現れて、家の中を我が物顔で飛び回る蝿はさぞ「五月蝿(うるさ)く」感ぜられたことだろう。「うるさい」といっても蝿の飛ぶ音が騒がしいということではなく、目の前をちらちらと通り過ぎるうっとおしさの方が不愉快だったのに違いない。「九十九折り」は「つづらおり」と読む。これは葛の蔓のように幾重にも折れ曲がった坂道のことで「葛折」とも書く。だからといって九十九髪は「つづらがみ」とは読まない。老女の白髪のことで九十九は百に一足りないことから、次百(つくもも)といい、それがつづまって「つぐも」となり、清音化して「つくもがみ」となった。百から一をを引いた白を意味することになり、イメージとして白髪を現すようになった。
※ 百年(ももとせ)に 一年(ひととせ)足らぬ 九十九髪
我を恋ふらし おもかげにおもかげに見ゆ 〔伊勢物語〕
胡座(あぐら)、胡桃(くるみ)、胡瓜(きゅうり)は、みんな胡の字がついているが読み方はみんな違う。この「胡」という字は外国の物を表す字なのである。中国とりわけ漢民族から見て外国、瑋民族という意味である。胡は秦や漢の時代には匈奴を、唐の時代には西域の異民族を指したが、やがて一般的に異民族をさすようになった。当時の中国というのは、自分の国は世界の中央に位置する文化国家で、周囲の国は文化の遅れた野蛮な国だとする中華思想で凝り固まっていたから、胡はいい意味ではなく、「野蛮な国」と言う意味である。そして、周囲の国から伝わったものや風俗にやたらと胡の字をつけた。つまり胡瓜は野蛮な国からきた瓜、胡座は足を組んで座る野蛮な外国風の座り方ということになる。これらの漢語に日本風の読み方をつけたので、ひどく読みにくい当て字になってしまったということである。外国産のものはどうも信用できないということなのか「胡散(うさん)臭い)「胡乱(うろん)な」というときもこの字を当てる。但し、これは当て字ではなく、胡の唐音読み「ウ」を当てたものである。
漢語ではないが、漢文の決まった言い回しに、やまとことばの読みを当てたものもある。「所謂」は返り点を打って読めば「いうところの」であり、「ゆわゆる」と読む。「所以」は ~をもって―する所 という意味で、理由、根拠、手段、目的等を表す。「故になり」の音便形「ゆえんなり」から、「ゆえん」と読む。「就中(なかんずく)」も、返り点を打って中に就くと読んだものが訛ったものだという。可愛いは返り点を打つと「愛す可し」で「かわいい」、可笑しいは「笑う可し」で「おかしい」と読む。ただし、古くは「かわいい」はかわいそうだ、ふびんだ、「おかしい」は趣がある、心引かれるの意味だったので、この書き方は言葉の意味が現代語に近くなって生まれたものかもしれない。
「似非・似而非」は「似て非なり」にやまとことばのエセを当てた。にせもの、つまらないもののこと。このようにちょっと判りにくいが、漢文の訓読調で読んでみるとわかるものも結構ある。「勿」は、~するなかれ、という意味だが、この字のついた熟語は多い。「勿論(もちろん)」は、「論ずる勿れ」で、「いうまでもなく」の意。「勿忘草」は「忘れる勿れ」で「わすれなぐさ」と読む。「勿来関」は、「来る勿れ」。だが、これは古語の「なプラスそ」の形。「春を忘るな」を「春な忘れそ」ということもあるが、それと同じで「な来そ」という形なのである。
七夕(たなばた)・老舗(しにせ)・火傷(やけど)・紅葉(もみじ)・一昨日(おととい)・丈夫(ますらお)・生業(なりわい)・黒子(ほくろ)・梅雨(つゆ)・黄昏(たそがれ)・黄泉(よみ)・陽炎(かげろう)・曾孫(ひまご)・狼煙(のろし)などは、シチセキ・ロウホ・カショウ・コウヨウ・イッサクジツ・ジョウブ・セイギョウ・コクシ・バイウ・コウコン・コウセン・ヨウエン・ソウソン・ロウエンのように音読みもできる。生活に密着した気象を表す漢語には、やまとことばを当てたものが多い。東風(こち)・南風(はえ)・時雨(しぐれ)・東雲(しののめ)・疾風(はやて)などがある。
名詞以外の副詞や形容動詞にも昔の文人はぴたりと合ったやまとことばを当てて読んでいた。例えば只管は「シカン」と読み、ただそのことだけに心を用いる意で、禅宗ではただ只管(ひたすら)に座禅をすることを『只管打坐』というが、やまとことばではこの只管を「ひたすら」と読むことにしたのである。
物事をいい加減にするという意味のことばに「等閑(等間)」がある。これは「トウカン」と読み、「等閑視する」「等閑に付す」のように使われるが、やまとことばではこの等閑に「なおざり」という読みをあたえている。
「閑話休題」を「ここからは余談ですが」「ところで」「話は変わって」という意味で使用する人が多くみられる。実際の使い方は、本筋から脇道に入る為に使用する言葉ではなく、脇道から本筋に話題を戻す為に用いる接続詞的な言葉である。「閑話」は「無駄な話」、「休題」とは「それまでの話題を中止すること」である。だから、この閑話休題には「それはさておき」という読みあたえるのである。なお、閑話、または休題をどちらも「さて」と読ませる場合もある。
「加之」は漢文調で読むと返り点を考えて「之(これ)に加(くわ)うるに」で、そればかりでなくの意であるが、「しかのみならず」の読みを与えているのである。また、遮莫は「遮(さえぎ)るもの莫(な)し」で、どうであろうとままよという意であるが、これも「さもあらばあれ」と読む。
当て字の熟語と同じ字を書く漢語があるが、指しているものが全然違う場合もある。「東雲」は漢語では文字通り「東の雲」の音であるが、これに「しののめ」というやまとことばの読みを当てると「明け方」の意味になる。また、「時鳥」をジチョウと読み、時節に応じてなく鳥をさすが、我が国ではこれに「ほととぎす」の読みを与える。「ほととぎす」は他に、杜鵑、霍公雀、子規、杜宇、不如帰、沓手鳥、蜀魂とも書く。時の付く熟語に「時雨」というのがある。「しぐれ」と読めば、晩秋から初冬にかけて降るとおり雨のことになるが、漢語ではこれを「ジウ」と読んで、ちょうどよいときに降る雨の意に使う。
中国から伝わった漢語ではなく、やまとことばにそれらしい漢字を当てて造った熟語もある。例えば「徒花(あだばな)」は、咲いても実を結ばない花のことで、「あだ」というやまとことばに、「いたずらに」「むだに」といういみのある「徒」を当てたものである。「徒」を「アダ」と読むものには他に、「徒事」、「徒桜」、「徒名」、「徒情け」、「徒波」がある。音読みにも訓読みにもそんな読み方はないが、ながめているとそれらしい漢字がしてくるものである。皆さんはいくつよめるかな? 飛白、煙管、白湯、白粉、山葵、土筆、秋刀魚、祝詞 等など。
そのものの持っている性質等から字の当てられたものもある。たとえば、無花果(いちじく)は勿論花は咲くのだが、外から見ると花が見当たらないまま果実ができることから、この字が当てられたもの。ユリ科の多年生植物で、いつも青々としていることから付けられた万年青(おもと)、紅い花が長く咲き続けることから名前の付いた百日紅(サルスベリ)。これは「ヒャクジツコウ」とも読むが、幹の皮が滑らかなので猿でさえも滑るとついたが、「さるなめり」ともいう。馬酔木(あしび)は花は可愛らしいが茎や葉には毒があり、牛や馬が食べると体が麻痺することから、馬が酔う木と書いて「馬酔木(あしび)」と読む。「あせび」ともいう。向日葵(ひまわり)は太陽を追って花が廻ると考えられいたことから付けられたが、実際にはほとんど動かないと言う。しかも、アオイ科ではなくキク科の植物で、いわば誤った情報から当てられた字である。
最近はカタカナで表すことが多いが、アヒルは「家鴨」と書く。アヒルというのはマガモを飼いならしたもので、要するに「家畜化した鴨」なのである。
人間に関する言葉にも面白い由来をもつものがある。「だて」というのは「立て」で、人目に立つようにする、といううのが元の意味であるが、それに「伊達」の字を当てるようになったのは、伊達家の家臣が華美だったからだと言う。「伊達男」は洒落者、侠客の代名詞となるものだから、まっこと男冥利にというべきか。もっとも、「伊達の薄者」というように単に見栄っ張りの意に用いられることもある。
当て字の代表格とも言われるものに、「流石(さすが)」がある。「さすが」は今では「やはり」「いかにも」の意に使われることが多いが、もとは「そうはいうものの」「それでもやはり」という意味を持っていた。そのためらう気持ちを、小石が淀みながら急流を流れる様子にたとえたというのが一つの説である。
中国晋の孫楚〔そんそ、生年不詳 - 293年〕が、本来なら「石に枕し流れに漱ぐ(俗世間を離れ、人里離れたところで自由に暮らす)」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言い誤ってしまったとき、友人の王済にからかわれた。すると負けん気の強い孫楚は、「流れに枕するのは俗事を聞いて汚れた耳をすすぐためであり、石に漱ぐのは歯を磨くためだ」とこじつけたという故事に基づく。この孫楚の言い逃れが余りにうまかったので、人々が「さすが!」感心したことから、流石を「さすが」と読むようになったというのである。又このことから、負け惜しみの強いこと、ひどいこじ付けを「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」というようになったという。ちなみに、「夏目漱石」という雅号は、この故事に由来する。
※孫子荊年少時欲隱、語王武子「當枕石漱流」、誤曰「漱石枕流」。王曰:「流可枕、石可漱乎?」孫曰:「所以枕流、欲洗其耳;所以漱石、欲礪其齒。」 世説新語 排調篇より
〔訳〕孫子荊は若い頃、隠遁の志があった。王武子に「石に枕し、流れに漱ぐ」といおうと思いながら、誤って「石に漱ぎ、流れに枕す」といってしまった。/王武子は言った。「流れを枕にしたり、石に漱いだりできるだろうか」/「流れを枕するのは、耳を洗うためだ。石に漱ぐのははをみがくためだ」
「三和土」は字面かせもても音を考えても、なぜこれが「たたき」と読むのか判らない。これは実は土間に塗るつちの作り方を表したもので、石灰・赤土・砂利の三つを和(あ)えた土に苦汁(にがり)を混ぜたものだから「三和土」と書く。それを「タタキ」というのは、水で練って土間に塗り、たたき固めるからである。
標縄、注連縄、七五三縄は3つとも「シメナワ」と読む。「標」は土地を占有するという印のことで、大和言葉を当ててシメとよむ。シメナワは神前、または神事を行なう場に不浄なものが出入りするのを禁ずるための印であり、これはことばの意味をあらわした字が用いられている。又、シメナワは水を注いで清め、つらねてはるもの。「注連縄」はそこから来た書き方。七五三縄は縄に垂らす藁の茎が七筋、五筋、三筋になっていることから来ている。
海という字は音読みで「カイ」、訓読みで「うみ」と読むが、それ以外にア、イ、ウ、エ、オすべての読みができるという珍しい漢字である。海女(アマ)、海豚(イルカ)、海胆(ウニ)、海老(エビ)、海髪(オゴノリ)という具合であるが、すべて当て字であるから海1字をアイウエオと詠むわけではない。つまり、海に関係あるものの名を書くとき、その音をもつ漢字を当てるのではなくて「海の○○」という書き方をしているのである。だから、海の豚=イルカと成るわけである。海の字を使った当て字は多く、海馬(とど)、海嘯(つなみ)、海鼠(なまこ)、海苔(のり)、海松(みる)などいろいろある。海の馬がトドなら河の馬は?之はイメージも音も合っていてカバ。フグは海の魚であるはあるが、なぜか河豚と書く。海と河が出た所で、山はどうだろうか? こちらは、山葵(わさび)、山羊(やぎ)、案山子(かかし)くらいであまり当て字には使われていない。
数字の付いた熟語にも本来の音からはとても想像のつかない読みをするものもある。四阿は「あずまや」と読む。日本庭園の小さな丘の上や池のほとりなどに設けられる休憩用の壁のない小屋のこと。「阿」には庇(ひさし)という意味があって四方に屋根を葺き下ろした建物であることからこう書くが、東屋、阿舎と書くこともある。網戸や殺虫剤のなかった頃は、夏が近くなるとどこからともなく現れて、家の中を我が物顔で飛び回る蝿はさぞ「五月蝿(うるさ)く」感ぜられたことだろう。「うるさい」といっても蝿の飛ぶ音が騒がしいということではなく、目の前をちらちらと通り過ぎるうっとおしさの方が不愉快だったのに違いない。「九十九折り」は「つづらおり」と読む。これは葛の蔓のように幾重にも折れ曲がった坂道のことで「葛折」とも書く。だからといって九十九髪は「つづらがみ」とは読まない。老女の白髪のことで九十九は百に一足りないことから、次百(つくもも)といい、それがつづまって「つぐも」となり、清音化して「つくもがみ」となった。百から一をを引いた白を意味することになり、イメージとして白髪を現すようになった。
※ 百年(ももとせ)に 一年(ひととせ)足らぬ 九十九髪
我を恋ふらし おもかげにおもかげに見ゆ 〔伊勢物語〕
胡座(あぐら)、胡桃(くるみ)、胡瓜(きゅうり)は、みんな胡の字がついているが読み方はみんな違う。この「胡」という字は外国の物を表す字なのである。中国とりわけ漢民族から見て外国、瑋民族という意味である。胡は秦や漢の時代には匈奴を、唐の時代には西域の異民族を指したが、やがて一般的に異民族をさすようになった。当時の中国というのは、自分の国は世界の中央に位置する文化国家で、周囲の国は文化の遅れた野蛮な国だとする中華思想で凝り固まっていたから、胡はいい意味ではなく、「野蛮な国」と言う意味である。そして、周囲の国から伝わったものや風俗にやたらと胡の字をつけた。つまり胡瓜は野蛮な国からきた瓜、胡座は足を組んで座る野蛮な外国風の座り方ということになる。これらの漢語に日本風の読み方をつけたので、ひどく読みにくい当て字になってしまったということである。外国産のものはどうも信用できないということなのか「胡散(うさん)臭い)「胡乱(うろん)な」というときもこの字を当てる。但し、これは当て字ではなく、胡の唐音読み「ウ」を当てたものである。
漢語ではないが、漢文の決まった言い回しに、やまとことばの読みを当てたものもある。「所謂」は返り点を打って読めば「いうところの」であり、「ゆわゆる」と読む。「所以」は ~をもって―する所 という意味で、理由、根拠、手段、目的等を表す。「故になり」の音便形「ゆえんなり」から、「ゆえん」と読む。「就中(なかんずく)」も、返り点を打って中に就くと読んだものが訛ったものだという。可愛いは返り点を打つと「愛す可し」で「かわいい」、可笑しいは「笑う可し」で「おかしい」と読む。ただし、古くは「かわいい」はかわいそうだ、ふびんだ、「おかしい」は趣がある、心引かれるの意味だったので、この書き方は言葉の意味が現代語に近くなって生まれたものかもしれない。
「似非・似而非」は「似て非なり」にやまとことばのエセを当てた。にせもの、つまらないもののこと。このようにちょっと判りにくいが、漢文の訓読調で読んでみるとわかるものも結構ある。「勿」は、~するなかれ、という意味だが、この字のついた熟語は多い。「勿論(もちろん)」は、「論ずる勿れ」で、「いうまでもなく」の意。「勿忘草」は「忘れる勿れ」で「わすれなぐさ」と読む。「勿来関」は、「来る勿れ」。だが、これは古語の「なプラスそ」の形。「春を忘るな」を「春な忘れそ」ということもあるが、それと同じで「な来そ」という形なのである。
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無題
おはようございます。
「当て字」とても勉強になりました!
一度読んだだけでは私の頭には入りきりませんが(汗)
毎回、私の駄文をブログに載せて下さり本当にありがとうございます。
ところで昨日、懐かしいオレンジ色の「KAJ」Tシャツ出してみました。私の宝物の一つです。
仁科の海での経験は決してお金で買うことのできない貴重で素敵な思い出です。
KAJの中では脚力も腕力もなく、水泳はへたっぴーでしたが、世の中に出てみたら「変なくらい長距離泳げる人」になっていました(笑)
6キロ遠泳の途中で頂いたレモンとジュース(私はコーヒー牛乳を選びました)の味は今でも忘れません。
毎年夏が来るとワクワクします(^○^)
まだまだ暑い日が続きそうです。
ご自愛ください。 Kより
「当て字」とても勉強になりました!
一度読んだだけでは私の頭には入りきりませんが(汗)
毎回、私の駄文をブログに載せて下さり本当にありがとうございます。
ところで昨日、懐かしいオレンジ色の「KAJ」Tシャツ出してみました。私の宝物の一つです。
仁科の海での経験は決してお金で買うことのできない貴重で素敵な思い出です。
KAJの中では脚力も腕力もなく、水泳はへたっぴーでしたが、世の中に出てみたら「変なくらい長距離泳げる人」になっていました(笑)
6キロ遠泳の途中で頂いたレモンとジュース(私はコーヒー牛乳を選びました)の味は今でも忘れません。
毎年夏が来るとワクワクします(^○^)
まだまだ暑い日が続きそうです。
ご自愛ください。 Kより
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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