瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
江戸時代の初め1627〔寛永4〕年、京都の角倉氏の一族である吉田光由〔1598~1672年〕が「塵劫記」という数学書を著した。中国の「算法統宗〔1593年〕」を手本として作られたもので、算盤(そろばん)に拠る計算法が説明されている。著者の光由は生前絶えずこの書の増訂新版を発行し、後人またその名を借りて類書を出版しているので、《○○塵劫記》あるいは《塵劫記○○》の表題を持つ通俗数学書は明治時代の半ばまでに数百種に及ぶという。
書名の『塵劫記』は天竜寺の長老玄光がつけたものといわれ、法華経の「塵点劫」(この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていき、その砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえ。法華経の「化城喩品(けじょうゆほん)第七」などにその記述がある)に由来しており、「(永遠に等しいほど)長い時間経っても変わることのない真理の書」という意味が込められているという。
本書は初めに大数、小数および各種の計量単位の名称を表示、続いて算盤に拠る乗除の方法を詳細に図解し、次に当時通用の貨幣の換算、利息・租税・売買の計算から始めて、諸種の形の面積・体積の求め方、土木事業に関する計算など、日常生活に必要なあらゆる計算にわたって懇切に説明している。その説明は数学的に極めて巧みで、後生の数学者の中で、この書によって数学を独習したといわれる者も少なくない。後に和算の大家となった関孝和〔1642~1708年〕や儒学者の貝原益軒〔1630~1714年〕なども、若いころ『塵劫記』で数学を独習していたといわれる。また学者のみならず、懇切丁寧な説明と非常に多い挿絵のおかげで、民衆にも広く愛された。
なお、本書の最後の部分には、「継子立て」「鼠算」「日々倍増し」など、種々の興味ある数学遊戯が載せてあり、これが本書を有名にした原因となったともいわれている。
例:ねずみざんの事:正月にねずみ、父母いでて、子を十二ひきうむ、親ともに十四ひきに成也。此ねずみ二月には子も又子を十二匹ずつうむゆえに、親ともに九十八ひきに成。かくのごとく、月に一度ずつ、親も子も、まごもひこも月々に十二ひきずつうむとき、十二月の間になにほどに成ぞといふときに、二百七十六億八千二百五十七万四千四百二ひき。
訳:正月に、ネズミのつがいがあらわれ、子を12匹産む。そして親と合わせて14匹になる。このネズミは、二月に子ネズミがまた子を12匹ずつ産むため、親と合わせて98匹になる。この様に、月に一度ずつ、親も子も孫もひ孫も月々に12匹ずつ産む時、12ヶ月でどれくらいになるかというと、276億8257万4402匹となる。
※吉田 光由〔よしだ みつよし、1598~1673年〕:江戸時代前期の和算家である。京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。角倉了以〔すみのくらりょうい、1554~1614年、戦国期の京都の豪商〕は外祖父にあたる。初の和算家毛利重能〔もうりしげよし、生没年不詳、江戸時代前期の和算家で、現在知られている中では最も古い〕に師事した。のち一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それをもとに1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。晩年には失明し、75歳で没したという。
※算法統宗(さんぽうとうそう):中国、明の万暦年間に活躍した民間数学者程大位(字は汝思)の著述で、1592年(万暦20)のころに刊行された。詳しくは《新編直指算法統宗》といい、17巻より成る。巻三~六および巻八~十二の9巻は古算書《九章算術》の篇目に従って問題を配列し、巻十三~十六の〈難題〉は詩歌の形式で問題を書いている。明代に流行した庶民数学の代表作であるが、とくに巻二は算盤(そろばん)による計算法を詳説している。数学に関心を持つ人々はこれを虎の巻として大切にしたといわれ、明・清時代にかけベストセラーとして流行し、たびたび版を重ねるとともに、多くの異版が出版された。
書名の『塵劫記』は天竜寺の長老玄光がつけたものといわれ、法華経の「塵点劫」(この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていき、その砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえ。法華経の「化城喩品(けじょうゆほん)第七」などにその記述がある)に由来しており、「(永遠に等しいほど)長い時間経っても変わることのない真理の書」という意味が込められているという。
本書は初めに大数、小数および各種の計量単位の名称を表示、続いて算盤に拠る乗除の方法を詳細に図解し、次に当時通用の貨幣の換算、利息・租税・売買の計算から始めて、諸種の形の面積・体積の求め方、土木事業に関する計算など、日常生活に必要なあらゆる計算にわたって懇切に説明している。その説明は数学的に極めて巧みで、後生の数学者の中で、この書によって数学を独習したといわれる者も少なくない。後に和算の大家となった関孝和〔1642~1708年〕や儒学者の貝原益軒〔1630~1714年〕なども、若いころ『塵劫記』で数学を独習していたといわれる。また学者のみならず、懇切丁寧な説明と非常に多い挿絵のおかげで、民衆にも広く愛された。
なお、本書の最後の部分には、「継子立て」「鼠算」「日々倍増し」など、種々の興味ある数学遊戯が載せてあり、これが本書を有名にした原因となったともいわれている。
例:ねずみざんの事:正月にねずみ、父母いでて、子を十二ひきうむ、親ともに十四ひきに成也。此ねずみ二月には子も又子を十二匹ずつうむゆえに、親ともに九十八ひきに成。かくのごとく、月に一度ずつ、親も子も、まごもひこも月々に十二ひきずつうむとき、十二月の間になにほどに成ぞといふときに、二百七十六億八千二百五十七万四千四百二ひき。
訳:正月に、ネズミのつがいがあらわれ、子を12匹産む。そして親と合わせて14匹になる。このネズミは、二月に子ネズミがまた子を12匹ずつ産むため、親と合わせて98匹になる。この様に、月に一度ずつ、親も子も孫もひ孫も月々に12匹ずつ産む時、12ヶ月でどれくらいになるかというと、276億8257万4402匹となる。
※吉田 光由〔よしだ みつよし、1598~1673年〕:江戸時代前期の和算家である。京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。角倉了以〔すみのくらりょうい、1554~1614年、戦国期の京都の豪商〕は外祖父にあたる。初の和算家毛利重能〔もうりしげよし、生没年不詳、江戸時代前期の和算家で、現在知られている中では最も古い〕に師事した。のち一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それをもとに1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。晩年には失明し、75歳で没したという。
※算法統宗(さんぽうとうそう):中国、明の万暦年間に活躍した民間数学者程大位(字は汝思)の著述で、1592年(万暦20)のころに刊行された。詳しくは《新編直指算法統宗》といい、17巻より成る。巻三~六および巻八~十二の9巻は古算書《九章算術》の篇目に従って問題を配列し、巻十三~十六の〈難題〉は詩歌の形式で問題を書いている。明代に流行した庶民数学の代表作であるが、とくに巻二は算盤(そろばん)による計算法を詳説している。数学に関心を持つ人々はこれを虎の巻として大切にしたといわれ、明・清時代にかけベストセラーとして流行し、たびたび版を重ねるとともに、多くの異版が出版された。
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目高 拙痴无
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